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茨木とケシ栽培

2008-04-08 05:52:21 | BOOKS
矢谷慈國 編 「茨木とケシ栽培-知られざる日本のアヘン政策」 ピースあい 2000.05.20. 

ケシが茨木市内の安威や福井などの村で「水田の二毛作で麦を作るよりも有利な換金作物として、政府の厳重な管理のもとに栽培されていた」事実を知ったのは、安威の海軍地下倉庫についての聞き取りをしていた1996年のことでした。 1895年(明治28年)日清戦争での勝利により台湾を日本の領土となり、1900年代に入って、日本政府は台湾における阿片の「漸減主義」の名のもと、阿片の専売制をしき、阿片を日本国内で自給させようとしました。この時から日本でのケシ栽培を飛躍的に普及させたのが、二反長音蔵です。音蔵は、農家の裏作としてのケシ栽培が換金作物として有利な点を考え、自ら品種改良を重ねながら、村の人達にもそれを説いて回りました。 後藤新平は台湾における阿片政策を政府の専売制にし、ケシの国内栽培を広めるという考えを政府の方針とさせ、音蔵のケシの品種改良、栽培普及の夢と後藤の政策が重なり、ケシ栽培は現在の茨木市や北摂地方を初め、大阪、近畿から全国へと拡大していきました。 1898(明治31)年2月、児玉源太郎総督府長官・後藤新平総督府民政長官コンビが就任すると、治安の回復と台湾統治に必要な財源の獲得として、アヘンを専売にします。アヘン専売の膨大な利益で、1904(明治37)年には、台湾総督府は日本政府の補助なしに、独立採算で植民地経営ができるようになりました。1917(大正6)年からは、大日本製薬・三共・ラジウム商会(武田薬品)の3社が製造し、台湾のアヘン輸入を独占したのが三井物産でした。 1928(昭和3)年のジュネーブ国際阿片会議で、日本に非難が集中することが予想され、また、台湾は石炭、米、砂糖、セメント、果実、茶などの資源に恵まれ、その歳入が増えたことから、総督府はアへンを止めさせる方向に動き始めました。 1931(昭和6)年、関東軍は満州事変を起こし、「満州国」をたて、三菱商事が窓口となってイランからのアヘン輸入を始めました。 関東軍参謀長となった東条英機一派が中国植民地化の戦争費用をかせぐために、阿片の生産地として狙ったのが内モンゴルでした。東条は内モンゴルに次々とかいらい政権を樹立させ、統括機関として蒙疆連合委員会を発足し、この地域を中国最大のアへン生産地とし、蒙疆連絡部に大平正芳・伊東正義・大来佐武郎・佐々木義武・佐藤一郎らのエリート官僚が集められました。 この内モンゴルで生産され、華北・上海に販売された阿片は、1939(昭和14)年~42(昭和17)年だけで70数万キロ、4億2千万円になり、この販売に協力したのが三井物産です。 二反長音蔵はケシ栽培の指導に朝鮮・満州・内モンゴルへと、老齢にもかかわらず精力的に活躍しています。また、音蔵は「帝国一日一善会」の会長として、“小さな親切運動”をおこし、貧苦の人々を救済する社会福祉事業にも手をだし、私財を投じました。 戦後は連合軍がヘロインの生産やケシ栽培の全面禁止を行うことにより「阿片王」音蔵の活躍する場も消滅し、一日一善会会長として、毎月郷里の福井小学校で子ども達に講演をしたそうですが、1950年7月8日、75才で人生の幕を閉じました。


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