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安倍晴明 (歴史文化ライブラリー)

2006-10-15 10:15:39 | BOOKS
繁田 信一 「安倍清明 陰陽師たちの平安時代」 吉川弘文館 2006.08.01.

清明が文道光の跡を承けて陰陽道第一者になったのは、寛和年間(985-86)、とうに還暦を過ぎた老人だった。そうしてついに、「道の傑出者」と評されるほどの名声を博すようになった長保2年(1000)には数えて80にも達していた。もし彼が85歳という当時としては希有なほどの長寿を保ち得なかったならば、安倍清明という陰陽師の活躍が現代まで語り継がれるようなことにはならなかったに違いない。寛文2年(1662)に刊行された『安倍清明物語』という仮名草子によれば、安倍清明が陰陽師として活躍するようになった契機は、村上天皇を苦しめる難病の原因を看破して天皇の生命を救ったことにあった。この手柄を認められた清明は、易暦博士および縫殿頭の官職を与えられ、都で陰陽師として活動することになった。母親は和泉国の師太の森に住む狐「信太明神」という神の化身であったとされ、彼はまったくの独学で秘伝書を読み熟して陰陽道の奥義を習得した。仮名草子に語られる安倍清明は、生まれながらにして陰陽師になることを運命づけられていた。しかしながら、安倍清明は人間であった。室町時代初期の『尊卑分脈』に納められた安倍氏の系図より、清明の父方の先祖は、誰も陰陽師にはなっていない。平安時代中期においてもっとも高く評価されていたのは、陰陽・暦・天文の3道に通じて「三道博士」と呼ばれた賀茂保憲である。その保憲の没後に急速に安倍晴明が台頭したのだ。 滋岳川人の滋岳氏。また、藤原晴見の藤原氏・平野茂樹の平野氏・山村繁生の山村氏・出雲惟香の出雲氏なども、さらに、葛木宗公・葛木茂経の2人の暦博士を出した葛木氏、大春日弘範・大春日益満の両名の暦博士を出した大春日氏も、陰陽寮官人を出さなくなっている。こうして、陰陽寮および陰陽道における有力氏族は次々と撤退。結果的に、安倍晴明が台頭する背景となった。その頃の唯一の旧勢力であった惟宗(秦)氏が安倍晴明の台頭を許してしまったのは、同氏にはそれができるだけの優秀な人材がいなかったためであろう。もともと優秀であった安倍晴明などは、わりと容易かつ順調に陰陽寮および陰陽道において自身の地歩を固めることができたに違いない。人材不足に陥っていた当時の陰陽寮や陰陽道が新しい人材を求めていたとすれば、陰陽寮とも陰陽道とも関係のない氏族から出た安倍晴明のような者が陰陽師を志すこともあったはずである。


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