石角さんは2007年に口述試験問答が終わると
東京のシナゴーグで「シェマ・イスラエル」の祈りを唱え、
改宗証書を授与されます。
そしてユダヤの名になります。石角さんはアブラハムの息子である
「イサク」を選びます。
奥様はイサクの妻、リベカとなります。
そして「イサク ベン アブラハム」と言う名になります。
そして最後に異教徒からの改宗者がする「ミクベー」
という水浴の儀式を受けます。
これはキリスト教に継承され、洗礼式(注・01)となっています。
石角さんの本によれば東京のシナゴーグでされたようです。
この儀式でユダヤ教徒になった長い試験で、
改宗の実感がずっしりと体験できたと書いておられます。
キリスト教の洗礼もそうですが、新たな生まれ変わりの第一歩は、
洗礼式からです。
しかし、ユダヤ教では全く体験できないことで、
キリスト教の洗礼とは、大きな落差があるのは、
水の洗礼に続き、聖霊の洗礼(バプテスマ)を第一とするからです。
イエスが約束された聖霊のバプテスマを受けてこそ、
真のクリスチャン(注・02)となることができるからです。
何よりも聖霊が降ったペンテコステ(注・03)からキリスト教は始まり、
ローマ帝国を中心に全世界に拡大していきました。
このような歴史の事実をみるとユダヤ教という
民族宗教との決定的な相違(注・04)がありますので、
石角さんが、キリスト教に改宗されることを私は、祈っています。
洗礼式(注・01)
18-19世紀の漢訳聖書で生まれた訳語であり、日本語訳聖書はそれを引き継いだ。「洗礼を施す」は、ギリシア語で「バプティゾー」と言い、「バプテスマ」という言葉は、ここから来ている。バプティゾーには本来「浸す」という意味がある。洗礼者ヨハネ以外にも、西方ミトラ教やマンダ教、エルカサイ派などの「洗礼教団」が中東地域に存在し、洗礼の儀式を行っていた。キリスト教は、洗礼の根拠を新約聖書の福音書に求める。イエス・キリストがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場面(イエスの洗礼)や、イエスが復活後に使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼(バプテスマ)を授けなさい。」と使命をあたえたことなどである。ほとんどの教会で洗礼をサクラメント「ミスティリオン」)と認める。執行者は一般に司祭・牧師などの聖職者・教役者である。洗礼によって、原罪およびそれまでに犯したすべての自罪がゆるされるとされている。執行形態は主に浸礼(全身を水に浸す)・灌水礼(頭部に水を注ぐ)・滴礼(手を濡らし、頭に押し付けて水に沈める所作を真似る)の3種類である。浸礼が原初の形態であり、灌水礼も滴礼もそれを模した簡略形態であることは、それらを執行している教会でも認識されている。クエーカーや救世軍、無教会など洗礼を行わない団体も存在する。クエーカーの入会式や救世軍の入隊式は洗礼に準ずるものとして扱われ、希望すれば他のプロテスタント教派の教会で聖餐式を受けられることが多いが、無教会集会のメンバーは受洗者とみなされず、聖餐式を受けられないことも多い。(ウィキから)
クリスチャン(注・02)
クリスチャン(英語: Christian)とは、キリスト教の信者(聖職者・教役者と平信徒)のことである。キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者、基督者(きりすとしゃ)と自称することがある。2020年時点で、世界におけるキリスト教徒は23億8200万人ほど存在し、世界人口に占める比率は31.11%であり全ての宗教の中で最も多い。(ウィキから)
ペンテコステ(注・03)
聖霊降臨と呼ばれる。イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事のこと、およびその出来事を記念するキリスト教の祝祭日。教派により訳語は異なり、聖霊降臨祭、五旬節。聖霊降臨に関する記事は新約聖書の『使徒言行録』2章1節 - 42節にみられる。それによれば、復活したイエスは弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを告げて(使徒言行録1章8節)、天に昇っていく(キリストの昇天)。それから10日後、ユダヤ教の7週の祭りの日に使徒とイエスの母や兄弟たち、イエスに従った女たちが集まって祈っていると、激しい風のような音が聞こえ、天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降った。集まって祈っていた信徒たちは聖霊に満たされ、さまざまな国の言葉(普通の人に理解できない「異言」ではなく、「外国語」のことである)で語り始めた。地中海世界全域に離散していたディアスポラのユダヤ人たちが、五旬祭のためにエルサレムに集まっていたが、(パレスチナ出身の)信徒たちが地中海世界各地の言葉で語っているのを聞いて驚いた。ペトロが中心になってイエスの死と復活の意味について語ると、多くの人が信じて洗礼を受け、使徒たちのグループに加わった。(ウィキ)
民族宗教との決定的な相違(注・04)
ユダヤ教徒の中のトップクラスであったローマ帝国の市民権を持つパウロが、ダマスコで復活のイエスと出会い、回心してからユダヤ教の律法を遥かに超えるキリストの福音を宣教していきます。そしてキリスト教を執拗に迫害した多くの殉教者を出しましたが、殉教者が出れば増加するごとにクリスチャンは急増し、遂に313年にローマ帝国はキリスト教を国教とし、その後、ローマ帝国の遺産をそのまま無血で継承します。それがローマカトリックです。半面、ユダヤ教徒はクリスチャンを迫害する側に回り、国教となってから疎外され、増々、いこじで少数の民族宗教者として歩んでいくことになります。(筆者・安田)