ダビデは王位を受ける前、子供の病気の時、敵が病にかかっていたとき、
そして民の罪のゆえに断食した。エリヤ、エズラ、ネヘミヤ、エステル、ダニエルなど、
彼らも皆、必要ある時には断食した。
断食と祈りが国家の行く末をどのように買えたかの実例は、歴史の中にも見受けられる。
1756年、イギリス国王は公式の祈りと断食の日を呼びかけた。
それはイギリスがフランスの侵略(注・01)という脅威にさらされていたからであった。
その日について、ジョン・ウェスレーは自分の日誌にこう書いている。
「断食の日は、ロンドンが王政復古時代以来、経験したことのないような、栄光の日であった。
街中のあらゆる教会が超満員になり、人々は皆、真剣な表情を見せていた。神は確かに祈りを聞かれ、
我々の安泰は長く続くであろう。」
後に彼は次のような脚注を書き加えている。
「フランスによる侵略の脅威は回避され、謙遜は国を挙げて喜びへと変えられた。」
1662年、イギリス国王チャールズ2世(注・02)が、
もし植民地が自分たちの牧師を英国国教会派の聖職者に代えないのなら、
マサチューセッツ憲章(注・03)を取り上げると脅かした。
植民地で投票が行われ、この要求に応じないことが満場一致で決定すると、王は激怒し、
「血の」パーシー・カーク大佐率いる5000人の軍隊を送り込んで反対勢力をつぶすと誓った。
主導的な牧師であったインクリース・メイザーは、この知らせを聞くと、書斎に閉じ籠り、
その日、一日、植民地の窮状のために断食して祈った。
とうとうメイザーの重荷は去り、平安と喜びがそれに替わった。
1ヶ月後、チャールズ2世が脳卒中で死亡したという知らせが届いた。
彼の弟であるジェームズ2世が即位しており、カークはやってこないとのことであった。
チャールズ2世が死んだのは、メイサーが断食と祈りをして過ごした日のことであった。
イギリスがフランスの侵略(注・01
七年戦争(しちねんせんそう、英語: Seven Years' War、ドイツ語: Siebenjähriger Krieg)は、1756年から1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。
イギリス国王チャールズ2世(注・02)
1630年5月29日 - 1685年2月6日[1])は、王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王
1685年2月、ホワイトホール宮殿で心臓発作のため倒れ、死の床でカトリックに改宗、54歳で崩御した。後継の国王にはジェームズがジェームズ2世および7世として即位した。しかし、即位直後にオランダに亡命していたモンマスがイングランドへ戻りジェームズ2世に反乱を起こし(モンマスの反乱)、反乱平定後ジェームズ2世が親カトリックと専制を推し進めたため周囲の反発で政権は傾き、わずか3年で名誉革命が起こりジェームズ2世は追放、ステュアート朝の専制は挫折した。
そして民の罪のゆえに断食した。エリヤ、エズラ、ネヘミヤ、エステル、ダニエルなど、
彼らも皆、必要ある時には断食した。
断食と祈りが国家の行く末をどのように買えたかの実例は、歴史の中にも見受けられる。
1756年、イギリス国王は公式の祈りと断食の日を呼びかけた。
それはイギリスがフランスの侵略(注・01)という脅威にさらされていたからであった。
その日について、ジョン・ウェスレーは自分の日誌にこう書いている。
「断食の日は、ロンドンが王政復古時代以来、経験したことのないような、栄光の日であった。
街中のあらゆる教会が超満員になり、人々は皆、真剣な表情を見せていた。神は確かに祈りを聞かれ、
我々の安泰は長く続くであろう。」
後に彼は次のような脚注を書き加えている。
「フランスによる侵略の脅威は回避され、謙遜は国を挙げて喜びへと変えられた。」
1662年、イギリス国王チャールズ2世(注・02)が、
もし植民地が自分たちの牧師を英国国教会派の聖職者に代えないのなら、
マサチューセッツ憲章(注・03)を取り上げると脅かした。
植民地で投票が行われ、この要求に応じないことが満場一致で決定すると、王は激怒し、
「血の」パーシー・カーク大佐率いる5000人の軍隊を送り込んで反対勢力をつぶすと誓った。
主導的な牧師であったインクリース・メイザーは、この知らせを聞くと、書斎に閉じ籠り、
その日、一日、植民地の窮状のために断食して祈った。
とうとうメイザーの重荷は去り、平安と喜びがそれに替わった。
1ヶ月後、チャールズ2世が脳卒中で死亡したという知らせが届いた。
彼の弟であるジェームズ2世が即位しており、カークはやってこないとのことであった。
チャールズ2世が死んだのは、メイサーが断食と祈りをして過ごした日のことであった。
イギリスがフランスの侵略(注・01
七年戦争(しちねんせんそう、英語: Seven Years' War、ドイツ語: Siebenjähriger Krieg)は、1756年から1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。
イギリス国王チャールズ2世(注・02)
1630年5月29日 - 1685年2月6日[1])は、王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王
1685年2月、ホワイトホール宮殿で心臓発作のため倒れ、死の床でカトリックに改宗、54歳で崩御した。後継の国王にはジェームズがジェームズ2世および7世として即位した。しかし、即位直後にオランダに亡命していたモンマスがイングランドへ戻りジェームズ2世に反乱を起こし(モンマスの反乱)、反乱平定後ジェームズ2世が親カトリックと専制を推し進めたため周囲の反発で政権は傾き、わずか3年で名誉革命が起こりジェームズ2世は追放、ステュアート朝の専制は挫折した。