ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

トニー・リーヴス

2022-10-28 23:59:59 | bass

トニー・リーヴス Anthony Robert "Tony" Reeves

【パート】
  エレクトリック・ベース、コントラバス

【生没年月日】
  1943年4月18日~

【出生地】
  イングランド サウスイ-スト・ロンドン、ニュー・エルサム

【経 歴】
  ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ(1968)
  コロシアム(1968~1970)
  グリーンスレイド(1972~1975)
  カーヴド・エア(1975~1976)


 イングランドのベース奏者。エレクトリック・ベースとコントラバスの両方をプレイする。
 コロシアムの創設メンバーのひとりである。
 

 10代の頃からコントラバスを習う。
 ルイシャムにあるコルフェス・グラマー・スクールに在籍していたころ、同じ学校に通っていたデイヴ・グリーンスレイド、ジョン・ハイズマンと出会う。
 リーヴスは当時から地元のいくつかのジャズ・バンドで演奏していた。その中のひとつが、コルフェス・グラマー・スクールの仲間が集まって1960年に結成した「ウエス・ミンスター・ファイヴ」(Wes Minster Five)である。
 ウエス・ミンスター・ファイヴのメンバーは、リーヴスのほか、ジョン・ハイズマン、デイヴ・グリーンスレイド、クライヴ・バロウズ、ポール・マクドウェルの5人であった。このバンドが、のちの「コロシアム」の母体である。


 ウエス・ミンスター・ファイヴは1962年に解散したが、リーヴスは「イアン・バード・クインテット」や「ニュー・ジャズ・オーケストラ」などで活動を続けながら、デッカ・レコードの品質管理担当を経て、パイ・レコードの販売促進担当として働いた。
 その後はCBSやポリドールでフリーのプロデューサーや、グリニッジ・グラモフォン・カンパニーのクリエイティヴ・ディレクターを務め、「The London Jazz Four」「The Beatstrlkers」「Gallagher & Lyle」などのグループのレコーディングに携わる。
 そのかたわら、ミュージシャンとしてはピーター・レマー(piano)と共演したり、1965年にはマイク・テイラー(piano)・カルテットの一員としてアルバム『Pendulum』のレコーディングに参加するなど、ジャズ・ベーシストとしても活動していた。


     


 リーヴスがエレクトリック・ベースを弾くようになったのは1968年頃からである。
 1968年4月、リーヴスはハイズマンの紹介によってジョン・メイオール & ザ・ブルース・ブレイカーズに加入し、ここでディック・ヘクストール=スミスに出会う。ブルース・ブレイカーズでのリーヴス、ハイズマン、ヘクストール=スミスの演奏は同年6月に発表された『ベア・ワイアーズ』(Bare Wires)で聴くことができる。


 1968年8月、ハイズマン、ヘクストール=スミスとともにブルース・ブレイカーズを脱退し、ハイズマンの結成した「コロシアム」に参加する。
 コロシアムでは『コロシアム・ファースト』『ヴァレンタイン組曲』『グラス・イズ・グリーナー』(アメリカ編集盤)の計3枚のアルバム制作に携わった(この3枚はジェリー・ブロンとの共同プロデューサーも兼ねている)が、プロデューサー業に専念するため、1970年8月のナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァルを最後に脱退した。後任として参加したのは、元ルネッサンスのルイス・セナモだったが、すぐに元セント・ジェームス・インファーマリーのマーク・クラークに交替している。
 コロシアム脱退後のリーヴスは、プロデューサーとしてはデンマークのグループ「Day of Phoenix」「Burnin Red Ivanhoe」やスウェーデンのジャズ・ロック・グループ「Made In Sweden」の制作に関わったほか、Greenwichレーベルのプロデューサーとしても「Open Road」「The Woods Band」を手掛けた。
 センション・ミュージシャンとしては、イギリスのフォーク・ロック・シンガーであるサンディ・デニーのアルバム『海と私のねじれたキャンドル』や、同じくイギリスのフォーク系シンガーソングライター、ジョン・マーティンのアルバム『Bless the Weather』のレコーディングに参加したり、アイルランドのシンガーソングライター、クリス・デ・バーらと共演したりしている。


     


 1972年、デイヴ・グリーンスレイドの結成したバンド「グリーンスレイド」に参加、3枚のアルバムの制作に参加した。
 1973年には、30歳の若さで1969年に死去したジャズ・ピアニスト、マイク・テイラーのトリビュートである「マイク・テイラー・リメンバード」に出演し、イアン・カー(trumpet)、ニール・アードレイ(keyboard)、ジョン・ハイズマン(drums)、バーバラ・トンプソン(sax ジョン・ハイズマン夫人)などブリティッシュ・ジャズのトップ・ミュージシャンと共演している。


 1975年、プロデューサーとしての活動に専念したい、との理由でグリーンスレイドを脱退したものの、同年「カーヴド・エア」に加入した。カーヴド・エアでは『エアボーン』の録音に参加したが、翌76年には脱退している。
 その後、ディック・ヘクストール=スミス(sax 元コロシアム)やミック・ジャック(guitar 元カーヴド・エア)らとともに「ビッグ・チーフ」(Big Chief)というジャズ・グループに参加。
 2000年、グリーンスレイドが再結成を果たし、25年ぶりに5枚目のアルバム『ラージ・アフタヌーン』を発表したが、リーヴスはこのアルバムのレコーディングに参加している。
 現在のリーヴスは、1990年代に自らが設立した音響制作会社「MTR Professional Audio」を経営するかたわら、ビッグ・チーフやブルー・アンバ(Blue Amba)、ウォーソッグス(The Warthogs)などのバンドと共演したり、マルチ・プレイヤーのJCキャロルと演奏するなど、音楽活動を続けている。


     


【参加アルバム】
 <ジョン・メイオール & ザ・ブルース・ブレイカーズ>
  1968年 ベア・ワイヤーズ/Bare Wires(イギリス3位 アメリカ59位 ノルウェイ9位)

 <コロシアム>
  1969年 コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(イギリス15位)
  1969年 ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(イギリス15位)
  1970年 グラス・イズ・グリーナー/The Grass Is Greener

 <グリーンスレイド>
  1973年 グリーンスレイド/Greenslade
  1973年 ベッドサイド・マナーズ・アー・エクストラ/Bedside Manners Are Extra
  1974年 スパイグラス・ゲスト/Spyglass Guest(イギリス34位)
  2000年 ラージ・アフタヌーン/Large Afternoon

 <カーヴド・エア>
  1976年 エア・ボーン/Airborne

 *レコーディング・セッション*
 <サンディ・デニー>
  1971年 海と私のねじれたキャンドル/The North Star Grassman and the Ravens(イギリス31位)

 <ジョン・マーティン>
  1971年 Bless the Weather
 


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グレッグ・リドリー

2022-10-08 20:15:08 | bass

グレッグ・リドリー Alfred Gregory "Greg" Ridley

【パート】
  ベース、ヴォーカル

【生没年月日】
  1941年10月23日~2003年11月19日(62歳)

【出生地】
  イングランド カンバーランド カーライル市

【経 歴】
  V.I.P.'s(1964~1967)
  アート(1967)
  スプーキー・トゥース(1967~1969)
  ハンブル・パイ(1969~1975)
  ストレンジ・ブリュー(1975)
  スティーヴ・マリオット・オール・スターズ(1975~1976)
  ハンブル・パイ(2001~2002)



 「スプーキー・トゥース」「ハンブル・パイ」のベーシストとして知られる。


 1960年代前半、「Dino and the Danubes」というローカル・バンドにギタリストとして加入したことがリドリーの音楽活動の始まりである。
 その後「The Dakotas」を経て、学友でバンド仲間だったマイク・ハリスンの在籍する「ラムロッズ」(The Ramrods)に、ベーシストとして1963年に加入。ラムロッズは翌64年に「ヴィップス」(The V.I.P.'s)と改名する。
 1966年、V.I.P.'sは大幅なメンバー・チェンジを行い、ラインナップはマイク・ハリソン(keyboard, vocal)、ルーサー・グロヴナー(guitar)、グレッグ・リドリー(bass)、マイク・ケリー(drums)の4人となった。ちなみにこの年、短期間ではあるが、キース・エマーソンが在籍している。
 1967年4月、サイケデリックな時代背景を反映して、バンドは「アート」(Art)と再び改名し、同年7月にはアルバム『Supernatural Fairy Tales』とシングル『What's That Sound?』を発表。
 1967年10月、バンドはツアー先の西ドイツでヴォーカル兼キーボード奏者のゲイリー・ライトと出会う。アイランド・レーベルの社長でプロデューサーのクリス・ブラックウェルの提案によって、バンドはライトをメンバー加えた。こうしてメンバーが固まったアートは、新たに「スプーキー・トゥース」と名乗ることになる。


 スプーキー・トゥースはブルースをベースとして、サイケデリックやアメリカン・ロックなどからも影響されたヘヴィーなサウンドを特徴としていた。
 1968年1月、スプーキー・トゥースは『サンシャイン・ヘルプ・ミー』で、アイランド・レーベルからシングル・デビュー。続いて同年8月にはデビュー・アルバム『イッツ・オール・アバウト』を発表した。


 1968年末、スプーキー・トゥースがスモール・フェイセスのオープニング・アクトを務めた際、リドリーはスティーヴ・マリオットからニュー・グループ「ハンブル・パイ」への参加を打診された。このプランを了承したリドリーは、1969年2月にはスプーキー・トゥースを脱退し、ハンブル・パイのメンバーとなった。
 なおリドリー脱退後の同年5月に、セカンド・アルバム『スプーキー・トゥー』がリリースされたが、このアルバムは全米チャートで44位まで上昇(スプーキー・トゥース唯一の全米トップ50アルバム)、メディアからも高く評価されており、現在でもスプーキー・トゥースの最高傑作と言われている。


     


 ハンブル・パイの結成当初のメンバーは、ピーター・フランプトン(guitar, vocal)、スティーヴ・マリオット(guitar, vocal)、グレッグ・リドリー(bass)、ジェリー・シャーリー(drums)である。この4人の集結は「スーパー・グループ」として大いに期待され、1969年4月に活動を開始した。
 

 フランプトンとマリオットのスターふたりによる双頭バンドとして注目されたハンブル・パイだったが、ポップ、フォーク・ロック的指向を持つフランプトンとブルースやソウル指向のマリオットの、ふたりの音楽性の相違がはっきり現れてきたため、1971年秋にフランプトンが脱退。
 新メンバーとして参加したのは元コロシアムのクレム・クレムソンである。彼の加入によってバンドの方向性は、マリオットの持つブルージーでソウルフルな路線に、より明確にシフトすることになる。
 音楽性の進化にともない、その激しいライヴ・パフォーマンスが知られるようになる。またリドリーとシャーリーのコンビは、当時のロック界有数の強力なリズム・セクションとして評価されるようになった。
 1973年、ハンブル・パイは初来日。ベック、ボガート&アピスと来日時期が重なっていたため、メディアからはあまり取り上げられなかったものの、ライヴ自体は中味の濃いエキサイティングなもので、ツアーは成功裡に終わった。


 その後はツアーの連続によってメンバーが疲弊したため、1975年の「Goodbye Pie Tour」の後で、ハンブル・パイは解散する。
 解散直前の1975年2月にリリースされたアルバム『ストリート・ラッツ』では、全11曲中リドリーが5曲でリード・ヴォーカルをとっている。


 ハンブル・パイ解散後は、クレム・クレムソン、コージー・パウエルとともに「ストレンジ・ブリュー」(Strange Brew)を結成するが、すぐに消滅してしまう。
 また、スティーヴ・マリオット・オール・スターズの一員となり、マリオットのソロ・アルバム『マリオット』(1976年)のレコーディングでは全10曲中5曲に参加している。
 そのほかマイク・パトゥとオリー・ハルソールが結成した「ボクサー」のライヴに参加するなどしたが、1976~77年頃には音楽業界から身を引いた。引退後はイングランド南西部のグロスターシャー州に住み、アンティーク家具の店を経営するほか、アンティークのトレーダーとしても働いた。


     


 1998年、マイク・ハリソン、ルーサー・グロヴナー、グレッグ・リドリー、マイク・ケリーのオリジナル・メンバー4人でスプーキー・トゥースが再結成され、1999年に25年ぶりのニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
 1991年に亡くなったスティーヴ・マリオットのメモリアル・コンサート(「スティーヴ・マリオット・トリビュート・コンサート」)が2001年4月14日に行われたが、この時にハンブル・パイが再結成され、ピーター・フランプトン、クレム・クレムソン、グレッグ・リドリー、ジェリー・シャーリーというラインナップで出演し、5曲を演奏した。
 2002年には、リドリー、ジェリー・シャーリー、ボビー・テンチ、デイヴ・コルウェルというラインナップで「ハンブル・パイ」としてのアルバム『バック・オン・トラック』を発表したほか、「カンパニー・オブ・スネイクス」(Company of Snakes)との短期のドイツ・ツアーに参加している。
 同年元ウイングスのジョフ・ブリトン(drums)率いる「The Rockets」に加入。


 2003年11月19日、移住先であるスペインのバレンシア州アリカンテ県ハベアで、肺炎とその合併症のため56歳で死去。
 2005年、リドリーを追悼して、アンソロジー・アルバム『All I Ever Needed』がリリースされた。
     


【ディスコグラフィ】(☆ライヴ・アルバム)

 アート/Art
  ◆アルバム
    1967年 Supernatural Fairy Tales

 スプーキー・トゥース/Spooky Tooth
  ◆アルバム
    1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About(1971年全米152位)
    1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two(全米44位)
    1999年 Cross Purpose

 ハンブル・パイ/Humble Pie
  ◆アルバム
    1969年 アズ・セイフ・アズ・イエスタデイ・イズ/As Safe As Yesterday Is(イギリス32位)
    1969年 タウン・アンド・カントリー/Town and Country
    1970年 大地と海の歌/Humble Pie
    1971年 ロック・オン/Rock On
   ☆1971年 パフォーマンス~ロッキン・ザ・フィルモア/Performance Rockin' the Fillmore(アメリカ21位、カナダ32位)
    1972年 スモーキン/Smokin'(アメリカ6位、イギリス20位)
    1973年 イート・イット/Eat It(アメリカ13位、イギリス34位、日本58位)
    1974年 サンダーボックス/Thnderbox(アメリカ52位、日本85位)
    1975年 ストリート・ラッツ/Street Rats(アメリカ100位)
   ☆1996年 ライヴ・イン・コンサート/Humble Pie in Concert(1973年5月6日録音)
    2002年 バック・オン・トラック/Back on Track
  ◆シングル
    1969年 あいつ/Natural Born Bugie(全英4位)
    1971年 ノー・ドクター/I Don't Need No Doctor(全米73位)
    1972年 ホット・アンド・ナスティ/Hot 'n' Nasty(全米52位)

 スティーヴ・マリオット
  ◆アルバム
    1976年 Marriott
 


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マーク・クラーク

2022-09-07 22:27:23 | bass

マーク・クラーク Mark Clarke

【パート】
  ベース、ヴォーカル

【生没年月日】
  1950年7月25日~

【出生地】
  イングランド リヴァプール

【経 歴】
  コロシアム(1970~1971)
  ユーライア・ヒープ(1971~1972)
  テンペスト(1972~1974)
  ナチュラル・ガス(1975~1976)
  レインボウ(1977)
  ヘンリー・グロス・バンド
  マウンテン(1984~1985、1995~1998)
  コロシアム(1994~2010)
  JCM(2017~2018)
  コロシアム(2020~  )


     


 少年時代、ビートルズやその他の多くのバンドを見たクラークは、12歳の頃にはベース・プレイヤーになろうと決めたそうである。
 ベーシストとしては、ジャック・ブルースやジョニー・グスタフソンらに影響されたという。
 1966年「Kegmen」、1968年「Locomotive」でプレイしたのち、1968年後半から1969年にかけては「セント・ジェームス・インファーマリー」(St. James Infirmary)に在籍する。
 当時はヴォーカリストとして高く評価されており、リヴァプール・エコー紙に「リヴァプールのジョー・コッカー」と紹介されたことがある。


 ローカル・バンドでの活動後、クラークはロンドンに居を移し、デイヴ・"クレム"・クレムソンの紹介でコロシアムのローディーとして働くことになる。
 1970年8月のナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァルを最後にベーシストのトニー・リーヴスがコロシアムから脱退。新たなベーシストとしてルイス・セナモ(元ルネッサンス)が加入したが、アルバムドーター・オブ・タイムの制作途中で脱退したため、クラークが後任として迎えられた。
 コロシアム解散後は、1971年秋にポール・ニュートンの後任としてユーライア・ヒープに加わったが、わずか3ヵ月在籍したのみで脱退している。ヒープのアルバム悪魔と魔法使い(1972年)に収録されている『魔法使い』は、クラークのインスピレーションから生まれた曲であり、ケン・ヘンズレーとの共作としてクレジットされているほか、この曲のみクラークのベースとヴォーカルでレコーディングされている。


     
     マーク・クラーク(左)とジョン・ハイズマン


 ヒープ脱退後の1972年6月、コロシアムのリーダーだったジョン・ハイズマン(drums)に呼び戻され、ハイズマンが結成した「テンペスト」に参加。メンバーはクラーク、ハイズマンのほか、ポール・ウィリアムス(vocal)、アラン・ホールズワース(guitar, violin)であった。
 テンペストはジャズ・ロックとハード・ロックがクロスオーヴァーしたユニークな音楽性のバンドとして注目されたが、2枚のアルバムを残して1974年5月に解散する。
 その後、クラーク、ジョーイ・モランド(guitar, vocal 元バッド・フィンガー)、ジェリー・シャーリー(drums 元ハンブル・パイ)、ピーター・ウッド(keyboard 元Sutherland Brothers & Quiver)の4人で「ナチュラル・ガス」を結成。
 結成当初は「スーパー・グループ」とも言われ、1976年にはフェリックス・パパラルディのプロデュースでファースト・アルバム『Natural Gas』が発表されたがセールスは全く振るわず、間もなく解散した。


 1977年5月、ジミー・ベインの後任としてレインボウに加入したが、7月には、アルバム『バビロンの城門』のレコーディングに際して音楽性の相違という理由で解雇される。
 脱退後は元シャナナのギタリスト、ヘンリー・グロス(Henry Gross)のバック・バンドに加入している。
 1979年、リチャード・T・ベアの録音に参加。


     


 1980年代に入るとアメリカでの活動に比重を置くようになり、ビリー・スクワイア(元サイドワインダーズ~パイパー)、フィービー・スノウ、イアン・ハンター(元モット・ザ・フープル)、マイケル・ボルトン、シェール、ミートローフなどのバックを務め、レコーディングに参加している。
 1984年、レスリー・ウェスト(guitar)とコーキー・レイング(drums)で再結成された「マウンテン」に加入。
 1986年にはモンキーズのデイヴィー・ジョーンズ、ミッキー・ドレンツ、ピーター・トークの20周年記念ツアーのメンバーとなったほか、デイヴィー・ジョーンズと数年間仕事をともにした。


 1994年、再結成した「コロシアム」に加入し、2015年2月28日にロンドンのシェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたフェアウェル・コンサートまでベーシストを務めた。
 2010年、初のソロ・アルバム『Moving to the Moon』をリリース。
 2017年、クラーク(bass, vocal)、クレム・クレムソン(vocal, guitar)、ジョン・ハイズマン(drums)の3人で「JCM」を結成、2018年4月にファースト・アルバム『Heroes』を発表した。
 2018年にジョン・ハイズマンが亡くなったが、2020年にクリス・ファーロウ、クレム・クレムソン、クラークらを中心に再びコロシアムは始動する。2022年4月には、コロシアム8年ぶりのフル・アルバム『Restoration』を発表している。


     


【ディスコグラフィ】

  <ソロ・アルバム>
    2010年 Moving to the Moon

  <コロシアム>
    1970年 ドーター・オブ・タイム/Daughter of Time(全英23位)
    1971年 コロシアム・ライヴ/Colosseum Live(全英17位)
    1994年 Colosseum Live S ー The Reunion Concerts
    1997年 Bread and Circuses
    2003年 Tomorrow's Blues
    2007年 Live05
    2014年 Time on Our Side
    2022年 Restoration

  <ディック・ヘクストール=スミス>
    1972年 ア・ストーリー・エンディッド/A Story Ended

  <ユーライア・ヒープ>
    1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards(全米23位 全英20位)

  <テンペスト>
    1973年 テンペスト/Tempest
    1974年 眩暈/Living in Fear

  <ナチュラル・ガス>
    1976年 Natural Gas

  <ケン・ヘンズレー>
    1975年 愛と苦悩/Eager to Please
    1980年 フリー・スピリット/Free Spirit

  <リチャード・T・ベアー>
    1979年 Captured Alive

  <フィービー・スノウ>
    1981年 Rock Away

  <ビリー・スクワイア>
    1981年 ドント・セイ・ノー/Don't Say No(全米5位)
    1991年 Creatures of Habit

  <イアン・ハンター>
    1983年 孤独のハンター/All of the Good Ones Are Taken(全米125位)

  <マイケル・ボルトン>
    1983年 マイケル・ボルトン/Michael Bolton

  <マウンテン>
    1985年 Go for Your Life(全米166位)
    1996年 Man's World

  <モンキーズ>
    1987年 20th Anniversary Tour 1986
  
  <Torque>
    2003年 103103
  
  <JCM>
    2018年 Heroes


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ゲイリー・セイン

2022-09-01 11:42:50 | bass

ゲイリー・セイン Gary Mervin Thain

【パート】
  ベース、ギター、ヴォーカル

【生没年月日】
  1948年5月15日~1975年12月8日(27歳)

【出生地】
  ニュージーランド クライストチャーチ市

【経 歴】
  キーフ・ハートリー・バンド(1968~1972)
  ミラー・アンダーソン・バンド(1971)
  ユーライア・ヒープ(1972~1975)
  

 ユーライア・ヒープの3代目ベーシスト。
 リー・カースレイク(drums)とのリズム・セクションで、ユーライア・ヒープの黄金期を支えた。
 

 ニュージーランドのクライストチャーチ市で、コリン、アーサーに次ぐ三男として生まれる。
 10代の頃にふたりの兄たちとともに「The Strangers」というバンドを結成、シングル・レコードを3枚リリースした。
 1966年にオーストラリアへ移住すると、「The Secrets」に加入してシングル・レコードを1枚リリース。
 The Secretsはその年に解散したが、同年には「Me & Others」というバンドを組んでイギリスやドイツをツアーする。
 1967年に「New Nadir」というロック・トリオを結成し、ヨーロッパで活動した。このバンドは特にスイスで人気を得るようになり、アルバムの録音も行われたが、リリースには」至っていない。なおセインはNew Nadirのドラマー、ピーター・ドーキンズとロンドンへ旅行しているが、その際にジミ・ヘンドリックスとジャム・セッションを行っている。


 1968年、キーフ・ハートリー・バンドに参加する。
 キーフ・ハートリー(drums)はのちに、「俺はゲイリー・セインと知り合い、ジャムってみて、『彼は完璧だ』と思ったね。プレイヤーとして、ゲイリーはいままで付き合ったなかで最高だった。ゲイリーの参加で、バンドはとてもタイトなユニットになったんだ。」と語っている。
 キーフ・ハートリー・バンドは同年のウッドストックに出演したが、この時演奏を終えたバンドは、道路の大渋滞のためヘリコプターでの移動を余儀なくされた。そのためスライ & ファミリー・ストーンの大ファンだったセインはその演奏を見ることができなくなってしまい、たいへんがっかりしたそうである。
 セインは、キーフ・ハートリー・バンド時代に6枚のアルバムの録音に参加したが、1971年にユーライア・ヒープのツアーに参加したことがきっかけで、1972年2月に請われてヒープに加入した。


     


 ユーライア・ヒープはセインの加入から人気、レコード・セールスとも急上昇しており、彼の在籍期間を「黄金期」と呼ぶことが多い。
 ヒープ時代のセインは、4枚目のアルバム『悪魔と魔法使い』(1972年)から『夢幻劇』(1974年)までの5枚のアルバムを残している。
 

 1974年9月15日、アメリカ・ツアーのさなか、テキサス州ダラスにあるムーディー・コロシアムでの演奏中に感電し、一時は再起を危ぶまれたほどの重傷を負う。しかし、奇跡的に約1ヵ月後の10月14日には復帰した。
 1975年1月、アルバム『幻想への回帰』のデモンストレーション録音に4曲分参加したが、バンド加入当初からドラッグを摂取し続けていたセインは感電事故の療養中にドラッグへの依存がひどくなったため、これ以上バンドの一員として演奏活動することは難しいと判断され、このセッションを最後として、1975年2月にユーライア・ヒープを解雇された。後任は、ジョン・ウェットン(元キング・クリムゾン)であった。


 セインといえば、メロディックで印象的なフレーズを繰り出すベース・プレイで知られている。
 ヴォーカルやギターなどのフロントに対して積極的に仕掛けていくこともしばしばで、そのユニークなスタイルでジョン・エントウィッスル(ザ・フー)やギーザー・バトラー(ブラック・サバス)らと並び称されている。
 セインのフェイヴァリット・ベーシストは、ジェームス・ジェマーソンだという。ジェマーソンだけでなく、ジャズからも大きな影響を受けていたという。


 1975年12月8日、ロンドンのノーウッドグリーンにある自宅アパートで、バスタブの中で亡くなっているのが発見された。死因はヘロインの過剰摂取による呼吸不全である。


     



【ディスコグラフィ】

Champion Jack Dupree
 1969年 Scoobydoobydoo

キーフ・ハートリー・バンド
 1969年 Halfbreed
 1969年 The Battle of North West Six
 1970年 The Time Is Near(全英41位)
 1971年 Overdog
 1971年 Little Big Band ※ライヴ・アルバム
 1972年 Seventy-Second Brave

Martha Velez
 1970年 Fiends and Angels

ミラー・アンダーソン・バンド
 1971年 Bright City

ピート・ヨーク・パーカッション・バンド
 1972年 The Pete York Percussion Band

ケン・ヘンズレー
 1973年 誇り高き言霊/Proud Words on a Dusty Shelf(全豪57位)

ユーライア・ヒープ
 1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards(全米23位、全英20位、日本28位)
 1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday(全米31位、全英28位、日本43位)
 1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live(全米37位、全英23位、日本22位)
 1973年 スウィート・フリーダム/Sweet Freedom(全米33位、全英18位、日本45位)
 1974年 夢幻劇/Wonderworld(全米38位、全英23位、日本76位)

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ティム・ボガート

2022-08-21 10:31:55 | bass

ティム・ボガート John Voorhis "Tim" Bogert Ⅲ

【パート】
  エレクトリック・ベース、ヴォーカル

【生没年月日】
  1944年8月27日~2021年1月13日(76歳)

【出生地】
  アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークシティ

【経 歴】
  ヴァニラ・ファッジ(1966~1970)
  カクタス(1970~1972)
  ベック・ボガート&アピス(1973~1974)
  ボクサー(1976~1977)
  ヴァニラ・ファッジ(1982~1984)
  ヴァニラ・ファッジ(1987~1988)
  ヴァニラ・ファッジ(1999~2002)
  チャー、ボガート&アピス(1999)
  デリンジャー、ボガート&アピス(2000)
  ヴァニラ・ファッジ(2003~2008)
  カクタス(2006~2008)
  ヴァニラ・ファッジ(2009~2010)

  
  

 「ヴァニラ・ファッジ」、「ベック・ボガート&アピス」、「カクタス」のベーシストとして知られる。
 1960年代初期のモータウン・サウンドに傾倒した時期があり、ジェームス・ジェマーソンから大きな影響を受けたという。
 ファズをかけた粒立ちのよい音と、リード・ギターにも引けを取らない攻撃的な演奏が特徴であり、その圧倒的なベース・プレイはジャック・ブルースと双璧であろう。


 ニュージャージー州リッジフィールドで育った。
 8歳の時にピアノを習い始め、13歳でクラリネットを、さらにサックスを吹くようになる。
 高校ではマーチング・バンドに所属したが、リッジフィールド・メモリアル・ハイスクールに転校するとR&B系のバンドで活動。その後「バンドにサックスは不要と言われたこと、管楽器はいつも音を出しているわけではないこと」を理由にベースに転向した。
 高校卒業後はRCAのエレクトロニクス関係の専門学校に通い、電気工学を学んだ。
 ベーシストとしても活動を続けており、1965年に「リック・マーティン&ザ・ショウメン」に参加。ここでマーク・スタイン(keyboard)と出会う。
 ボガートとスタインは「ラスカルズ」のオルガン・サウンドに影響を受けて新バンドの結成を計画し、やはり「リック・マーティン&ザ・ショウメン」のメンバーだったヴィンス・マーテル(guitar)とジョーイ・ブレナン(drums)を加えて、1966年に「ピジョンズ」を結成した。やがてカーマイン・アピス(drums)に出会い、ブレナンの後釜としてピジョンズに迎え入れた。
 ピジョンズはレコーディング中の同年12月に「ヴァニラ・ファッジ」と改名する。


 ヴァニラ・ファッジは1967年にアトランティック・レコードと契約。
 同年6月にジョージ・"シャドウ"・モートンのプロデュースでシングル「キープ・ミー・ハンギング・オン」(1967年全英18位、1968年全米6位)を、同年8月にアルバム『ヴァニラ・ファッジ』(全米6位)をリリースし、ヒットを記録した。
 ヴァニラ・ファッジは、サイケデリックなサウンドとのちのハード・ロックにも多大な影響を与えたハードなサウンドを融合させ、一躍「ニュー・ロック」の旗手として注目を集めるに至った。
 とくにボガートとアピスのコンビは「ロック界有数の強力なリズム・セクション」と絶賛される。
 当時ヴァニラ・ファッジの「ショットガン」を聴いたジェフ・ベックが、ボガートとアピスの演奏に衝撃を受け、共演したいと望むようになったのは有名な話である。
 当時ベックが率いていた「ジェフ・ベック・グループ」は1969年8月に解散するが、折しもメンバー間の不和を抱えていたヴァニラ・ファッジも解散。これを機にベック、ボガート、アピスの3人はロッド・スチュワートを加えて新グループ結成に向けて動き始めるが、結局スチュワートは「フェイセズ」に加入した。これを受けてベック、ボガート、アピスはトリオとして活動するべく数度のセッションを行うが、同年11月2日にベックが運転中に交通事故を起こして全治3ヵ月の重傷を負ったため、このプランは流れた。





 ジェフ・ベックとの新グループの結成を断念したボガートとアピスは、アトランティックとの契約上アルバムを制作しなければならなかった。そのためふたりはラスティ・デイとジム・マッカーティのふたりのギタリストを迎え、同年に「カクタス」を結成。
 3枚のアルバムを発表したのち、1971年末にマッカーティが脱退、その後間もなくデイが解雇されると、1972年にピーター・フレンチ(vocal, 元アトミック・ルースター)、デュアン・ヒッチングス(keyboard)、ワーナー・フリッツシング(guitar)が加わって『汗と熱気』を発表する。
 その頃ベックは「第2期ジェフ・ベック・グループ」を率いていたが、このバンドが1972年に解散したのを機に、ボガートとアピスは再びジェフ・ベックに接近する。


 カクタスを解散したボガートとアピス、ジェフ・ベック・グループを解散したベックは、キム・ミルフォード(vocal)とマックス・ミドルトン(keyboard)を加えて新しいバンドの結成に向けて始動する。このバンドは「ジェフ・ベック・グループ」の名で1972年8月1日よりツアーを行うが、ミルフォードはすぐに解雇された。後任としてボブ・テンチ(vocal, 元ジェフ・ベック・グループ)が加入したが、ツアー終了後にはテンチとミドルトンは脱退してしまう。
 結局トリオ編成となったバンドは、1972年9月に「ベック・ボガート&アピス」としてスタート、1973年3月にアルバム『ベック・ボガート&アピス』(全米12位、全英28位)を発表した。
 高度な演奏技術を誇るBB&Aは、「クリーム」や「ジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンシス」と並ぶパワー・トリオ、あるいはスーパー・グループの登場としてロック界を震撼させた。
 1973年5月、BB&Aは唯一の日本公演を行い、14日日本武道館、16日名古屋市民会館、18~19日大阪厚生年金ホールで演奏した。大阪で演奏された2日間の模様を収めたのが1973年10月に日本限定で発表された『ベック・ボガート&アピス ライヴ・イン・ジャパン』(日本21位)である。
 日本から帰国後、ボガートは交通事故で重傷を負う。
 1974年1月にはセカンド・アルバムの録音が行われたが、ボガートとベックの音楽的対立が深刻になり、同年5月にこのトリオは消滅した。





 ボガートは、1973年にヤン・アッカーマン(guitar, フォーカス)のソロ・アルバム『Tabernakel』に参加しているが、BB&A解散後にはボ・ディドリーの『The 20th Anniversary of Rock 'n' Roll』(1976年)で演奏。
 そのほか、ボブ・ウィアー(guitar, グレイトフル・デッド)のプロジェクトや、ビリー・コブハム(drums)とともにボビー&ザ・ミッドナイツのツアーに参加。
 1977年には「ボクサー」のアルバム『Absolutely』に参加し、ベースを担当したほか、4曲を共作している。
 1980年、ロッド・スチュワートのアルバム『パンドラの匣』(全米12位、全英4位)に参加、3曲ベースを弾いている。
 1981年、初のソロ・アルバム『Progressions』を発表。ソロ・アルバムは1983年にも発表(『Master's Brew』)している。
 1981年、リック・デリンジャーのツアーに参加。
 1982年、オリジナル・メンバーの4人にロン・マンキューソ(guitar)、J.B.トード(guitar, ジェフ・ベックの変名)を加えてヴァニラ・ファッジの再結成に参加、1984年には15年ぶりのアルバム「Mystery」を発表した。
 1988年6月、アトランティック創立40周年記念イベントのためヴァニラ・ファッジ3度目の結成に参加、レッド・ツェッペリンなどと共演。
 これ以降はハリウッドの音楽専門学校MIのベース科講師を務めるかたわら、PATA(guitar, Xジャパン)、ジャック・ラッセル(vocal, グレイト・ホワイト)のアルバムに参加。
 1999年、チャー(竹中尚人)、ボガート&アピスを結成、日本ツアーを行う。
 2000年、デリンジャー、ボガート&アピスを結成。
 2002年、ヴァニラ・ファッジは18年ぶりのアルバム『The Return』をリリースし、ツアーも行った。
 2006年、カクタスの再結成に参加。メンバーはボガート、アピス、ジム・マッカーティ、ジミー・クーン(vocal, 元サヴォイ・ブラウン)の4人である。34年ぶりのアルバム『CuctusⅤ』を発表。
 2008年、ボガートはカクタスから脱退し、マイク・オネスコ(g,vo)、エメリー・セオ(d)とともに「オネスコ・ボガート・セオ・プロジェクト」を結成、2009年にアルバム「Big Electric Cream Jam」を発表。
 2010年、オートバイ事故がもとでツアーからの引退を表明。
 2013年、ハード・ロックのスーパー・グループ「ハリウッド・モンスターズ」のレコーディングにアピスやドン・エイリー(keyboard)とともに参加。
 2014年、ソロ・アルバム『Big Trouble』リリース。
 2021年1月13日、カリフォルニア州シミヴァレーで、ガンのため76歳で死去。


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ジャック・ブルース

2022-08-19 09:16:40 | bass

ジャック・ブルース John Symon Asher "Jack" Bruce

【パート】
  エレクトリック・ベース、コントラバス、チェロ、ギター、ピアノ、ハーモニカ、キーボード、ヴォーカル

【生没年月日】
  1943年5月14日~2014年10月25日(享年71歳)

【出生地】
  スコットランド ラナークシャー郡ビショップブリッグス

【経 歴】
  ドン・レンデル・グループ(1962~  )
  ブルース・インコーポレイテッド(1962~  )
  グラハム・ボンド・オーガニゼイション(1963~  )
  ジョン・メイオール・ブルース・ブレイカーズ(1965)
  マンフレッド・マン(1966)
  パワーハウス(1966)
  クリーム(1966~1968)
  トニー・ウィリアムス・ライフタイム(1970)
  ジャック・ブルース&フレンズ(1971~1972)
  ウエスト・ブルース&レイング(1972~1973)
  ザ・ジャック・ブルース・バンド(1975)
  ジャック・ブルース&フレンズ(1977)
  ロケット88(1979~1981)
  クリーム(1993)
  ベイカー・ブルース・ムーア(1993~1994)
  Jack Bruce & The Cuicoland Express(2001)
  クリーム(2005)





 「クリーム」のベーシストとして知られる。
 ブリティッシュ・ロック・シーンを語るうえで外すことのできない、重要なミュージシャン。
 ピアノやチェロもこなすマルチ・プレイヤーであり、ヴォーカリストとしても名高い。
 10代の頃に王立アカデミーでクラシックを学んだ、ジャズにも精通しており、コントラバスの演奏にも優れているところから、トニー・ウィリアムス(drums)、ラリー・コリエル(guitar)、カーラ・ブレイ(piano)、ビリー・コブハム(drums)、ジョン・マクラフリン(guitar)ら、世界的なジャズ系ミュージシャンとの共演も多い。
 幅広い音楽性を基にするブルースの活動はロックやブルースの垣根を越えたものであり、彼の存在はジャズ・ロックあるいはクロスオーヴァー・ミュージックの普遍化に大きく寄与したと言える。
 卓越した技術を土台とするジャック・ブルースの演奏は、とくにライヴでその個性が際立っている。自由で縦横無尽に弾きまくる彼のスタイルは、当時のロック・シーン、あるいは後進のミュージシャンに多大な影響を与えた。


 ジャック・ブルースは労働者階級の家に生まれた。
 4歳の時に一家はカナダに移住するが、2年ほどで帰国する。
 家庭は貧しかったが、音楽好きな両親のおかげで聖歌隊に入るなど、小さな頃から音楽に親しむ。
 またラジオから流れるクラシック音楽を好んで聴いていたほか、ジャズ・ピアノを弾く父の影響もあり、10歳の時にはピアノを即興で弾いたり、作曲をしていたという。
 11歳の頃には母や学校の教師に勧められ、音楽教育に力を入れていたベラハウストン・アカデミーに入学し、チェロを学んだ。そしてベラハウストン・アカデミーに通いながら奨学金を得て王立スコットランド音楽演劇アカデミーで作曲を学ぶが、次第にモダン・ジャズに傾倒するようになる。さらにアカデミーの指導方針とも対立するようになったブルースは結局17歳で中退した。
 在学中からローカル・ミュージシャンとして報酬を得ていたブルースは、中退後にその活動を本格化させる。
 一時イタリアに渡り米軍基地で働いていたが、1962年にロンドンに出る。
 この頃、通りがかりにあったクラブに入り、むりやりシット・インしてその演奏能力で店にいた面々を驚かせた。その時にディック・ヘクストール=スミス(のちコロシアム)やジンジャー・ベイカーと知り合ったという。
 1962年、マイク・テイラー(piano)、ジンジャー・ベイカー(drums)、グラハム・ボンド(sax)らとドン・レンデル(sax)のジャズ・グループに参加するほか、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドに加入する。
 1963年、ブルースとベイカーはグラハム・ボンド(organ, sax)とともに「グラハム・ボンド・トリオ」(のちの「グラハム・ボンド・オーガニゼイション」)の一員となる。
 グラハム・ボンド・オーガニゼイションではベイカーと対立することがままあり、これが元で65年8月にブルースはバンドを脱退する。
 1965年には「ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ」に参加。この時エリック・クラプトンと出会った。
 1966年にはマンフレッド・マンに3ヵ月ほど在籍。
 クラプトンはこの年に発表されたエレクトラ・レコードの企画アルバムに「エリック・クラプトン&パワー・ハウス」名義で参加しているが、ブルースはマンフレッド・マン脱退後にこのユニットでベースを弾いている。


 この頃エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーはふたりとも現状に満足していなかった。ベイカーは新しいバンドの結成をクラプトンに提案する。この時クラプトンは「ベースがジャック・ブルースなら」と返答した結果、1966年6月にクラプトン、ブルース、ベイカーが集結したスーパー・グループ「クリーム」が誕生する。
 クリームは「スーパー・グループ」としてだけでなく、高い演奏力を存分に発揮した即興演奏でロック界から大きな注目を浴びる。
 ここでのブルースは、卓越したベース・プレイだけでなく、ヴォーカリスト、マルチ・プレイヤーとしても高く評価された。
 しかしベイカーとの関係はいかんともし難いほど冷え切ってしまったほか、ブルースとクラプトンの関係も悪化し、これが大きな原因となって1968年11月にクリームは解散してしまう。


 クリーム以外の活動としては、1967年のマイク・テイラー・トリオのアルバム『トリオ』のレコーディングにコントラバスで参加。
 1968年8月には自己初のソロ・アルバム『シングス・ウイ・ライク』を制作(リリース1970年)したが、クリーム解散後の1969年4月に録音した『ソングス・フォー・ア・テイラー』の方が先にリリース(1969年8月)されている。


 1969年、ブルース、ラリー・コリエル(guitar)、ミッチ・ミッチェル(drums)、マイク・マンデル(keyboard)によるラインナップでライブ活動を再開したが、間もなく解散。
 1970年、マイルス・デイヴィスの黄金のクインテットの一員だったトニー・ウィリアムス(drums)のバンド「ライフタイム」に参加。翌71年には再びラリー・コリエルと組んでライブを行っている。
 1971年にはソロ3作目の『ハーモニー・ロウ』のリリース・ツアーでクリス・スペディング(guitar, 元ニュークリアス)、ジョン・マーシャル(drums, 元ニュークリアス)、ジョン・サーマン(sax)、グラハム・ボンド(sax)からなる「ジャック・ブルース&フレンズ」を編成するが、翌72年には解散。





 同年にはレスリー・ウエスト(guitar)、コーキー・レイング(drums)とともに「ウエスト・ブルース&レイング」を結成したが、1973年半ばで解散。
 1975年にはミック・テイラー(guitar, 元ローリング・ストーンズ)、カーラ・ブレイ(piano)、ブルース・ギャリー(drums)、ロニー・リーヒー(keyboard)による「ジャック・ブルース・バンド」を結成するが、レコーディングには至らなかった。
 1977年、トニー・ハイマス(keyboard)、サイモン・フィリップス(drums)、ヒューイ・バーンズで新たな「ジャック・ブルース・バンド」を組み、アルバム『ハウズ・トリックス』を発表した。
 1979年にはビリー・コブハム(drums)とともにジョン・マクラフリン(guitar)のツアーに参加。
 同年、「6人目のストーンズ」とも言われたピアニスト、イアン・スチュアートを中心として結成した「ロケット88」に加わる。このバンドは、ジャズ、ブルースを基調としたブギ・ウギ・バンドで、チャーリー・ワッツ(drums ローリング・ストーンズ)やアレクシス・コーナー(guitar, vocal)らも参加していた。


 1980年、ビリー・コブハムとともにモーズ・アリソン(piano)のサポートとしてモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演。またアメリカで「ジャック・ブルース&フレンズ」(ブルース、ビリー・コブハムdrums、クレム・クレムソンguitar、デヴィッド・サンシャスkeyboard)としての活動を始める。
 1980年代にはセッション・ベーシストとして、ロビン・トロワー(guitar)、キップ・ハンラハン(composer)、トレヴァー・ラビン(guitar)、ゲイリー・ムーア(guitar)、バーニー・マースデン(guitar)などのレコーディングをサポートしている。
 1987年には来日し、鈴木賢司(guitar)とライヴを行った。


 1993年1月、クリームは「ロックの殿堂」入りを果たしたが、その式典において、25年ぶりにクラプトン、ベイカーとともに「クリーム」としてステージに上がり、3曲を演奏した。この模様はTVでも放送された。
 1993年、ブルースのドイツでのライヴにゲイリー・ムーアが参加したことがきっかけとなり、ブルースは請われてムーアのソロ・アルバムに参加することになる。後日、このプロジェクトにジンジャー・ベイカーも加わり、「BBM」(Baker-Bruce-Moore)が結成された。1994年5月に発表されたアルバム『白昼夢』は全英9位のヒットを記録したが、ツアー中にメンバー間の対立が深まり、バンドは消滅する。
 以後ブルースはソロ活動に戻る。


 2003年、肝臓ガンのため緊急移植手術が行われて一命を取り留めたが、このためChar(guitar)、サイモン・カーク(drums)とのトリオで企画されていた日本武道館でのライヴはキャンセルされた。
 2005年5月、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでクリーム再結成コンサートが行われる。このニュースは世界中に流れ、一般紙にも取り上げられた。同年10月にはマディソン・スクエア・ガーデンでもコンサートを行っている。
 2008年12月、ヴァーノン・リード(guitar)、ジョン・メデスキ(organ)、シンディ・ブラックマン(drums)とのカルテットで来日。


 2014年3月、アルバム『シルヴァー・レイルズ』を発表、ドイツのアルバム・チャートで最高97位を記録した。これがブルースの最後のアルバムである。
 同年10月25日、イングランドのサフォーク州にある自宅で、家族に見守られながら息を引き取った。71歳。肝臓を患っていたと伝えられている。





【ソロ・アルバム】
1969年 ソングス・フォー・ア・テイラー/Songs for a Tailor(全米55位、全英6位)
1970年 シングス・ウイ・ライク/Things We Like ※録音1968年
1971年 ハーモニー・ロウ/Harmony Row
1974年 アウト・オブ・ザ・ストーム/Out of the Storm(全米160位)
1977年 ハウズ・トリックス/How's Tricks(全米153位)
1980年 アイヴ・オールウェイズ・ウォンテッド・トゥ・ドゥ・ディス/I've Always Wanted to Do This
1987年 Automatic
1989年 ウィルパワー/Willpower
1989年 クエスチョン・オブ・タイム/Question of Time
1993年 サムシン・エルス/SomethinEls
1994年 シティーズ・オブ・ザ・ハート~ライヴ1993/Cities of the Heart
1995年 モンクジャック/Monkjack
1995年 BBC Live in Concert
1996年 The Jack Bruce Collector's Edition
1998年 Live on the Old Grey Whistle Test
2001年 シャドウズ・イン・ジ・エアー/Shadows in the Air
2003年 モア・ジャック・ザン・ゴッド/More Jack Than God
2003年 ライヴ'75/Live '75 ※録音1975年
2003年 ジェット・セット・ジュエル/Jet Set Jewel ※1978年録音
2007年 HR Big Band Featuring Jack Bruce
2008年 Spirit - Live at the BBC1971-1978
2008年 Can You Follow?
2014年 シルヴァー・レイルズ/Silver Rails(ドイツ97位)


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リック・グレッチ

2022-08-08 20:57:16 | bass

リック・グレッチ Ric Grech


【本名】
  Richard Roman Grechko

【パート】

  ベース、ヴァイオリン、ヴォーカル

【生没年月日】
  1946年11月1日~1990年3月17日(43歳没)

【出生地】
  フランス ボルドー

【経 歴】
  ファリーナス(1965~1967)
  ファミリー(1967~1969.4)
  ブラインド・フェイス(1969)
  ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース(1970.1~1970.5)
  トラフィック(1970.8~1971.12)
  クリケッツ(1973.7~1974.5)
  ジョニー・リヴァース・バンド(1974~1975)
  KGB(1975~1976)
  スクエア・ダンシング・マシーン(1976~1977)
  デニー・レイン・バンド(1983~1984)



 フランスのボルドーで生まれ、少年時代をロンドン北東にあるレスターで過ごした。
 学校のオーケストラではヴァイオリンを担当し、ローカル・バンドでギターやベースを弾くようになる。
 レスターのローカル・バンド「The X-Citers」を経て、1965年にやはりレスターを拠点にした「ファリーナス」にベーシストとして参加。
 ファリーナスは1967年にロンドンへ進出、その際グループ名を「ファミリー」と改めた。
 1968年にはローリング・ストーンズの傑作アルバム『ベガーズ・バンケット』のレコーディングに参加。


 1969年に発表したセカンド・アルバム『エンタテインメント』が好評を得たファミリーはアメリカ・ツアーを行ったが、グレッチはツアー中の4月に、請われてスティーヴ・ウィンウッドやエリック・クラプトンのいた「ブラインド・フェイス」に加入する。スティーヴ・ウィンウッドはファミリーのデビュー・シングルの録音に参加しており、グレッチとウィンウッドは、いわば旧知の間柄だったわけである。
 1969年6月7日、ロンドンのハイド・パークで行われたフリー・コンサートがブラインド・フェイスのデビューである。このときの聴衆は実に10万人とも言われている。
 同年7月にリリースしたファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』は全米・全英ともにチャート1位となり、その後は8月24日のハワイまでアメリカ・ツアーを行った。
 鳴り物入りでデビューし、大きな話題となったブラインド・フェイスであったが、ツアー中に生じたメンバー間の音楽的な価値観の相違は修復しがたく、帰国後間もない10月には解散した。


 解散後はスティーヴ・ウィンウッドとともにジンジャー・ベイカーのバンド「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」の結成に加わる。
 エア・フォース脱退後は、ウィンウッドが1970年3月に再結成した「トラフィック」に加入、『ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ』と『ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン』の2枚のアルバムに参加している。
 しかしグレッチはドラッグの使用という問題を抱えており、このためトラフィックは「グレッチを解雇する以外に選択肢はない」と判断した。



 トラフィックから離れたグレッチはセッション・ミュージシャンとして活動するようになり、この時期にはロッド・スチュワート、ロニー・レーン、マディ・ウォーターズ、ビー・ジーズ、グラム・パーソンズらと仕事をしている。
 1973年1月13日、レインボウ・シアターで行われたエリック・クラプトンの復活コンサートに、ピート・タウンゼント、ロン・ウッド、スティーヴ・ウィンウッド、ジム・キャパルディらとともに出演し、ベーシストとしてクラプトンをサポートした。



 その後は活動拠点をアメリカに移し、クリケッツに加入する。
 1975年にはレイ・ケネディ、バリー・ゴールドバーグ、マイク・ブルームフィールド、カーマイン・アピスとともに「スーパー・グループ」として注目された「KGB」結成に参加したが、1976年に発表したファースト・アルバム『KGB』に参加したのみで脱退している。
 ドラッグやアルコールによる肝臓疾患を抱えていたため、1977年には音楽活動の第一線から身を引く。
 1984年、ジンジャー・ベイカーやダニー・ペイロネル(keyboard 元ヘヴィ・メタル・キッズ、元UFO)らと「BANZAI」を結成。

 
 1990年3月17日、グレッチはアルコール依存症による肝不全のため、少年時代を過ごしたイングランドのレスターで死去。43歳だった。


     


【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)

<ソロ>

 ★1973年 The Last Five Years

<ファミリー>
  1968年 ミュージック・イン・ア・ドールズ・ハウス/Music in a Doll's House(UK35位)
  1969年 エンタテインメント/Family Entertainment(UK6位)
 ★1971年 Old Songs New Songs
 
<ブラインド・フェイス>

  1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith(US1位, UK1位)

<ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース>
 ☆1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force(US33位, UK37位)
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 2/Ginger Baker's Air Force 2

<トラフィック>
  1971年 ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ/The Low Spark of High Heeled Boys(US7位)
 ☆1971年 ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン/Welcome to the Canteen(US26位)

<クリケッツ>
  1973年 Remnants
  1974年 Long Way From Lubbock

<KGB>
  1976年 KGB(US124位)

<参加アルバム>
  1968年 ベガーズ・バンケット/Beggars Banquet(ローリング・ストーンズ:UK3位, US5位)
  1969年 Thinking Back(Gordon Jackson)
  1970年 The Fence(Harold McNair)
  1970年 Hightower(Rosetta Hightower)
  1970年 ホーリー・マジック/Holy Magick(グラハム・ボンド)
  1972年 The London Muddy Waters Sessions(マディ・ウォーターズ)
  1973年 ライフ・イン・ア・ティン・キャン/Life in a Tin Can(ビー・ジーズ:US69位)
  1973年 GP(グラム・パーソンズ)
 ☆1973年 レインボウ・コンサート/Eric Clapton's Rainbow Concert(エリック・クラプトン:UK19位, US18位)
  1973年 E.H. in the U.K.(エディー・ハリス)
  1974年 London Revisited(マディ・ウォーターズ&ハウリン・ウルフ)
  1974年 Men Opening Umbrellas Ahead(Vivian Stanshall)
  1974年 Chapman Whitney Streetwalkers(チャップマン・ホイットニー)
  1974年 Smiler(ロッド・スチュワート:UK1位, US13位)
  1976年 Mahoney's Last Stand(ロン・ウッド&ロニー・レーン)
  1977年 Eleven Sides of Baker(ジンジャー・ベイカー)


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