残照日記

晩節を孤芳に生きる。

防災意識

2011-03-27 18:43:44 | 日記

≪前事を忘れざるは後事の師なり≫
=以前のことを心に留めておくと、後日きっと役に立つ。
(「史記」秦始皇本紀・太史公賛)

∇「早く逃げてください! 高台に避難してください!」──街全体が津波に呑み込まれ、約1万7000人の人口のうち、1万人以上の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町で、津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけていた女性職員がいたそうだ。南三陸町危機管理課職員の遠藤未希さん(25)だ。地震後も役場別館の防災対策庁舎に残り、町民への無線誘導放送を続けたという。TV朝日の取材報道を見て知った。画面では町役場や防災対策庁舎は跡形もなく壊滅していた。難を逃れた某職員によると、助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。「未希さんが流されるのを見た」という話を聞いたそうだ。……

∇又、大地震発生時、岩手県大槌町にある観光ホテル「健康亭」で、老人会のツアー客ら47人は地下一階のホールで観劇中だった。「避難!」。停電で真っ暗になった館内に、従業員の徳田ひろ子さん(60)の声が響いた。約20人いた従業員は、浴衣にはんてん、スリッパのままの宿泊客を、やぶをかきわけて高台へ誘導。足が悪くて歩けない客は、車に乗せて逃げた。振り返ると既に津波はホテルの二階部分まで呑みこんでいた。──47人全員が難を逃れたのは、社長の山崎龍太郎氏が、日頃から従業員に厳しく安全管理を説いていたからだという。残念ながら社長と料理長は流されて不明。宿泊客等はその恩返しにと、避難時と同じはんてん姿で街頭に立ち、義援金集めを続けているという。(3/5朝日新聞)

∇類似の“感涙の佳話”が続々報道される。当該者は皆な無名者ながら、その「尽分立用」振りが際立っている。<百工は、肆(し=仕事場)に居て以て其の事を成す>と「論語」にあるが、百工(職人)は百工なりにその分を尽くせという訓戒である。まさに危機管理課職員の遠藤未希さんや、ホテルの従業員徳田ひろ子さんは、夫々が捨て身で己の任務を忠実に尽くされた。「分を尽くして役用に立つ」、その実践に尊敬おく能わざる気持ちで一杯だ。老生に何ができるか、銀行で僅かばかりの義援金を振り込ませて頂いた後、自分なりの「尽分立用」を考え続けている。そして又、この報道から学ぶべき教えを考えてみた。<高台に避難してください!><宿泊客を、やぶをかきわけて高台へ誘導><社長が日頃から従業員に厳しく安全管理を説いていた>についてである。

∇1854年の安政南海地震も津波被害が甚大だった。その紀州・和歌山県広川町で起こった出来事と、1896年三陸地震津波をヒントに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、献身的な活動で村人を津波から救った感動的な物語「A Living God 」を創作した。それが後に教材化され、「稲むらの火」という題で「国語読本」に採択され、小学校で教えられた。概要はこうだ。──ある村の庄屋が、地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見つけた。津波襲来にまつわる先祖代々の言い伝えを思い出し、「これはきっと津波が来る」と考えた。しかし、村人全てに事情を説明して回るいとまはない。そこで、即座に、村で収穫された稲の束に火をつけ、これに気づいた村人たちを高台に誘導した。この迅速な判断と行動によって、村を襲った津波から、多くの村人を救うことができた。

∇先の「スマトラ沖大地震」でも「稲むらの火」に似た例があった。インドネシアのシムル島では、甚大な津波被害にもかかわらず、7万8千人の住民のうち、死者は7人にとどまった。島は百年前、大きな津波に襲われた。「地震の後、波が大きく引いて、魚がぴちゃぴちゃと打ち上げられた。それを村人が拾っている時、大きな波がやってきて、何千人も死んだ。だから水が引いたら、山に逃げなさい」という「村の教え」があり、海岸沿いの住民がこぞって高台に逃げたからだ、と。──もう一つ以前ネットサーフィンをしていて見つけた蛇足話を付け加えておこう。JR紀勢本線・湯浅駅近くに浄土宗・深専寺というお寺があって、その山門入り口の左側に「大地震津なみ心え之碑」という津波心得があるそうだ。実体験に基いた貴重な「教え」なので以下に記載しておく。(防災研究所HP参照)

∇碑文に曰く<嘉永七年(1854)11月5日当地に強い地震が発生し、「南西の海から海鳴りが三、四度聞こえたかと思うと、見ている間に海面が山のように盛り上がり、「津波」というまもなく、高波が打ち上げ、……家、蔵、船などを粉々に砕いた。其の高波が押し寄せる勢いは「恐ろしい」などという言葉では言い表せないものであった。この地震の際、被害から逃れようとして浜へ逃げ、或いは船に乗り、また北川や南川筋に逃げた人々は危険な目に遭い、溺れ死ぬ人も少なくなかった。又、この地震による津波から百五十年前の宝永四年(1707)の地震の時にも浜辺へ逃げ、津波にのまれて死んだ人が多数にのぼった、と伝え聞くが、そんな話を知る人も少なくなったので、この碑を建て、後世に伝えるものである。…今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること。 恵空一菴書>。 

∇後で考えれば当たり前な事のように思えるが、「津波がきたら高台へ逃げろ」の教訓を、咄嗟の場合判断し行動できるか。日ごろから災害への備えを怠らないことに加え、災害についての知識や教訓を常に頭に入れておくことが大切であろう。津波に限らず天災或は火災等の脅威は日頃深く認識しておく必要がある。しかも条件反射的に機敏に対応できるように。──“明日は我が身”だ。まさに<前事を忘れざるは後事の師なり>をお互いに噛み締めようではないか。喉元を過ぎないうちに、遅ればせながら、寺田寅彦の随筆「天災と国防」「災難雑稿」「津波と人間」「台風雑俎」、そして昭和7年12月に起こった、はじめての高層建築・東京白木屋の火災をもとに、科学的火災訓練の導入を提唱し、そのきっかけ作りとなった「火事教育」などを読み返しているところである。