残照日記

晩節を孤芳に生きる。

情報・知識

2011-03-05 18:21:53 | 日記
≪君はあの寿陵の余子(田舎者の若者)が、趙の国の都・邯鄲まで出かけて、そこの歩き方を学んだ話をご存知かね。結局彼はその都会のスマートな歩き振りをマスターできなかったのみならず、もとの故郷の歩き方まで忘れて、這って帰ってきたという話を。是非の何たるかを知らぬ浅知恵者の陥る危険さ≫。(「荘子」秋水篇)

<「自分の仕事は何か」を問い、「何が自分に適しているか」「何が自分に適していないか」を突き詰めるべきである。どんな職業であれ、有能な人間は自分の得意・不得意を熟知している。──いま何を捨て、何を選択し、自己を高めるために何を学ぶべきか。絶えずこう問い続ける姿勢こそ、個人のイノベーションを促進するものである。>(「ドラッカーの遺書」講談社)

∇京都大学などの入試問題が試験中にネットに投稿された問題で、仙台市の男子予備校生が逮捕された。こういうのを「ネットカンニング」といい、罪状は「偽計業務妨害容疑」というのだそうだ。カンニングの是非云々についてはこゝでは触れない。過敏に反応して連日報道されている「メディア」関係に譲る。問題としたいのは「情報・知識・知恵」について。最近再び脚光をあびている経営学者P・F・ドラッカーは、早くから“情報”と“知識”の重要性を指摘していた。今ではインターネットを駆使すればあらゆる経営情報や時代潮流・マーケティングは勿論のこと、政治機密文書や世界末端の国々に至る国際動向等、高度かつ高質の情報が瞬時に入手できる。ネットに参加する人の間で情報を交換し、知識を共有する営みを「集合知」と呼ぶのだそうだが、「集合知」を援用すれば、個人の頭脳に膨大な知識や情報を溜め込む必要がなく、ネットは社会生活上実に有益なツールとなる。

∇そうした意味で、「集合知」の代表格である「ヤフー知恵袋」や、インターネット百科事典「ウィキペディア」は実に便利で有難い。問題とするところは、<都合よいデータをネットからかき集め、引用元も示さず切り貼り(コピー&ペースト)する。考察部分まで他人のを借用し、悪びれない学生が増えている。> ことであり、<ネットにはどれだけ頼ってよいか。自分で考えること、自力でなすべきことはなにか。あふれる情報から何を疑い、何を取捨選択し、自分の考えにどう生かしてゆくか。そうした「情報リテラシー」は、これからの学校教育の大きな柱になる。>(3/5朝日新聞社説)ということであろう。この「引用元を示す」「考察部分まで他人のを借用」「情報リテラシー」等が一考すべきキーワードである。尚、「情報リテラシー」は<《 information literacy 》情報を十分に使いこなせる能力。大量の情報の中から必要なものを収集し、分析・活用するための知識や技能のこと。>(「大辞泉」)

∇ 「引用元を示す」ことの重要性は、「著作権法」に触れるか否かの問題である。カンニング行為や「盗作」を望まぬ者ならば、当然明記すべきである。尚、第32条には、<公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行なわれるものでなければならない。>とあり、一定の条件内であれば著作権者の承諾なしで使用することが認められている。「考察部分まで他人のを借用」するのは、一概に非難はできない。丸写しして“私見なり”、とするのは「盗作行為」ゆえ許し難いが、優れた他者の見解に“同意”するとして引用するのは、その点を明記すれば問題はない。有史以来人間は“考える葦”だった。過去の人々又は同時代の先人たちが既に考え、かつ述べ伝えられている「考察」は幾らでもある。類似の結論がその範疇を出ないことは無理からぬことである。「他人のを借用」した旨を明記する義務だけを遵守することだ。

∇すると残るは「情報リテラシー」に関する問題である。「情報リテラシー」とは<大量の情報の中から必要なものを収集し、分析・活用するための知識や技能のこと。>だった。先に挙げた二つ、即ち<引用元も示さず…考察部分まで他人のを借用し云々>(朝日社説)は、自分の頭ではなく、他人の頭のそっくり借用ということに他ならない。そこに「自分」は不在だ。人生どう生きるかは人それぞれ勝手だが、老生はセネカの次の言葉を重く受け止めている。<どこにもいる人間は、どこにもいない人間である。>(「道徳書簡集」東海大出版)そのためには「自分らしさ」を不断に追及し続ける努力が欠かせない。情報・知識に関していえば、ドラッカーの言に従う。<いま何を捨て、何を選択し、自己を高めるために何を学ぶべきか。絶えずこう問い続ける姿勢こそ、個人のイノベーションを促進するものである。>。セネカからは読書術を。<多くの著述家の著作を読んだり、色々な種類の書籍を読んだりすることが、我々の頭脳に昏迷をかもし出さないよう、戒心するがよい。疑いもなく価値のある著述家たちの著作によってのみ、自己の頭脳を養うべきである。>

∇さて、「情報リテラシー」を涵養すべきハウ‐ツー(how-to)は何か。その“現代流”の一つに、3月3日の朝日新聞に、「新聞活用実用日本語トレーニング」なる記事があった。提唱者は三色ボールペンを用いた読書・情報活用法で知られる明治大学教授の斎藤孝氏。手っ取り早く記事を引用させて頂くと、<毎朝、ハサミを手に、新聞を開く。気にかかった記事を、どんどん切り抜いて、ノート1ページに一つずつスクラップします。貼り終わったら、文中のキーワードを、3色のボールペンで、ぐるぐる囲んでいきます。数字は、青。伝えなければならない事実は、赤。おもしろいと思った主張は、緑──。そうして浮き上がった部分を手掛かりに、記事の趣旨をまとめ、さらにニュースのコメンテーターになったつもりで意見や疑問などコメントを書いていくのです。…>。このことにより①「記事を選ぶ」ことで主体的な視点が育つ、②社会へのアンテナが広がる、③「実用日本語」を使えるようになる、④記事をプレゼンテーションさせ、相手と議論させることで対話力が身につく、というもの。

∇もう一つが、「週刊ポスト」3月4日号。<灘校を東大合格者数日本一に導いた「銀の匙」教室の授業風景である。教科書は一切使わない国語の授業。文庫本『銀の匙』(中勘助)1冊を横道に逸れながら中学3年間かけて読み込む。前例なき授業を進めたのは橋本武先生、御年98歳。50年間教鞭を執り、…生徒たちに植え付けたものとは? 橋本先生はこう語っていた。<“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。それは“生きる力”と置き換えてもいい><スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります。何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります>。橋本先生に学んだ東大総長・濱田純一氏の言葉で言えば、<大学で原書講読をやる時のやり方>だ。──溢れる情報を自分のモノとして活用する地道な努力が、結局は「身のためになる」ことを、いずれイヤというほど思い知らされる筈である。今日はここゝまで。