残照日記

晩節を孤芳に生きる。

苦中有楽

2011-03-30 19:15:39 | 日記

 ≪六中観≫ (安岡正篤)
死中 活あり 今まさに死地にありて、背水の活計をはかるべし
苦中 楽あり 苦中なればこそ、独自の楽天地を見出せ、創れ
忙中 閑あり 忙しいときほど、雑務に忙殺されぬ閑適の工夫をせよ
壺中 天あり 俗世の煩瑣濁流の中にいて、悠々たる桃源郷を持て 
意中 人あり 心にいつも私淑する人物・伴侶、忘年の友を持て
腹中 書あり 腹中にずしりとした座右の書を、又、己が哲学を蔵せ

∇<震災と暮らし 一冊の本とボールの力を──被災した人に必要なものは。 水。食べもの。安心して眠る場所。暖房。医薬品。ガソリン……。 どれもまだまだ、十分ではない。全力で不足を埋めなければならない。それらを追いかけて、届けたいものがある。心を柔らかくしたり、静めたり、浮き立たせたりするもの。想像の世界へ誘ったり、考えを深めたり、元気がわくのを助けたりするもの――文化とスポーツだ。 被災を伝えるたくさんの写真の中で印象に残った2枚がある。1枚は、避難所のストーブを明かりにして本を読む子の落ち着いた表情。もう1枚には、サッカーをする少年たちの笑顔が並んでいた。一冊の本。一つのボール。それは子供たちが生きるための必須栄養素だ。もちろん、おとなにも。厳しい日々には、なおさら大切だ。(後略)> (3/30 朝日新聞社説)

∇賛成だ。被災者救援の第一は衣食住。そして物質面に先行きの安堵観が出てくると、次には肉体的・精神的渇望への要求が始まる。一冊の本とボールだ。──連日似たような震災関連の報道が続く。テレビにかじりついているだけでは、そろそろ飽きがきてもの足りない。時間と身体を持て余す。必要な情報をキャッチしたら、あとは落ち着いて何かを読むか、鈍った身体を動かしてみたい。被災者の中には、既にそういう心境に至っている方々も多かろう。“差し入れ”に、移動図書館方式による書物の貸与や、サッカーボール、野球道具一式などを考える頃合のようだ。<人はパンのみにて生くる者に非ず>(新約聖書「マタイ伝」)。被災者側に立って自分を置き換えてみたら、ふと上掲「六中観」と江戸時代中期の儒学者であり神道家であった、土佐南学派再興の祖・谷秦山の弟子宛の手紙と学談とを思い出した。

≪(貴君は昔日を思い出して、私の講義を聴かれず侘しいとて、田舎住まいを嘆いているようだが、)貴君の勤務している土佐の中村は確かに田舎ではあるが、高知も又“都”とは言い難い。五十歩百歩の事にて、羨ましく思うことなぞない。只少しでも精力があるうちに書籍を読習せず、道を悟らず、老人になって何の楽しみも無く、いたずらに死んでしまうというのは、所謂俗人の「大患」ともいうべきものである。「独を楽しむ」とか「閑に耐える」といった心得があれば、中村は申すに及ばず、沖島にても都となるであろう。一寸した工夫心さえあれば、一日一日を面白く暮すことがきっとある筈だ。くれぐれも油断有るまじく候。≫

≪西村某と学談している折、秦山曰く、<貴君はよく承知して、「死土産」をこしらえるようにされるが宜しい。貴君はとにかく博学多才だ。神道も天文も詩文・歌学も一様に達している。さて、世間一般をみると、それを以て人に誇り、奢り高ぶるものが多い。しかし、そのようなことではこゝ一番という時、大切な用には立たない。又、死ぬ時にあの世に持ってはいかれない。死ぬ時は皆が後に残り、自分は大いに苦しんで死んでゆく。そこでだ、貧乏で人前に出る事もならず、油もなくて夜分に書物一冊見ることもできない状態にあって、暗がりに黙然としていようが、少しも淋しくもなく、心面白くいられるという楽しみが無いようでは、いかほどの物知りでも大したことは無いのだ>と。≫(秦山語録)

∇孰れも、いかなる時でも「活計」すべし、「面白く過ごす」工夫をなすべし、という訓えである。子供はいざ知らず、我々熟年殊に老人ともなれば、秦山のこの語の如き心得を肝に銘じておくことが大切だと思う。災害に遭遇して支援待ちしている間、復旧途上にある無為の間、一人住まいを余儀なくされた際、長患いを耐えて生きながらえている間等々、已む無く何もできないのだが、その時こそ<一日一日を面白く暮すこと><少しも淋しくもなく、心面白くいられる>「楽しみ」を工夫しなくてはならない。秘訣のヒントは「六中観」の後半、即ち「壺中有天」「意中有人」「腹中有書」であろう。心腹の中に、思い人(愛人に非ず)、愛読書を日頃から蓄えておくことだ。そして「壺中有天」を。

∇「壺中有天」は、中国の正史「後漢書」・方術伝に典故がある。──時は「漢」の時代。江南地方で市場を取り締まる役人に費長房(ひ・ちょうぼう)という男がいた。ある日見張りの高殿から市場を眺めていると、薬売りの老人が、軒先に一つの壺をぶら下げており、市の終わった夕刻の誰も居らなくなった頃合をみて、ひょいと壺の中に跳びこむ姿を目撃した。それが毎日のことなので、不思議に思った。そこで、「この老人は只者にあらず」と睨んで、店に出向いて挨拶し、酒と乾し肉を贈ってそのわけを訊いた。老人「見られたからにはやむを得ない。明日もう一度きなされ」と。翌朝長房が老人を訊ねると、「他言は無用じゃぞ」と言って、長房を連れて壺の中に入った。
 
∇するとどうだ。そこは輝くばかりの荘厳な宮殿で、美酒佳肴に満ち溢れた別世界であった。長房は、日頃の俗世での毀誉褒貶・哀患苦憂を忘れ、清界浄土を心ゆくまで堪能した。── その後費長房は、仙界から来たというその老人に弟子入りし、老人が下界での期を終えて昇天する際、鬼神を支配する霊験あらたかな護符を貰って、たくさんの人々に善行を施したという。(中国の「正史」にこんな面白い話が載っている!) かくして「壺中の天(こちゅうのてん)」、或は「一壺天(いっこてん)」は、一つの小天地。別世界の意。一冊の愛読書、俳句・短歌・川柳・スケッチ、良質の(?)白昼夢etc etc。 いずれにせよ、自分なりの「独を楽しむ」とか「閑に耐える」工夫を、早速今から模索してみようではないか。


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