残照日記

晩節を孤芳に生きる。

二律背反

2011-03-07 12:51:53 | 日記
マンデヴィル曰く、“私人の悪徳は、公共の利徳”だと。
国民が偉大になりたい場合、
ものを食べるには空腹が必要なように
悪徳は国家にとり不可欠のものだ。
美徳だけで国民の生活を壮大にできない。
(「蜂の寓話」泉谷治訳等)
モンテーニュ曰く、“一方の得は他方の損になる”、と。
商人は若者たちが浪費するからこそ商売がうまくいく。
農夫は麦類が高騰するため、建築家は家屋が倒壊するため、
裁判官は訴訟やもめごとがあるため、
聖職者でさえ我々の死と不徳のお陰を蒙っている。
医者は不健康な人を喜び、兵士は平和になると職を失う。
(「エセー」岩波文庫)

≪子曰く、「舜はそれ大知なるか。舜は問うことを好み、好んで邇言(じげん)を察し、悪を隠して善を揚げ、その両端を執りて、その中を民に用う。それこゝを以て舜と為すか、と。≫(「中庸」)──孔子が言うには、「古代聖王であった舜帝はまさに大知者だ。舜は好んで人にものを尋ね、かつ卑近なつまらぬと思える意見をも俎上にあげて吟味し、それらの内で悪いところは抑え、善いところを引き出し、ものごとの両端(あらゆる意見)を捉えて、その「中」(ちゅう)、即ちTPO=時(time)、所(place)、場合(occasion)に最も適った策を人民に施した。まさにこゝが大舜たるところだ」と。

∇前原誠司氏が、京都市内の在日韓国人の女性から政治献金を受け取っていた問題を受け、外相を辞任した。外国人からの献金は、「政治資金規正法」第22条の5で禁じられている。この問題に関し、<参院予算委員会で追及した自民党の西田昌司議員は「辞任は当然。それどころか、規正法違反で罪に問われれば公民権停止もあり得る。外相だけでなく、議員も辞職すべきだ」と厳しく指摘し「首相も前原外相も、もっと重大な問題と受け止めるべきだ」と語気を強めた。><民主党の有田芳生参院議員は…「閣僚を辞めなくてはならないほどか」と疑問点も口にした。問題の献金は日本名で行われ、前原氏の会見での説明によると額は25万円(04年以降の確認分)。有田氏は「今回のことが(閣僚を辞めなくてはいけないほど)悪質ということになれば、今後は献金者に戸籍の提示まで求めなくてはならなくなる」と指摘。「悪意を持って同じようなことをやれば、簡単に政治家をわなにはめられるだろう」と危惧も語った。>(3/6毎日新聞)

∇上掲毎日新聞の記事は、<その両端>の考えを上手く俎上に載せている。孰れも個々には頷ける意見である。我々個人としての選択そして又、集合知(?)としての世論はどう判断するか。──実社会では、このような「二律背反」的選択にしばしば遭遇する。「二律背反」を哲学的に説明すればカントの「純粋理性批判」云々まで論述せなばならないが、こゝでは当を得た「広辞苑」の説明の表面的理解程度で使用することゝする。曰く、<【二律背反】〔哲〕〈Antinomie〈ドイツ〉〉相互に矛盾し対立する二つの命題が、同じ権利をもって主張されること。カントは、理性だけで世界全体の根本的問題を解決しようとすると、二律背反に陥ることを指摘した。アンチノミー>。弁証法でいうところのテーゼとアンチテーゼの対立と捉えてもいいだろう。問題は「二律背反」する事象の選択の是非を、<理性だけで>決められない、というところである。カントの例をあげれば、「徳を磨くべし」対「幸福の追求」は、「二律背反」の関係にある。何故なら徳を磨いたからといって幸福は保証されない。又、幸福の追求はそれ自体徳をもたらさないから。

∇「二律背反」の問題解決を求めるには、他の仮定或は媒体の助けが必要になる。例えば<徳を磨いて幸福を享受するには〈霊魂の不死〉が〈要請〉され、徳と幸福を統合する根拠として〈神の存在〉が〈要請〉される>。(「岩波哲学・思想事典」) 最近大反響を起こしたマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」にしても、正解のない問題を出し、どう考えるかを問いかけるだけで、「二律背反」或は「多律背反」なる問題点の抽出までが主軸に置かれている。教授によれば、議論の意義は、<道徳的な議論が全員の同意できる結論に至ることはないが、議論によりお互いの信念や主張を理解しあうことができる。正義について語り合うことは公共的生活を送る上で重要だ。>という点にある。例えば、<「イチローの年俸は米国の大統領の42倍、日本の教師の平均所得の400倍。これは公正?」と質問する」。 ある女子学生は「イチローの活躍はチームに支えられてのもの。額が多すぎる。野球は娯楽。オバマの仕事の方が重要」。多額収入者への課税の是非に話が及ぶと、男性が「個人が努力で得たお金を国が再分配するのは権利の侵害」と声を上げた。>(新聞各紙)

∇ 又、<殺人犯の弟をかばうのは正しいか。A正しい:家族への信頼なしに社会への信頼もない。notA間違い:殺人は家族のルールを破り信頼を裏切る行為。家族としても罰を与えることを支持するのが妥当。>etc etc。討議はこゝまで。正解がない!! もと/\サンデル教授の「正義」の考え方のベースには、1)最大多数の最大幸福 ─功利主義(ジェレミー・ベンサム)2)人間の尊厳に価値をおくこと(カント)3)美徳と共通善を育むこと(アリストテレス)があり、質問者にはこれ等の思想への誘導が見え見えで、「学生は、サンデル教授の学説を説明するための“ダシ”にされているに過ぎない」という批判も出ている。老生も“ダシ”とまでは言わぬものゝ、教授の描くストーリーへ誘導している事実は否めない、と思った。──要するに、「二律背反」「多律背反」する問題は卑近な事柄として散在している。が、正解は「神」でも決められないだろう。たゞ、少なくとも氾濫する情報をそのまゝそっくり鵜呑みする“鵜呑み国民”からの脱却を目指し、人生は自分の顔が他人と異なる如く“自分らしく”ありたい、と願う限り、少なくとも「対極」或は「多極」にある考えも十分知悉した上で、自己の見解を立てる努力をしなければならない、とは思う。

∇それにつけてもこの問題を考える時いつも、蘇東坡の、「泗洲僧伽塔」という詩を思い出す。曰く、<昔、南へ旅した時に、逆風三日沙吹面(向かい風にあおられて砂が顔に吹き付けた)。舟人が皆すすめるので、泗洲の僧伽塔に祈願をした。すると瞬く間に風向きが変わって、目的の亀山に着いたのはまだ朝食時間前だった。絶対者には私心がないはずだから、どうして誰かには厚く誰かには薄くなどしよう。そうとは知りながら、私は自分が私心を懐いているため、自分にとって都合さえよくさえしてもらえば、やはりうれしく思う。田を耕すときには雨を降らせて欲しい、刈るときには晴れさせて欲しい。しかし船旅に出る者が順風を得るなら、こちらへ来る者にとっては逆風で、さぞ怨むことだろう。もし一人一人が、祈るたびに、何でも叶えてやろうとすれば、造物主は、一日のうちに千変万化なさらねばならなくなるに違いない。>と。(漢詩大系「蘇東坡」参照) この<もし人々をして祈れば、すなわち遂げしめば、造物は、まさに須らく日に千変万化すべきなるべし>という語句に「二律背反」或は「多律背反」への対応の難しさが理解できる。そうではあるが、しかし、大舜の<その両端を執りて、その中を…用う>ことは更に研究されねばならない。今日はここまで。