残照日記

晩節を孤芳に生きる。

桃の節句

2011-03-03 09:25:26 | 日記
○内裏雛 眠る土蔵や 春の雪  楽翁

【うれしいひな祭り】サトウハチロー作詞・河村光陽作曲
♪あかりを つけましょ ぼんぼりに/おはなを あげましょ もものはな/五人ばやしの ふえ たいこ/きょうは たのしい ひなまつり
♪おだいりさまと おひなさま/ふたり ならんで すましがお/およめに いらした ねいさまに/よくにた かんじょの しろいかお……

∇今日3月3日は桃の節句。雛祭り。上掲「内裏雛」は、昨年家内存命中に、九州のバジャイ(ネパール語で“おばあさん”の愛称)が手作りして送って下さったもの。感慨深い。──かつての日本には「五節句」といって、毎年5つの節句があり、人日(七草がゆ)・上巳(桃の節句)・端午(端午の節句)・七夕(七夕祭り)・重陽(菊の節句)と称した。これらの行事は貴族間でそれぞれ季節の節目のけがれを祓う大切な行事だった。旧暦3月3日は、現在の太陽暦でいうと4月初め頃。ちょうど桃の花が咲き出す頃になるため「桃の節句」と呼ばれた。雛まつりの起源は中国にある。古代中国では「上巳(じょうし)」即ち三月の初めの巳(み)の日に、「曲水の宴」と称する水辺で禊ぎを行ったり、酒を飲んで災厄を祓ったりする風習があった。これが平安時代都の朝廷や公家の間で流行し、咲き誇る満開の梅や桃のもとでくり広げられる優雅な催しに発展したといわれる。

∇その後禊ぎの風習は、自分の身体を人形でなでて、水に流して「けがれ」を祓う行事となり、現在でも「流し雛」として面影を残している。室町時代の頃からこれに替わって雛人形を飾り、白酒や菱餅等を供える「雛まつり」に発展した。そしてこの雛まつりは、高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとしての行事から、やがて庶民の間にも広まり、一般女児の健やかな成長を祝う「桃の節句」へと変化してきたのだという。桃原産地の中国では、桃をめぐる故事伝説が数多く残されている。有名なのが三千年に一度花を開き実を結ぶといわれる三千年(みちとせ)の桃を食べると不老長寿になるという話だ。爾後、桃が健康・長寿・厄除けに効能ありとされる所以はそこに起源を発するのだろう。桃の日本への移入は古く、その邪気払拭思想は日本でも受け継がれ、種々の物語が生まれた。

∇その「桃物語」は次回に廻し、今回は俳聖たちの雛の句について雑記しておこう。──芭蕉の「おくのほそ道」の序章にある<草の戸も住替る代ぞひなの家>が人口に膾炙する最たるものであろう。芭蕉が「片雲の風に誘われて漂泊の思いやまず」、松島の月を賞美せんと深川から奥州に向けて発ったのが元禄2年3月27日だった。出発前に深川芭蕉庵をすでに他人に譲って、杉風の別荘に移っていた。この句の前書きに「この人なむ、妻を具し、娘孫などを持てる人なりければ」とある。<草葺のこの家も、世のならいに洩れず人の住みかわる時はくるものだ。こうして旧庵を見ると、子を持つ人であろう。雛が飾られて、自分の住んだ頃とたいそう違った感じがすることよ。>(加藤楸邨訳) 他にないかと「芭蕉俳句集」(岩波文庫)をめくってみたが、芭蕉にはこの句以外雛の句はない。

∇与謝蕪村はどうか。蕪村は晩婚の妻との間にできた娘・くのを溺愛した。だが良き縁談とて娘が嫁いだのも束の間、<先方の爺々、専ら金儲けの事のみにてしおらしき志薄く、愚意に齟齬いたし候事共多く候ゆえ、取返し候>と実家に帰している。<雛祭る都はづれや桃の月><古雛やむかしの人の袖几帳><箱を出るかお忘れめや雛二対>など十数句が残っている。「雛祭る都はづれや」は、京の町外れの某処、桃の花と朧月が雛祭りの宵を艶やかに演出している風情を絵画的に詠っている。「袖几帳」は袖で顔を覆い隠すこと。「雛二対」は、姉妹が二対の雛人形を取り出す。それぞれが好む顔をしたべつべつの人形を。蕪村の“雛祭り”は平安時代そのもの。艶やかで「むかし」を偲ぶ風情としてとらえられている。

∇52歳で結婚した小林一茶は、長男を生存僅か28日で失い、その成長振りを狂喜した長女・さとも1年2ケ月で疱瘡で亡くなった。「おらが春」の慟哭はこのさとに向けられたエレジーである。<雛祭り娘が桐も伸びにけり>。さとが生まれた記念に植えた桐を、嫁入り費用にあてる筈だった。その娘は逝って、桐だけが順調に成長している。<おぼろげや同じ夕をよその雛 > さとではない他人の娘の雛祭り。嗚呼!「おらが春」には孫娘に死に遅れた俳人・猿雖の<宿を出て雛忘(わする)れば桃の花>という断腸の思いの句が、さとの終焉記述直後に引用されている。雛を箱にしまって、漸く忘れようとしているのに外に出たら桃の花が、おゝ。一茶らしい雛祭りになるのは「娘が桐も伸びにけり」から6年後。<御雛(おんびな)を しやぶりたがりて這う子哉 >

∇明治は正岡子規。<雛祭り二日の宵ぞたのもしき><めでたしや娘ばかりの雛の宿>。子規は生涯独身だった。三人の娘を持った漱石は、<雛殿も語らせ給へ宵の雨><むづからせ給はぬ雛の育ち哉><端然と恋をしている雛かな><太刀佩いて恋する雛ぞむつかしき>。雛祭り──皮肉なことに娘を溺愛した蕪村は娘の雛祭りではなく、平安貴族的懐古の情景としての雛祭りを、一茶は愛娘さとを思い出す悲傷の雛祭りとして心象に潜在する情景を悲しく詠った。そして、子の無い芭蕉・子規は娘たちとその家族の団欒の温もりを想像し、書斎に閉じ籠り娘や妻を遠ざけた漱石は、他人事のような「俳諧」を詠んでいる。まさに「雛祭り」ひとつに、人それぞれの人生が投影されている。♪きょうは たのしい ひなまつり~であって欲しいものである。

∇蛇足を一つ。森銑三著「明治東京逸聞史」を拾い読みしていたら、明治39年に次の記事があった。<緑川といふ人が、「雛人形の話」といふを載せてゐる。その一節を掲げる。 市内(東京都のこと)には雛人形を売る店が七八十軒もあるが、名高い店といへば十軒店の永徳斎、玉山、久月、それから浅草茅町の光月、吉徳といったところで、その内の玉山以下の店のは、古今雛と称する金ピカの雛であるが、永徳斎ばかりは、有職雛と称して、衣冠その他すべてを故事に依って製作した雛を商ふ。昔次郎左衛門雛といったのがこれで、大名の奥向きに飾られるのは、この雛に限られてゐた。永徳斎の話に、「自分の手で拵へる人形でも、悉く同じやうにはまゐりません。出来のよいものになりますと、売り物にしたくない気も起こります。反対に、自分の気に入らぬ品になると、五十円のところを、三十円か三十五円で売ってしまふ。さふしたこともございます」とのことだった。>──久月、光月、吉徳などはこの当時からの老舗。又、「値段の風俗史」(朝日新聞社)によれば、当時の公務員の初任給が五十円。有職雛一体がそんな値段だった!