○あさみどり澄み渡りたる大空の
広きを己が心ともがな 明治天皇御歌
∇NHKのドラマ「坂の上の雲」第二部が12月5日から始まる。第二部は全部で4回、「日英同盟」「子規、逝く」「日露開戦」「広瀬、死す」で構成され、来年に第三部を放映して完結する。「坂の上の雲」はご存知司馬遼太郎の名著。前半の主人公は近代短歌・俳句の確立者正岡子規、そして同郷の幼馴染で後の陸軍大将・秋山好古及び日露戦争の作戦参謀・秋山真之の兄弟。乃木希典の旅順陥落物語りは後半の圧巻である。老生は一足早く「日英同盟」を衛星ハイビジョンで見た。対露政策としての「日英同盟」調印を推し進めようとする、時の内閣総理大臣・桂太郎と外務大臣・小村寿太郎、飽くまでも戦争を回避しようとする元老・伊藤博文。……
∇明治33年の北清事変で列強と席を並べた日本は、朝鮮支配の決意を固めた。満州を占領したロシアは撤兵せず、朝鮮半島の脅威となっていた。日露協商を計る一方で日本は日英同盟を進め、35年1月31日同盟は成立した。36年4月、ロシアが鴨緑江に進出。英国をバックに開戦覚悟の対露交渉は進展せず、ついに37年(1904)2月10日の宣戦となった。1年7ヶ月におよぶ戦争は38年9月、表面上は戦勝で終結。講和条約で朝鮮支配・満州進出への拠点を得たが、これが太平洋戦争への基点でもあった。…日本軍の総動員数は100万人、死者8万4400人、負傷者14万3000人、戦費19億8400万円に達したとされる。(「一億人の昭和史」明治篇・毎日新聞社刊)
∇「日露戦争」には「肯定論」と「疑義論」がある。「肯定論」の筆頭格が司馬遼太郎で、日露戦争はロシアの東アジア支配の動きに対する自衛戦争であり、日本の指導者が冷静な判断を失って続けたその後の戦争とはまったく異なるとし、その勝利は欧米列強の従属下にあったアジアや中東、アフリカの人々を勇気づけ、民族自立運動の活性化をもたらしたと評価する史観(「司馬史観」)である。一方、日露戦争が朝鮮や満州の支配をめぐる帝国主義戦争の性格を持つことは事実で、戦争で朝鮮の支配権を得た日本は、併合による植民地化へと進み、中国侵略へと行き着いた。後に日本軍部が鉄道の爆破事件を仕組んで満州事変を起こすなどの「独走」で日本を破滅に追いやったが、その萌芽は日露戦争にあったという「疑義論」もある。以下は余談。
∇宣戦布告の詔勅に明治天皇は「露国ニ対シテ戦ヲス…豈朕ガ志ナラムヤ…」(官報)と陳述したが、「国論は開戦に傾いていた。18歳の石川啄木は岩手日報にこう書く。「今や挙国翕然(きふぜん)として、民(たみ)百万、北天を指さして等しく戦呼を上げて居る。戦の為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふのである」。朝日新聞も対露強硬論を主張した」(04/2/8天声人語)。 その通りで、「『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』『東京朝日新聞』『二六新報』『万朝報』など毎日の発行部数10万部前後を誇る有力紙の多くは、対露強硬論の論陣を張った」(笠原一男他「資料日本史」)。読売新聞も日露戦争を「祖国防衛戦」と書いた。が、強烈な反戦論者もいた。
∇与謝野晶子「ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ…親は刃をにぎらせて 人を殺せと をしへ(教え)しや… すめらみこと(皇尊)は、戦ひに おほみづからは出でまさね…」。幸徳秋水「吾人は飽くまで戦争を非認す、之を道徳に見て恐る可きの罪悪也、之を政治に見て恐る可きの害毒也、之を経済に見て恐る可きの損失也、社会の正義は之が為めに破壊され、万民の利福は之が為めに蹂躙せらる、吾人は飽くまで戦争を非認し、之が防止を絶叫せざる可からず」(平民新聞第十号)。 トルストイ「戦争は又もや始まれり、何人も要求せず何人も求めざる困厄此に再びし、詐欺此に再びし、広く人類の愚化獣化又此に再びせんとす…」(杉村楚人訳「日露戦争論」)。転向論者や深層に心の疵を抱えた者、その後の戦争を糾弾した者もいた。
∇内村鑑三「世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時はかかる愚を唱えた者である。しかしながら今に至ってその愚の極なりしを表白する。戦争の利益はその害毒を贖うに足りない。戦争の利益は強盗の利益である」。明治天皇の大葬当日乃木希典元軍司令官殉死。「自殺せる室には先帝の御写真並びに日露役に戦死せし両息の写真を懸け其下に於いて大将は短刀を逆手に持ち右より左に掛け咽喉を切り夫人は左の乳下を心臓に達するまで突き刺したり」(当時の朝日新聞)。司馬遼太郎は太平洋戦争に関してはこう言っている。「政治も言論も、つねに正気であらねばならないという平凡なことを、──国民を酔わせると大崩壊まで醒めないということを──日本も世界も、高い授業料を払って知ったのである」(「風塵抄」)と。──今日は天気晴朗にして温和な日和である。そういえば、「天気晴朗なれども波高し」は真之の語である。