バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

2016.2.14★北さん講演会@瀬戸

2016-01-01 00:00:00 | おやこ劇場/芝居

2012.7月の講演内容はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/banbiblog/e/b67ca435c26f66da73d66c7ca2e5e716


日付を変えてこっそりアップします♪
あそび、劇、表現活動センター「アフタフバーバン」創立し代表、北さん講演会レポートです。

「アフタフバーバン」を始めて22年目。
「乳幼児の子育て支援」が圧倒的な仕事。

 「子どもが大きくなっちゃったから話を聴いても遅い?」と質問を受けるが、
いえ、「何歳になっても生き直すことができます!」

 

(北さんと参加者の両手じゃんけんで「これでもいいですか?」 とどんどん遊びが変わっていく)
講師が提案した遊びから、参加者の遊びに作り替えられて行く(「自らやる」という遊びに変換される)のが大切。
そうしたいという「心の動き」。

「養育・遊育・教育」

一人一人の遊び心が多いに発揮される場所があること、
子どもの遊びの理解が深い大人たちが子どもの周りにいること
「響関者」の仲間の輪が必要。

これは、「家庭、地域、学校」の3つの間で育っていく。

60年代、おやこ劇場が「子どもの遊びが危機的状況」と言い出したあたりから
「学校・地域・家庭」のことをきちんとやりましょう、となった。

豊かな遊育環境を目指して全ての人に関わってもらいたい。
これを、有形無形に働きかけて行く。

野球でガラスを割ったとき、じいちゃんが出てきて並ばされた。
「殴られる!」と思ったら「引っ張るんじゃなくて、長せ」と。
(ピッチングの仕方をレクチャーしてくれた) 
このおじいちゃんこそが遊育者。
「子どもは遊ぶものだ」と思っているからこういう対応になる。

北さんは、おばあちゃんに「宿題なんてするな」と言われて育った。

今は何が変わったのか?
60年代から地域がズタズタになり、その頃から子どもは遊ばなくなった。
ゲーム、ネット、ディズニーランドといった「商業文化」に子どもが呑み込まれて行った。 

どっか偏ってない?
バランスが悪くない?
子どもが忙しすぎない?

 

「人と人の間で生きていく力」

教育施設の最先端と言われる場所「児童館」の職員をしていたとき、
「遊んでお金もらう?」と言われた。
子どもにも「遊んでていくら給料もらってんの?」と聞かれた。

とても「遊育」が弱くなっている。

じゃんけん遊びでふざけていたら、子どもに「ちゃんとやって!」と言われる。
この段階でこの子たちは遊んでいない。 


「1品持ち寄りご飯でサークル会しよう!」ってことになったとき、
「1品って量はどのくらい?」と質問が出る。
「何でもいいよ」と言われても「何でもいいが分かんない」と若いお母さん。
「教は持ってこれなかったんだ」
「時間なかったから買ってきちゃった」
と言えない。
おやこ劇場内ですらそう。
「何でもいいって言ったじゃん!」 
ということを見せていかなければいけない時代。
それが「おやこ劇場」の役割かもしれない。 

「ちゃんとやって!」って小さい頃から言われて育ってきたから、ちゃんとやらないといけない。
「今度がんばればいいから!」も同じこと。

じゃんけんの「グー」を「ゼロにしてもいい?」と言えるのが遊び。
「私たちのグループ、グーをゼロにすることにした!」って言い出す子がいると、この遊びは豊かになる。
遊びのルールを勝手に変えちゃうことが大事。 
子ども時代から「グーをゼロにしようよ」「オッケー」で育ったのかどうかはその後の人生に大きく影響する。
これを「毎日繰り返して」やっと20歳になる頃に「生きていくチカラ」になる。
「時々」じゃなくて「毎日」が大切。

今は「遊び心」が発揮される時間が少ない。
たとえば、鬼ごっこをしていて、その場でできごとが起きて「だったらこうしようよ」「そうしよう」と、遊び心をみんなのものにする、合意形成する。
それこそが「遊び」であり、人と人との間で生きていくトレーニングそのもの。
このトレーニングができていないと、大人になっても人と人との間で生きていくことができない。

 大人は「遊びをやらせたがる」。
子どもは「遊びをひたすらやらされている」。

「遊び」からは予想外が起きてその場で「どうしよう?」と思うチカラができる。

「野球やろうぜ!」ってことになって、野球を知らない女の子を誘ったら
「3塁に走りたい」と言い出した。
「いや、ルールと違うから!」と言うと
「どうしても3塁がいい」と言う。
「じゃ、逆野球しようぜ」ということになった。
ルールは作り替えられる!
昨今は「守れ守れ」しかない。

学校の廊下は走ってはいけない、というルールがある。
「先生、廊下走った子がいるよ」と子どもは告げ口。
「先生が言ったこと守りなさい!」と子どもは怒られる。
けど、先生も急いでいて廊下を走ることがある。
子どもが「先生、ダメなんだよ」と言うと
「事情があったから走ったんだよ」と。
子どもは「なにそれ?」となる。

北さんの児童館にもルールはあったが「ルールは状況によって作り替えられる」と書いてあった。
答えはひとつじゃない。

だるま落としを「焼き鳥ごっこ」にして遊んでいた子に、主任が「だるま落としはそんな遊び方じゃない!!」と。どうしちゃったの?大人たち。
「ダルマ落としで焼き鳥屋さんごっこにするんだね〜♪」となんで言えないの?


遊び場のルールで 
「一日折り紙は3枚までね」
「積み木は4つしか積んじゃだめ」
というのがある。 

児童館で勤めていたとき「折り紙3枚まで」ってルールがあって、それを子どもに伝えなくちゃいけなかった。
ある女の子が、そのルールを知って 
「ねぇ、今日、みんな折り紙使ってた?使ってないよね。だったら、わたしもっと使っていいんじゃない?」
と。 
館長に相談すると「子どもはどんどんいっちゃうから特例を認めてはいけない」。
(北さんは)正しさの前にひれ伏して、ダメだよと告げる。
それでも、子どもは「ねぇナイショにしておくから」と言ってくる(笑)

子どもの現場にいる大人は正しさと面白さの狭間で悩んでいる。
大人や職員は「ただしさ」と「おもしろさ」の狭間で悩もう!

誰でも使える折り紙にしたら?
広告紙をもらって折り紙の大きさに切って、どれだけでも使えるようにした。
この子は人と人との間で生きていく力(工夫する力)を身につけた。 

「ブランコ禁止」にするところがある。
「このブランコを腹這いで乗っては行けない」
「立って乗ってはいけない」
「ぐるぐる回ってはいけない」

それ先回りし過ぎでしょ?
先手を打って閉ざしてしまっている。
この大人は「安全・安心・楽しさ」の狭間で悩んだ人ではない。
「十分気をつけて乗ろうね」と言えば良かった。

野球とドッジボールをやりたいという子がでてきてケンカが始まった。
そしたら、児童館の館長が出てきて仕切った。
「時間の配分」ができた。
禁止事項ができて、張り紙が貼られた。
なぜ?めんどくさいから!

こどもたちの遊ぶ世界は全く「遊育環境」になっていない。
ケンカくらい毎日ある。 
子どもの現場の職員は大変なんだ。
大変だったから給料がもらえた。

子どもたちに
「遊べる公園を見つけようよ」
「体育館を借りてこよう」
「じゃ、みんなでできる智恵を出してくれ」
「バット使わないで手打ちするのはどう?」
そうやって「安全・安心」を担保しながらどうやったら楽しくなるかを考える。
これが、
考えるチカラ、工夫するチカラ。
状況に応じて作り替えられると言うルールがあるから一緒に考えられる。

(北さんは)母子家庭でおばあちゃんに育てられた。
夕方は、鍋の蓋やおたまを使ってコタツに入って遊んでいた。
「台所用品で遊ぶな」と言われたことはないけど、「口に入るものだからきちんと洗え」と言われた。
禁止されなかった。

保育園で外に散歩に行くのは怖い。
車が怖いから、細心の注意を払ってお散歩に連れて行く。
先生が「左よ」「右よ」「前の子の背中を持って!」と指示を出す。
本来は行く道中こそ面白いはずなのに、寂しいと思っている。
その先生は「迷っちゃった!行けなくなっちゃった」と言ったら子どもたちは一生懸命考えて「人に聴こう」と提案してきた。 

子どもに教わることはたくさんある。

「恐竜の化石がありました」と子どもが言った。
「他にもあるかもしれない!」と他の子どもが言った。
先生も「みんなで探しに行こう!」と。
次の日、子どもは「もういい!いかない」と言った。
なんで?と聞くと
おじいちゃんに「これはただの石だ」と言われてがっかりした。
おじいちゃんのことが大好きだから「これはただの石だったんだ」と諦めた。
保育士はおじいちゃんを否定するわけにもいかない。
保育士は「正しさと子どもの面白さ」に悩む。
「おじいちゃんの言ってることは正しいと思うけど、もしかしたら恐竜の化石かもしれないからみんなにきいてみようよ」と、園長のところに聞きに行った。
園長は「おじいちゃんは正しいけど、もしかして新種の恐竜かもよ!」
そこで、新種の化石を見つけに行った。

遊び心は世界を変える。
4~10歳…この時間こそ「子どもの時間」と呼びたい。
幼稚園(保育園)〜小学校学童保育に行く頃まで。
5~6年になるとはずかしさが出てきてしまう。
そう思うと、たった7年。

もっともこの「遊ぶ」ということをストレートに体現できる大事な大事な時間が「子どもの時間」。
この時間をどうしても奪わないで欲しい。
こんなことをなぜ敢えて言わないといけないの?
それは「子どもの時間が奪われているから」

ポップコーンを和室にばらまいた子がいた。
和室は塩と油で汚れている。
女の子3人が、ポップコーンを鳩になって全部食べていた。
「鳩になりたい」と思っていた子たちは、たまたま和室にポップコーンが置いてあり、たまたま誰もいなかった。
「チャンスは今しかない!」と
3人で鳩に。
学童保育の先生は「この汚れた和室をきれいにしなさい、謝ろうね」と叱った。
でも、ひとつ良かったのは「二度と鳩になるな」と言わなかったこと。
それは言ってはいけない。
大人は子どもに「おまえは犬じゃないんだから四つん這いになって歩くな」と言ってはいけない。
それは、「子どもの時間を分かっているか」「分かっていないか」の分岐点。
子どもが鳩になっていたら、「鳩になるな」と怒るんじゃなくて「この塩どうすんの!」と怒ればいい。
「ここでやるな」って怒ってもいいけど「鳩になるな」じゃない。

何かになりたくて仕方ない子どもたち。
「鳩になりたい」
「犬になりたい」


宝探しの遊びをしていた時、どうしても宝の場所が分からなかった。
そしたら、6歳の子が「猫に聴こう」と言い出した。
「おいおいまじかよ!めんどくさい」と思ったら響関者が現れた。
「とりあえず地図だけ猫に見せれば?」と。
「ありがとう。地図を見せたらこいつも納得するだろう」と北さんは思って猫に見せたら、猫は地図を読んで、どこかへ行った。
なんとそこに宝があった。
そこから北さんチームは、まず猫を探すことにした。
その子がお父さんになった時、小さかったころのこの話を子どもにするだろう。
すべて未来に繋がっているのだ。

(北さんは)60歳のばあちゃんに守ってもらった子どもの時間があった。
無駄で意味のない「子どもの時間」こそ、未来を支える時間になる。

でも公共のルールに従わないといけない。
子どもが家で鳩になってたら「一緒にやろう」って言わなくてもいい(笑)

「見つかっても見つからなくても」「分かっても分からなくても」楽しい!というもう一つのコミュニケーションにつながる。

遊びを競争したがる子がいる。
1位を競いたいわけじゃないのに。
ガムテープで宝探しをしたことがある。
1位から100位まで書いてある。
「最後まで見つけなくちゃ俺イヤなんだよ」と4~10歳の子が言って来たら、「ないものをどうするか?」とみんなで考える。
探し切りたいというのはもっと上の子で、
「4になろう」とかわけ分かんないことを言う子もいる(意味分かんないこれが世界を変える)

「全部探し切る」というのは達成感があり盛り上がってるように思えるけど、それは人を責めてしまう。
(北さんは)そんなことを10歳までの子に体験させたいんじゃない。

だから、お父さんお母さんに言う。

「キレイな花を見つける」ということをしているとき、「さぁ、赤色は何本あるかな?」と大人は言う。
そして「さ、次行くよ」と。
「匂いをかいで、自分の好きな匂いを見つけよう」とすればいいのに「一番大きいのはどれだ?」とかいくらでも遊びはある。

読み聞かせで「さて、動物は何匹でてきたかな?」と最後に質問したりする。
なんで?

「1~3歳の子は物語が分からないのでやめましょう」という人がいる。
は?

感じる力は小さい子でもあるのに、目に見えるものばかりになっていることへの危機感を感じる。

文字が読める小さい子が「俺読めるんだぜ」と得意げに言う。
周りの大人は「すごいねー」!と言うが、
北さんは「すごいね」と言わない。
なんでもかんでも、早くできることを褒める大人ばかりじゃないんだぜ!と。
字は誰かに思いを伝えたくて生まれたもの。
字を書くのは「ゴール」ではなく「スタート」。
それを大人が意識するべき。
「この文字でおばあちゃんに何かを伝えよう!」になる。
答えは一つじゃない。

「忍者修行」で…
チャンバラ合戦…大人vs子ども。
「答えはひとつじゃないと言いたいんであって、勝ち負けが全て悪いわけじゃない」
プロセスが大事。
子どもが自分でいろいろ考えているのを見ている親は、子どもが愛おしくて仕方ない。

 (子どもの遊びを大切にすることで)「自己肯定感」という「自尊感情」が育まれている。
日本の思春期の子の自己肯定感は「先進国最下位」。

「やらされた時間」ではなく「やった時間」
自分でやってみたいと思う。
「みんな違ってみんないい」なんて言葉を何百回言われても「僕は僕であっていい」とは思えない。
響関者の存在があってはじめてそう思える。
「仲間」がいて、「他のお母さん」がいなければ、このことを乗り越えることができない。

「心の体力」が大事。
「答えがでなくても考え続けられること」
「めんどくさくてもやれること」
遊びの中で自分で考え自分で交渉する経験をした子と「◯◯やーめた!」とやめてしまった子では、この先の人生で困ったことにぶつかったとき「俺やーめた」となる。
4〜10歳はめんどくさいことをちゃんとやれる時期。
「子どもが考えること」を奪ってはいけない。

いろんな考え方の人がいるから難しいが、それでも考え続けていく。
そばにいる私たち自身も心の体力をつけないと!

従姉妹の面倒をいつもみていた。
おじちゃんおばちゃんが赤ちゃんにおっぱいあげるのを見ていた。
つまり手本が必要。
今のお父さんお母さんたちに「心の体力」をつけるには、お手本になる先輩お母さんたちが必要。
サービスに慣れてる大人にとって、「おやこ劇場」はめんどくさいもの。

あるお母さんが、子どもに「3人で遊んじゃいけない」指令していた。
2人で遊ぼうとしてたのに、ピンポーンとなって3人になってしまった。
「3人になるなら私は帰る」と一人の子が言ったら、おやこ劇場のお母さんが「いいじゃないの、帰らなくても」と。
「私は3人で遊んじゃいけないって言われてるの」とその子が言ったら「じゃ、私が入るから4人で遊ぼう」と。
こういうことが大事。
めんどくさいことをやると何かが変わる。

「子どもの時間」の中で最も育つのは想像力。
相手に思いを馳せる想像力

 

 


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