減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

エコ経済システムについての批評に回答

2007-12-14 06:09:24 | Weblog
エコ経済システムについて、下記のブログでご紹介いただいていたのを発見!
記事内容にご批判をいただいておりますが、とても重要なところだとおもいますので、ご返答させていただきたいと思います。

闘魂 サバイバル生活者のブログ:エコと地域通貨
http://plaza.rakuten.co.jp/genzou1986/diary/200711250000/

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減価する通貨が導く近代超克への道からコピペ。農家、漁師、商店や中小企業がエコというキーワードで再生する見取り図だ。

生産者中心の視点で貫かれていて、消費者の視点がまったく顧慮されていないので、淋しい気がする。

ハイパーインフレーションや大恐慌を想定しているような感じでもあり、面白いとは思うがこのグランドデザインには都市労働者の居場所がない。

まるで終末論のような感じで、昔、労働党の連中が憑かれたような目つきで日本に革命が起こるとオルグしていたのに通底するものを感じもした。

減価する通貨が導く近代超克への道には賛成だが、自分たち都市労働者が排除されているのはいただけないような気がする。

私たちには労働力しかなく、土地も生産手段もない。独立自営の生産者に転向した上で生きていくには年をとりすぎている。

労働力人口が7千万人、そのうち3分の2がサラリーパーソンだ。さらに65歳以上人口が2500万人。ちなみに青少年が2000万人。彼らは生産者ではなく、消費者である。

これらの人間を排除する訳にはいかない気がする。

まあ、エコと地域通貨には関心があるので、繰り返し読んで、理解したい見取り図ではあるので、コピペした次第。
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都市労働者についてのご指摘ですが、図の中にあるエコ生産者協会に加盟する企業(例えば燃料電池生産企業やバイオ燃料生産企業、エコ商品流通のための流通業者・小売業など)や農林水産業の生産基盤を持っていても生産・管理のための人的労力が不足しているオーナーなどが雇用します。地域で食糧生産やエネルギーを自給するため、これらは既存の自営業者だけでなく、新たに幅広い労働者を吸収しないとなりたちません。また、エコバンクの運営を支えるIT技術やエコマーケット調査およびEマネーによる投資関連事業の企画・マネージメントを請け負う自治体・企業等にも雇用が発生します。重要なことはEマネーは雇用者側にとっても「減価する通貨」ですから、人の労働力という「良質な低エントロピー資源=商品」は、エコマーケットの規模が大きくなればなるほど生産性を挙げたいオーナーにとって間違いなく「買い」になるということです。お金よりも、商品や労働力のほうが「強くなる」これがマイナス利子に支えられたエコ経済システムのポイントとなります。

また、図中で消費者が明示されていないように見えるのは、全ての人々が生産者であると同時に消費者であるということ、それから都市機能というものが、里の農業・工業・商業に融合されて(落とし込まれて)いるとイメージしているからです。完全なる消費者となるのは、介護が必要な老人・病人・障害者で生活保護を受ける人ですが、少しでも働ける人というのは、かならず「減価する通貨」の効果で、何らかの生産活動(簡単なサービスの提供などを含む)ができるようになる(お願いされる)と想定しています(もちろん自分の稼ぎだけで完全に生活が成り立たない場合は、地域における生活保護や雇用保険が利用できるようにします)。つまり老人や青少年など、資本主義経済下では単なるお荷物的消費者とみなしている人々も、エコ経済システムでは、できる範囲でのこつこつとした小さな労働や年少の面倒を見る、誰かの話相手をするなどの活動により、Eマネーを稼ぎ出すエコ生産者となります。すなわち労働者・消費者の排除ではなく、むしろその逆の現象が起こってくるところにEマネーによる経済のメリットがあると考えています。

また、Eマネーは日本円等の「国際通貨」に対する「補完通貨・平行通貨」としての導入を想定していますので、Eマネーを使う地域が外部に対して閉じているわけではありません。つまりこれまでの資本主義経済下にある企業で働きたい人(働ける人)はそのままその企業から日本円で給料をもらうことができます。地域内のエコマーケットで何か商品を買いたいときには、エコバンクで必要な日本円を供託金として預け、同額のEマネーを受け取ればよいだけです(地域エコ自治協会は個人会員に対して常にオープンです)。エコバンクに供託金を預け、Eマネーに兌換する個人は、自動的に地域内のエコ商品や循環型社会の生産基盤構築に寄与する「投資者」になります。何かこの地域内にいるからといって、無理にエコ生産者になったり、理解を示したりしなくて良いわけです。つまり表面上はEマネーに換金するだけで、これまでの消費者らしい消費生活を続けることができます。

>まるで終末論のような感じで、昔、労働党の連中が憑かれたような目つきで日本に革命が起こるとオルグしていたのに通底するものを感じもした。

私自身は労働党って何?と言うぐらいのノンポリ30代の男ですが、そういう感じに聞こえたとしたらひとえに私の表現が悪いのだと思います。
ただ、上記のような経済システムに移るには、おそらくそれなりに現行の資本主義経済(とくに金融資本主義)に限界を感じないと誰もまともに相手にしないだろうなと感じています。オーストリアやドイツなどで地域通貨が成功した例には、すべてそのような背景がありました。革命をオルグしているのではなく、今後そのような状況に自ずとなるときの心構えを述べているつもりなのですが、色々言いたいことを盛り込みすぎたために、背景部分の説明が短絡的・扇情的になってしまったようにも思います。これは反省点ですね。資本主義・社会主義を含む「近代経済システム」におのずと限界が訪れることは、前の記事のイントロ部分のリンク先等を見ていただければご理解いただけると思います。

こういった指摘はホントためになります。感謝です。

「お金」を人と自然に優しいものに変える方法:減価通貨による地域エコ経済システム運営

2007-11-15 14:18:40 | Weblog
やっと地産地消を促し、人と自然に優しい循環型社会を作るための構想がまとまりつつあります。
まず減価する地域通貨(Eマネー)がどのように地域の経済システムに導入されるのか、日本円との関係がどうなるのかまとめた図をアップしますのでご覧下さい。(エントリータイトルをクリックして開くと図は大きくなります)

まずはじっくりと眺めながら、考えてみてください。(といいながら、はじめにアップしてから図に結構間違いを見つけてしまって、初期バージョンから訂正が進んでいます。すみません・・・汗)

詳細は追って説明します。

具体的なイメージが湧かない方は、このブログのブックマークにある平和党の自然主義経済や晴耕雨読の「開かれた地域共同体についての粗雑なイメージ」その関連記事、および「日々是勉強」の経済とグローバリズムに関する記事などをあわせてごらんになってください。
また、減価通貨や地域通貨の重要性は専修大学の泉留維先生の論文Pukiwikiで紹介されている「金利システムの問題」連山の橘みゆきさんの記事をみると参考になると思います。

図で示した地域循環を基礎としたエコ経済システムのポイントは、経済サイクル(商取引)が進めば進むほどどんどん人と環境に優しい「Eマネー」(減価通貨)が循環するようになって、地域市場(エコマーケット)が発達し、生産基盤もしっかりとしたものになっていくことです。

導入初期の段階では、はじめから図に書いてある全部のエコ商品がそろわなくてもOKです。すぐにそろうエコ商品としては、あまった農産物や中古・市場在庫などがあるでしょう。また、地域に働けるのに働けない人々がいれば、エコ商品を作るための生産契約をすればOKです。「エコバンク」はエコ商品が地域の福祉や生産基盤の発展、環境保全等に寄与するか、生産契約の内容は達成可能かどうかを判断し、それらを担保にEマネーか日本円を融資(貸付)します。Eマネーには利子が付かず、日本円には利子がつきます。ここが通常の銀行による融資とは大きな違いです。資産がほとんどない生産者も、当面Eマネーの融資を受けつつ、エコ商品を契約どおりに生産・販売すれば、増える借金に苦しむことなく生活できるようになります。

図では便宜上、地域のエコ自治協会と生産者協会は分けてありますが、多くの地域組織・企業体・住民個人は自治協会員(消費者・購買層)であると同時に、生産者でもあります。地域住民個人もエコマーケットから何かを購入するときは自治協会のメンバーであり、エコ商品を売ったりするときは生産者の一員とみなせます。

また、自治協会員は日本円を地域発展のための供託金として預け、同額のEマネーを受け取ることができます。また、Eマネーは減価通貨ですから、取っておくと目減りしますので、エコバンクが推奨する事業(保険やその他サービス事業も含む)に投資をすることができます。投資者は該当事業で出来たエコ商品を将来その投資額に見合った分だけ現物支給してもらえることになります。エコバンクはこれら投資事業の推進にあたって、生産者と生産契約を交わして融資します。つまり、エコバンクが投資者の債権と生産者の債務を仲介・保証し、エコ商品を作る事業を推進します。

また、所定の手数料(5~10%)をエコバンクに支払えばEマネーを日本円に換金できます。但し、自治協会に加盟して所定期間を過ぎないうちは供託金以上のEマネーは兌換できないこととします(この所定期間はEマネーの減価率にリンクさせます)。また、エコバンクに登録される地域金融機関は、自治体の長を補佐する組織であり、自治協会から認可および業務委託を受けた民主的組織とします。

また、エコバンクは、エコマーケットが潤滑かつ適正に発展するように市場の調査も行います。とくに出回っている商品が本当に地域の福祉や環境保全につながるようなものかどうか、今後何が一番ニーズが大きい推奨事業になりそうか、生産者と消費者を市場で上手くつないで、これらを見極めるようにします。

こうしたシステムは極論すれば地域住民10人などの少人数でも(原理的には)成り立ちます。要はこのプランに沿って任意の地域共同体内にエコ自治協会とエコバンク、エコ生産者を作って、それらをきちんとリンクさせた「関係性」を作れば良いのです。『Eマネー』はこの3者の関係性を潤滑にするための、血液のようなものです。

日本円はしばしばどこかに溜め込まれるため、不景気になると市場に出てこなくなります。また、日本円の市場は外から大資本が大量に仕入れた安いモノを流したりして、地場モノが売れなくなったりするので、地域経済を破壊するリスクがあります(実際に近年そうしたことがよく起こっていますよね)。Eマネーが流れる地域エコ市場(エコマーケット)は、そういう日本円によるリスクから離れた市場なのです。

また、Eマネーは減価通貨なので強力な循環力があります。循環力があれば、どんなに少ないエコ商品でも、しっかりと利用されるようになります(もちろん商品がありふれていたり、質が低ければ市場原理で安くなりますが)。それが外部市場の不景気をものともしないEマネーの強さになります。減価するほうが強い。なんか不思議ですが、きっと使ってみるとそれを実感するようになるのではないでしょうか。

また、図からも判るように日本円の使用や「外部市場」すなわち資本主義の経済システムを規制することは全くありません。地域内のエコ経済システムと外部の資本主義経済システムはそのまま並立します。住民はどちらの市場も選ぶことができます。このようにEマネーによる地域エコ経済は何のイデオロギーも必要ありません。まあ、あるとすれば、もったいないイデオロギーとか、自然をもっと活用しようイデオロギー、地域の皆さんともっと繋がろう・助け合おうイデオロギーがあると市場に活気がでてくると思います(笑)。最近私達が忘れかけていた「和の心」を少し思い出すだけです。もちろん、この思い出しも(当然ですが)強制ではなく一般住民は思想的・倫理的に何も無理する必要がないのもこのシステムの特徴です(ただ、自然と意識の変革はおきるでしょう)。

また地域で作られたエコ商品は、地域外でも価値があれば、資本主義経済で取引されます。今後も安全な食料の確保や燃料費の値上がり問題は続くでしょうから、あまった食料や燃料は今後日本円の市場でも結構価値がでるかもしれません。燃料電池の性能が上がれば、売電も可能でしょう。早めにエコ経済システムに移れた地域はもしかすると日本円的にも今後儲かるのではないか、などという想像もあります(ま、これは想像だけですが)。

ただし、燃料電池のようなものは、はじめはなかなか地域内で自給は難しいでしょうからこの部分は外部からの資材購入のために、やはり日本円の収入がいります。将来的には、下記に述べる、海水からの鉱物資源の抽出が軌道にのれば、半自給ぐらいまではできるかもしれませんが。

さて、ここまでで気が付かれた方もいると思いますが、このシステムは①資本主義経済で余ってしまう(不当に価値が低くなる)ようなモノがない、②Eマネーを受け取って働きたい(エコ商品をつくりたい)という生産者がいない、③Eマネーを使いたい自治協会員がいない、場合は成り立ちません。つまり、現在の資本主義経済でうまく行っているような地域は①~③の理由でエコ経済システムを受け入れないでしょう。

しかし、これまでにも述べたように基本的に資本主義経済(やその修正型の社会主義・共産主義社会)はいずれ行き詰まります。少なくとも大きな市場の崩壊を経験するでしょう。そしてそれは地方からはっきりと問題になってくるはずです(夕張の例のように)。そのような状況において、自分達の生活が、地域が崩壊してしまう!と自覚した人が、エコ自治協会や生産者協会のメンバーとなるのです。つまり今後訪れる世界規模のデフレ不景気で、農産物やその他生活必需品、労働力、農地、山林、など等が地元にあまっているのになんでこう貧しくなるのか、おかしいじゃないか、ということに多くの人が気付いたとき、じゃあエコ経済システムにしよう、ということになります。

具体的にはデフレであまったモノ、労働力(生産契約書)を担保にして、雇用の創出と市場に減価通貨Eマネーを流すわけです。そしてまず、生活の基盤になる農産物とバイオ燃料を作る生産者に融資し、雇用者の給料の一部~大半をEマネーで賄うことになるでしょう。また自治体職員にもEマネーで給料の一部~大半を支払えば、地域市場が活発化するでしょうし、日本円での借金を減らしつつ、生産基盤を拡充すこともできます。

そしてエコ商品が出回って、Eマネーで購入する人々や企業が増えれば、経済サイクルが回るに従って、地域内における日本円の重要性は徐々に薄れていき、Eマネーでほとんどの地域経済が動くようになるはずです。あたかもどろどろの悪い血(日本円)がさらさらの血(Eマネー)に置き変わっていくように。

重要なポイントは、Eマネーは減価通貨ですから、たくさんもっていてもモノがなければ、そのうち消えてしまうことです。ですから「ちょっとしたもの」でもエコマーケットでは結構売れるようになります。つまり、給料をEマネーで渡された消費者はエコ商品にとても「飢えて」いますから、エコ商品は作ると感謝されますし、それほど大したクオリティーでなくても満足してもらえます(但し、健康や環境に悪いものはエコバンクが担保として認めず、またそうでなくとも当然売れなくなります)。だから、これまでニートで技術がないからとか全然気にしなくて良い訳です。エコ生産者とかいうと何かご大層に聞こえますが、実際にはまあ多少なりとも価値があれば売れるはずだから下手くそでもいいから、とにかく作って(やって)みなさいな、という感じで『生産』が始まると思います(生産者協会というのはそういうことを促す互助システムでもあります)。実際、かつて減価する地域通貨を使ったオーストリアのヴェルグルでも、おばあさんがお手製のクッキーとかをマーケットで売ってみたら、結構売れて、生活ができるようになったという話があったと思います。

つまりEマネー(減価する通貨)を使った地域経済は人を選ばない優しさがあるのです。

また、自分が欲しいエコ商品が充分マーケットに出ていないときは、先にエコ生産者にEマネーを払いたい人も出てくるでしょう。Eマネーは箪笥や財布に取っておくとなくなってしまいますから、それなら、まあ良いエコ商品(サービス)を作る生産者に先渡し(投資)しておこうということになります。そこでエコバンクがこの投資に基づいて生産者と生産契約を取り交わします(つまり、投資者と生産者の債権と債務を仲介する)。もっとも簡単な投資は、農産物や比較的誰にでもできるサービスを担保にして、自分が食うために働けなくなった時のための「保険業務」に投資することでしょう。つまり年金や介護保険の代わりです。地域内に医者がいれば、医療保険も可能です。とくに日本円の保険が弱い、予防医学などもこの投資に最適な分野かと思います。

これにより、少なくとも資本主義経済の欠点を補完することができます。

ちなみに上記の生産契約がどうしても履行できなかった場合は、他に生産者が作ることのできる商品生産やサービスで代替してもらいます。これはきちんと自治体の長と生産者協会が本人が債務を履行できるよう熱心に指導します(それでもどうしても駄目な場合は、生産者協会全体で補填しますが、心情的な貸し借りが生じるでしょうね)。

あと残された問題は、農産物を作る土地と住むところをどうするかと言うことです。

それについては平和党の掲げる政策の「食源地貸出事業」「都市農業推進の都市計画、農業税制の優遇」「住タダ政策」を実施することで解決することができると考えています。とくに住タダ政策により不動産会社や土地所有者にどっと現金収入が生じますから、彼らが日本円を使ったり、エコバンクに供託・投資をすることで、生産者にもかなりの日本円やEマネーが供給されます。その結果農地や山林の開拓・改良・整備、燃料電池付きのエコ住宅建設などが進み、これらに携わる業界全体が好景気になると予測されます。

以上、今回はエコ経済の基盤作りに絞った図と記事なのですが、もう少し生産基盤や環境側のイメージが湧かないとやはり信用できない人もいるかもしれません。これはいつになるかはわかりませんが、後日また図を作成してみる予定です。

今はとりあえず、参考となる情報を羅列して紹介いたします。

ポイントは上の図の生産者脇に括弧付で示してある「海・山・里」の幸を生かしたエコ商品の生産です。海の幸・山の幸・里の幸、どれも丁寧に上手に活用して、人々が助け合って生きれば、石油がほんの少しでも生活できるでしょう。日本円がなくても、まあ、死ぬことはなくなります。(地震・台風のような自然災害、戦争に巻き込まれるなどがもっと大きなリスクになります。これについてはいずれ別の機会に)

まず「山の幸」は基本的には「木材」とくに「竹」です。今、山は荒れ放題ですから、人の手が入った方が良いのです。

・平和党ブログ:山の疑問とサンダルの喪失
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/26358827.html

もう建築廃木材やその他セルロースからのバイオエタノールを作る技術はすでに実用化されています。

・環境省報道発表資料:建築廃木材を原料とする燃料用エタノール製造施設の竣工について
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=7859

・ホンダ:RITEとHonda、セルロース系バイオマスからのエタノール製造新技術を共同開発
http://www.honda.co.jp/news/2006/c060914.html

これを山林整備ででる間伐や下草刈り、増えすぎた竹林伐採で出る大量の「セルロース」で賄えば良いのです。
もちろん「里」からでる稲わら、廃材・紙ごみ等も原料に使えます。

また、バイオ燃料としてエタノールだけでなく、メタンを作るのも有効です。
メタンは下水汚泥、畜産系し尿、生ゴミなどを嫌気性細菌の力を借りて作れば、比較的簡単に作れます。

また、竹を使った建材開発も重要です。

「海の幸の大きさ」について知りたい方は以下の記事を見てください。

・四国産業技術研究会:養殖藻類からバイオエタノールを生産するプランの紹介文
http://unit.aist.go.jp/shikoku/kaiyou/kaiyou-kaiin167.html

・日本藻類学会:海藻肥料
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsp/pdf-files/40Fertilizer.pdf

・地質調査総合センター:鉱物資源としての海水
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1975/11/75_11_07.pdf

・Wired Vision:海藻からバイオ燃料を作る研究
http://wiredvision.jp/blog/autopia/200708/20070831125214.html

日本は国土が狭いので、海をどう活用するかで循環型社会ができるかどうか決まるといっても過言ではないでしょう。農業の持続可能性からいっても、どうしても海に流れ出てしまうミネラル分を肥料として陸上に戻してやる必要があります。

環境保全は、自然を陳列ケースに入れて眺めることではありません。
人と自然が仲良くなることです。
誰でも仲の良い友達なら、力になってやりたい、という気持ちがあるように、本当は地球もきっと人間のためになりたいと思っているでしょう。
近頃は、私たちがそっぽを向いたり、自然を友達ではなくて奴隷のように使っていたのが間違いだったのです。
仲直りするなら、早い方が良いです。

それから、自分に出来ることはやはり自分でやるほうが良いので、図の一番したには自家農園と自家発電があります(その他にサービス業を立ち上げてもOKです)。理想は地域住民の一人一人がエコ生産者になることです。そうすれば究極の分散型社会で、支配-非支配(雇用-非雇用)の構造が解消し、人々の関係はそのほとんどが「互恵的」なものとなります。

実はほとんど元手がなくても、種と土地、最小限の肥料さえあればエコ生産農家や個人の「自家農園」で、無農薬・化学肥料無用の不耕起栽培で、農産物を作ることはできるそうです。

・Arkテクノリサーチ:不耕起農法による農業革命で農薬・化学肥料をゼロに!
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/ark/NOHGYO.HTM


エネルギー(発電・熱需要)についても、各家庭に燃料電池が入れば、バイオエタノールやメタンから水素を取り出して使うようになります。近年、ボトルネックだったエタノールから水素を取り出す方法も実用化一歩手前まできています。

・Wired Vision:小型で低コスト、エタノールを使った新たな水素生成装置
http://wiredvision.jp/archives/200402/2004021905.html

・東芝:非平衡改質によるエタノールからの水素製造技術
http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2007/04/62_04pdf/rd01.pdf

どうでしょう。このような技術と上に示した地域のエコ経済システムの仕組みさえ整えれば、(初期導入時の多少の不便・努力を乗り越えれば)実はもう何にも縛られずのんびりと暮らせる循環型社会はすぐそこにあるともいえます。

ただし、技術だけでは、全ては解決できません。むしろどんな技術も、地域のエコ経済システムがあってはじめて循環型社会の構築に役立つといえるでしょう。上で述べたように地域のエコマーケットに大資本は入ってきませんから、まずはコスト面や商品の見栄えなどに拘らず「地域に必要なもの」を優先して作ればよいのです。目標と人材・労力を集中すれば、ある程度安定したエコ経済システムを完成させることは不可能ではないでしょう(また、こちらの「非電化工房」の方が言うとおり、今と同じぐらい電気が使えなくても、ほどほどに楽しい暮らしは知恵とセンスがあれば十分できると思います)。とにかく大切なことは、地域に持続可能な経済システムを作り、大資本等による刹那主義的なもうけ活動に市場独占されない環境を作ることなのです。大量生産・大量消費・大量廃棄で傷ついた地球環境もその結果として回復してくるはずです。

全ては【地産地消型経済】を地域民自身の手で作る意志を持つ、そこがスタートポイントです。また、大資本としてもこういう地域の経済システムが普及してこそ、燃料電池や太陽電池、マイクロ水力発電機、エタノール・水素化触媒、有用微生物開発・改良、バイオ燃料・水素・燃料電池で走る車、その他循環型社会の構築に必要な物資・製品を大手を振って作って儲けることができるようになるのです。

そして、最後に、以上のシステムを永続させるためには、政府に地域通貨の使用を認めさせ、日本円(だけ)による納税システムを変更してもらうようにする必要があります。そうでないと地域通貨を違法にしたり、人頭税や土地資産税として日本円支払の義務をかけるとか、そういうことをやる危険性があるからです(正確にはグローバル資本がそのようにするよう政府に対し圧力をかけてくる可能性がある)。

ここではどうしてもそうしたことに抵抗する政治力・政治グループが必要です。その実現を真面目に考えているのは(残念ながら?)いまのところ平和党だけです。

しかし、もっと多くの方々、政党にも、この事実に気が付いて、将来の政策を考えて欲しいと思います。

成功すれば、かなりゆったりと遊んで暮らせる生活がそのうち「誰にでも」やってくるわけですから。その中には権力者も商売人もグローバル資本を動かす「彼ら」も入ります。

地方という「周辺」からの革命。誰の首も切らない革命。エコ経済を採用した自治体に大勢のリーダーが生まれ、地域内の弱者が救われる革命。それが今世紀に起こすべき、そしてきっといつかどこかで起こるべくして起こるであろう革命だと思います。

問題はそれが大きな崩壊の前に達成できるか、どうか、それだけだと思います。

「思い出すこと」による革命

2007-11-05 22:29:29 | Weblog
長い時間をかけ、日本という「風土」に帰化し、土着豪族のサルタヒコと自らの祖をともに伊勢におまつりし、北方のニギハヤヒ系とも同じ天孫(騎馬民族)の血筋として手を携えて日本を治めていた天皇家(大和朝廷)が、飛鳥以降の「近年」になって半島や大陸からの遺臣・棄民を受け入れて(乗っ取られて)、その性格を変えていった。このプロセスというのは、日本が循環型分散社会から略奪型中央集権社会へと変わっていた転換期に位置づけられると思います(遅れた狩猟採取中心の社会が渡来人の文化によって近代化されたという解釈は恣意的なプロパガンダでしょう)。その過程で、「ヲシテ」のような数千年の歴史に支えられた当時の先進的持続型文化・哲学が失われていったようです。
http://julian.way-nifty.com/woshite/2006/04/post_9a50.html

さらにそれを徹底的に踏み潰したのが、奈良時代以降本格化した漢民族の傭兵を使った地方豪族・住民の虐殺・奴隷化・囲い込みです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4

これ以降、公家や天皇家が「ケガレ」と「祟り」を異常に恐れるようになるのは、内部の派閥闘争の激化に加え、地方民の虐殺に係った罪の意識があったからではないでしょうか。しかし当時、外来の律令的思考に染まった人々には、支配権闘争で滅ぼした地方の犠牲者を神として「祈り奉る」思想はすでになく、蝦夷地に対してはこれまた渡来の「呪術」によって、亡骸の埋めた地面を踏み固め、祟りを押さえようとしたようです。

その名残は、岩手県奥州市の「江刺」(=夷刺・夷裂)という地名と当地に残された祭り「鬼剣舞」の形態に見ることができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%89%A3%E8%88%9E
>>>この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ「反閇(へんばい)」がある。陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、「大地を踏み悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」・・・<<<

「鬼剣舞」は、被征服者である子孫が征服者の格好(鬼仏)に扮して、殺された先祖に対して「鎮魂の呪術」を行うという複雑な側面を持っています。
しかしながら、この「鎮魂の呪術」は時が経つにつれて自ずと「復活の祈り」に変貌していると見ることもできます。それは例えば、以下のような宮沢賢治の詩から読み取れます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E4%BD%93%E5%89%A3%E8%88%9E%E9%80%A3
>>>・・・菩提樹皮と縄とをまとふ 気圏の戦士わが朋たちよ 青らみわたるこう気をふかみ 楢と椈とのうれひをあつめ 蛇紋山地に篝をかかげ ひのきの髪をうちゆすり まるめろの匂のそらに あたらしい星雲を燃せ・・・<<<

東北の祭りや文学・芸術に、単なる華やかさや優しさだけでなく、地の底から湧き上がるような地霊の唸りがあり、また輝くような清浄さとともに深い「死の影」があるのは、上記のような背景と無縁ではないでしょう。なぜ、「ねぶた」で侵略者である坂上田村麻呂の山車を押して地を踏み跳ねるのか、宮城や岩手には、なぜ坂上氏が創建した「寺社」が多いのか。これを「謎」と呼ぶには、あまりに「あからさま」ではないでしょうか。

日本に失われたヲシテの心を復活させ、循環型の分散社会を実現することが、東北の地に眠る魂を真に開放することと思います。また、そのことが皇室を否定せずに、「本来の姿」に戻っていただくための環境作りになるのではないでしょうか。

そもそも(ヲシテ文献の通りならば)ヒタカミ(東北)のタカミムスビ家は、ヲシテが守られていた頃の皇室の成り立ちに深いゆかりのある血筋です。ならば、子が親を「思い出す」ように「そこ」に戻ることはできるはずです。


全ては「思い出す」こと。そこから革命が始まるでしょう。


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ちなみに、私の祖父の出身地は、栗駒山の宮城県側の麓です(アテルイが坂上田村麻呂と戦った土地にもかなり近い)。
亡き父の遺灰の一部は、栗駒山のとある祠の近くに撒きました。

上記のようなことに気が付くのも単なる偶然や郷土への思い入れ以上のものがありそうな気がしてしまいます。

映画「千と千尋の神隠し」で自分が何者かを忘れた「優しくて、愚かな」龍のハクが本当の名前を思い出したように、これからも気が付く人がどんどん増えれば良いなと思います。

ちなみに、ハクの本名は「ニギハヤミ コハクヌシ」だそうです(あえてニギハヤヒにはしていないところは宮崎駿のウィットでしょう)。

奈良盆地周辺の古墳から出土する琥珀の多くが、岩手県の久慈地方から運ばれたものであることが、最近の化学分析で判ってきたようですね。
http://www.kuji.co.jp/amber/rekisi.html

コハクの道(川)を幸せの道(川)に戻すために、脱律令制の自然主義経済を東北の地で!

人を救う経済が自然を救う

2007-10-28 21:34:37 | Weblog
色々誤解されている方もいるかもしれませんが、私は単なる環境系の研究者です。

これまで、自然のために良かれ、人のために良かれと思ってやっても、なかなか現実を変えることはできませんでした。とりあえず、出来ることといえば、現状がこれ以上悪くならないように、こんなに悪いことが起こっていますよ、などと情報を伝えることぐらいです。

これは私の仕事とは直接関係はありませんが、例えばこんな例です。
http://www.crra.com/ewaste/ttrash2/ttrash2/

私は地方在住ですが、たまに外国に行くのは、グローバリズムの負の面を調べ、世界の「地方」で起こっている環境破壊の様子を調査するためです。それらを通して感じたことは、伝統的な人間の生活が破壊されるから、環境破壊が起るということでした。これはまたバブルの時期から格段におかしくなってきた日本の地方を知る私の経験と照らし合わせてもある意味当然のように思えました。

しかし、悪いことを批判するだけでは、なかなか世の中はかわりません。加えて、批判することというのは、要らぬ敵を作ったり、逆に敵に良いように自分の主張が利用されるということでもあります(上記で紹介した記事にもGreenpeaceが係っています。ですから、私も全面的にこういう活動を支持するわけではありません。ただ、グローバリズムの進展を少しでも止めるのに利用する価値があるとは思っています)。

私の知り合いにも自然保護活動をしている人はいますが、しばしばそういう活動は良心的なものとしてリベラル方面の方々にもてはやされます。ですが、ひねくれものの私はどうしてもその「嘘くささ」に閉口するたちです。ゴアの「不都合な真実」も、原子力産業や世界を食料危機に陥れるバイオ燃料(食料)業界にバックアップされた体の良いセールス番組だと思っております。

とにかく何か問題がずれている、場合によって自然保護を訴えることは、体制批判の罠や伝統的生活をさらに破壊する方向にすら向いていると思うことがありました。このブログは、そのような悩みから始まって、環境問題の本質は、全て「現行の経済システムが人間のためになっていない」からだと気が付いたところに基礎があります。

「現行の経済システムが人間のためになっていない?むしろ人間の欲望が顕在化した経済だから、環境破壊が起きんじゃないの?」

そう思う方は、自分の心の中に「破滅願望」や「自己否定」が潜んでいないか気をつけてください。また、そういう思考パターンが、実は現行の経済システムを肯定する方と全く同じような「人間・自然観」であることに気が付いてください。

私はこう思っています。本来、人間のために役に立つ経済というのは、自然のためにも役に立つはず、と。そして、この二つを相反するように思い込まされているとしたら、それこそが問題の本質ではないかと。

そして、そのことを認識して、経済政策につなげているのは、やはり平和党しかないのが日本の現状であると思います。平和党が国政ですぐに活躍できなくとも、このような政策は、日本そして世界の「地方」から徐々に進める意義があると思っています。

平和党公式ブログからの引用です。

・自然えるねぎー促進の方法は経済システムにある
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/24932750.html
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なぜ自然エネルギーが活用されないのかといえば、一言で言って、資本主義だからです。

では政府型資本主義であるマルクス主義・社会民主主義などで可能かというとこれもノーです。

北欧は社民で今のところうまくいっていますが、これは資本の力を利用しているので必ず限界がきます。市場に委ねているのではなくて政権に委ねているからです。ということはやがて右派政党によって政権交代がなされれば崩れる可能性もあります。今のところその前兆は北欧には見られませんが、自由市場が選択したものではないから不安定だということです。

これらの経済システムは、どこかに富を蓄積させます。そうなると原子力や火力発電こそがもっとも効率のよい方法となります。だから、今までそうしてきたのです。

太陽光エネルギーの普及状況をみると、わずか1%にも満たない程度です。これでいったい、将来に持続可能な経済社会などできるものでしょうか。

これら自然エネルギーで日本国内のエネルギーを自給することができないことはよく言われています。だから原子力が重要なんだと言っています。原子力が「絶対安心」と偽らなければならない理由はここにあるのです。

それで、これら原発に反対する人々の意見を聞いてみると、「自然エネルギーにすればよい」と皆が言います。それも無責任に、何の根拠もなく言います。なぜ無責任になるかというと、自然エネルギーで自給できるだけの論拠を持たずにただ願望だけを述べているからです。そして、彼らは資本主義を肯定しています。主に政府主導の資本主義経済で環境問題を解決するとのことのようです。あるいは社会主義でも言いが、これも資本主義経済と同じです。

すなわち、政府が介入・調整する社会主義経済のようなことも含めて、とにかく、現行のお金の制度を肯定した上で、政策を立てようとしているから無理が起きます。

「持続可能な社会はできるんだ」・・・と、言うのは勝手ですが、その内容は、国民に無理に押し付けたりするものが多く、とても国民の同意を得られるようなものではありません。

平和党の提唱する自然主義経済では、政府の規制によることなく、市場が自動的に自然エネルギーを好むように設定されています。つまり、現行の自由競争主義、あるいは政府介入経済では、資本の強さを認めた上で行おうとしているためにおのずと限界がくるということです。

自然主義経済では、通貨が時間とともに減価するために、貯蓄滞留が起きません。現在の経済制度は、短期的な見返りをみなが期待します。しかし、自然主義経済であると長期的な見返りが、短期的な見返りにつながるのです。

お金で持っているよりも、モノで持っているほうが価値があるわけです。すなわち電力料金支払いのための現金よりも、ソーラーシステムそのもののほうが得をします。自宅に小型原発を買ってきてとりつけても効率はいいのですが、そんなことは誰もしないでしょう。というよりもそういうものは売ってませんね。

太陽光発電・風力発電・地熱による冷暖房装置というのは、半永久的に(現在のソーラーシステムの耐用年数は約30年)家計が助かることはわかっています。二酸化炭素の排出もない。だけれども、高いから買いませんね。ローンで払っても利子がつきます。貯金がある人でも、このような自然エネルギーのものは買いにくいでしょう。買う人がいるとするならば、お金よりも環境問題が大事なんだという意識が強い人だけです。

だから、こういうことを広げるためには、政府が強制的に国民に買わせる以外に方法はないことになりますが、プラス利子のまま、このようなことを強引にするととんでもないことがおきます。

どの環境派の人々も、資本主義、すなわちプラス利子を肯定したまま、こうしたことを推進しているので矛盾するということです。ただ矛盾するだけならば、知識のお遊びだからいいけれども、こういうことを実際にやってしまうと、多くの失業問題が発生し、経済はめちゃくちゃになります。自然だけが生きて人間は死滅することを意味しているのです。これはエコ・ファシズムにつながります。

これを私は、誰に主に言いたいかというと、今回の参議院選挙で全国比例区に立候補予定の「9条ネット」(新社会党及びみどりのテーブルで構成)なる左派集団に対しての警告です。そして、自民党・民主党・公明党・共産党・国民新党・社民党など、資本を肯定して政策を作る全ての政党に対してです。

ここに二つのものがあったとします。
Aは、高くてもいったん買えば、そのあとにかかる費用が少ない若しくは全くないもの。
Bは、安いものであるが、毎月支払っていき、ほぼ永久的に支払うもの。

自然主義経済はすばやく支出したがるのでAを好み、資本主義経済は金融市場を回ってプラス利子の増殖をしたいのでBを好みます。

平和党の提唱している住宅無償供給の政策で、「必ずしも家を国民全員に買わせる必要はなく、家賃を支払う人もいていいのではないか」との意見がありました。もちろん、それもありです。建物の賃貸借を禁止する必要もありませんが、賢明な人は借家を選ばないでしょう。なぜなら毎月に支払う家賃というものは、自然主義経済であると損をするからです。家賃は金融市場に入り込み、利回りが多いものを有利にさせます。貸主はローンにプラス利子をつけて返済しなければなりません。借主の家賃にはプラス利子が含まれています。

Bを資本主義が好むのは、そのあとに流れ出た資金をまたさらにプラス利子をつけて回していくから、得をすると考えているからです。しかし、それが架空の富である事がどんどんわかってくるようになると、この仕組みは自転車操業ですから破滅します。

資本主義であると、Aに相当する自然エネルギー設備は購入されません。Bで毎月電力料金を支払っていき、電力会社にお金が入り、二酸化炭素や廃熱、放射能汚染を垂れ流します。その代わりに、プラス利子ですから、ある程度のところまで経済波及効果はあり、発電所の地元は経済的に潤います。でも、自然界とのバランスを崩すために、別のところで大きな被害をもたらします。

青森県六ヶ所村の問題で今後、放射能による被害は、太平洋側は東海地方にまで影響が及ぶでしょう。ここ二十年のうちに、日本の近海ではもはや水産物はとれなくなるかもしれません。ここまで計算に入れず、目先の利益だけを考えてしまうのが、資本主義経済の特徴です。自分さえよければ、目先さえよければ、競争に自分がうちかってこそ、経済は成長発展するとの考えが、今「正義」とされていますから、当然このような結果を招きます。

では、「これを政府で調整すべきか」と、多くの人々は既存の政治学・経済学の尺度でしか考えられないためにこのような方法を言うでしょう。これも資本の力によってできています。

貨幣にマイナス金利を加える事によって、多くの問題が解決されます。当然、エネルギー問題も経済コストの壁をぶちやぶることができるでしょう。
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今世の中の改革に必要なのは、旧来の価値観や既得権で動きの取れない中央官僚や政治家・学者ではなくて、自分の住む地域の社会と自然を愛するリーダーとその意志を実現するための「道具」が扱える実行部隊ではないでしょうか。「減価する通貨」を運用するためのIT技術、そして通貨発行の担保となる食料・エネルギー生産の目処さえ立てば、あとは地方行政や経済を担う方々のやる気次第ではじめることが可能だと思います。


しばらく、仕事で忙しくなるので、ブログ更新から離れます。
(コメント・メールには、できるだけ返信したいと思います)

資本主義経済の末期と悪徳商法(の傾向・対策)

2007-10-28 18:46:56 | Weblog
私もしばしばお邪魔する「復活!三輪のレッドアラート!」で、悪徳商法に関するエントリーがありましたので、ご紹介したいと思います。資本主義経済の末期を強く実感させる話だと思います。

復活!三輪のレッドアラート!:胸締め付けられる記事
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-435.html
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この記事を読んだ時、私は思わず落涙してしまった。
なんと哀しい記事なのだろう。

<クレジット>年収200万なのに契約1385万…女性自殺
10月26日3時6分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071026-00000016-mai-soci
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 東北地方の小さな町で昨夏、50代の女性が海に身を投げた。
 死後、自宅から総額約1385万円のクレジット契約書と封も切られていない大量の呉服が見つかった。
 契約は支払い能力をはるかに超え、返済に窮した女性はうつ病を発症していた。「質素な母がなぜこんな買い物をしなければならなかったのか。(支払い能力の)審査がずさんでなければ、母は死なずに済んだはず」。大手クレジット会社の過剰与信に追い込まれた果ての死を、息子らは悔やむ。

 「これ以上めいわくかけたくないです。そう式もかんたんに」「今度生まれてくる(長男の)赤ちゃん顔見たいです」

 台所のテーブルに置かれた孫の漢字学習帳。9ページにわたり書かれた遺書の字はひどく乱れ、「世界一バカ バカ」と何度もつづられていた。

 昨年6月の早朝。女性は家族の就寝中に家を出て、近くの海岸で変わり果てた姿で発見された。
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これが今の日本の姿です。
需要を無理やり作り出している、哀しい姿がここにあります。
亡くなられたご婦人の冥福を祈ります。
ご家族の傷心がいつか癒される日が来ます様に・・・。
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私から付け加えることは何もありません。本当に胸が締め付けられる話です。お亡くなりになられたご婦人には心よりご冥福をお祈り申し上げます。

恥を忍んで書きますが、私も賃貸マンション購入の悪徳商法の営業マンに騙されて契約ハンコを押させられる寸前までいったことがあります。まさに悪徳不動産会社が個人の人脈を調べあげ、ターゲットを絞り、クレジット会社とタッグで攻めて高額ローンを組ませるというパターンでした。彼らの「騙し・脅し・懐柔」のテクニック(心理的戦略)は相当なものがあります。私がアホだった部分も思い返せば確かにあるのですが、冷静に考えても、攻める側はこれまでに様々な修羅場を経験してきた百戦錬磨のプロの詐欺師であり、少々の知識や意志を持ったとろで、一度ターゲットに絞りこまれた素人は、抵抗するのは極めて困難です。騙される側の自己責任だなどと思う人がいたら、絶対今のうちに考えを改めるべきです。そうしないといつの間にか現実にご自分やご家族、ご友人が犠牲になる可能性があります(悪徳業者の傾向と対策はこのエントリーの末尾に書いておきます)。


そして、この様な事件がなぜ起こるのかについても三輪さんが述べられている通りと思います。

復活!三輪のレッドアラート!:何故悪徳商法が蔓延るのか?
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-436.html
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前のエントリーでは、悪徳商法の被害者の女性の事を紹介致しました。
では何故これほどに悪徳商法が蔓延るのか?

それは社会に需要がなくなって来ているからです。
具体的に言えば、こんな負の連鎖です。

不況の中で緊縮財政を行う⇒社会に金が回らなくなる⇒
しかし企業は業績をあげないといけない⇒しかし、金は日本国民に行き渡っていない⇒
対象にできる売り先がない⇒各企業の営業が弱者を騙し始める⇒
金融会社も業績が欲しい⇒金融会社が信用枠を誤魔化す⇒
各企業の営業は金融会社の後ろ盾を得て「騙す努力」に励む⇒
悪質な詐欺行為が人々に周知され始める⇒営業がやりにくくなる⇒
気の弱い人、老齢で思考力が衰えた人達を繰り返し騙す⇒
気の弱い人、老齢で思考力が衰えた人達が全てを奪われる⇒
最悪の場合自殺⇒企業の活動が更にやり難くなる


こんな事に何故なったのか?それは政府と財界が国民を騙した結果です。

経済コラムマガジン 況下の物価上昇
http://www.adpweb.com/eco/eco499.html
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日本では賃金が全く上がらないのに、物価だけが上昇する世の中が来ようとしている。これは明らかに経済政策の重大ミスである。さらに政府は、景気が良くなったと判断し、定率減税の廃止などの増税を行っているのである。
しかし家計の可処分所得は2000年度の298兆円から2005年度の283兆円へ15兆円も減っている。
この状況で消費者物価が上昇しようとしているのである。これからは実質成長率の方も低下するのだ。
筆者はこれを「日本型スタグフレーション」と呼ぼうと思う。これに対して日本国民がどのような反応を示すか興味がある。
自民党の政治家は、官僚から実質経済成長率の数字を使って「日本経済は戦後最長の景気拡大を続けている」と吹込まれている。
何と自民党は、この官僚達の言葉に乗って「経済成長を実感に」というキャッチコピーを参議院選で使っていた。景気が悪く感じるのも「気のせいだ」という言うのである。
筆者は「ばかじゃなかろうか」と思っていた。
国民の実感の方が正しいのである。自民党も方向転換に向かおうとしているが、党内の人材も枯渇しており既に手遅れである。
今後、自民党は混乱した政策を次々と打出してくると思われる。
しかし「2011年のプライマリーバランスの回復」という世紀の大悪方針を完全放棄しない限り、まともな経済政策は行えない
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経済コラムマガジン プライマリーバランスの話
http://www.adpweb.com/eco/eco500.html
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先週号で「家計の可処分所得は2000年度の298兆円から2005年度の283兆円へ15兆円も減っている」ことを指摘した。本来、経済が成長して、逆に家計の可処分所得が増えていなければならないのに、逆に減っているのである。その差額が大企業の収益になっていたり、プライマリーバランスの回復に使われていると考えれば良い。
長期金利がわずか1.6%なのに、なんで「財政危機」なのか。
政治家もマスコミも、そして国民も全て騙されているのである。ところが肝腎の政治家の大半が騙されていることにいまだに気が付いていない。
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経済コラムマガジン 税派と成長派
http://www.adpweb.com/eco/eco501.html
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表現はちょっと綺麗ではないが、増税派だ成長派だと言っても所詮「目くそ鼻くそ」の対立関係である。筆者は、財政危機が真の問題ではなく、「財政危機」と騒がれることによって、金融・財政政策が間違った方向に走ることが本当の問題と考える。
本当に日本の財政に問題があるなら、日本の国債を誰も買わないはずである。
つまり問題がないものを問題だと騒ぐから、これが本当の問題を引き起すのである。
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国民全員が詐欺に引っ掛かって騙された挙句にこのザマです。
詐欺にかけた自民党の一部(小泉純一郎、竹中平蔵、そのお友達の元大蔵官僚木村剛等)も悪いですが、それが詐欺だと知った上で追従し、更に過激で自分達だけに都合が良い方向に政策を変更させた財界も悪い。

現在までに経済諮問会議に参加していた者には、それ相応の罪を問わない事には社会正義の実現などありえません。
20万人の自殺者と、その何十倍かの困苦にあえいだ人の苦しみを償わせる為には、刑罰は上から下まで一つしかありえないでしょうけど。
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私も本当に三輪さんのおっしゃる通りだと思います。
思いますが、一言だけ。

「財政危機」を騒ぐのが「悪質なデマ」であることはわかります。しかし、現行の経済システムを変えない以上、どれだけ悪人の首を切っても、頭と心の弱い人々(含む政治家・公務員・企業人・マスコミ)を詐欺師に仕立て挙げようとすることはいくらでもできます。

意図的に罪を犯すような悪人はどんな世の中になってもいるとは思いますし、死刑のような極刑の存在も必要悪として否定しません。しかし、経済システムの根本が「詐欺」を推奨するようになっているとすれば、頭と心の弱い人々が詐欺師となり、その犠牲者も生まれ続けると思うのです。そして(犠牲の程度に差はあるものの)騙す方も騙される方もともに犠牲者ではないかという気がするのです。

その残酷な「構造」自体を意識するとき、私はまた胸を締め付けられる思いがします。だから根本的には、(どれだけ時間がかかろうと)今日の経済システム(マスコミ含む)とそれを支える貨幣の性質を改めねばならないと思うのです。

もちろん、根本治癒には時間がかかるので、対処療法を否定するものではなりません。むしろ対処療法を続けることで、多くの人々が根本的な問題に気が付くという過程を経る必要性があるとも感じています。重要なのは最終的に「もっとも犠牲者が少ない」ことを目指して、適切な方法を皆が知恵と心を使って考え、実行することだと思います。



補記:悪徳業者の傾向と対策
まず、とにかく重要なのは絶対にそういう人達と会わないことです。悪徳業者は普段付き合いのある個人名や団体名を出してその紹介でなどと言ってきますが、それは大概「名簿屋」から手に入れた個人情報で、適当に言ってくるだけです。本当に知り合いなどとつながっていることなどはまずありえませんし、仮に本人からの紹介であっても怪しい営業マンなどとは断固としてあわない方が間違いなく「お互いのため」でもあります。電話なら基本は全て「ガチャ切り」ですが、しつこく勧誘される場合は、「あんたらのやっている勧誘は法律違反だよね。警察に連絡するよ」と言って、取り合わないことです。この「会うことを拒否する」というのは、何度いってもいい足りないぐらい重要なことです。会ってしまったが最後、百戦錬磨の悪徳営業マンの話術(脅しを含む言葉巧みな洗脳)から『まともな方法』で逃れることは極めて困難になります。

対面での勧誘やすでに合ってしまった場合は、とにかく彼らはあらゆる手段を使って、ターゲットを孤立させようと画策します。これは「何かおかしい」と感づいた段階で、なるべく早く近くにいる家族・知り合い、あるいは他人に対して「この人達はサギの犯罪者だから、すぐに警察を呼んで下さい」と叫びます(実際、強制的に購入を勧誘することは、本当に商法違反ですから遠慮などいりません)。相手がなんとかその場をとりなそうとしても、もう馬鹿のように叫びまくって、隙を見てその場から逃げるようにしてください。すでに、完全に隔離されている場合は、とにかくトイレに行きたいとか、携帯電話に緊急の用事が入ってきたとかいって、その場を離れた隙に逃げるか、それでも付いてきた場合は、やはり人のいるところに出てから「こいつら犯罪者だ。警察を呼んでくれ」と叫びます。このなりふり構わず叫んで回りの人の注意を向けさせるということが、絶対に重要です(実際、これがなかなか出来なかったために、私は相当危険なところまで行ってしまいました)。また、最悪、契約させられてしまった場合も、とにかく少しでも早く力になってくれそうな人に相談することです。悪徳業者は、他人のプライドやコンプレックスを利用して、これは人に相談するものではないとか、他人にしゃべってはいけないなどと言葉巧みにターゲットを洗脳し、孤立化させます。騙された方の人も、そういう洗脳や自責の念、恥ずかしさなどが綯い交ぜになってなかなか家族等にはしゃべれなくなっています。ですから、家族でも、友人でもなんかこの人最近おかしいぞというシグナルを拾ったときには、ぜひそれに感づいて「丁寧に」相談にのって欲しいと思います。

とにかくまず絶対に会わないこと。不運にも会って、隔離されそうになったら、なりふり構わず叫んで人の注意を呼びつつ、逃げること。さらに騙されたとしても、孤立しないこと、孤立させないことが、ポイントです。



続:商取引の根源的な意味から問いかける「増殖する通貨」の危険性

2007-10-25 20:34:59 | Weblog
今日は、昨日のエントリーについてろろさんの質問を元に言い切れなかった部分や説明の足りなかった内容を補足したいと思います。

>よく巷で言われるような「共同体は自己完結できない」的な論理とはちょっと違うようですね。この論理は相互依存を強化する時の屁理屈として用いられるものですが、そうではなくて、生命活動から生じるゴミの処理の問題だとしている点は面白いと思い、また利点の多い解釈だと思いました。

私も巷で良く言われる「共同体は自己完結できない」論は、あまりに乱暴で傲慢だと思います。上記のように商取引(奴隷等の人間移動含む)が共同体内部のエントロピー解消つまり排泄と浄化が目的にあると考えれば、その時々の「共同体の開き具合(閉じ具合)」は、その時々の共同体内部の都合と外部環境の状態により決まるべきものとなります。それを共同体内部に対する理解も外部の状況も知らない人が「お前は開くべきだ」みたいなことを言うのは、傲慢で愚かです。実際に共同体が外部に対してどの程度開くべきか閉じるべきかを決めるのは、その共同体の維持に責任を持つ指導者(権力者)となるでしょう。内外のエントロピーの差異を注意深く観察しながら、商取引の範囲(市場の大きさ)を設定することになると思います。これも進化した生物の細胞が内部の老廃物の貯まり具合と外部環境の状況を自律的に判断して、細胞膜上のチャンネル(物質交換のためのトンネル)を適切に開け閉めするのと似ています。単純な「共同体は自己完結できない」論を主張している人は、周囲の水の塩分が高くても、低くても、ウィルスがやってきても細胞が常にチャンネルをオープンにしていたらどうなるか、ということを考えろといいたいです(確信的破壊者はそれを知った上で言っていると思いますが)。

一方で、共同体内外の状況を権力者が注意深く観察したとしても、「商取引」において完全にリスク成分を排除することは困難なはずです。また、長期的に共同体の存続維持を図るには、権力者は内外の利益を大所・高所からみて調節する必要があるため、そこには必然的に「2面性」(悪く言えばエージェント的性格)が生じてきます。

このあたりの権力者の持つ「2面性」というのは、実は全国各地にある塞の神・道祖神として祀られている「サルタヒコ」の神話・性格(神性)からも読み取ることができるのではないかと思っています。

この点について、フリーライター岡林秀明氏が宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の謎解きの中で興味深い論点を示しています。

・謎とき『千と千尋の神隠し』 第6回
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_3.html
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道祖神とは「さえのかみ(障の神、塞の神)」とも呼ばれ、「悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神。旅の安全を守る神。また、生殖の神、縁結びの神ともする。猿田彦神と習合したものも多い」(『大辞林第二版』)。

「侵入を防ぐ神」でありながら、同時に「旅の安全を守る神」であることに注目してほしい。

「記紀」によれば、天つ神たちが地上に降りることを決めたとき、途中、道を塞(ふさ)いでいるような神がいた。

「鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り。当に七尋と言ふべし」(『日本書紀』)とあるから、異形の姿であったことは間違いない。
この神がサルタヒコだ。

天つ神たちはアマノウズメを派遣して、サルタヒコと交渉させる。
アマノウズメは露出度の高い、かなり刺激的なスタイルで現れ、サルタヒコを陥落し、一転して先導役にしてしまう。
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・サルタヒコの2面性
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2005/06/post_200d.html
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いったい、どっちなんだ?

猿田彦(以下、サルタヒコ)は「さえの神」(道をふさいで、外来者の侵入を許さない)と「みちひらきの神(先導者、案内人の役割を果たす)」という一見矛盾した性格を持っている。



一方は閉じられ、一方は開かれている。
矛盾しているとしか思えない。
記紀にも、両面性のある神として登場する(明示的ではないが)。

どうして矛盾した性格を持っているかといえば、ひとつの解釈としては、猿田彦が集団の指導者(あるいは指導者像が投影された神)だったからだ。

指導者にとって、まず重要なのは集団の構成員を守ることだ。

疾病、災厄などのトラブルは外部から訪れるものが持ち込んでくることが多い。
とすれば、外部のものは徹底的に排除せざるをえない。
集団を守る者、すなわち「さえの神」としての性格だ。

一方、まったく外部のものが入ってこないと、集団は衰亡していく。
衰亡をくいとめるためには、積極的に外部と交わり、外の血を入れていくしかない。
集団を導く者、すなわち「みちひらきの神」としての性格だ。

矛盾した性格と見えるものは、集団の存続・発展を担わなければならない指導者だけが持つ「責任感」のあらわれとみれば、何の矛盾もなくなる。



別の解釈は時間的な経過を問題にする。

暴力的・破壊的な外来者が侵略してきたら、当然、国を守るため、妻子を守るため男たちは戦わざるを得ない。
サルタヒコも男たちの先頭にたって戦ったことは間違いない。

激烈な戦いだった。

残念ながら、運が味方せず、敗れたときにどうするか。
部族の存続を願えば、降伏せざるを得ないだろう。

サルタヒコは外来者が派遣した「進駐軍」を案内して、自分たちの国に帰っていく。
自分の思いはとにかく、「みちひらきの神」としての役割を果たしているわけだ。

昨日までのリーダーが先導役を務めているわけだから、国の人々の胸に、どんな思いが去来したか。
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う~ん、最近の日本には「サルタヒコ」がいなくなってしまったのだなぁ、とつくづく思うわけですが、それはさておき。

私は上記で語られるサルタヒコの2面性こそが、共同体という細胞が本来有するべき「チャンネル」の役割なのだと思います。また、開いていながらも閉じている、排泄すると同時に取り込んでいる、リスクであると同時にメリットである、そういう重ね合わせの状態というのが、自然界・生命システムの中には多く存在し、人の世もそういった「原則」に則って運営すると良い(せざるを得ない)ことを先人たちは民話や神話の物語りに託してきたのだと思います。今後、21世紀に持続可能な社会を築くという意味でこういった概念への理解が非常に重要になってくると思います。


>人類学的な話になりますが、外部婚が行われてきたのと同様に、生命体としての本能に近いものがあるでしょうね。

そうですね。外部婚も共同体内に貯まったエントロピーの放出方法の一つだと思います。実際、花嫁・花婿は売買の対象でもありました。また、家族という単位も共同体内にある小さな共同体だと考えれば、婚姻はまさに典型的な共同体間の「商取引」の一つだといえるかもしれません。

我々現代人は貨幣を中心に経済を見てしまうので、それゆえ商業(経済)活動の全てを極度に矮小化して考えていると思います(あるいは経済とは別のもの経済と呼んでいる)。先に述べたように商業(経済)活動全体は、人間が「共同体を形成する生き物」である以上必ず発生する物質的・精神的な「新陳代謝」全般であるとみた方が本質を把握できると思います。よって、この「新陳代謝」を様々な共同体が適切に継続することで、人類全体の系としても、その内面と外面が「成長」することになります。少し話しを飛躍させると、人間一人の中にたくさんの臓器・組織や細胞があって、それらは互いに独立しつつも相補的に関連しあって「人間の生存」が維持されているように、人間の作る共同体も人類という一つの「オーガニズム」を存続させるための、臓器・組織あるいは細胞であると言えます。そこにはマクロ(地球全体)からミクロレベル(細胞)までの「生命体」に共通の「フラクタル構造(曼荼羅)」を見出すことができそうです。

よって、経済の本質というものは、経済学などという屈折・矮小化した分野ではなく、広く人類学、社会科学、生態学、生命科学、地球科学、心理学的な観点から統合しなおす必要があると思っています。そういうといかにも難しいように感じますが、私はこれらに共通する視点はやはり共同体(生命)の維持に必要な「新陳代謝」と環境や共同体間の「関係性」を明らかにすることであると思っています。我々の祖先も、民話や神話の中で、そうした新陳代謝や関係性の意味を論理ではなく、感性に訴える形で示唆しています。例えば、八百万の神々とそれに対する信仰というのは、人と人、人と自然などの間に生まれる多様な「関係性」に「神」というイメージ(姿)を与え、通常は目に見えない関係性の意味を人々が理解し、それを畏れたり、守ったりするという行動につなげる一つの仕組みと見ることができます(もちろん信仰そのものにはそれ以外の多様なものを含んでいるでしょうが、ここではその話には触れません)。すなわち、小難しい知識などなくとも、ある種の「アートの力」があれば、共同体の「新陳代謝」や生命システムに内在する「関係性」の重要さを一般の人々も充分理解できるということです。そのためには西洋的な唯物論偏重の思考を、東洋的な唯「関係」論で超克するような意識変革が必要です(実際、アートの世界では宮崎駿の『千と千尋の神隠し』やミヒャエル・エンデの『モモ』『果てしない物語』などの中にその萌芽が見えます)。

>私が思うに、その根本的な部分にあるのは、人間の欲望です。そして、これが非常にやっかいであり、「彼ら」はここをうまく利用して支配する側に回ったのです。

私は人間の欲望もやはり生命の二面性を持っていると思います。欲望がなければ、人間は成長しません。しかし、欲望が何でもかなうという究極の状態は、もう成長する機会がない「精神的な死(エントロピーの極大)」を意味します。通常、人間の欲というのは様々な自然的制約、社会的制約により、簡単には究極の状態に向かわないようにできています。とくに共同体内でお互いに顔と顔を突き合わせている状態であれば、自他の行為の影響がダイレクトにわかりますから、自己の欲望の実現に拘ることが必ずしも自分に好ましい状況を招かないことを必然的に悟るわけです。そのような自他の関係性が生むフィードバック効果により、人間の内面は常に変化し、その結果精神的なエントロピーは極大に向かわずに済む(持続的に成長できる)、というのが現実かと思います。

しかしながら、(とくに減価しない)通貨というものは、その交換性や保存性の高さ故に、この自然的・社会的制約を無視できるような錯覚を抱かせることができるわけです(ましてや通貨の発行権を有するということは、価値をいくらでも捏造することができるようになるわけで、貨幣発行者は全ての制約を打ち砕くパワーを得たと錯覚するでしょう)。そしてこの妄想は、経済活動に携わる皆が「そう思い込むこと」によって、相当程度現実化します。ただ、個人が持つプリミティブな欲望を極大化させることは、やはり物的にも精神的にも無理があるので、どんなに貨幣の力が強くても、どこかで崩壊するわけですが、その過程で「自然的・社会的制約」はどんどん無視され、破壊されます。ここで重要なのはこの「自然的・社会的制約」の正体とはなんだったのか、ということです。実は制約のように見えていたもの、それこそが自己と自然・他者とのかかわり=関係性ではないでしょうか。

上記のプロセスを映画『千と千尋の神隠し』は、「カオナシ」が砂金を手からぼろぼろと出しながら、周囲を奴隷化して、自己肥大していくというシーンにより、上手く表現しています。

ということで、近代社会において人間の欲望という2面性の負の面だけが、暴走してしまう根本は、やはり増殖する通貨の「非自然性」にあると私は思っています。欲は確かに正負様々なものを生み出しますが、人間を成長させる因子ですから、一概に否定するのではなく、それが適正に働くような有形・無形の制御システムを考えることだと思います。もっともこれは理想を言い出すと「ブッダ」レベルの適正さを求める話になってしまうので、当面は人間の欲を間違った方向に導く最大の原因である増殖する貨幣の性質を改めて、その後はゆっくりと時間をかけて思考錯誤すれば良いと思います(それが人類本来の進化の道筋ではないでしょうか)。

少なくとも、人々がモノそのものではなくて、関係性を重視するようになれば、己の欲に対する認識も徐々に変わってくるでしょう。増殖する通貨は「モノを超えるモノ」(のイメージを人々に与える虚像)ですから、これに頼っている限り、私たちは唯物信仰をやめられません。「近代経済システム」が民主主義の名で唯物信仰を共同体に予め植えつけることは、あたかも細胞のチャンネルを「有価物に偽装したウィルス(増殖する通貨)」に対して開かせる役割を果たしていると思います。

ですから、これに対して、減価する通貨を導入することで人々の認識をモノを得るための「関係性」を重視する方向に変化を促すわけです。そもそも、生命体・共同体の維持・進化にとって大切なのは「新陳代謝」ですから、お金はモノとの交換という関係性の媒介を果たした後は、内部で「分解される」ことが適切だと思います。血液の健全性は、すばやく体内をめぐってモノを運び、役目を終えたら、分解されることで保たれています。血液の流れが滞れば、人は病気になります。体内で白血病のように役に立たない血液が増殖すれば、それは死を意味します。

「増殖する通貨」はまさに人類の体内で発生したガン化した白血球であり、これを「減価する通貨」に改めることで、共同体の間にきれいな血液を流すことができます。

色々言葉を重ねましたが、起きている事実はとてもシンプルなことです。地域経済における現実的対応も当然必要ですが、アートの力で広く人々の洗脳を解く事ができないかと考えている今日この頃です。


≪加筆・修正≫
「減価しない貨幣」が人に抱かせる妄想の部分についての記述(2007/10/26)

≪参考≫
貨幣と市場の歴史、そして貨幣の他者支配力に関する詳しい考察は「晴耕雨読」の下記の記事が非常に参考になります。
・市場・貨幣そして貨幣の「他者支配力」 
http://sun.ap.teacup.com/souun/447.html

その他、今回の記事と同時に見ていただきたいサイト

・萬晩報:ミヒャエル・エンデが日本に問いかけるもの(園田義明)
http://www.yorozubp.com/0007/000726.htm

・平和党公式ブログ:自然主義経済
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/23943572.html

・補完通貨研究所:金利システムの問題
http://www.olccjp.net/wiki/index.php?%B6%E2%CD%F8%A5%B7%A5%B9%A5%C6%A5%E0%A4%CE%CC%E4%C2%EA

・新たな経済
http://www3.plala.or.jp/mig/econ-jp.html

・福井プログラマー生活向上委員会:未来を奪う利子
http://chikura.fprog.com/index.php?UID=1145803186

・経済の民主化
 オーストリアで地域経済を復活させた地域通貨
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/09/
 ドイツのキームガウアー: 地域経済の自律性を取り戻す新通貨
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/16/
 開かれた通貨宣言
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/22/

(2007/10/26追記)




商取引の根源的な意味から問いかける「増殖する通貨」の危険性

2007-10-25 00:16:20 | Weblog
ろろさんのブログで以下のような興味深いエントリーを拝見したので、私もインスパイア(笑)されて久しぶりに関連する話題のエントリーを立ててみます。

・日々是勉強
【商人の歴史1】商業が生まれてきたころ
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-59.html
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つまり、古代の社会では、一般国民である農民が生産した物が、いったん権力者のところに集まり、そこで権力者が消費しきれなくなったものを運用していたのが商人だったということです。
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私も商取引のはじまりは、ろろさんの言うように共同体の中に発生する余剰(消費しきれなくなったもの)が原因であると思います(そしてその取引を活性化・進化させたのは遊牧民のような遠方の共同体と共同体の間をつなぐ交易メディアの存在だと思います)。

ただ、ここではちょっと違った方面からこの「余剰」というものに着目して、商取引の根源的な意味みたいなものを考えてみたいと思います。そして最後に「生命性を有する共同体」において生じる「エントロピーの増大=マイナスの富」の交換物という観点からみた「貨幣」の意味、そしてそのリスクを考えます。

まず、そもそも共同体において「余剰とはなにか」ですが、確かに余った穀物のようなものは有価物のようにも見えますが、共同体内の活動で生じるそれ以外の不用物・ゴミなどと一緒に考えれば、それは系内における「エントロピー増大」の一部といえます(余った穀物もそのまま放置しておけばまさにゴミです)。また、単に物質的なものだけでなくて、共同体が社会的に外部に閉じていれば、その共同体内には、硬直化した人間関係・生活のマンネリ化などによる鬱憤・不満、すなわち「精神的なゴミ」が貯まりやすくなります。つまり、共同体が閉じているとその生産性向上や精神活動の高まりに伴って、物的・精神的なゴミが発生しやすくなり、共同体内部のエントロピーが高くなって、生産性が限界に達したり、共同体自体が崩壊する危機に晒されるわけです。余った食糧およびその他の物質的・精神的なゴミ・毒素は、共同体内部から排泄し、体内を浄化しなくてはいけません。それが共同体の内部からみた商取引を促す要因です。だから商取引というのは、共同体にとって自然発生的な欲求に基づくと思います。あたかも「便意」のように(笑)。

さて、ゴミは適正に共同体の外部に放り出してしまえば、当面内部のエントロピーが低下するように思えます。しかし、ゴミと言えども、かつては貴重な資源や人的な労力を投入したものです。単にそのまま捨て続けたのでは、資源が外部に流れ出て、いずれ生産性が低下します。また、無駄なモノを作ってしまう人々の心にも徒労感ややりきれない気持ちを生みます。よって、ゴミとして失われた共同体内の物的・精神的な「隙間」は何かで埋め合わせをしておかないとやはり系=共同体が不安定になります。すなわち、この「隙間」を外部からのモノで埋めるようとすることが、トレードとなるわけです。まるでウンチの後でお腹が空くように(笑)。

ここで重要なのは、共同体が浄化したい・取り戻したいものは、単なる物質的なもの(肥料・原材料・エネルギー等)だけではなくて、精神的なものも含まれるということです。そもそも先にあげたような共同体内の社会に貯まった鬱憤・不満などは、物的なトレードのみでは解消しきれない「ゴミ」です。この精神的な「ゴミ」の浄化に必要なのは、非日常を演出する芸能(祭・演劇・ゲーム・娯楽としてのセックス)だったり、生・病・死のストレスを和らげる祭祀や祈祷、芸術であったり、装飾品・貴重品を得たときに伴う「満足感」だったりします(また、共同体になんらかの形で利益を提供する特殊な人材・奴隷も非常に低エントロピーで魅力的な取引商品です)。

要するに共同体には、構成人員と内部資源が互いに関係することによって醸し出す「生命性」があり、地球上の他の生命体と同様に新陳代謝が必要である、ということです。またその新陳代謝には目に見えない「精神的なモノ」も含まれる、ということです。

で、ここで問題なのがこの新陳代謝(商取引)に伴って、外部から内部に取り入れた有形・無形のモノが、新たなゴミや毒とならずに、共同体に「役立つ」ためには、それらが完全に共同体内部で「消化」される必要があるということです。ゴミを放出したのに、外部から取り入れたものが、また無用なゴミや毒となって共同体内に残ったり、増えてしまったりしては困るのです。

よって、原則的には商取引で得た物品やサービスというのは、共同体内のエントロピー放出と同時に消化されてなくなるか(人材・奴隷の場合は共同体の一員として最終的に同化されるか)、人間の生活を持続的に豊かにさせるための有形資産(衣服・住宅・道具・武具・装飾品等)や無形資産(知恵・技術・感性の深化・新しい価値観等)に変換・昇華されなければなりません。

しかし、この外から入ってくる有形・無形のモノが果たして本当にゴミでも毒でもなくて、有用なもの(共同体の持続的繁栄につながるもの)であるかどうか判断することは、実はかなり難しいと思います。はじめて食べてみるきのこが毒きのこなのかどうかは、実際食べてみないと判らないような「リスク」がそこにあります。さらに、外から入ってきたモノがゴミ・毒となるか、有用物となるかは、共同体(を構成する人々)の内面(スキル・価値観)によっても大きく変化します。つまり共同体にとって外部から購入したモノの価値は、絶対ではなく、自らのスキルや価値観、状況の変化によりプラスにもマイナスにも変わりうるという相対性と自由度があるのです。商取引という行為の中には、常にそのような「リスク」と「あいまいさ(相対性・自由度)」がついて回ります。その結果、商取引自体に人々は直感的に「いかがわしさ」を感じるわけですが、共同体持続のためにはそれを受容しなくてはいけないという命題があります。そしてその「いかがわしさ」の受容こそが、共同体のさらなる活性化(進化・深化)のきっかけとなる可能性があります。

このことを端的に語っている著書・書評があります。ちょっと長いですが、非常に重要な内容だと思いますので引用します。

・松岡正剛の千夜千冊
小松和彦・栗本慎一郎『経済の誕生』1982 工作舎
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0843.html
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信貴山縁起は日本の中世における「都・里・山」という3つの場をまたいで、どのように「富」(経済力)が発生したのかをよく暗示している。この物語では、里の長者は山の命蓮に米を提供(喜捨)し、命蓮は都の帝(醍醐天皇)の重い病いに対して祈りを提供(祈祷)し、帝は里の長者に対して市場活動を提供(認証)する。ここにはこういう三角形が成立している。
 ふつう、市場というのは生産と消費が物品を媒介に交換されているところをいうのだが、この物語はそこにもうひとつ、「山」が関与している。すなわち、市場や宮廷になんらかの「欠損」のような問題が生じているときに、山がこれに関与してこの欠損を回復するようになっている。そこで二人が持ち出そうとしている仮説は、富の発生とは、このような欠損と回復というシステムが稼働したときにおこっていたのではないかという仮説なのである。

 ここで「富」とは、貯蓄高や貿易高のことではなく、カール・ポランニー流には、共同体の生存や力を象徴しているような価値のことをいう。この価値観は時代によって民族によって場所によって、変化しつづけている。
 しかもこの価値観は「交換」によって初めて見えるかたちをもってくる。いくら貯蓄高があったとしても、第一次大戦後のドイツのように、パンや肉が1万マルクもするようになるのでは、富の目安にはならない。また、ある者にはひどい病気を治してくれる薬の値段がいかに高かろうと、その薬を入手する力が富なのである。その病気が祈祷で治るなら、そのために支払う値段は世の中とまったく違っていてもいい。つまり、一般に公定価格や流通価格とされているような価値の目盛だけでは測れないところに、実は「富」の本質がある。健康も安全も富なのである。

たとえば小松は「支払い」とは民俗学では「お祓い」なんだと言う。お祓いとはプュリフィケーション(浄化)のことである。ということは、何かによって穢れている事態を祓うというしくみのなかに、しだいに「支払い」が発生していったのではないかとみなせるということになる。実際にも、「幣」(まい)とは神と人とのあいだの支払いをはたすものをいう。
 栗本は、そうだとしたら、共同体や社会が何を穢れと見るかというということ、すなわち何をタブー(禁忌)と見るかという価値観がそもそも生じたことが、そうした「お祓い」を「支払い」にしていくようなしくみをつくったのではないかと言う。
 では、どうして共同体に穢れやタブーが出てきたかということだが、これは、てっきり「自」と思っている共同体のなかに「他」や「異」が入ってきたと見なしたからである。それを穢れや異質なものと見た。そしてこれを取りこんだり、排除した。民族学や民俗学ではこれを「外部性の問題」という。
 しかし、このことをよくよく考えてみると、実は逆のプロセスでこのことがおこっていたのだということがわかる。つまり、外部性としての「他」や「異」をあえていったん共同体の内部に入れてみることによって、しだいに「自」が成立してきたのではないかという見方がありうる。どうも、この見方のほうが正しいのかもしれない。
 そもそも交易や商業というものは共同体の内部で確立するものではない。共同体から見て外の、いわば「異界」との交流や、その異界との何かの交換がおこることによって、経済は発生し、確立していったはずなのである。そういうものだったのではないか。

 こうしてあらためて検討してみると、日本の昔話には桃太郎や一寸法師や花咲か爺のように、妙に外の異界と交流することで最後に金銀財宝の富を得て、めでたしめでたしとなっている話が多い。栗本と小松はそういう例のひとつとしてウントク譚をあげる。
 貧しい爺さんが売れないマキやタキギを水の底の水神にあげていた。すると水の中からウントクとかヨケナイとかハナタレといった名の醜い童子が授けられる。爺さんはうんざりするのだが、ところが、この汚い童子をそれなりにちゃんと扱っているとお金や幸運がやってくる。いいかげんにしていると童子が去り、富もなくなっていく。外部性の関与が内部の富にかかわっているという典型的な話なのである。
 となると、この童子は貨幣や通貨と似た性質をもっているということになる。これはいわば動く貨幣、生きた通貨なのである。別の見方をすれば、ウントクは排泄物のようにも見える。不要物のようにも見える。ということは、ある地域にとっての不要物は他の地域にとっての必要品であったというふうにも、この物語を解釈することもできる。
 ここにはポトラッチや沈黙交易のような、一種の市場交換原理が発生しているとも考えることができるわけなのである。けれども通貨が発達していなかった時代には、いったいどうして「交換」がおこって、そこに価値が発生したかの説明がうまくできない。そこで、童子や排泄物や穢れが交換のメディアの役割をはたした考えた。それが昔話として伝承されていった。そう考えると辻褄があってくる。
 実際にも、このようなことは多くの歴史の一端の場面からもうかがえる。たとえば阿倍比羅夫が粛慎(みしはせ)国との戦いで、武器を含んだ物品をおいて退却すると、粛慎の船団から長老が降りてきて衣類と交換して帰っていった。そういう歴史的事実もある。
 南方熊楠は中国の「鬼市」に注目して、ある共同体に鬼がくると戸を閉めてしまい、鬼はしかるべき者から物品を巻き上げて帰ってくれるという例をあげ、ここには交易の原型があらわれていると指摘した。新井白石は『蝦夷志』に砂浜で交換をするアイヌの例を紹介した。
 こういう例はいっぱいある。どうやら他界や異界との交流が富の発生の原型か、もしくは富の発生を物語るにはそのような話で伝えていくルールをもっていたのだと考えられるのだ。

 こうして二人は、しだいに南近江に伝わる俵藤太伝説や小野猿丸系の語り部伝説や木地師伝説にことよせながら、近世近代の近江商人の発生などを議論する。また、さまざまな「憑きもの」とは何かを議論する。
 これらの議論のなかでそのころぼくが関心をもったのは、「マイナスの富の交換」ということだった。プラスの富を得るためにはマイナスの富ないしは富に代わるあやしげなものが先行しているということだ。
 この「マイナスの富」の考え方は、その後のぼくにいろいろのヒントをもたらした。共同体に欠損があるから、そこに流れこむ富が発生したというのは、そのひとつの考え方である。また。身体の欠陥や欠損が富をもたらしたということも多い。一寸法師や鉢かつぎ姫は、身体的な欠損が富につなかったという例である。竹取のかぐや姫のように、まさに異界からやってきて、共同体の富を失っていったという物語もある。どうやら「富と負」とは深い関係をもっているようなのだ。
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上記で述べられている「マイナスの富」を、生命性を持つ共同体が内部に必然的に溜め込むエントロピーの増加(有形・無形のゴミ)と捉えれば、それを外界に排泄し、何かと交換する商行為によって、共同体の浄化と活性化が(多少のリスクといかがわしさを伴いながら)起こることがわかると思う。

そして、ここでふと思う。もし「いかがわしさ」を伴わない商取引、つまり誰にも共通の価値を持つ(と考えられる)通貨を導入すれば、外部から入って来るモノのリスクやいかがわしさを回避して人々はハッピーになれるのか?貨幣的価値の高さは、より高い共同体の浄化や活性化を約束するものなのだろうか?いやむしろ商行為に伴う「いかがわしさ=価値の相対性・自由度」こそが、実は共同体内部の浄化や活性化を生むソースなのではないか?さらに貨幣という外来物が、共同体内部で消化もされず、同化もされず、資産として固定化もせずに、貯まり続け、増殖を続ける、ということは、富の蓄積・増加ではなくて「毒素」の蓄積・増加ではないか?腐らずに増殖する通貨を流通させた人は、以上のことに「気が付いていて」やったのだろうか!???

美しく、完璧で、誰にでも平等な価値を持ち、自然の力に抗って増えるもの、そんなものはこの世に存在しない。存在するとしたら、我々の頭の中だけだ。誰かが人々のイメージ力を操って、この世に存在しないものを降臨させている。それは人の心の中の幻なのに、あたかも万能の神のように振舞い、現実の全ての価値の「自由」と「関連性」を奪い、「進化の機会」をも奪っている。そんな離れ技が可能なのは、人の商取引というものが、そもそも精神的で無形なモノのトレードを伴う行為であるからだ。「彼ら」との戦いは、人間の想像力・概念支配のコントロール権をめぐる戦いである。

「減価する通貨」が、「彼ら」の降臨させている「狂った神」から、人々と自然を解放し、かつて両者を仲立ちしていた八百万の神々を復活させる。


≪補足説明≫
この記事をはじめて読まれる方は、上記の「彼ら」が何を指し示すかについて「晴耕雨読」の下記の記事を読まれてください。

・抜け出す第一歩は「隷属の認識」
http://sun.ap.teacup.com/souun/178.html
・寄生性と知的謀略
http://sun.ap.teacup.com/souun/143.html
(2007/10/26追記)

日本を変えるため、そして『守るため』の投票

2007-07-29 09:45:50 | Weblog
本日参院選の投票日です。どこ・誰に投票すればよいかと悩んでいる方は、ぜひ以下のろろさん記事を参考にしてください。

日々是勉強
「明日は参議院選挙~これだけは忘れないでほしいこと 」
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-4.html

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 私が思う、今回の選挙(及び次の衆院選)の最大の焦点は、「グローバリスト政権の暴走をいかに阻止するか」という点にあります。

 安倍政権がグローバリスト(利益の極大化のために、日本国内への影響をかえりみず対外進出を行い、国家間の垣根を取り払おうとする勢力)の忠実な使用人であることは、以下の記事で繰り返し述べてきました。

  ●【破滅への】東アジア共同体とアジア・ゲートウェイ構想【片道切符】
  ●「自民党は野党よりましだ」と思っている人々へ
  ●【参院選】自民ダメ、民主ダメ・・・ならばどうする?

 彼らの狙いを簡単にまとめると、「外国(特に中国)との一体化を図ることによって一部の人間の利益を極大化する」ことに尽きます。
 これを防ぐには、あらゆる手を使うしかありません。参議院で野党が議席を伸ばすことで、それが可能になります。
・・・・

現実の社会が約束事だらけでうまく行かないように、民主主義も曲がりくねった細い道なのです。それを邪魔だの鬱陶しいだのと言い、安倍政権の法案成立はスピード感があってよい、などと論評しているブログは、ファシズムを支持しているのと変わりがありません。
逆に言えば、野党が議席を伸ばすとその辺の抵抗がしやすくなるということです。
・・・・

安倍政権を支持している方は自主国防や国家としての自立を錦の御旗にしているようですが、今の日本は国防以前に、経済の面でグローバリストの道具になってしまっています。ここを阻止し、うまく行けば跳ね返して、初めて自主国防は意味を持つのです。現状で憲法9条を改正し、自由度の高い軍隊を作っても、グローバリストの利益確保手段(アメリカ軍への編入や、アジア権益の防衛)に使われるだけです。

もっとも、安倍政権の場合、軍事力云々の以前の段階で外国に対して屈従しているのが現実です。経済面では三角合併の要件厳格化見送りや社会保険庁解体(年金を外資のためにミンエーカするのが見え見え)を実行し、何より「アジア・ゲートウェイ構想」などというグローバリゼーション構想を掲げてるのです。

もはや、保守であると自覚する人々が安倍政権、いや自民・公明党政権を支持する理由はありません。
  
具体的な投票について、もう一度おさらいしておきます。

(1)鳥取のような一人区では、民主党に投票する

(2)東京のような複数改選の選挙区では、
  「国民新党」か「共産党」に投票する。
  (改選人数が二人なら、民主でもよい。)

(3)比例区は、第一に「維新政党新風」、
  第二に「国民新党」「共産党」のどちらかに投票する

(4)「自民党」「公明党」「社民党」には絶対に投票しない  


  理由は、上のリンク記事で述べたとおりです。とにかく、グローバリストの日本破壊を止めるのが現状では優先です。
  「民主党のような売国を支持するのか」などという筋違いの批判は無視しますので、悪しからず(筆者は、民主党を「支持」などしていない)。

  そして、与野党の角逐を続けさせながら、本当の保守勢力を育てていくことです。それができないのなら、「ネットでの自由な言論」などというものは無意味です。政権側の支配補強道具に成り下がるだけでしょう。

  日本や日本人を金儲けの道具にする勢力には、徹底的に抵抗しなくてはいけません。「民主に入れると売国」「ましだから自民党に入れる」という単純な話ではないのです。そうだったら、どんなに楽なことか・・・。いつの世でも、議会制民主主義というのは曲がりくねった細い道なのだということです。

  皆さんが、賢明な選択をなさることを期待しております。

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私から付け加えることは何もありません。上記のろろさんの指針を全面的に支持します。

また、以下の「平和党の推奨する参議院候補者 」も参考になると思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/13626324.html

「むしろこれまで選挙に行かなかったような人々の一票こそが、社会を変えるための一票になるんだよ(byのび○)」



【重要追加記事】

日本の保守政治とはなんだったのか?
江田島孔明氏がその本質・変遷について戦後政党史を紐解く渾身の記事が「三輪のレッドアラート」に掲載されました。
必読です。そして絶対に投票に行きましょう。

「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL164 江田島孔明」
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-289.html

<以下抜粋>
・・・・
55年体制とは当時の米ソ冷戦構造を反映し、日本をアメリカ陣営に組み込むために、鳩山と吉田が保守合同をしたことによって成立した。自民党は93年の小沢新生党の離脱および非自民連立の細川政権の誕生を見るまで、一貫して政権を独占してきた。

その骨子は、日米安保と日本国憲法という、本来矛盾する両者を包括し、右から左まで、官僚から党人まで、あらゆる政治勢力をのみこみ、かつ、野党第1党たる、社会党すらを事実上自民党の予備軍として、国対政治により、手なづけてしまうというやり方にあった。

・・・・
これは、基本的に経済が右肩上がりで、税収もそれに比例することを前提にして、その分配システムが機能している限り、上記の連立政権は支えていけることを意味する。しかし、80年代以降の赤字財政やゼロシーリングといった、「パイが減っていく」すなわち縮小均衡路線の中で、自民党は求心力を失っていく。この流れが、90年代以降、自民党が単独で政権を担えなくなった最も大きな理由だ。

・・・・
ここまでを要約すると、日本の保守政党とは、元々二大政党だったものが、戦後の一時期、米ソ冷戦構造を背景にして「特別に合同」していただけというのが真相であり、本来の姿に復帰するための、一里塚が今回の参院選だ。

その際の対立軸は上述のように「都市VS地方」なのだ。これは、古今東西を問わず、保守政党の中での根源的対立軸だ。

・・・・
更に、安倍内閣は、小泉前首相ですらできなかった、いわばタブーである二つの改革をやろうとしている。

・・・・
すなわち、自民党は小泉政権で竹中の登用や郵政民営化に見られるように完全に国際金融資本の走狗と化してしまい、従来の支持基盤である地方組織をガタガタにして、切り捨てた。

その後、安倍政権は保守政権の基盤である公務員についても解体しようとした。国際金融資本の狙いである、「地方と官僚の弱体化」による、植民地支配のためだ

天下りがなくなれば、官僚は在任中から国際金融資本の走狗と化すのは間違いない。地方が弱体化していけば、農村の株式会社化による運営がなされ、米は投機の対象になる。


・・・・
日本は15世紀以来、常に国際金融資本との緊張関係により、政治体制が決められてきた。
55年体制下において、収賄や天下りや談合を必要悪として、「税金が国内で循環するシステム」を構築し、膨大な中間層と政官業の鉄のトライアングルにより、国際金融資本に対抗するシステムを構築してきたのだ。

この点のバランスが小泉政権で崩され、税金が地方や業界ではなく、国際金融資本へ還流するように変更され、地方は切り捨てられた。
この点が実は最大の問題なのだ。

・・・・
現在起きていることは、日本が国際金融資本に操られた戦国時代後期や太平洋戦争前夜と同じだ。ここを理解すれば、日本人がとるべき手は一つしかない。
それは、民主党に政権をとらせ、民主から左派を追い出し、その上で、真の保守政党として育成する。
小沢の狙いはそこにある。
だから、今は左派と強調して、改憲論を封じ込めたのだ。英断といっていい。

・・・・
江戸期と昭和後期に共通する特徴は庶民が豊かになり、中間層が増大したことだ。年金や税制その他あらゆる政策が中間層を増やすことに向けられた。これが、自民党長期支配の根幹だった。
現在、この点が大きく崩れ、日本は格差社会へと進み、アメリカのようになってしまった。後に来るのは、国際金融資本の収奪のみだ。

民主主義とは、本来的に、国際金融資本が当該国を乗っ取るために導入させたシステムなのだが、日本人は、英知を駆使し、その手には乗らなかった。しかし、小泉、安倍という、高山右近により、その点が崩された。

・・・・
民主主義とは、有権者が責任者なのであり、政治家に任せるのではなく、「政治家を監視」しなければいけないのだ。すなわち、有権者が理性的判断と自己決定力を保持しなければならない。

・・・・
ただの利権をめぐる自民党内部抗争を、「改革」と呼んでいるだということを理解する必要がある。その証拠に、大蔵族たる小泉(注:前)首相は、政府系金融機関や財務省の改革は一切口にしない(注:しなかった)。
(中略) さらに、郵便局職員をまるで悪者であるかのように仕立てあげ、真の悪である財務省所管の財政投融資で財政を破綻させた「財務(旧大蔵)省の責任」を全く追及しない問題のすりかえである。

・・・・
日本人の知的水準の低下の傾向は甚だしいが、今一度冷静に考えてもらいたい。日本人にはそれができると信じる。

<抜粋終わり>

官僚が国際金融資本の走狗と化せば、日本は本当に終わりへと向かうでしょう。また、国際企業等による農村の株式会社化が進めば、自然主義経済が根付く基盤もなくなります。
皆さん、投票に行きましょう。まだ、遅くはありません。


見過ごされているお金の問題:その①

2007-06-07 21:57:09 | Weblog
現在、このブログのリニューアルに伴い、紹介ページを作成しています。
とりあえず、ここにとても重要な図をアップしておきます。「増殖するお金」の問題が直感的にわかるかと思います。

(元図や解説文は、マグリット・ケネディ氏のサイトにあります。
http://www.margritkennedy.de/index.php?modus=PRE&inc=UEB&lang=EN

増殖する通貨・近代経済システム批判の元ネタリンク

2007-05-25 15:06:52 | Weblog
>>ろろ様

>「減価しない通貨が諸悪の根源」という視点に敬服します。これは、なかなかない目の付け所です。

ありがとうございます。しかし、これについては上に紹介したリンクも含めて、多くの先人がいて、私はせいぜい編集しているだけなのです。

一番初めのインパクトは真名さんの「Speak Easy社会」の経済シリーズです。
http://blog.livedoor.jp/manasan1/archives/cat_10013514.html

その次に「晴耕雨読」のあっしら経済学です。
http://sun.ap.teacup.com/souun/699.html
http://sun.ap.teacup.com/souun/338.html

それで連山の橘氏のエントリー「ハイパーインフレ対策としての地域通貨」を見て、
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/tachibana/post_205.html

その先のリンクで「エンデの遺言」や「シルビオ・ゲゼルの理論とオーストリアの例」を知ります。
http://www3.plala.or.jp/mig/will-jp.html

で、これらの実践を目指した「自然主義経済」を提唱する平和党を知ったという経緯です
http://www.heiwatou.com/
http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou
(平和党という名前から、はじめはちょっとあっち系かな、と先入観ありましたが、議論を通してむしろその深い本質を諭されました)

また石橋湛山が戦前掲げた「小日本主義」について、経済面からその欠陥を指摘している記事をどっかで見たのが、それがずっと気になっていたのですね。で、これがろろさんの戦前「大東亜共栄圏」⇒戦後「企業の海外進出」の指摘を見たときに、ああ、それかぁ、と思ったわけです。非常にするどい指摘だと思います。

>私ははっきり言って通貨制度に対して無知ですが、

私もです(笑)経済理論の一つもまともに理解していません(そもそも理系ですから)。というかこの話は、ガチガチの経済理論をマスターした人の方が気がつきにくいのではないでしょうか(脱洗脳していない自称「コスモポリタニスト」のように)。

私がこれらのことについて考え始めたのは、循環型社会の推進に付きまとう漠然とした矛盾の正体は何かということからでした。倫理だ、価値観だ、教育だ、とか色々言う人がいますけど、どれもピンとこない(昔から人間は全員が聖人君主などではない)。経済だ、という人もいますが、結局そういう人も政府主導で再配分すれば良くなると思っているので、系全体としては何も変わらない。

すべては非自然的に増加する「バーチャルな通貨という概念」に合わせて、現実側の価値を決めようとするから歪が起きるのです。これは、インフレ率がどうこうで収まる話ではない。そもそもインフレやデフレ、国家破産や「金が金を生む」イカサマができるシステムそのものに欠陥があると思う。
シルビオ・ゲゼルのロビンソン物語

近代というのは本来マイノリティーだった金貸しが、国家や国際企業・組織を乗っ取っておおっぴらにやれるようになったという時代なんですね。あまりに「おおっぴら」だから、皆が常識だと思ってますが、本来、そうではないわけです。

私のような凡人にもそれがわかるくらいですから、逆に言うと彼ら側はもっとその限界に気付いていると予想します。そして次の手を打つ際にスケープゴートとして「儲けすぎた」連中を「また」槍玉に上げて、本家はその延命を図ると予想しています。

>このシステムの操作側にいる人間と戦おうとすると、ナチスのように破滅する運命にあるということはわかります。ナチスは、政府の所得再分配機能という武器を使って、減価しない通貨を支配するユダヤ資本と戦ったのではないでしょうか。しかし、結局敵の作ったフォーマットの上でバグを起こすしかできませんでした。

これもとっても鋭いです。まさにその点がナチスが国民に支持された所以です。また、そのナチスのやり方というのはフォード(米国地場産業の成功者)のやり方を真似したものです。フォード自身も当初はナチスを支持しています(http://www.nagaitosiya.com/a/fordism.html)。しかしナチスは攻撃する相手と戦略を間違えたわけです。ナチスの失敗は非常に良い勉強材料です。晴耕雨読にもこれに関連して極めて興味深いエントリーがあります。
http://sun.ap.teacup.com/souun/133.html
http://sun.ap.teacup.com/souun/602.html
http://sun.ap.teacup.com/souun/603.html

>だから、レベルをずらして、管理通貨制度のそとで戦うしかないんですよね。

そうなんです。長いこと悩んできましたが、やっと、戦略らしきものが見えてきました。それにこの戦略が成功すれば、最終的には当の「彼ら」ですら、救われるわけです。結局それが第3の道なのです。