木走日記さんに月刊Will8月号に掲載されていた「百人斬り競争」野田元少尉の手記(南京軍事裁判での死刑判決後に書かれた遺書)の抜粋が紹介されている。
(「百人斬り競争」や手記の詳細についてはぜひ元のブログを見て欲しい。http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060808/1155021588)
紹介されていた野田元少尉の手記をここにも転載する。「百人斬り競争」の事件が事実か否かはともかくとして、まずは読んで欲しい。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
『月刊WiLL 8月号』より12月28日の該当個所を引用。
一。日本国民に告ぐ
私は曽って新聞紙上に向井利明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。「馬鹿野郎」と罵倒嘲笑されても甘受致します。
只、今般中国の裁判に於て俘虜住民を虐殺し南京に関係ありと判定させられましたことに就ては私は断乎無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京に於て百人斬のをやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以て今後中日間の怨みや讐(あだ)や仇(かたき)を絶対にやめて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様な馬鹿げたことのいけないことは常識を以てしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。
中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以てするなら中国人にも解らない筈はありません。
至誠神に通じると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは「敬天愛人」と申しました。何卒中国を愛して頂きます。
愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中日提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に到達し得た事を以て日本国民も之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以て神が教示されたのです。
日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は「愛」と「至誠」です。
此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈り致しまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。
桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。
(月刊WiLL 8月号 P.220~P221より抜粋)
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
確かにこれは血の叫びである。私は本当に胸が締め付けられる思いがする。
そして今靖国神社に祀られているいわゆる戦犯(=昭和受難者)の方々が、当時どのような気持ちを抱いていたのかを改めて考えている。
中国や韓国(そして米国)の理不尽な批判に、まっとうな態度で批判し返すことはもちろんこれからも重要である。国際社会における日本人の「名誉」のための戦いは、未来永劫続けなければならないだろう。また、先の大戦で亡くなった英霊に祈りを捧げることは国民の義務であり権利であることも間違いない。
しかし、もし私たちが中韓に対する「面子」だけにこだわって首相の靖国参拝や今後の強硬姿勢を望んでいるのだとすれば、私たちは二重に父祖のメッセージを読み違えてはいないだろうか。
私たちが望むべきは、「首相の靖国参拝」ではなく、なるべく多くの「一般国民」の靖国(護国)神社への参拝ではなかろうか。そのための神社のあり方の検討ではないか。
また国際的には「死を賭してでも」、日本と周辺国関係の安定を図り、繁栄の基盤を築く決意こそが必要なのであり、その決意に基づいた不屈の戦略を練ることが重要ではなかろうか。
冷徹に他国の謀略に巻き込まれないための国防戦略が必要なことは間違いない。しかし(だからこそ)、怒りで我を忘れ、面子を保つためだけに父祖の命を無駄にすることがあってはならない。
本当に私たちが耳を傾けなければならない言葉は、今多くの雑音やフィルターによって遮られている。
私たちはまずこの現実に気づき、言われなき批判と戦いながらも、日本の父祖の本当の心を後の世に伝えていくべきだ。
(「百人斬り競争」や手記の詳細についてはぜひ元のブログを見て欲しい。http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060808/1155021588)
紹介されていた野田元少尉の手記をここにも転載する。「百人斬り競争」の事件が事実か否かはともかくとして、まずは読んで欲しい。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
『月刊WiLL 8月号』より12月28日の該当個所を引用。
一。日本国民に告ぐ
私は曽って新聞紙上に向井利明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。「馬鹿野郎」と罵倒嘲笑されても甘受致します。
只、今般中国の裁判に於て俘虜住民を虐殺し南京に関係ありと判定させられましたことに就ては私は断乎無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京に於て百人斬のをやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以て今後中日間の怨みや讐(あだ)や仇(かたき)を絶対にやめて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以て血を洗うが様な馬鹿げたことのいけないことは常識を以てしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以て中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいです。
中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以てするなら中国人にも解らない筈はありません。
至誠神に通じると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは「敬天愛人」と申しました。何卒中国を愛して頂きます。
愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中日提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に到達し得た事を以て日本国民も之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以て神が教示されたのです。
日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は「愛」と「至誠」です。
此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈り致しまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。
桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。
(月刊WiLL 8月号 P.220~P221より抜粋)
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
確かにこれは血の叫びである。私は本当に胸が締め付けられる思いがする。
そして今靖国神社に祀られているいわゆる戦犯(=昭和受難者)の方々が、当時どのような気持ちを抱いていたのかを改めて考えている。
中国や韓国(そして米国)の理不尽な批判に、まっとうな態度で批判し返すことはもちろんこれからも重要である。国際社会における日本人の「名誉」のための戦いは、未来永劫続けなければならないだろう。また、先の大戦で亡くなった英霊に祈りを捧げることは国民の義務であり権利であることも間違いない。
しかし、もし私たちが中韓に対する「面子」だけにこだわって首相の靖国参拝や今後の強硬姿勢を望んでいるのだとすれば、私たちは二重に父祖のメッセージを読み違えてはいないだろうか。
私たちが望むべきは、「首相の靖国参拝」ではなく、なるべく多くの「一般国民」の靖国(護国)神社への参拝ではなかろうか。そのための神社のあり方の検討ではないか。
また国際的には「死を賭してでも」、日本と周辺国関係の安定を図り、繁栄の基盤を築く決意こそが必要なのであり、その決意に基づいた不屈の戦略を練ることが重要ではなかろうか。
冷徹に他国の謀略に巻き込まれないための国防戦略が必要なことは間違いない。しかし(だからこそ)、怒りで我を忘れ、面子を保つためだけに父祖の命を無駄にすることがあってはならない。
本当に私たちが耳を傾けなければならない言葉は、今多くの雑音やフィルターによって遮られている。
私たちはまずこの現実に気づき、言われなき批判と戦いながらも、日本の父祖の本当の心を後の世に伝えていくべきだ。