減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

『喪の仕事』

2006-06-05 20:59:41 | Weblog
国家の品格がらみで、以下のブログのエントリーを発見し、感銘を受けました。

厳粛なcollage/性・宗教・メディア・倫理
『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ
http://may13th.exblog.jp/3170266/

私の父も、50歳を前にして、癌で亡くなりました。

闘病生活は長かった。
否認→怒り→取引→抑鬱→受容という段階を見届けました。
その過程でそれまでの父親像が崩れ去ることもあった。
しかし、最後まで父らしいと思える部分もあった。
死と言う身体性が父の精神性を侵し、それでも残る何かを現場でまざまざとみた。

確かにみた。

しかし父の死後、それら一連のことをどう受け止めてよいのか、心の中で判然としないものが大量に残された。

その後の「喪の仕事」は長く、そして現在も続いている。

私の父の像が、上のブログで紹介されている沢木耕太郎の父や新田次郎とだぶる。

父親像の超克が未完成なまま、その原因を探りまくって、判ったこと、そしていよいよ判らないことが増えた。

私が父の死後、戦後民主主義の問題、戦前・戦中の本当の歴史を知りたいと思った衝動は、父を再評価しようとする気持ちにつながっていたようだ。

あるがままを認めようとする切実さ、同時に美化したいと思う気持ち、その両方が私の心の中にはある。


『しかし、“無名の人の無名の人生”の“無名性の中にどれほど確かなものがあった”のか。
 国家に品格があろうとなかろうと。
 だから、“それでよし”と私も言う。』
(厳粛なcollage/性・宗教・メディア・倫理-『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ)



それでよし。

涙がでます。



先日父の父である祖父も亡くなりました。
生きているうちに聞いておけばよかったと思うことが今たくさんあります。

批評:国家の品格 

2006-06-04 21:08:52 | Weblog
ベストセラー「国家の品格」を読みました。

また、以下のブログのエントリーで非常に活発な議論が展開されているのを今日知りました。
池田信夫blog「国家の品格」
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2b365b2a38ca7996074020857aca73c4

確かに「国家の品格」というタイトルは内容に沿っていないですね。
本の内容については各論としてうなずける部分や感動する部分はあるのですが、やはり私もどっちかというとこの本の内容には批判的です。どうしても納得できない感覚が読後に残りました。

とくに気になるのは「論理だけでは限界があって、その前提となる情緒や形が大切」というこの本のテーマともいえる部分。このことを鵜呑みにして、そもそも論理が嫌いで思考停止しやすい人たちが、「私の情緒や形は立派だから大丈夫」と居直ってしまいそうな気がします。いわゆる伝統的道徳の途絶えたところに、そういう勝手な思い込みだけがはびこるとしたらそれこそ亡国ではないでしょうか。

また一見、非論理的な「情緒や形」というものも、「世の役に立つ」ためには論理的プロセスの中で洗練される必要があると思います。例えば、日本人よりもはるかに議論好きなイギリス人の伝統なり文化に対する謙虚な姿勢というのは、自分たちの文化が十分そういうプロセスを経ているという自負に支えられている、とイギリス滞在中に私は感じました。この本の著者もイギリス滞在経験をもとに語っているのですが、なぜかこの部分を二者択一にしている。著者は、「論理の大切さはたくさん言われすぎているから、あえて言わない」といっていますが、そこはやはり分けるべきではない。

いずれにしてもそうした知的な切磋琢磨の作業なしに「情緒と形」さえ復活させれば、最低限はクリアできるという考えは、やや危険だと感じます。伝統的文化やエリート層というものがほぼ絶滅している今日の日本においては、なおさらその思いは強いです。

著者の藤原さん自身は、「そういう知的作業」は当然の前提として「情緒や形」が大切と言っているのかもしれませんが、そう思えるのはたぶん彼がアメリカやイギリスに留学し「論理の有効性と限界」に挑戦した経験があるから、だと思います。私はそうした経験や必要性を感じない一般大衆が、知的作業を抜きにして正しい情緒と形を世の中にうまく生かすことができるとは思えません。今日必要なのは、「情緒と論理」のどちらが大切かという議論ではなく、むしろ両者を切磋琢磨するための必要性をどれだけ多くの人が感じているか、ということだと思います。しかし「国家の品格」ではそのことがほとんど触れられていません。

また、著者のいう「真のエリートが必要」という部分にも大きな疑問があります。いわゆる欧米のエスタブリッシュメント達は、自分たちの権益と財産を守るということを非常に冷徹に考えている。その根底には、自らの権益と財産を守るためには愚民を啓蒙・操作し、自らを崩壊させるリスクを抑えようとするエゴイズムがある。彼らがいうところのエリート教育というのはそういう思想に基づいている、と感じます。

ひるがえって今の日本では、そうしたエリート層を意識することはほとんどなく、もともと欧米のようなエリート文化が希薄な国です。したがって、今の日本から、大衆が従うような真のエリートを生み出すというのはかなり非現実的です。また、すでに日本の大衆には(それが良いか悪いかは別として)「自由・平等」の意識はしっかりと根付いています。そういう人たちに、「このエリートに従えばもっと世の中が良くなるから、あんた達の自由と平等は制限します」、といって同意が得られるでしょうか。もし強引にそれを実施するなら、近代の日本文化と民主主義を潰して革命を起こす、ぐらいの覚悟を持ってやらないと無理でしょう。著者にそういう覚悟があって言っているのか、理解に苦しみます。

また、多数の国民に武士道を身につけさせるのも今日では不可能でしょう(例えばバイトで雇った店員に、「武士道」を説くようなシーンを考えて見てください)。武士道やノーブリス・オブリージュのようなエリート哲学を必要とするのは、今でもせいぜい組織のトップや管理職の一部でしょう(それも自覚のある人だけであって、押し付ける=教育することは困難)。惻隠の情については、普通の道徳教育の範疇であり、武士道というエリート哲学を持ってくる必要性は感じません。

このあたり著者は深く考えていないか、考えてはいるけど、はっきり言うと読者の反発が予想されるので故意に伏せている部分だと思います。後者だとしたら著者のモラルを疑ってしまいます。

著者のいうように過度な自由と平等を国民が要求しすぎると社会不安と非効率性が増すという指摘は私も理解できます。これに対してはなんらかの対策が必要と思っていますが、残念ながらあまり良いアイデアはありません(漠然と「過剰な金(カネ)本位主義からの脱却」、「家庭および職業意識に関するルネッサンス」、「地域社会の再構築」がキーワード、とは思っていますが)。

教育論としても、子供にまず理屈ではなく、だめなものはだめ、こうしなさい、と教えることは当然の常識と思います。それができない親は親失格です。これはもう武士道とは全然関係ないことで、「親教育」をもっと熱心にやればよいのです。

国際社会の認識についても確かにまずは自分の「郷土」や「国」が大切という認識を持つべきとは思いますが、それと「武士道」というエリート哲学を繋げるのはやはり危険だと思う。半端なエリートが過剰な愛国心(祖国愛)を持つと失敗することは歴史が証明しています。ただし、日本の現状として国益について逆転した思想を持っている人たちがいる、という問題は深刻だと思います。この問題については、スイスの「民間防衛」のような精神にその解を求めるべきでしょう。

やはり憂うべきは、「国民の品格」と思います。
私は「武士道」は組織の責任者など自覚のある人が、せいぜい「努力目標」に掲げてがんばるぐらいが良いと思います。
そして庶民が本当に守るべき日本の伝統的良識は、以下のようなものだと思っています。

『安易な精神論や功利主義に陥ることなく、自分の仕事にプライドを持って、心・頭・体をバランスよく活用し、根気強く世の中に貢献する。その中で「守破離」を経験し、知識や技、見識を深めていく』

この考えは「武士道」よりもずっと日本の庶民に定着していると思います。危機的状況に必要なのは現実から乖離したエリート哲学ではなく、今現在に残っている庶民の良識と活力ではないでしょうか。


「一隅を照らす、これ国の宝なり」  最澄


武士道より私はこちらの言葉の方がずっと好きです。
シンプルで、深くて、美しい。歴史の重みがある。
これぞ日本の美!

グローバル化の波を乗り越えるために必要なのは、エリート哲学ではなく、一隅を照らすことのできる国民一人一人の理知と技、不断の努力、そしてそれを正しく認める人々の良識、だと思います。