国家の品格がらみで、以下のブログのエントリーを発見し、感銘を受けました。
厳粛なcollage/性・宗教・メディア・倫理
『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ
http://may13th.exblog.jp/3170266/
私の父も、50歳を前にして、癌で亡くなりました。
闘病生活は長かった。
否認→怒り→取引→抑鬱→受容という段階を見届けました。
その過程でそれまでの父親像が崩れ去ることもあった。
しかし、最後まで父らしいと思える部分もあった。
死と言う身体性が父の精神性を侵し、それでも残る何かを現場でまざまざとみた。
確かにみた。
しかし父の死後、それら一連のことをどう受け止めてよいのか、心の中で判然としないものが大量に残された。
その後の「喪の仕事」は長く、そして現在も続いている。
私の父の像が、上のブログで紹介されている沢木耕太郎の父や新田次郎とだぶる。
父親像の超克が未完成なまま、その原因を探りまくって、判ったこと、そしていよいよ判らないことが増えた。
私が父の死後、戦後民主主義の問題、戦前・戦中の本当の歴史を知りたいと思った衝動は、父を再評価しようとする気持ちにつながっていたようだ。
あるがままを認めようとする切実さ、同時に美化したいと思う気持ち、その両方が私の心の中にはある。
『しかし、“無名の人の無名の人生”の“無名性の中にどれほど確かなものがあった”のか。
国家に品格があろうとなかろうと。
だから、“それでよし”と私も言う。』
(厳粛なcollage/性・宗教・メディア・倫理-『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ)
それでよし。
涙がでます。
先日父の父である祖父も亡くなりました。
生きているうちに聞いておけばよかったと思うことが今たくさんあります。
厳粛なcollage/性・宗教・メディア・倫理
『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ
http://may13th.exblog.jp/3170266/
私の父も、50歳を前にして、癌で亡くなりました。
闘病生活は長かった。
否認→怒り→取引→抑鬱→受容という段階を見届けました。
その過程でそれまでの父親像が崩れ去ることもあった。
しかし、最後まで父らしいと思える部分もあった。
死と言う身体性が父の精神性を侵し、それでも残る何かを現場でまざまざとみた。
確かにみた。
しかし父の死後、それら一連のことをどう受け止めてよいのか、心の中で判然としないものが大量に残された。
その後の「喪の仕事」は長く、そして現在も続いている。
私の父の像が、上のブログで紹介されている沢木耕太郎の父や新田次郎とだぶる。
父親像の超克が未完成なまま、その原因を探りまくって、判ったこと、そしていよいよ判らないことが増えた。
私が父の死後、戦後民主主義の問題、戦前・戦中の本当の歴史を知りたいと思った衝動は、父を再評価しようとする気持ちにつながっていたようだ。
あるがままを認めようとする切実さ、同時に美化したいと思う気持ち、その両方が私の心の中にはある。
『しかし、“無名の人の無名の人生”の“無名性の中にどれほど確かなものがあった”のか。
国家に品格があろうとなかろうと。
だから、“それでよし”と私も言う。』
(厳粛なcollage/性・宗教・メディア・倫理-『国家の品格』を超えて/『無名』の確かさ)
それでよし。
涙がでます。
先日父の父である祖父も亡くなりました。
生きているうちに聞いておけばよかったと思うことが今たくさんあります。