減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

『虚構と陰謀の世に「大和魂」を失うことなかれ』

2006-07-24 17:40:41 | Weblog
以前紹介した石橋湛山の「改革いじりに空費する勿れ」(昭和11年4月25日『東洋経済』社説)を真似て書いてみました。

筆者のみるところ、日本人の一つの欠点は、外からの影響を受けやすく、その度に左右にふれ過ぎる癖だと思う。この「浮遊病患者」には、大きく二つの弊害がともなう。第一は陰謀やプロパガンダに乗せられやすいということだ。主体的な解決が求められている時に、偏ったイデオロギーにのみ囚われ、思考停止に陥りやすい。第二に偏ったイデオロギーに重点を置くが故に、対抗勢力の打倒や社会の変革にこだわりすぎる点である。そこに危険があるのである。

これは右翼と左翼とに共通した傾向である。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を戦争責任や体制批判に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術に対抗するうちに、現在の右翼は何時の間にか「反共・従米」や自由競争などのプロパガンダに染まっている。疲弊した戦後の社会体制は、改変されねばならないだろう。しかしながら忘れてはならないことは日本人の「心」や「伝統」、「風土」まで捨てずとも、充分に社会を改善する方法はあるということだ。大切なのは国民が、日本国民としての「誇り」と「使命感」を持って、社会繁栄と護国のための努力を続けることだ。


湛山のように先見の明があるかどうかはわかりませんが、以上の言葉を今の世に捧げます。


そして、今度こそしばらく筆を置きます(ふぅ)

陰謀論の一時保留と整理

2006-07-24 11:42:57 | Weblog
昨晩書いたエントリー「確信」ですが、取り下げます。
別に某所から圧力がかかったわけではありません(笑)

ただ、一連の事実関係をもう少し時間かけて冷静に調査、整理、観察したいと思います。
一言でいうと「できれば妄想であって欲しい」で述べたような洋の東西の「カルト」による陰謀論は、もともと自分が調べてきたテーマ(「近代の超克・愛国心・環境論」)から逸脱し、持てる情報に限界がでてきたということです。

今わかっているのは「岸信介・児玉誉士夫一派」「勝共連合・統一教会」「北朝鮮」「安倍氏」のつながりについてであり、これは「千思万考」さんの一連のエントリーで優れた考察がなされています。私のような素人よりも具体的な情報に基づいておりますので、上記の関係についてかなり確信できると思います。

また、洋の東西で似非左翼の全体主義者とウヨクカルトが一見マッチポンプをしているように見えることについても、それは「解釈」の一つであり、本当にどこまで連携してやっているのか、むしろ単に都合のいいときだけお互い利用しているだけ、というのが妥当ではないか、と思えてきました。
そもそもアメリカと中国・北朝鮮では、日本に対する利害関係がまったく違いますから。

つまり日本経済が混乱に陥って一番困るのは、中国や韓国そして北朝鮮ということです。彼らにとっては日本からどれだけ多く搾取できるかは気にするでしょうが(そのための工作は色々やるでしょうが)、逆に直接戦争を起こすメリットは少ないと思います。日本にとって大切なのは、彼らの工作をストップさせることと、あくまでも毅然とした態度と実行力のある圧力でもって国際問題の処理(とくに拉致問題等の犯罪行為解決)にあたるということです。

そういう目で見るとむしろ今後危険なのはアメリカ親日派の「ネオコン」のような存在です。東アジアにおける軍事的脅威を煽って、一番得するのは彼らでしょうし、「バック・パッシング」を仕掛けてきているのは確かだと思います。またその点で、「小泉・安倍政権」が非常に親米ポチである、というのも疑いないでしょう。小泉政権に対する私の評価は、前半は功罪「4:6」程度でしたが、現在「0:10」に限りなく近づいています。そして「安倍政権」になるともっと悪くなると予想しています。

「富田メモ」が以上のような彼ら側の利益(東京裁判史観の受け入れと日本のアメリカ属国化)に基づく陰謀である可能性については「非国際人養成講座」さんの「昭和天皇ご発言メモ報道に隠された悪意」が一番納得できました。また、「大和ごころ。ときどきその他」さんのエントリーやそのリンク先のご意見にも納得です。

これでいよいよ既存メディアが「朝日」「日経」はもちろん「産経」も信用できなくなったのは言うまでもありません。

「靖国神社」に対する私のスタンスは、天皇陛下がご親拝いただくための「靖国改革」(解決オプションは複数)または新たな国設慰霊施設(仏教系)との共存です。「靖国」を廃止し、その代替として「無宗教」の新施設を設置することには反対です。戦没者追悼における文化・伝統としての宗教、そして「皇室」の権威の維持は日本国・国民の尊厳にとって重要と思います。もちろん政治利用などのない英霊の鎮魂が大切なことは言うまでもありません。

また、ネット上における「小泉・安倍」マンセーサイト、「反中韓」「北朝鮮脅威論」サイトに統一教会やアメリカ側のバックアップを感じさせるものがあり、これらに要注意と思いました。ただ、冷静に見ると確信犯と単に影響されている人の区別は難しいとも感じます。少なくともすでに多くの人が指摘している「チャンネル桜」はかなり黒だと思います(統一教会・勝共連合関係のテーマは完全にスルーですので)。加えて皇室や日本の伝統に対するスタンスがあいまいな人達、政治力や憲法(改正)を無視した軍拡を唱える人達も確信犯かどうかはともかく、彼らに利用されやすいという意味で危険かと思います。


いずれにしても、私の関心は「反中韓」から、「従米」派の人々の動きに移ってきました。これは今後も注意深く観察を続けたいと思います。
「利米」的視点(アメリカの誰と付き合い、日本とアメリカでWin-Win関係をつくるか)が重要というのは今も変わりません。ただ「利米」にどうしても無理がある場合はだけでなく、「利中」「利露」「利韓」的視点も同時に持っておいた方が良いという認識もでてきました(アメリカと一対一でWin-Winな関係が構築できない場合の取引材料として)。

国際的に毅然とした態度が要求されることと、破滅的な戦争を回避するための選択(軍事力の行使も肯定した上で)というのは、別個に考えることが必要だと思います。

「国体明徴運動」や「国家社会主義改革運動」「革新官僚」およびそれらが日本社会に及ぼした影響については今後も地道に調査を続けたいと思います。

そしてしばらく筆をおきたいと思います(仕事も忙しくなってきましたので)。

この一週間、多くの方々のおかげでとても勉強になりました。ここでお礼を申し上げます。

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訂正1:特定アジア国際関係の処理等について、加筆・修正。
訂正2:「利中」を取り消し、「利露」「利韓」を加え、多極による「対中戦略」に修正。

修正と補足:「今だからあえてする靖国論と安倍氏批判」

2006-07-22 20:20:59 | Weblog
先のエントリーで以下の部分修正しました。

真の「ナショナリズム」⇒真の「愛国心」
重要です(^^;

また以下補足します。

先のエントリーでかぎ括弧つきで書いた「神道」は日本の伝統的な神道とは分けて考えています。伝統的な神道は全く問題ありません(自分の結婚式も神前でしたし)。私のいう新興宗教のような「神道」とは、明治以降の国家体制を支える「皇国史観」と結びついた「神道」です。これは間違いなく日本の伝統的神道とは異なった特性を持っています。この「神道」は、国家体制としての「天皇制」を権威付けるため人工的に合成された似非宗教、「イデオロギーの片輪」のようなものだと思います。よって、広く人間を救済するための「寛容さ」がなく、先に述べたように「靖国神社」に祀られない「英霊」がいるという現状につながるわけです。

しかし、私はこの「神道」ができた過程を全て否定するつもりはありません。明治の時代には欧米の侵略に対抗し、「皇国史観」に基づき国家を固めるイデオロギーが希求されていました。その頃のイデオロギーの片輪としての「神道」の必要性は察してあまりあるものがあります。しかし、昭和の戦前、立憲君主国家として充分に成熟し、経済・軍事力のある大国となった日本には、もはや明治の頃に作った「神道」や「皇国史観」は必要性が低下していたと思います。実際、「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉や、教育勅語の改定に取り組もうとした西園寺公房はそのことを充分認識していたと思います。そして、彼らの「まともな主張」が通っていれば、(戦争が避けえなかったとしても)日本はもう少しまともな道を歩んでいたのではないかと思います(そうであったらなぁ、と夢想しますよ、ほんと)。

しかし、当事の日本は逆噴射のように、彼らを否定し、「皇国史観」とその権威付けである「神道」を強化してしまいました。おそらく特定組織・集団が自己利益を守るためにこのイデオロギーを悪用したように思います。また多くの国民がそのことが見抜けず、皇国とアジアの更なる繁栄につながると夢想して支持しました。そして、その後の「国体明徴運動」においてこのイデオロギーは徹底され、思想統制の時代に入っていったと思います。私はこの「国体明徴運動」こそ、人工的新興宗教「神道」を日本古来の宗教・道徳であると偽って教育や生活全般に導入し、日本本来の文化や民主主義を破壊し、今なおその呪縛で一部の人の心を縛っている正体だと思います。

むしろ、この運動の前までは、「皇国史観」と「神道」は、イデオロギーとして日本の伝統的宗教や道徳とは別ものとして人々に捉えられていたのではないかと推察します(そうでなければ美濃部のような博学は生まれないでしょう)。それがなぜ全体主義の進行と同時に「国体明徴運動」を政府・国民が一丸となって広めていったのか、この流れについて、日本人はもっと社会科学的な視点で、自分たちの歴史や社会を解析する必要があるでしょう。またそれは同時に、なぜ『全体主義と共産主義の相性がよく、ともに人間性を犠牲にする体質がある』のかという問いに通ずる課題だと感じます。また日本人の組織における『村社会』形成が諸刃の剣であることも意識すべきでしょう。

ただ、社会とは、必ずしも「大脳」による合理性的な進化に基づくことが幸せなのではなく、ときに人間の伝統や多様性、非合理性を否定しない形である方が、安全な面があることを私たちは忘れてはいけないと思います。近代とはまさにその両者のせめぎ合いであり、私が「近代の超克」にこだわってきた根っこがそこにあります。そして戦前「国体明徴運動」を推進し、戦後「文化大革命」を無批判に肯定したメディアや知識人・政治家は、この点を充分に反省してもらいたいと思います。そう最近まで「悪平等」や「官僚主義」を支え、今踵を返したように「グローバリズム」や「敗者の存在」を無批判に肯定しているあの人達のことです(笑)。

いずれにしても、私たちの一番の悲劇は、以上のような戦争や戦前の社会のことを「平らに」論じるための材料と雰囲気が、国民の教養として与えられてこなかったということだと思います。戦後60年間、日本の政治にはアメリカおよび中国の両方からエージェントが送りこまれ、戦前の日本社会における責任が問われると困る一部の人々も両者に同調したため、一般国民は二重どころか三重に洗脳されてきたのだと思います。私たちの社会の振れ幅が大きいのは、確かに私たちが未熟な部分もありますが、彼らの策略があったことも否定はできません。

結局そのどちらにも直感的に疑問を持つような人は、ずーっと戦後自らの「アイデンティティ」を探し、もがき続けてきたといえます。まさに私がそうでした。自分は「アカ」なのか「愛国者」なのか、両方から否定されて、すっかりひねてしまいました(笑)
しかし、そろそろその呪縛も解けてきました。ネットは新たなプロパガンダの場にもなっていますが、自分なりの定規さえ得られれば、既存メディアよりずっと情報は選択しやすく、呪縛の鎖を解くのに役立ちます。必要なのは、「考え抜く」根性だけです。その「根性」が自分に残っていたのは僥倖でした。

今重要なことは、戦前あった民主主義と全体主義のせめぎあい、そして選択ミスをした根っこの部分、これがまだ残っていて、今また同じ問題に囚われつつある、ということです。

さて、下のエントリーのコメントで、私は靖国神社へ参拝しないと書きましたが、もしこの「神道」の呪縛が解けるのであれば、ぜひ靖国へ行き、護国の戦いで亡くなった英霊達に祈りを捧げたいと思っています。私が靖国神社に求めることがあるとすれば、「A級戦犯」の分祀ではなく、戦前イデオロギー「神道」からの決別です。そのためには、カトリックの過去の過ちを認めたローマ法王のように、怖れながら天皇陛下自らが「靖国神社」と「神道」の歴史を認め、明治以降に「心ならずも」逆賊の汚名を着せられたまま散華していった日本人の名誉を回復していただくことが最良の方策と思います。そしてその後、天皇陛下自らが、靖国に御親拝いただければ、これほどすばらしいことはありません。

しかしそれが無理であれば、先のエントリーで紹介した大磯先生の提案(靖国神社に「加えて」、仏教等の国設慰霊施設を設立し、靖国神社と共存のもと、天皇陛下の御親拝を受ける)で充分であるとも思います。

靖国神社について「心の問題」を口にするなら、国家の首相は以上のことを十分認識してほしいところです。

(が、阿部氏には期待できないでしょう。また、恥ずかしげもなくイスラエルに阿って、ユダヤ教徒を演じる破廉恥首相にも期待しません)

また最後に、靖国論について私がとても納得できる論説を述べている方がおりましたので紹介いたします。

千思万考
「昭和天皇陛下のご発言メモ」
http://plaza.rakuten.co.jp/totojuni/diary/200607210000/

今だからあえてする靖国論と安倍氏批判

2006-07-20 23:03:51 | Weblog
昭和天皇の意思として、発表された日経新聞の記事が「靖国」問題について新たな波紋を投げかけている。

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昭和天皇の意志、明確に——時代の貴重な証言、富田元長官、日記や手帳に。
2006/07/20, 日本経済新聞 朝刊
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ(原文のまま)
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てっくさんのところや色々なところで議論されているように、手帳に記された内容については、かなり疑問があり、作為性を感じる部分が多い。また、仮に昭和天皇が一部の戦犯に対しなんらかの判断をしていたとしても、天皇陛下が靖国神社を参拝するかしないかは、それだけで決まるものではなかろう(宮内庁を介しての総合的判断が必須)。さらに昭和天皇が心底彼らのことを嫌っていたのが事実だとしても、靖国神社に祀られる大勢の英霊に対する参拝を中止する理由にはならないと思える。やはり昭和天皇が靖国参拝を止めた直接のきっかけは、三木首相の「公人・私人」の参拝問題にあると考えるのが妥当だろう。

また、手帳の内容の真偽はともかく、この時期に出てきたことを考えると、この記事の目的は、おそらく靖国神社参拝肯定派、すなわち安倍氏に対する揺さぶりと思える。あるいは逆に後日手帳の内容の嘘を暴くことによって反動を起こすための工作かもしれない。なんとなく民主党永田氏の偽メール事件に似た作為を感じる。いずれにしても、故人である昭和天皇の心情に係ることを利用(悪用)して、「政治の観天望気」をやろうとするその行為は、なんとも不敬であり、心底嫌な気分になる。

しかし、しかしである。
私は靖国神社についての議論は、「この手帳の内容がウソであろうと本当であろうと」、本当はもっと平らな観点からやらねばならないことだと思っている。

つまり、「連合国による東京裁判史観」ではない、日本人自らの大東亜戦争の反省や総括に基づいた「靖国神社」考というものが今求められていると感じている。きっかけが陰謀であろうと、なかろうと、もともと避けて通れない問題だと思っている。いや、陰謀に踊らされないためにも、しっかりとした「靖国神社」についての認識を持つべきだ。


よって、どうしてもここで私なりに述べたいことがあるが、長くなるのではじめに結論を書く。

感情的になればなるほど、「靖国」を政治カード化したい人達が得をするだけだ。今回の記事の狙いはまずそれを狙った陰謀だ。むしろ「靖国」だけを慰霊施設として特別視しないことが、実は「靖国」問題の解決策なのである。

以下反論はあると思うが以前から言いたかった持論を述べる。

「靖国神社」に関する問題は、二重の意味でねじれている。そのうち一つは紛れもなく、「東京裁判史観」であり、それに基づいた中韓鮮の反日プロパガンダだ。しかし、これらは今急速に風化しつつあるように感じる。もともと日本の外交のミスにつけこんだ問題であり、外交が正常なセンスを回復すれば、これに対抗することは当然である。このことについて私は日本政府の対応を評価しているし、今後もしっかりと「靖国神社」が政治カードにはならないことを主張すべきである。

しかし、「靖国神社」に関するもう一つの「ねじれ」は日本人自身の問題だ。すなわち東京裁判史観や反日プロパガンダが、全くなくなったとして、「靖国神社」が、全ての日本国のために身命を失った人々の鎮魂施設として適切かどうか、と言う点だ。靖国神社が国の英霊たちを祀る唯一の施設だと思って疑わない人は、以下の論説をよく読んで欲しい。

「縄文・弥生のハイブリッドシステムを忘れるな」萬晩報2005年06月19日・園田義明

とくに重要な部分を抜粋する。
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 1869年(明治2年)に靖国神社は、明治天皇の思し召しによって戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建された。設立当初は東京招魂社と呼ばれたが、1879年に靖国神社と改称されて今日に至っている。

 一部に敵味方を問わず国のために身命を失った人々を弔う場とする見方もあるようだが、中国・韓国以前に会津出身者に申し訳ない。よく比較に出されるアーリントン墓地には敗北した南軍の兵士も弔われているが、靖国神社の場合、戊辰戦争の敵方であった会津白虎隊や西南の役で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は祀られていない。

 会津藩士族出身であり本物の右翼を自称した田中清玄は、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」と切り捨てる。確かに、戦前の靖国神社は長州・薩摩出身者の強い影響下にあった陸軍省、海軍省と内務省が管轄する別格官幣社であり、祭神の選定も陸・海軍省が行っていた。このことは靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎のいかつい銅像がなによりも象徴している。
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お気づきの方はおられると思うが、これまでのエントリーで「西郷隆盛」「田中清玄」などを出したのは、このことが念頭にあったからだ。私は、戊辰戦争や西南戦争で亡くなった人も、アメリカの南北戦争で亡くなった南軍と同様、立場は違えども護国のために戦った人達であると思っている。西郷隆盛の西南戦争の意義も、史実を追えば、死をささげた強烈な護国のメッセージであったことがわかる。戦争には負けたが、間違いなく、その魂は護国の精神として、「靖国神社」とは関係なく、今の世に生きている、と私は信じている。

先の大戦で戦士した兵士の魂も、「靖国」だけでなく、ふるさとの「鎮守の森」やお寺やお社にも戻っていったはずだ。

私は「靖国神社」に祀られている英霊達を否定するつもりは毛頭ない(A級戦犯であろうがなかろうが)。また現在「靖国神社」を信仰している人を批判するつもりもない。しかし、「靖国神社」が日本の英霊を祀る「平等な施設」であるとは思えない。天皇陛下や首相が靖国神社に参拝するのも構わないが、それでもって戦争で亡くなった人の魂が「全て」報われるはず、と考える人がいたらそれは傲慢な考えだ。

「靖国」以外にいる多くの英霊達は、肝心の日本人からも評価されずに、忘れ去られようとしている。
これが私にとってもっとも「やるせない」と思えることだ。
今回のような問題が持ち上がれば持ち上がるほど、物事の本質が見えなくなり、感情論が先走る。

私は日本という国、風土を心から愛している。天皇がこの国で続いてきたことをすばらしいことと思う。昭和天皇は心から尊敬できる君主であったと思う。
そこに偽りはない。

しかし、英霊達の鎮魂を靖国神社に代表させることには大きな抵抗感がある。これは理性ではなく、心の問題だ。事実、私には蝦夷人の血が流れている。不思議なことに、上記の論説を読む前から、愛国心に目覚めても、天皇は肯定していても、「靖国」だけは肯定できなかった。上記の論説を読んだときは、本当に心が「スッ」とした。

反日プロパガンダに屈して「靖国」を政治カードにしてはいけない。それはわかるし、その努力は今後も続けるべきだ。「靖国」に行きたい人は自由に己の信仰に基づいていけばよい。しかし私にとって「靖国」とはそこまでの対象でしかない。

私はいわゆる「靖国」周辺の「神道」には、どうしても「人為的な」においを感じる。それは私にとって(例えが悪くて信じている人には大変申し訳ないのだが)「統一教会」のようなものである。戦前の「靖国神社」「天皇制」「教育制度」がそんな「神道」に支えられているとしたら、私はそれを受け入れられない。

もし今の政府が、戦前と同様の「神道」を信じろ、というのであれば、私は間違いなく、反政府運動をするか「国家」を捨てるだろう。そして心の中の本当の「日本」を守るため、回復するための努力を試みる。西郷隆盛や田中清玄や高橋是清やわが蝦夷の祖先の魂を信じて。

日本人は「日本人にとっての戦前の反省・総括」ができていない。
左にしろ、右にしろ、目をつぶっている人が多すぎる。
だから、戦後の護国の方針やビジョンが描けないのだ。
だから、その不安定さやあいまいさにつけこまれたり、騙されたりするのだ。

信じるものを心の底から「信じる」強さと自分の頭で「考える」根性がないから、感情的に否定したり、騙されたりして、大きな痛手を食らうのだ。

自信を持って国際社会を乗り切るには、日本人は偏狭な「新興宗教」ではなく、伝統の深層に基づき、かつ現実を裏切らない真の「ナショナリズム愛国心」を身につける必要がある。
そのためには「ミサイル攻撃」も「悪意のある世論操作」も、良いきっかけに変えて、この際議論をとことん深める覚悟をすることが、今一番重要なことだろう。

で、批判だけでなく、実際に反日プロパガンダに屈せず、日本の英霊達の鎮魂をどうするか、方法があるのか?ということについてだが、実は非常に優れた提案がある。

「小泉訪米の直前、なぜ戦没者墓苑拡充案か」osio.net よむ地球きる世界平成18年6月26日

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・・・したがって、このこんがらがった政治問題を本筋に戻すには、天皇陛下が公的に(という必要もなく)靖国神社参拝を再開されるのが最善のシナリオです。それが実現すれば、続いて諸外国の賓客が慣例として花輪を捧げるようになる。無宗教の新施設など全く必要ないのです。

 むしろ、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を現状のような無宗教でなく、日本の仏教界の共同所管に移し、神道の靖国神社と一対(いっつい)のような存在にしたほうがいいでしょう。墓苑には海外から帰ってきた日本人の無縁仏35万柱が埋葬されています。お墓はお寺の所管というのが日本の伝統ですから、無縁仏に無宗教では永久に浮かばれません。

 その上で、両者を含む広大な地域を「慰霊地特区」に指定する。神社と寺が同居するのは日本独特の精神文化ですから、最も自然な形で同居させることによって、この問題は最終的に解決されるのではないかと考えます。
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これはすばらしいアイデアだと思う。
宗教の融合に基づく日本の精神文化や平和を願う気持ちを表現するためにも、現在考えうる最良の姿である。
麻生先生の考える靖国神社の改革案がぜひこの線であってほしいと思う。

そして、もう一つ別な結論がある。
それは、日経記事の真偽はともかく、やはり安倍氏は避けるべき人物である、ということだ。

彼は今の自民党でももっとも偏狭な「靖国神社」肯定者である。
そして先のエントリーに上げた全てのキーワードにつながる人物でもある。

彼こそ、その祖父岸信介児玉誉士夫が残した人脈を利用し、アメリカのキリスト教右派やネオコンと通じながら、朝鮮半島の危機をうまく演出して、日本の未熟な土壌にニセの「ナショナリズム」を醸成させ、日本をして「中国との戦争」へ誘導する、アメリカの「エージェント」だ。戦略的にいう「バック・パッシング」の仕掛け人だ。

たぶん彼は、戦前の「アジア主義」を、中国・米国の関係をひっくり返して「アメリカ主義」へと投射し、その実現を図っている。

その鍵は、戦前の「アジア主義」で満州や中国における利権を手にした岸信介や児玉誉士夫が戦後戦犯で捕まり、釈放されたことにある。その時に彼らはGHQと取引したといわれている。

その内容は、今なら察しがつく。

戦前の満州・中国で構築したあなた達の利権構造を、今度は「アメリカ」のために使って欲しい。

そういう内容だろう。
その後の岸信介や児玉誉士夫の行動、そして現在の安倍氏の行動はその観点で解析するとすごく辻褄があう。
統一教会は、岸・児玉・安倍のアジア人脈の鍵である。これらをうまく使えばマッチポンプで自分へ利益を誘導する工作もできそうだ。

信じれない人は、ウィキペディアで「岸信介」・「児玉誉士夫」をよく確認して欲しい。

そして先に紹介した園田氏の論説の中の以下の文章をよく見て欲しい。

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「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉を時の首相・鈴木貫太郎に送り、日本を終戦に導いた名僧・山本玄峰の元で修行し、「(陛下は反対であったにもかかわらず)どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と昭和天皇に直接伺い、山口組三代目組長田岡一雄とも親交があった田中清玄が許せない存在として名前をあげたのが岸信介・児玉誉士夫一派である。このあたりの『闇』はさすがの田中清弦も語るのをためらっているようだ。

 いずれにせよ岸信介の孫である安倍晋三が「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」(2005年5月28日)と札幌市内の講演会で発言した背景には、安倍の偏狭な長州史観が実によく表れている。

 また、小泉首相が薩摩の血を引いていることを考えれば、現在の靖国参拝問題は単なる薩長史観に国民全体が振りまわされているに過ぎず、薩長連合による靖国参拝が、分裂寸前の中国・韓国を結束させていることを考えれば、意外と裏では『闇』つながりの仲良し勢力が潜んでいるようだ。
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すでに安倍氏に有利な洗脳、プロパガンダが進んでいる。
しかし、歴史に学べば安倍氏の「アメリカ主義」についていくと日本人は大きな痛手を食らうことが明らかだ。ネオコンやキリスト教右派は、東洋の黄色いサルが多少痛い目にあっても、自分の利益を優先させたいだろう。

しかし、それでも今の日本にとってアメリカとの関係は、必要である。

では、どうするか。
安倍氏とネオコン・キリスト教右派の線を今の日本政治から外し、それ以外のアメリカのパートナーと手を組むべきだ。
そして何より、「日本人にとっての国防」とはなにか、ということをしっかりと考え、回りの国にビジョンを示すことだろう。

麻生氏が微妙に小泉・安倍の考えからずれたことを言っていることは注目に値する。
今はもう麻生氏にかけるしかない、と思っている。
しかし、本当に信頼できるかどうかは、今後も見守っていきたい。

以上、反論はあると思うが、ぜひ今こそ「惻隠の情」をもって心の問題を考えて欲しい。
断じて、このエントリーは、特定の人・集団・日本以外の国に利益を誘導するためにかいているものではない。

今までは反論を恐れ、やんわりとしか述べなかったが、今回の日経の記事に陰謀の影を感じ、この問題で余計に問題が複雑化し、昭和天皇や無垢なる英霊の魂が傷つくことを懸念している。

感情的になればなるほど、「靖国」を政治カード化したい人達が得をするだけだ。今回の記事の狙いはまずそれを狙った陰謀だ。むしろ「靖国」だけを慰霊施設として特別視しないことが、実は「靖国」問題の解決策なのである。

また、A級戦犯合祀の議論は、それ以降に一神社の方針として決めればよいのであって、大きな問題ではないと思っている(私は合祀に反対しません)。

私は日本のため、そして多くの人に気づいて欲しくて、このブログを書いている。
異論はあるだろうが、どうか信じて欲しい。

戦後マトリックス

2006-07-19 01:55:38 | Weblog
国連決議は評価できる。
正直よくやったと思う。

しかし、これは気のせいだろうか。

アメリカの産軍複合体のキーパーソンと朝鮮半島のキーパーソン、これらとうまく通じながら、マッチポンプをやって、日本人のうぶなナショナリズムと恐怖心を煽りながら、立場を強固にし、他人の犠牲の上に何かを得ようとしている人たちがいる、そんな気がしてならない。

誰が愛国の交渉人で、誰が彼の国のエージェントか?
「A・A連携」は本当の「連携」か?

今私の頭にあるキーワードは、ネオコン、キリスト教右派、統一教会、勝共連合、満州・朝鮮の利権と人脈、関東軍、生き残った戦犯とその血脈、だ。

彼らは今「日本をして、中国と戦わせろ」という命題のもと動いているのではないか。

そして、ウィキを眺めるととても気になることがある。

児玉誉士夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB

田中清玄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84

私は麻生さんはまだあっち側に行っていないと信じたい・・・が。


赤いピルか、青いピルか。
まさに今、その選択を求められている。

歴史を捻じ曲げてきたのは、教条主義のサヨクや中韓に阿る人々だけではない。
私達は未だプロパガンダの渦の中にいる!!!

本当の右翼も左翼もいないこの日本を、昭和天皇は、高橋是清は、西園寺公望は、西郷隆盛は、あの戦争で命を落とした英霊達や幕末の志士達は、どのようにあの世から見つめているのであろうか。。。

憲法改正は必要である。
だが、そのためには『本当の』右翼と左翼が必要だ。

「謀略」の世に我々がなすべきこと

2006-07-17 17:53:23 | Weblog
てっくさんのところで「親米派への問いかけ」って一連のシリーズが始まっていて、非常に読み応えがあり、興味深いのですが、「利米」派としてはやはりどうしても加えたい視点・意見があります。

まず日露戦争の後、日本は満州をアメリカと共同運営して、対ロシアで利害一致していれば「対華二十一ヵ条要求」に対するアメリカの態度は違ったものになっていただろうという視点です。そしてこれは決して荒唐無稽な話ではありません。

そのターニングポイントは、日露戦争の後、1905年にアメリカ鉄道王ハリマンが南満州鉄道の買収を持ちかけてきたとき、覚書を交わしながら結局断った「ハリマン事件」だと思います。この事件の背景には日露戦争を支援したユダヤ系国際金融資本(クーン・ローブ・グループ vs J・P・モルガン・グループ)の中国市場をめぐる勢力争いがありました。そして、その影響が後の歴史から現在にも繋がっていることを指摘しているのが、こちらの論説です↓
http://www.yorozubp.com/0410/041021.htm

実はハリマン事件の後も、日本には「彼ら」と対等に交渉できる人材(高橋是清や井上準之介など)がいたんですが、そういう人を太平洋戦争の前に日本人はテロでどんどん殺してしまうんですね。「ハリマン事件」そのものより、日本にとって一番の選択ミスはこの自国の有能な「ネゴシエーター」達を殺したり、迫害したことです。

で、これら「ネゴシエーター」グループから実権を奪った人達は、あろうことかユダヤ人を迫害しているドイツに接近していきます。この時点で日本の中心には「彼ら」と対等に交渉できる人がいなくなった、いや、いたけれども少数派になってしまい、またテロに狙われてうまく活動ができなくなった。

この時日本の実権を握ったのがアジア主義者や体制翼賛主義者です。これらの人々は国際的な現実主義を無視したロマン主義や官僚主義的な考えの持ち主でした。しかしながら、当事の国民はこれらの人々を国家を改革してくれると人達として期待し、支持しました。日本国にとっての戦犯が、この人達のなかにいると私は思っています。

ロマン主義や官僚主義におかされたこの当事の指導者は、おそらく欧米の「彼ら」をかなり甘く見ていました。しかし、多くの人が指摘・自覚しているように日本人は伝統的に謀略は苦手で、欧米の「彼ら」や中共・ソ連の方が上手です。日本人の謀略下手については、歴史的にどうしようもない部分があると思います。日本人の資質は謀略ではなくて、ルールや実利に基づいた説得や交渉に向いていると思います。

さて、当事日米にいろんなレベルでのギャップがあったのは事実だと思います。しかし、ここで大切なのはそのギャップを作り出したり、利用したりすると、「戦争」が起きて非常に儲かる人達がいると言う視点で見ることです。たぶんそういう筋金入りの商売人から見たら当時の日本人というのはとても操りやすく見えたのではないでしょうか。そして「彼ら」は日露戦争前後は日本をサポートしてくれました(ロシアがユダヤ人を迫害していたので)。しかし、太平洋戦争の前夜、彼らは上記のような日本をみて、「こりゃあかん」と思ったのでしょうね。

そして「彼ら」は日本を「サポート対象」から、「収奪対象」に切り替えた。その結果として例の「ハルノート」が出てくるのです。でたらめに「ハルノート」が出てくるわけではないのです。また、謀略の得意な中国・ソ連の連中もその動向をしっかり読んだ上で、対日工作をしていました。当事(今も?)日本にはたくさんのスパイがいました。戦後のはじめの容共やGHQの方針もほぼその線で理解可能です。

が、冷戦の危機が強まって、この方針が変わるわけですね。そのときに「彼ら」との交渉で活躍したのがあの「吉田茂」でした。つまり吉田茂は戦前の「ネゴシエーター」グループの生き残りです。で、その孫が今の麻生大臣ですね。

というわけで、戦争というのはいろんな誤解やギャップから起こると見せかけて、それらを利用して「ある特定の人達」が得するように、謀略によって起きる、という側面があると思います。なんといっても歴史を作るのは「人」ということですが、そこには表・裏のキーパーソンがいて、普通の人が知っているのはその表側だけなのですね。しかし歴史研究の専門家の中には、表と裏の連携がある程度わかっている人がいて、それはどういう人かと問われると、ネット上ではたぶんこの人この人この人だと思っています。

そして、その歴史に学ぶとすれば、日本国民は、「彼ら」と対等に交渉ができ、かつ愛国心の揺らがない人材をなるべく多く輩出し、支持する必要がある、ということです。
国民は政治家が日本をあっち側に売ろうとしている人なのか、行動は似ていてもしっかりと日本のための交渉をしている人なのか、あるいはなんにも気がつかずに相手の気持ちを逆撫でしているだけなのか(笑)、これをきちん見分ける必要があります。

そういう意味でも現在の日本はまさに戦前のターニングポイント(サポートか収奪か)と同じところにいると思います。現状をみると、だいぶ「収奪側」に進んでいるように感じます。これ以上日本が収奪されないようにするためには、国民は真に愛国的な政治家や活動家が誰なのか見極め、支援し、しぶとく「彼ら」と交渉することを祈りましょう。私は素人なので、現在誰が、どの人脈か、ということは断言できません(ただ、おぼろげながら、そうかな、と思えるぐらい)。

そして重要なことは政治家その他の活動家は「守りたい日本人や風土」があればこそ、「目先の利益」を超えて「長期的に日本を守る」ための行動をするということです。これは今も昔も変わりませんが、そのために適した人材というのは、単に日本民族の優良性を主張するようなロマン主義者や保身的な官僚ではなくて、交渉上手で現実主義に徹することができる人、というのが私の意見です。

真の愛国心とは以外に見えないものです。それは愛国心を表明することによって、反発されたり、利用されたりして、自分の思うように交渉できなくなるからです。交渉上手な人ほど、自分がどういえば、相手はこう動くという観点で戦略を立てているでしょうから、本心というのはなかなか判りませんね。判るのはその行為によってどのような結果が導かれたか、です。

で、我々一般国民にできることは、まず日本の有能な政治家や「彼ら」を含む世界の人々にとって日本人が将来にわたって守るに値する資質を持った人々であることを示すということに尽きます。国際社会において「誰が正義か」なんてことは意味がないのです。みんな打算的でずるい奴ばかりと思っておく方が正解でしょう(笑)。しかし、「謀略」の中においても、なお世界には金銭では交換できない有形・無形の「資産」があることを判っている人は判ってます。我々の先祖が守ってきたその有形・無形の「日本の資産」こそが、実は「日本の武器」なのです。それこそが「持てる国」と「持てない国」の差なのです。

我々にはそれを受け継ぐ「権利」と「義務」があります。
我々国民がその「義務」を忘れれば、どんな軍備や戦略も意味がありません。
憲法改正においては単なる9条の改正などではなく、上記の精神をはっきりと国民が持てる憲法にする、と言うことが何よりも肝要です。

一部の国民に多少疎ましい目で見られても、政治家やメディアは上記の正論を述べ、「目覚ましの薬」を国民にのませるべきだと思います。
我々の権利や資産はロマンで守るものではなく、護国を自覚した国民をどれだけ増やせるかにかかっていると思います。

今ならまだ遅くない、と私は思っています。

「愛国」と「利米」

2006-07-16 01:15:40 | Weblog
ここ一連のエントリーでは私の立場をしっかりと述べていませんでしたので、明確にしたいと思います。

私は安易な「嫌中」「嫌韓」および近視的ナショナリズムに基づく「反米」に反対します。ナショナリズムは日本人にとって必要なものですが、それは「反米」や「嫌中韓」のような視点から論じるべきではありません。日本人が正しいナショナリズムを身につけ、自信を持って生きるのに、このような感情はむしろ邪魔だと思います。

これまでのエントリーで述べたように、そのような感情というのは、日本人の栄光というよりむしろ、潜在的劣等感や無責任、恐怖感、蔑視と紙一重のルサンチマン、などに基づいていると思います。

潜在的劣等感は、「近代の超克」やテロのような根本病、「国体明徴運動」のような間違ったナショナリズムを生みます。
政治的無責任と恐怖心が結びつけば、憲法や国際関係の実益を無視した外交や軍事行為を肯定することになります。
蔑視と紙一重のルサンチマンは、間違った共同体の形成やその反発としての蔑視の顕在化を生みます。

これらはすべて歴史が語っていると思います。
2・26事件等のクーデター、国体明徴運動、近代の超克、戦後反米運動には「欧米文明」への潜在的劣等感に根ざした「社会主義」運動の色がみえます。
軍部の「統帥権」乱用をとめられなかったのは、大衆や政治家の政治的無責任と恐怖心が、「憲法の局解」を許したからではないでしょうか。
蔑視と紙一重のルサンチマンは、「大アジア主義」的なロマンに基づいた軍事行動と矛盾した「宥和外交」を産み、それがうまくいかなくなった時に「暴支膺懲」が唱えられ、国益を無視した支南事変の継続を肯定したと思います。

実は戦前も中国に対する「宥和外交」がありました。しかしその結果、戦争を回避するどころか、むしろ支那事変を招く遠因になりました。
http://ww1.m78.com/topix-2/sino%20japanese%20diplomacy.html

そしてその時「暴支膺懲」を世論に煽った新聞が、あの「朝日新聞」をはじめとするメディアです。
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/0301016_sensouhoudou.htm

以上の発言で私は「アカ」と呼ばれてもかまいません。
それでも、私がこの日本を愛していることに偽りはありません。
愛しているからこそ、なるべく多くの人が右左の教条主義やロマン主義、その他の「信仰」を捨て、冷静に、リアルに歴史から学ぶときが来ていることを伝えたいと思っています。

なぜなら、私たちは今まさに戦前のターニングポイントと同じところにきているという直感が私にはあるからです。

「現状に合わない憲法を改正せずに、軍備や戦略の議論だけが進む」「北朝鮮というテロ集団が存在する恐怖感」「欧米に対抗するためのアジア共同体の夢」「中国への阿り外交」「政治家・官僚の政治的無責任さ」「劣等感や恐怖感でヒステリーを起こしやすい国民体質」「ジャーナリズムの矜持を捨て、煽るばかりのマスコミ」「外国のスパイに操られるマスコミや世論」「反米か親米かの二者択一」「右か左かのレッテル貼り」など

これらキーワードが実に戦前の「あのとき」国民がミスを犯したことと一致しているとは思いませんか?我々は戦前も戦後も同様の根源問題を抱え、また直面していると私は思っています。

私は日本を愛しています。愛している日本人もたくさんいます。
天皇陛下がいることを含め、とてもいい国だと思っています

しかし、「真面目でナイーブで融通が利かないくせに、いざとなったら責任を取ろうとせず、現実逃避や極端なイデオロギーに走る『未熟な』国民性」については治さないと、今後またとんでもないことになると予想しています。

はっきりいって、今の日本人は国際的にみてとても未熟でしたたかさが足りないんです。これはちょっとでも自分の目と頭と体を使って、外国を体験したことがある人なら気づくんじゃないでしょうか?むしろ昔の方が気骨ある日本人が多かったのではないかとすら思います。このままでは日本は外国から妬まれこそすれ、怖くもなんともない、また潰してもOKと思われる国に転落するでしょう(どれだけお金があっても、です)。

中韓の反日行為は彼らが狂っている部分もありますが、それにつけこみやすい状況をこれまで日本人自身が作ってきた事実があります。生まれてずっと外国なんか知らん、という人ならともかく、そこそこ金も地位もあって、日本の国際化を唱えるような人々が、このことについてずーっと無責任であったことは本来許されないことですけどね。

国際社会においては、すべては各国の利害関係をどう読みきるか、多少泥を被ろうが自分の国を守るために真剣に工作できるか、ということにつきると思うのです。しかしながら現在、そういうことができる政治家や官僚が少なすぎるし、世論もまだ全然成熟した状況にないと思います。

このことを省みずに、日本が軍事力を適切な根回し(外交)もなく、不適切な方法で暴発させることがあれば、もういろいろなところからバッシングされたり、もっとつけこまれることが予想されます。その時にアメリカが味方なってくれる補償もありません。そのような状況になっても多くの日本人は冷静でいられるでしょうか。私には甚だ疑問です。だから、てっくさんのところで紹介されている、石破国務大臣の以下の発言はもっとだと思いますが出てくるのだと思います。
--------------------------------------------------------------------------------
しかし私は、トマホークを装備することには心配があります。
(中略)
この国は本当に、すぐに右にも左にも振れる国です。
(中略)
それよりまず、MDのほうが『専守防衛』に徹することができて良いと思っています。
------------------------------------------------------------------------------------

私も先のエントリーで安易にトマホークとやステルス爆撃機も良いといいましたが、撤回します。MDか、トマホかという議論の前に、私たちは国際社会において奴らのしたたかなやり方のほうが、日本の理性的態度より有効な場合があることを知っておかなければなりません。このままでは商売上手なアメリカの軍需産業にも、中韓鮮の奴らにとっても、日本はいいようにもてあそばれるだけです。彼らは日本人をいじめ続けて「きれる」その時を虎視眈々と待っているのです。

今日本はあたかも、米国という商魂たくましいバイク屋さんから、高い金でバイクを購入したけど、(憲法という足かせと経験不足のため)うまく乗りこなせずに不良に馬鹿にされるボンボンという立場です。またぞろ借金して強力なパーツ(トマホークターボ!)をバイクにつけても、結局それを使いこなす技能がなく、また足かせをつけたままでは、大事故の危険性が増すだけです。

大事故が起きたときの最悪なケースは「第二の東京裁判」を起こされることです。その時判事がアメリカでも中国でも、地球上から日本が消える気がします。なぜならおそらくそのころには本当の愛国者というものが(以前の東京裁判とは違って)もう日本にはいないと予想されるからです。

以上は私の「したくない」妄想です。ですが、少しでもそのような流れになるのだけは避けねばなりません。国際社会の場には、「先生」や「審判」はいません。国連や国際司法裁判所にしても、理性や理想、国際法や条約だけで有効に機能すると思うのは甘いんです。日本は戦後アメリカGHQに思想統制を受けて、だらしなくなったという人もいますし、確かにそういう部分は否めないとも思います。が、しかし、もうそそろそろ自ら目を覚ますべきときが来たと思います。

そこでまず何をすべきか。ここ数日私はずっと考えてきましたが、そのためにはもう「憲法改正」しかない、という思いに至りました。当然その際には「根本病」と「アジア主義」の発生を抑えなければなりませんが、胆の座った政治家がやれば、まだ可能であると思っています。軍備や外交戦略についての議論は、憲法改正を前提として議論されるべきです。よって、今後はこのことに気が付いている政治家を慎重に見極めていきたいと思います。

先の大戦の引き金は、「統帥権干犯問題」という憲法解釈の問題を政争の具にした上に棚上げし、「天皇機関説問題」を通して政治家が軍部や世論に阿りはじめ、「アジア主義」がプロパガンダから実現目標へと変わった時点で半分以上引かれていた、と私は思っています。

この歴史に学べば、今こそ「日本の権益と国民を守るための」憲法とはなんなのかを議論し、早々に改正すべきです。そしてその憲法は現実主義かつ実利主義の観点から「できる限りシンプル」に作るべきで、いちいち国際状況や国内状況に合わせて改憲の手間がかからないようにしておくのが望ましいと思います(もちろん憲法改正のパスは残しますが、憲法をぐだぐだとかえるのは社会不安の元でしょう)。

そして国民は何のために私たちの先祖はこの国の英霊になったのか、自分の頭と心を駆使して、冷静に思い描いてみるべきでしょう。
西南戦争で死んだ西郷隆盛も、先の大戦でなくなったたくさんの英霊も、その尊い命を失ってまで私たちに伝えようとしたものはなんだったのか。今まさに自ら真剣に考えるべきときではないでしょうか?きちんと自分で勉強して、そのメッセージを受け止める努力を国民の一人ひとりがすべきです。

勤勉さは我々の長所でしょう?惻隠の情は我々の文化でしょう?いろんなイデオロギーや技術を吸収して、自分のものにするのが、我々の得意技なんでしょう?

それがなんで簡単にヒステリーを起こしてすぐ忘れてしまうようになったのでしょうか?低教養な貧乏人ならともかく、なぜ政治家やマスコミが無節操にそのヒステリーを政争の具にしたり、保身や売国の具にしたりできるのでしょうか?なぜ中流以上の知的階層がいとも簡単にその流れに乗るんでしょうか?

それはたぶん私たちが豊かになりすぎて根性なしになったからです。
またそのことに奢り、祖先が死を賭して発したメッセージを忘れたからです。
私たちはまずこのことをはっきりと認識すべきです。

だから今我々がまずすべきは、ノドンが飛んできたらどうする、という議論ではありません。むしろノドンなど多少飛んで来ようが、あわてない心構えを持つ、これが国民の精神力というソフトパワーを生かした最良の国防となります。

これは私のお願いです。今こそ腹を括って、ノドンよ、飛んでくるなら俺の頭に落ちて来い、と思いましょう。ノドンなんて、日本の国民がかつて経験した戦争の苦痛や犠牲に比べれば、屁の河童のようなものです。一般人にとってそれは明日車にあたってなくなるぐらいのリスクでしょう。またよっぽど北朝鮮が日本人抹殺に精を出したと仮定しても、まず数千人は超えないでしょう。つまり、最大に見積もってもアメリカ軍がかつて日本人を殺した数の1/100程度だということです。

要するに、あのポンコツミサイルで、私たちが殺されるリスクよりも、私たちがその恐怖でヒステリーを起こすことのほうがよっぽどリスクである、ということです。間違いなく奴らはそのことを読んだ上で、行動しているのです。

だからまずアホなテロリストの下手な脅迫に乗ることを慎むべきです。そしてもし今意図的に「ミサイル危機」を煽っているマスコミや人間がいるとしたら、その人は奴らの効果を最大限にしようと思っている敵グループの可能性があるわけです(無意識的に加担してしまっている人も多いと思いますが)
いいですか、「暴支膺懲」を世論に煽った新聞は、あの「朝日新聞」ですよ。よく覚えておいてください。そしてスイスの「民間防衛」を読みましょう。


私は「守るべきもの」は、まだ日本にたくさんあると思っています。
皆さんはどうですか?
日本にとって何が「本当の脅威なのか」、今こそ頭を使って冷静に本当の危機の直前まで我々にできる最善のことをすべきだと思います。

以上まで言っても本当のリスクを考えない人は保守でもリベラルでも右でも左でもないと思います。それは単なる脆弱な「純潔主義」や「純朴主義」だと思います。

私はもうレッテル貼りは怖れませんので、ここで高らかに愛国「利米」主義を表明いたします。

ここで「利米」は、米国をわが国にとって益があるならば利用する、という立場であって、「従米」でも盲目的な「親米」でもありません。

未熟な感情やロマンを捨て、合理的な護国憲法を打ち立て、そして常に自国の利益を考えて(冷静で自信に満ちたナショナリズムに基づいて)行動すれば、過去の因縁や多少のリスクがある相手でも利益が合致すれば対等に付き合うことができるはずです。これは相手を無条件に信頼する、というものとは全く違います。

そういう意味では、「利中」「利韓」という考えもあると思います。
但し、「利中」のリスクは現状では「利米」のリスクよりも高く、受けるベネフィットも少ないので、当面は避けるべきオプションです。
「利韓」については、彼らが「反中」「反朝」になるように梃入れが可能なら、今でもありのオプションだと思います。それが無理なら彼らが自分の立場に気が付くまで、待つのみでしょう。その兆しはあると思います。

佐伯氏の言うように、中韓の反日プロパガンダはすでに大勢の人が気付くところとなりました。もちろん今後もその反日活動について十分監視・警戒・研究すべきですが、反・嫌「中韓」感情をあおる必要性はだいぶ薄れてきました。もうこれ以上この感情を大きくすることは逆に副作用が懸念されます。北朝鮮というテロ集団画崩壊し、あの「大貧民」爆弾が破裂したときのリスクを考えると、「利韓」や「利中」の視点もいずれ必要になるかもしれません。

同様に盲目的な「反米」および「親米」の両方に注意です。米国の中にもいろいろなグループがあり、モンロー主義者やグローバリスト、ネオコン、ユダヤ系国際金融資本など様々です。
これらの情報はとくに以下のHPが参考になります。
「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略」
http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/

私たちは米国および日本の世論主導者の発言を注意深く、これら情報に基づいてコード解析する必要があると思います。そして付き合うべき相手、警戒すべき相手を見極めることが重要と思います。

よって今後は浅薄な中韓米批評や感情論ではなく、骨太の「米国研究」とその政治的・行政的応用こそが、求められると思います。
彼らはむしろそうした態度を表明することが国際競争のルールだと思っている節があり、それらのレベルに達していない人や国を下にみているだけなのです(人種差別のあることも否定はしませんが、それを言ってもはじまらない)。

とにかく今こそ国民も政治家も肝を据えて、国を守るための憲法改正に着手するときだと思います。


最後に以上の論説を書くにあたり、私に大きな「気づき」を与えてくれた以下のブログとエントリーに謝辞を申し上げます。

「Let's Blow! 毒吐き@てっく http://tech.heteml.jp/」
見失われた「この国の価値」を求めて

「極右評論 http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/」
・親米派か反米派か、それを考察する!

「地政学を英国で学ぶ http://geopoli.exblog.jp/」
・プロパガンダに負けてはいけない:その1
・プロパガンダに負けてはいけない:その2

「佐藤 健の溶解する日本 http://blog.satohs.jp/」
・明治以来のインチキ臭いやり口>弱い犬ほどよく吠える先制攻撃論
・天皇機関説事件と昨今のネット世論(9月24日加筆訂正)

「近代の超克」についての補記および仮説と提言

2006-07-11 20:15:23 | Weblog
先のエントリー「「近代の超克」とナショナリズム」について「近代の超克」とはなにかということを書いていなかったので補記する。
またそれに関連して、やや大胆な仮説と提言をしたい。

1942年、文芸雑誌『文学界』で行なわれた「近代の超克」の座談会は、各界の知識人を集めて、「大東亜戦争」の意義付けを議論した。戦後、この「近代の超克」は天皇中心の全体主義や大東亜共栄圏を強く肯定するきっかけになったとして批判されている。しかし、その中で議論された内容には、単なる戦争肯定のための浅い哲学ではなく、現代でも通用するような重要な示唆が含まれていた。すなわち「西欧的な近代文明の進歩は、人間の自由の確立をもたらすどころか、むしろ人間性の否定を導いた。それは個人主義をうたいながら、むしろ自主性なき大衆とそのための浪費的利便性という問題を生み出した」という認識があった。そしてその問題を克服するために「欧米流の近代化によらない日本(東洋)独自の思想とそれに基づいた国際社会を形成しなければならない」としたのだ。その具現化が大東亜共栄圏であり、天皇制はそれを支える母体(哲学的手段)であると定義した(と私は解釈している)。

 ここで問題なのは、前段の問題提起を受けて、その対策を右翼的思想によれば、まさに戦前の大東亜共栄圏であり、左翼的思想によれば、戦後の反欧米のアジア主義に繋がる。
 このことを端的に指摘しているのが戦後の左翼哲学者「廣松渉」である。彼は1994年5月に朝日新聞に「東亜の新体制を」と題するコラムを発表した。その中で彼は、「東亜共栄圏の思想はかつては右翼の専売特許であった。日本の帝国主義はそのままにして、欧米との対立のみが強調された。だが、今では歴史の舞台が大きく回転している。日中を軸とした東亜の新体制を! それを前提にした世界の新秩序を! これが今では、日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで、反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。」と述べているのだ。
http://www.ihope.jp/hiromatu.htm

 つまり日本人は、戦前・戦後を通して「近代の克服」を右にゆれ、左にゆれ、繰り返し、トライしては、しくじり、またトライしようとしている、ということだ。右派にアジア主義が残っているのもおそらくはこの考え方が日本のアイデンティティーとなりうると思っている人々がいるからではないか。

つまり、「太平洋戦争の大東亜共栄圏」も「戦後の反米安保闘争」も今なお「右派・左派通じて残っているアジア主義」も、哲学的よりどころとしてきた問題提起の部分は極めて似通っているということだ。そして石橋湛山がいみじくも指摘したように右・左に係らず、「近代の超克」にのめりこみすぎたときに「根本病患者」が発生し、その度に手痛い失敗をしている、と見ることができそうだ。

なぜ、そうなるのか?その原因は複雑であろうが、誤解を恐れずに述べるとすれば、その大きな要因は、日本人の知識層が有してきた西欧文明に対する潜在的劣等感とアジア諸国や貧困層へのルサンチマンではないかと思っている(このことは、先のエントリーに書いた昭和軍人の言葉にも表れているように思う)。いわゆる目覚めた知識層が一般大衆にも多くでてきたのは大正以降の戦前である。戦後の我々が勘違いしているのは、戦前は知識層が一般庶民にたくさんうまれるほど民主的だった、ということだ。それ以降「近代の超克」に代表される問題に知的大衆が取り組み続け、その対策として間違った選択(根本病的思想)を大衆が支持したときに少なくない犠牲が発生するという歴史を我々は経てきているように思う(これは戦前だけはない。戦後の安保闘争でもその末期に直接的・間接的犠牲者がいた)。

「国家の品格」で藤原氏は戦前の「武士道」の衰退が戦争への道を開いた、と言っているが、その見解に私は同意しない。むしろ戦争への道は、日本の急激な民主化により大衆にまとまった知識層ができ、かつその多くに欧米に対する潜在的劣等感があって、その中でルサンチマンが醸成されたときに、日本という「一等皇国」が「アジア」に共栄圏を構築する、というアイデアが提案され、当事の大衆がそれを支持した時点から、と思っている。このアイデアそのものが戦争を生んだとは思わないが、戦争を肯定しやすい土壌を育んだことは確かではなかろうか。そしてここで重要なのは、当時の国際社会が「戦争」という「外交手段」を否定しておらず、むしろ「相手に自分の主張を伝える方法」として肯定されていた、ということだ。そこに戦争が「悪」だから、戦争しない、という発想はない。むしろ「正しいこと」を主張し、「実利を得る」ためには軍事力は必要だ、という考えがあった。実際アメリカはそれを現在でも実行しているわけであり、何も過去の特殊な時期の話ではない。

以上は荒っぽい仮説ではある。だが重要なものをつかんでいそうな気はしている。
そしてこう考えたとき初めて「自分が戦前に生きていたら戦争を肯定していたかもしれない」と思えるのである。そしてその地点(直感)こそが、「リスクの少ない国策オプション」というものはどうあるべきかを考えるスタートではないかと思っている。

振り返って、今、依然として「近代の超克」は果たされていない。
そして私たちは今なお欧米文明に対する潜在的劣等感を抱え、再びそれを克服するために「ルサンチマン」に基づいた解決策にたよろうとはしていまいか?
我々は今こそ戦前の石橋湛山の言葉に耳を傾けるべきだろう。

また現代版の「近代の超克」はどのような形で現れているかにも注意しなくてはならない。
バブル崩壊前まではそれは、日本独自の官僚主義(一種の社会主義)による経済発展があり、『超克』はそれほど議論されない風潮にあった。しかし現在それは崩壊が進み、新たな「超克」論が様々な局面で浮上してきているように思う。
その一つの現れが「国家の品格」がベストセラーになったことではなかろうか。

また例えば、下記のエントリーで紹介した「ブント」のように、60年代の左翼活動の主流が、「人権」と「環境保護」に姿を変えていることもその一端ではないだろうか。
http://www.bund.org/info/bundtop.htm
実際今「持続可能な社会の構築」の必要性が右派・左派に係らず求められている。「グローリズム」への抵抗も右左に係らず主張されている。

私は「環境保全」や「持続可能な社会の構築」は、右派・左派に係らず今の世に欠かせない重要なテーマだと思っている。しかし、そこには「近代の超克」に付きまとうリスクと矛盾があるような気がしてならない(これは実際にそれに取り組んでみてそう思っている)。

そして実際のところ「近代の超克」は必要なのか?という疑問がわいてくる。
確かに「近代の超克」は現状の問題点を鋭く指摘する。戦前・前後、そして現在においても。

しかし振りかってみれば、「近代の超克」などしていないような国々でも元気よくやっている。欧米のエリートも思想家も「近代の超克」に同様に取り組み、悩んできたが、実際のところ超克できなかったから滅びた国はあるだろうか。石橋湛山のいうように「絶え間ない修正の努力を続ける」ことが肝要なのであって、理想は「努力目標」程度に捕らえていたほうが、根本病の罹患リスクは低くなり、今ある人材・資産を有効に活用することができるはずだ。「近代の超克」にこだわって、内ゲバを繰り返す国の方がよっぽど危ういといえる。また内ゲバ状態は、悪意を持った他の組織や人々に利用されやすいという点にも注意すべきである。戦前・戦中に共産スパイやその他の影があるのはおそらく事実であり、それは日本がその頃漬け込みやすい体質を持っていたということを示唆してはいまいか?そしてそれは戦後も、今も似たような形で漬け込まれた(漬け込まれている)例はないだろうか?近代の戦争はハードパワーだけでなく、ソフトパワーを使っても行われるのだ。

「人間の欲望に基づいた資本主義とグローバリズムが地球を滅ぼす」という形に変化した最近の警告についても、実際のところしっかりとしたプラグラティズム(実用主義)に基づいて対策を考えないと、根本病を併発してよからぬ人々に利用される危険があると思う。

これらを防ぐためには「日本人」はまず「日本」の有様を肯定し、その上で誇りを持ったほうが良い。今を十分に肯定した上で、必要な問題解決にあたった方がよい。どこに比べて優れているとか、誰かを助けねば、と余計なことを考えるほどルサンチマンや根本病の罠にはまりやすくなる。

どうしても何かを打倒しなければならないとしたら、余計なことを考えずに、利用可能なすべての武器と知恵を持って立ち上がることだ。最善でなくとも、戦いに勝ち残ることはできる。大切なものを守るのに「大儀」を持ち出す必要はない。必要なのは、負けないという意志とそのための戦略である。

むしろ私たちが最も気がつかなければいけないのは、たとえ最善の方法を思いついても、それを実行できる「体力」と「意志」がなければ、試合に負ける、ということだ。試合に「負けない」ためには、現実的な理性と判断力、そして意志を常に育まねばならない。

欧米か、アジアか、ではなく、まず「日本」、そして「自分」を大切にしよう。
自分を大切にできないやつが、他人を大切にできるはずがない。
これが国際関係にも成り立つかどうかまでは判らないが(笑

危機感は常に私も感じている。しかし、危機感に心まで奪われてはいけない。
危機の直前まで冷静でいられた人が生き残るのである。
そして本当に信頼できる国、利害が合致する国を見つけるためには、日本という国が何を目指しているのか、そのビジョンを宣伝することである。

私としては反「非民主主義国家」連合は絶対欠かせないものと思うし、「日本の技術力や創造性と人種差別のない博愛精神、深い伝統文化に裏打ちされたセンス」などは十分に宣伝して、なるべく多くの国々や人々に憧れや尊敬を持ってもらうのが国益にかなっていると思う。そしてこの場合のビジョンは「理想」というよりも国外向けの「プロパガンダ」と考えるべきで、それらに共鳴してくる人たちは少なくとも当面の「味方」であると判断する。もちろん「プロパガンダ」だからといって虚像にならないような努力をする必要はあろう。

戦前の「大東亜共栄圏」は、それがプロパガンダ(よく言えば外部向けの努力目標)のままだったら国益に繋がっていたと思う。それが、大衆の熱望する本当の「理想」になり、軍部の一部も本気でそれを実現しようとし、右翼・左翼の政治家や活動家もそこで得点を稼ごうとしすぎた。これらの流れは、おそらく知的大衆や知性派と目されていた軍人の中にある欧米文明への潜在的劣等感とルサンチマンに発していたと思う。当事の深刻な不況や農村の貧困という国内問題も新しい改革イメージを後押しした。その具現化の一つとして実際に満州国が誕生した。理想は(いびつな形で)実現してしまった。石原莞爾を天才とみるか、反逆者とみるか、意見は分かれるだろうが、彼に端を発する大アジア主義は今なお(右左に係らず)一部の人の心を捉えて離さない。

昭和天皇をはじめとする当事の日本のエスタブリッシュメント達は「リアリスト」(=単なる平和主義者にあらず)であり、このような流れを冷ややかにみていた。しかし、当事の政治の意思決定で天皇を中心とする「リアリスト派」は少数派であり(だからテロやクーデターの危険にさらされ)、また天皇が非常に「良識的な君主」であったが故に、その流れを止めることができなかった(終戦間近を除けば、天皇は立憲君主制に忠実であった。その禁を破ったのはおそらく終戦間近に戦争を終わらせるための工作をしたときのみである。そしてその結果、日本と日本人が救われた)。また、陸軍も海軍も官僚化しており、国家の危機において内部の派閥争いやテロ・クーデターを繰り返し、大局において実利主義に基づいた行動を取れていなかった(これら軍人の中に『日本国にとっての戦犯』がいると思う)。さらに憲法の改正を行わず、統帥権の間違った運用を政府が認め、軍がこれを乱用した。加えて、(ソ連・中国・アメリカの)共産スパイを始め様々な陰謀にのせられてしまった。以上すべてが重なって、わが国があの戦争に入っていたと私は考えている。それは、決して武士道がなくなったからなどという単純な理由で解説できるものではない。

現実から離れた理想やロマンを無理に実現化しようとすれば、それ相応の不幸を生む。

しかし、私は当時の人々の努力や犠牲や良心が無駄であったとは全く思わない。
むしろそれがあったからこそ、今の日本があると信じている。
選択のミスはあったかもしれないが、今の人間には真似できないほどの努力と意志、覚悟が当事の日本人にはあった。だからこそ、今の日本がある。昭和天皇はその尊い日本の精神の中核を担う役割をあの難しい時代においてご立派に果たされた。もちろん昭和天皇にもミスがあったことは否定しないが、その尊いご意志が揺らがなかったからこそ、あの戦争を終わらせ、その後の日本の繁栄の基礎を残すことができたのだと思う。

例えば昭和天皇がむしろ「良識的」でなければ、日本はひょっとすると戦争に勝ったかもしれない(実際、近衛首相や一部の軍人はそのような意味の不満を漏らしているhttp://ww1.m78.com/topix-2/showa%20emperor.html)。あるいはもっと悲惨な負け方をしたかもしれない(本土決戦や日本分割のような)。昭和天皇が良識的で「リアリスト」でなければ、犯さなかったミスもあるだろうが、そうでなければ今の日本はもっと良かったなどと誰が言えるだろう。昭和天皇は20世紀の国家指導者の中でも優秀な指導者であり、かつ国民を愛する良識的な君主であった。単なる平和主義者やまして独裁者ではないのだ。そして、そうした君主に恵まれた国家・国民はそうざらにはいないだろう。

戦争には負けた。犠牲者もたくさんでた。しかしその原因は当時であれば(昭和天皇も含め)誰もが犯す可能性があるミスだった(ミスとすらいえるかどうかわからないものも含む)。そして最も忘れてはいけないのは敗戦により我々が得たものがある、ということだ。それは戦後の奇跡的な復興である。単に戦争に負けたのではない。戦後の復興は、まちがいなく戦前・戦中・戦後と連続した日本人の努力と良心の賜物である。多くの犠牲を払ったが、過去の日本人は、ぎりぎりの選択の中から「意義のある敗戦」を結果として勝ち取ったとも言える。だから石橋湛山は、戦後すぐに「日本の将来は明るい」と語ることができたのだ。

奇跡は、何もないところに起こりはしない。評価すべきは過去の日本人の行為がもたらした結果である。「近代の超克」の後遺症はまだ残っているが、今私たちが世界の中でも平和で繁栄した国「日本」に生きていることが先人の偉業の証明である。そうした先祖に報いるためにも、私たちはこの国を守り、将来にわたって繁栄するための努力を続けていかねばならない。

結論
①近代を超克しようと思ったときには、「根本病」に気をつけよう。
②先人の行為はミスではなくて、その結果で評価しよう。
③ただし、ミスの原因を探ることは我々にとって良い教訓になる。
④「奴ら」よりも図太くなれ。

以上。

憂国の士とエコロジスト

2006-07-10 19:28:36 | Weblog
憂国の士が溢れている。ネット上はいまや憂国の士でいっぱいだ。
みんな、それぞれ美しい愛国心、磨かれた感性で日本を、そして日本人を憂えている。
我々が倫理を失い、国から神性が失われたことを憂えている。

またエコロジストも溢れている。自称・専門家問わず今日多くのエコロジストがいる。
みんな、それぞれもっともな主張とセンス・オブ・ワンダーに基づく理念から、本来の自然や生態系・生物種が失われたことを嘆いている。

現存する貴重な生態系や種を保存することはとても重要だと思う。
しかし、すでに開発され、失われてしまった自然を再びもとの姿に戻すことはすべて善なる行為になりうるだろうか?

失われた自然と引き換えに、私たちは必ず何かを得てきた。
そこで得た何かには目をつぶり、自然だけをもとに戻そうとするのは傲慢ではなかろうか?
本当にどうしても元の自然を回復せねばならないとしたら、それは「現在に生きる我々」にとって回復が是非とも必要な場合であり、かつ「現実が可能な場合」に限る。
そしてその回復には多大な労力・知恵・時間が必要であることを覚悟しなければならない。
もしそれらの努力を怠った場合、自然は元には戻らない。
膨大な無駄と無残な失敗を生むリスクがそこにはある。

私は憂国の士の皆さんに問いたい。
現在の日本人に受け継がれている大和魂を守ることは大切だと思う。
しかし、もしあなた達の望むナショナリズムに「すでに失われた」神性や国家像、倫理、道徳等を入れようとすれば、それは失われた自然を回復させるときのようなリスクがあると思わないだろうか。

それらは勝手に失われたものではなく、人々がそれを失った理由や必然性があったはずだ。そしてそれらを失うことで得た何かもあったはずだ。

エコロジストは、自由に電気が使える今のありがたさを忘れてはいけないと思う。
憂国の士は、今の日本社会のありがたさを忘れてはいけないと思う。
白神山地のマタギのように実際の自然を生活の場とする人間が今ほとんどいないように、真に大和魂と日本の神性を日々体現している憂国の士も多くはないはずだ。
私たち現代人は、自然や社会や歴史の有り様について謙虚である姿勢がまず必要だと思う。

それでも万難を排して復活するべき自然や魂はあるかもしれない。
荒地を森にかえてきた人がいるように、長い時間をかけて、失われた魂を呼び戻すことも不可能ではないかもしれない。
それだけの覚悟と能力を持った憂国の士を止めるつもりはない。実際、その偉業に取り組み、達成されてきた方も世の中にはきっといたのだろう。
だからこそ、今の日本がある、そんな気がする。

私たちは連続性と関係性の中に生きている。
日本の神性や天皇性、大和魂もろもろの前に、自分の親や先祖の歴史を謙虚に受け止め、尊敬し、自分の家族を守る意思のある人が愛国者たる条件ではなかろうか。

追加:
要するに「保全」とその「活用」がとても重要であり、「回復」は慎重に、ということ。

「近代の超克」とナショナリズム

2006-07-10 00:23:41 | Weblog
最近よく見ているブログがある
Let's Blow! 毒吐き@てっく
http://tech.heteml.jp/
である。

このブログを見て、私は一発で麻生氏支持者になった。

さて、そこで最新のエントリー『見失われた「この国の価値」を求めて』で、中央公論7月号に掲載された京都大学大学院教授の佐伯啓思氏の論文が紹介されている。
http://tech.heteml.jp/2006/07/post_610.html

この文章を見て、私は一種懐かしさを感じた。それは、かつて私が愛読していた池澤夏樹氏の著書でよく語られていた「自然から遊離した現生人類の憂鬱」という観点と、佐伯啓思氏が語る「グローバリズムに伴うナショナリズムの喪失」という観点が、なんとなく論理構造が似ているな、と思ったからだ。
ちなみに池澤夏樹氏は自著に書いている通り「社会主義者」であり、佐伯啓思氏は反米保守派のナショナリストである。

両者の主張の根幹には、「現代日本人の有様が自然・風土に基づく伝統文化や心のふるさととしての「共同体」から遊離し、遠ざかろうとしていること」を憂い、多くの人々が感じているその「不安感」に訴え、答えを模索しようとする姿勢があるように思う。

そして、ふと気がついたのだ。これらは現代版「近代の超克」ではなかろうかと?
で、Googleで「近代の超克」を検索してみると意外なことにブント(旧:共産主義者同盟)のHPがヒットする。

荒岱介「近代の超克は今こそ必要な問題意識だ」を受けて20代の我々が廣松近代の超克論をどう読むか。
http://www.bund.org/opinion/20040525-1.htm
(2004年5月25日発行 『SENKI』 1145号4面から)

左翼であるブントがなぜ「近代の超克」なのかと思ったが、60年代のブントの反安保闘争は、(その後の心情左翼・教条左翼と異なり)無意識的なナショナリズムを代行する要素があったと考えれば、それも不思議ではない。事実、前述の佐伯啓思氏の師匠、西部邁氏はかつてブントの活動家でもあった。今となっては忘れられている事実かもしれないが、反安保闘争を支持した人の中にはナショナリスト的な思想の人もかなりいたということだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F

そして、60年代の反米左翼の主流が、その後のサヨク(心情左翼・教条左翼)を唾棄し、分かれていったように、これからは反米右翼がウヨク(心情右翼・親米国益右翼)を卑下する傾向が強まるかもしれない(実際強まっているように思う)。

ここでふと、ブログ「Elleの遺跡」で紹介されていた戦前に石橋湛山が書いた新聞記事を思い出す。
http://reflation.bblog.jp/entry/251096/

石橋湛山が二・二六事件をうけて『東洋経済新報』でかく語りき
「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。
 これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)

まさに慧眼ではなかろうか。
そしてこれを見て思うのは、資本主義に代表される「近代の超克」のために、戦前・戦後ともナショナリズムが持ち出されている、ということである。

しかし、ここで私が言いたいのはナショナリズムの否定ではない。
私はナショナリズムは現代人にとって必要である、と思っている(理由は後述)。
問題なのは、ナショナリズムを「近代の超克」のよりどころにするかどうか、という点だ。

ここでもう一度、国家・国民・ナショナリズムとは何かを考えてみたい。
この問題について、非常にシンプルかつ冷静な答えを出しているブログがある。
「地政学を英国で学ぶ」
プロパガンダに負けてはいけない:その1
http://geopoli.exblog.jp/4632179
プロパガンダに負けてはいけない:その2
http://geopoli.exblog.jp/4643085

つまり、現実を突き詰めて考えると、国家というものが「アイデア=フィクション」ならば、ナショナリズムというのはそのアイデアに基づいて人々を動かすための「プロパガンダ」の一つではないか、ということ。
そして私は、このブログの著者と同じようにフィクション・プロパガンダだからだめ、というのではなく、むしろフィクション・プロパガンダだからこそ重要というスタンスに深く共感する。『アリストテレスがいったように、人間が社会/政治的な動物である以上、「フィクション」とそれを支える「プロパガンダ」というものは人間社会に常に必要』という意見に激しく同意する。

日本は近年、特定アジア三国、そしてアメリカにも、プロパガンダで負け続けてきた。
今後大切なのは我々がもっと賢く、そして図太くなって、その巻き返しを図らなければならないということだ。

そのためにはまず、今後諸外国に対して日本の持つソフト・パワーを最大限に発揮するというビジョンが必要であり、そのためのナショナリズムが是非に必要だと思う。
今後さらに国際競争はハード・パワーからソフト・パワーに移るわけであり、その効率を上げるという意味でも、ナショナリズムはとても重要である。

よって、現代流のナショナリズムは、現在の国民の長所を活かし、成長させるためのプラグマティズム(実用主義)に基づいた観点から考えられるべきだ。

かつてどんなに魅力的で美しかったものも、保管庫から取り出すと、すぐに腐ってしまうのではだめなのだ(例えそれが周囲の大気汚染の結果だったとしても)。
貴重だけど傷みの激しいものは、博物館できちんと保管・管理しておけば、後世の役にも立とう。しかし、ナショナリズムは現実に使用・食用に耐える素材で作られるべきだ。

そして、一番に注意すべきことは、「近代の超克」にこだわるあまり、日本人自身が石橋湛山の言うように「根本病」にかかってしまうことである。
「この国の価値」を決めるのは、一部の「近代超克家」のみに課せられた仕事ではないし、必ずしも「○○主義」を打倒しなくても、十分愛国精神に満ちた「この国の価値」を一般国民が持つことはできると信じている。

最後にとても示唆に富んだ以下のWebサイトを引用しておく。
「日露戦争」
http://ww1.m78.com/sib/russojapanesewar.html

「日露戦争における陸海軍の将領は、みなニコニコしている写真を残している。兵士も同じである。兵士の写真は、まるでオモチャの兵隊さんを連想させる。この点で現代の白衛隊と共通性がある。だが昭和軍人は明らかに異なっており、考えるあまりの苦痛の表情を浮かべている。(中略)昭和軍人は自分達の戦争が終ったあと、敗因は経済力にしても政治体制にしても日本が外国より劣っていたからだと説明する。条約派の堀悌吉と山本五十六は「日本の文明は、欧米の先進国と比べて国民の覚醒において、百年は遅れている。学術界においても三十年遅れている。そして、わが海軍は十年遅れている」と第一次大戦直後、認め合ったという。こういった海軍は欧米よりも遅れている、国民は更に遅れているという確信が、政府の決定=政策に従わず、海軍は政策の具にはならないという誤つた考え方につながった可能性を否定しきれない。
 東郷平八郎は、日本や日本人に自信をもっていた。第一次大戦の決戦のマルヌ会戦に勝利し、また東郷の知りあいでもあったフランスの将軍ジョフルは戦況不振を伝える下僚に「お前はフランスを信じることができないのか」と叫んだ。東郷平八郎も昭和軍人に「お前たちは日本を信じることができないのか」と叫びたかつただろう。
 井上成美のいう軍人にとり「喜んで死ねる情況」をみつけることは「青い鳥」を捜すようで難しい。だが、暗い表情をせず、近代人としての白我をすてさる勇気も、軍人が戦場に臨むとき必要な資質かもしれない。」

ソフト・パワーが競争の主力となった今日でも、この観点はとても重要だろう。
青い鳥が見つからなくとも、私達は明るい未来を迎えることができるはずだ。

国防のハード面においては、てっくさんのいうように高くつくミサイルディフェンス(MD)よりも長距離巡航可能なトマホークや脚の長いステルス戦闘機を「専守防衛」に導入するのに賛成です。
http://tech.heteml.jp/2006/07/post_608.html