減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

インフレ懸念への回答と経済サイクルから見た減価する通貨の必要性について

2008-04-02 21:47:31 | Weblog
先の記事でNSさんから頂いたコメントは、とても重要な内容が含まれていますので、新たにここでお答えします。
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/206357b1580d916a0abd50f11f62db3e

>「減価する通貨」という考え方はすごいと思いました(それとも、この様な考え方自体は、みんなも既に知っている常識の範囲内のことなのでしょうか?)。しかも1930年代に既に採用されていて、成功までした制度だったとは・・・将来の経済のあり方(枠組)はこれかな、と直感的に思いました(そして、直感を大事にしたいと思います)。

「減価する通貨」や平和党の目指す「自然主義経済」の可能性を語るようになってから、しばしば感じるのですが、この本質を知るには、知識から入った人ではなく、NSさんのように直感から入ってきた人の方が深い理解に到達しやすいと思っています(私も経済学の専門家ではなくて、自然科学・環境学専門の科学者です)。

・平和党:自然主義経済とはなにか
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/35476743.html

「減価する通貨」による経済が本気で将来の経済の枠組みになると信じて語っている人はあまり多くはありません。少なくとも今のところは、少数派です。

それでも、日本においてこのことが人々に認知されるようになったきっかけは、NHKが作った「エンデの遺言」という特番があったからでしょう。
http://vision.ameba.jp/watch.do;jsessionid=83F9D8C78571016CD4943288BDE517B9?movie=566211

これは本にもなっています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140804963/
良い本なので、ご一読をお勧めします。

この中で、シルビオ・ゲゼルという経済学者が提案した「減価する通貨」が紹介されており、これが全ての始まりです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%BC%E3%83%AB

シルビオ・ゲゼルについては、やはり日本におけるこの分野の草分けである廣田氏のホームページで詳しく紹介されています。
http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/index-jp.html

また、以下の「日本人が知らない恐るべき真実」にある「忘れられた経済学者シルビオ・ゲゼル」も参考になるでしょう。
http://www.anti-rothschild.net/truth/part1/05/part1_49.html

廣田氏の著書である「地域通貨入門―持続可能な社会を目指して」には、ゲゼルの考えに基づき、減価する通貨を地域通貨として利用するためのビジョンや国内外の様々な活動が紹介されています(これも非常に良い本です)。

私のブログは、廣田氏が示したビジョンなどを参考に、今日的な問題の解決や日本文化の底に流れる「和の心」や「やおよろず」などの伝統的精神の復活を目的として、実践的な行動に移すための準備として立ち上げたものです。この思いは、平和党という日本で唯一「減価する通貨」による経済や世の中の抜本的改革を目指す政党と一致しているため、その賛助党員として活動しています。

現在の経済全体の流れから見れば、本当に小さい活動ではありますが、このブログのリンク先やトラックバック先などを見ていただければわかるように、「減価する通貨」による経済システムが将来社会の「コア」になると理解している人は着実に増えています。

また、今検索したところ掲示板「阿修羅」にも「減価する通貨」に関する情報や興味深い議論がありました。これも参考になると思います。
http://www.asyura.com/08/idletalk29/msg/123.html

今は少数派ですが、ここで展開されている議論は、将来きっと花開き、歴史に残るものであると「直感」しています。


>まず、「減価する通貨」を用いた場合、「インフレ」が制度の内部に自動的に含まれることになるのか

そうですね。減価する通貨というのは、一見緩やかなインフレを人工的に起こすようなシステムのように見えます。ただ、これは経済的デメリットを生じるようなインフレとは異なります。まずインフレの内容は、単に貨幣価値が減少するかどうかだけでなく、実際に財やサービスを生み出す力(経済成長率)がどのように変化するかで評価が大きく変わります。

通常インフレは貨幣価値に対する財やサービスの全面的高騰を意味しますが、貨幣が減価するというのは貨幣を保有している人に対してのみ影響します。つまり、「減価する通貨」で手持ちの貨幣が100円が90円に減っても、世の中の財やサービスの「価格」が変化するわけではありません。しかしインフレにおいては財やサービスそのものの価格が変動します。とくに社会の生産力が低下する状態(経済成長率がマイナスの状態)で進行するインフレが悪性インフレ(スタグフレーション)であり、今所有していない貨幣、すなわち将来得る予定の収入も減ってしまうことを意味します。しかし、減価する通貨を導入したからといって、そういう事が起こるわけではありません。地域の生産基盤が維持されていれば、労働者や生産者は以前と変わりなく収入を得ることができます(当然、生産力が増せば収入も増えます)。

参考:ウィキペディア「自由通貨」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%B2%A8%E5%B9%A3

さらに減価する通貨は、退蔵がまず起きませんので、地域内使用に限定すれば、その流通量が容易に把握できます。つまり、中央銀行が経済の状況(通貨の退蔵量や経済成長率の変化)を読みきれず、誤って市場に通貨量を増やすような政策を与えてしまってインフレを招くというようなことはおきにくいわけです。

参考:中立貨幣「流通が保障されたお金」
http://www3.plala.or.jp/mig/neutral/ideas.html

よって、減価する通貨は上記の参考にあるようにデフレを防ぐとともに、悪性インフレもおきにくく、また消費を促す効果もあるので、社会の生産力を伸ばしてやれば、伸ばした分だけ、素直に「好景気」となるのです。

また、消費が伸びると環境破壊が起きるのでは?という疑問については、以下のような記事が参考になります。
http://www.anti-rothschild.net/truth/part1/05/part1_57.html

基本原則として、減価する通貨による経済は『お金よりモノそのものが強い』ので、お金があっても、ないものは買えません。しかし、必要なモノがないというのは困りますから、人々は何とか地元の環境や人材を有効活用して、なるべく簡単(省資源)な方法で必要なモノやサービスを作りだそうとするでしょう(そうした必要な産業育成のために減価する通貨を使って投資ができるように「エコファンド」や「エコバンク」を作る必要があります)。当然、地元の環境を破壊してまで消費するような気持ちはおきにくいと考えられます。

そもそも海でたくさん魚を取ったり、畑で商品作物を大量に作るのは、主にそれを売ってお金に代えようという目的があればこそで、「減価する通貨」を用いれば、自分が食べたり、地元で必要なもの以上の魚や作物をわざわざ作る人はいなくなります。また、このような流れから禁欲を必要としない「エコ生活」が自然に生まれるのです。


むしろ今の日本の実態として厄介なのはインフレよりも、デフレ型の不況やそれによる恐慌および自治体の破綻の可能性です。私は減価する通貨の利用がそうしたデフレ型の不況や恐慌・自治体破綻の根本治療になると考えています。現在まで対処療法的には色々と実施されてきましたが、それが限界に近づいているからこそ、今日のような閉塞感が生まれていると思います。

今、日本にはモノやサービスを作りだすための生産基盤や労働力は実際にはたくさんあります。生産の能力的にはすでに満たされているといって良い状況です。一方でこうした状況というのは、終戦の荒れ野原から立ち上がる成長期に比べ、もうあまり経済的に『成長』できる余裕や必要性(人々が真に求める需要)は薄い状態です。仮にここではこの経済的に『成長』できる『余裕・必要性』のことを「伸びしろ」と呼びましょう。

先に荒っぽい結論を言ってしまえば、利子のある通貨でまともな経済成長(=誰もが富を実感できる成長)が達成できるのは、この「伸びしろ」がたくさんあるときだけなのです。つまり、安く良質な資源や労働力がすぐに調達でき、財やサービスが作れば作るほど売れる状態です。そして、この「伸びしろ」が小さくなったとき、本来「利子」のある通貨はもう使ってはいけない状況になるのです。なぜなら、資本主義経済で財やサービスを作りだすためには、まず『投資』すなわち銀行から『借金』をしないといけません(自身が企業を立ち上げる当事者になった気持ちで考えてください)。事業に投資した資金を回収し、銀行に返すためには、常にそれを上回る利潤を上げなければなりません。

しかし、「伸びしろ」が小さいということは、資源が足りなくて(価格あ上がって)、労働者の賃金も上がり、市場や社会にモノが溢れて需要が小さいということですから、いくら企業が頑張って「合理化」をしても、なかなかそれに見合った利潤が上がらない(モノが売れない)、借金だけがかさむという状況になってくるからです。

・見過ごされているお金の問題:その①
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/8b6db4ed4e50a6a2b4148b1ad6e7e3fa

資本主義経済(および政府が民間企業にかわって経済活動をする社会主義等の修正資本主義経済)において、銀行や国が設定する金利は0%以下に設定できません(また現在の金利が0%になっても、過去の借金に対してはそれまでの利息はすでにカウントされていますから、結局借りた人は余計にお金を返さねばなりません)。結局実態のない借金金額だけが増加し、モノは溢れているのに、現実に社会に出回っているお金が足りないというアンバランスな状況(デフレ)になります。この状態を回避するためには、中央銀行がお金をバンバン刷って(あるいは個人の貯蓄口座から市場にお金が出てくるような金融政策を実施して)、市場にお金を供給(量的緩和)すれば良いわけですが、これも結構問題があります。なぜなら、経済実態とリンクしていない金融政策は、やはりインフレを起こすかもしれないし、その影響がどう出てくるか、完全に予測できないからです。

参考:国家破綻研究ブログ「量的緩和の解除(2) 経済成長率と物価上昇率で考える、インフレの足音」
http://gijutsu.exblog.jp/3311039/

上記のブログの図にあるように「景気」というのは物価の上昇・下落だけなくて、むしろ経済成長率の増減が極めて重要なのです

また、民間企業自身は、単にデフレ不況のような状況に甘んじていては倒産してしまいますから、マスコミや色んな方法を使って需要を掘り起こしたり、サービスを多様化させて「ニッチェ」を争ったり、手持ちの運用可能な資金を様々な「金融商品」に投資して、お金(利潤)を膨らませようとしたり、無理にでも産業の合理化・効率化を進めて、利潤を上げようとする流れになります。

よって、「伸びしろ」がなくなってくると、まず土地や金融商品など財やサービスの生産には全く関係のない「投機対象」に、お金が流れ込んで、バブルが起きるのです。バブル崩壊後は、いよいよ膨張する借金の圧力に押されて、無理に生産活動の「合理化・効率化」が進められ、労働者の収入(給料)は上がらないのに、市場にモノだけがあふれて「デフレ」の悪化が進みます(ついでに環境破壊の深刻化も起きます。今日本であんまり環境破壊が起きていないように見えるのは、中国その他の途上国に実質的な生産拠点が移っているからです。今中国等ですさまじい環境悪化や公害が進んでいることはご存知でしょう)。また、この間、マスコミ等を使って、今まで人々が必要を感じていなかった財やサービスを「欲しい対象」だと思わせる「洗脳」がこれでもかというほど起こります(この過程で色んなモラルハザードがおきます)。どれもこれも、相当無理をしたり、いかがわしいことをやらないとお金を増やす(投資に見合う利潤を得る)ことができないという状況なのです。

しかし、利子のあるお金(借金)は指数関数的に増えますが、現実に存在する人間の労働力や資源量は有限であり、技術革新も、指数関数的には増えません(IT技術のように初期にそう思えるものはありますが、それもすでにバブルがはじけました)。

最終的に「安全な金融商品」も全くなくなり、生産基盤の合理化・効率化もこれ以上はできないということになれば、生産設備や市場に財が余ったまま、人員削減すなわち人々の労働価値が暴落して、結果として失業者が多発したり(過剰な能力主義が唱えられて人心が荒んだり)、生産拠点が人件費の安い外国に移って、ついにじりじりと経済成長が落ち込んできます。そうなると企業の利潤も、国家の税金収入も、全て減ってきますので企業・国家・自治体の借金が返済不可能な状態で増えていきます。この状態が恐慌・破綻です。

で、この状況をリセットする手段は実際のところ二つしかありません。一つは馬鹿馬鹿しいことですが、わざと過剰な生産設備を壊し、財を消費しまくるということです。これは、人々のたまりまくった不満を利用して戦争や内紛を起こせば可能です。つまり戦争・内紛で過剰な設備は破壊され、財の消費だけが進むので、インフレが出現し、さらに進むとお金が全て紙くずとなって、通貨および借金がリセットされます(当然「伸びしろ」も復活します)。

別の道は、国家や自治体自身が破綻を宣言して国民や企業や外国勢に借金帳消しを求めて、通貨価値をリセットすることです。つまり、ある日通貨に「-1000%」のようなべらぼうなマイナス利子を設定して、関係者全員にそれを納得させるようなものです。(そんなことなら、初めから緩やかなマイナス利子をつけておけば良いのだ。という発想も「減価する通貨に」つながります)。

結局わざと破壊的なことをやるか、短期的にべらぼうなマイナス利子を関係者全員に鵜呑みにさせるかしないと「振り出し(伸びしろの大きな状態)」には戻れないのです。

そんなバカな、と思うかもしれませんが、資本主義経済というのはこうしたバカバカしい「サイクル」から基本的に逃れられない「ルール」になっているのです。実際に経済サイクルと歴史上の事件の連動を解析すれば、以上の通りにサイクルが進行していることがわかるはずです。

・国家破綻研究ブログ「預金封鎖の実例(1)アルゼンチン」
http://gijutsu.exblog.jp/5109823/
・国家破綻研究ブログ「戦争は最後の不況対策」
http://gijutsu.exblog.jp/2501924/

もちろん以上は非常に荒っぽい説明です。詳しくは述べませんがケインズ型の政策やマクロ経済=個々の企業体の利益より、国全体を経済発展させるための視点に立って、お金の流れを政府や企業が適正化し、「内需」を拡大させれば、このサイクルの美味しい部分だけを長引かせることはできます。しかし、こうしたことを行うには政府も企業も、自らのみが儲かるであろう「部分最適」の解を捨てて、国民全体の所得を上げるような賢明な政策を選択せねばなりません。私は今の状況でそれを実施するのはなかなかに難しいと考えています。企業や国が完全に「部分最適」な行動を捨て去ることはできないと思っているからです(これは彼らがアホなだけでなく、やはり利潤を上げるという即物的な魅力の前に完全に打ち勝てる企業や政治家がいないと思うからです)。よって、これも「根本解決」に繋がらないと考えています。

結局、根本解決への道筋を見つけていたのは、ケインズではなくて、「ゲゼル」だったというのが我々の認識です。ゲゼルは、現在の「1サイクル前」に以上の実態に気がつき「減価する通貨」を提案したのです。そして実際に世界恐慌においてオーストリアのヴェルグルでその成功例が生まれたのです。

大戦後、彼は忘れ去られました(戦争による破壊およびその他の理由により「伸びしろ」が復活したからだと思います)。しかし、先に述べた「エンデの遺言」により、復活し、現在の閉塞的な状況を打破するための道しるべとなっています。


減価する通貨による「自然主義経済」を導入することにより、我々は以上のような危険なサイクルを繰り返す「お金の圧力」から解放され、財やサービス、それらを生み出す『人』の価値が正しく評価され、本当に人々に必要で望まれる財やサービスだけが行き渡るような経済システムになります。

また、自然主義経済は市場経済です。良いものが高く売れ、悪いものは安くなります。何が良いか悪いかは消費者が決めます。神の見えざる手というのは「自然主義経済」において初めて実現されるものです。なぜなら、通貨も自然物と同じように減価する(腐る)ことによって、初めて「自然な振る舞い」を示すからです。また、これを地域で管理することで、自主自立の経済が可能となるのです。


最後に少し話しはそれますが、公教育で習う近代史では、ここで指摘したような経済と社会の変遷をまともに教えていません。一番隠されている部分は、間違った経済システムが多くの悲惨な戦争の誘導要因になっていたということです。軍国主義や軍拡競争がどうこうというのは、実は戦争の「本当の要因」ではないのです。それらはむしろ間違った経済システムが引き起こした「結果の一つ」という見方が正しいでしょう。

また資本主義経済のばかばかしいサイクルになぜ多くの人が気付かなかったのかというと、おそらく以下の要因が複雑に絡んでいたためです。

1) 初期のインフレから始まって、最終的に恐慌を起こして振り出しに戻るサイクルの周期が10年間隔以上あり、短期的な揺らぎもある。
2) 「システムの原理」がわかっている側(銀行や大資本家)から見れば、直接的にお金の出し入れを調整したり、政治家を通して間接的に政策を動かせば、上記のサイクルを早めたり、遅めたりもできる。つまり意図的な景気の演出が可能。その結果、大きなトレンドを隠し、細かな変動に人々の目を縛りつけることができる。
3) 近代化により技術革新や輸送力の向上が起きたため、生産効率が大きく伸びたり、新たな資源供給や市場の拡大が進んだ。これによって、閉じた系を仮定する静的な経済モデルなどでは上記のサイクルが最終的に破壊を伴うものであることをきちんと予測できなかった(上記で私が指摘している「伸びしろ」が時間的、地域的に大きく変動した例がたくさん起きた)。
4) 教育やマスコミによる歴史改竄・隠蔽・責任転嫁(経済的理由ではなく、軍事や民族主義に偏ったリーダーにより戦争が起こったなどとする「知識」の刷り込み)。また教育・マスコミによる新たな価値観の植え付けは、「需要」の変化を起こすため、これも静的なモデルが成立しにくい条件となっている。

このような条件にも係らず、やっと判る人には判るようになってきたのは、「グローバル化」が進んで、その極相が現れようとしているからだと思います。簡単にいうと世界が「閉じた系の静的なモデル」に近づいているため、資本主義経済がこのままではにっちもさっちも行かない状態に突入することが多くの人に「感じれる」ようになってきたのです。

そして、今後、世界や日本はデフレ不況や恐慌・スタグフレーションを迎える可能性が高くなります。ただ、このこと自体は、見方を変えればあまり深刻に捉えすぎる必要もないことです(むしろそうした危機を煽って、人々を間違った方向に導こうとする似非指導者にこそ注意すべきです。例えば、小泉氏がやった郵政改革などがその代表です)。国や自治体の借金が積み重なっているからといっても、実はそれはバーチャルな数字が増えているだけです。最も大切なことは破綻や金融危機などが起こっても、生産基盤や社会基盤がしっかり維持されていることです(そして何より自分が健康体であること)。そうであれば、国家や自治体が破綻して、少々貯金がパーになったとしても、すぐに復活することができるはずです。少なくとも戦争に利用されて、命を失うより100倍マシです。

そうした状況を乗り切るためにも減価する通貨による地域経済の自立が必要となるのです。

長くなりましたので、その他のご質問にはまた後日お答えいたします。

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16 コメント

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はい、その通りです (ろろ)
2008-04-05 01:46:50
  減価せず、利息を肯定する通貨が存在したら、戦争は避けられないのだという考えに同意します。
  10%の利子が付くということは、借り手が10%よけいに働かなくてはいけなくなるということに他なりません。10%だけですが、そこには支配-服従の関係が形成されてしまうのです。
  余計に働かなくてはいけないということは、本源的に存在する需要を越える供給活動につながります。そうしないと儲からないからです。
  ここが最大の問題なのです。行き場のなくなった生産物を、今の社会で意味のあるものに買えようと思えば、無理矢理にでも誰かに売りつけるしかない。それが戦争であり、帝国主義の根本にあったものです。過剰在庫と金利の負担こそが侵略や戦争を生むのです。
  減価通貨は、その限界を乗り越える唯一のアイテムです。需要があるから供給される、という、ごく当たり前の社会状態を生み出すのに役立つことでしょう。
>>ろろさん (花ブナ)
2008-04-07 21:45:25
コメントと同意ありがとうございます。

>10%の利子が付くということは、借り手が10%よけいに働かなくてはいけなくなるということに他なりません。

実は余計に働く量は、10%どころではないのです。
利子の計算法が「複利」の場合、元本を100万円、年利を10%とすると、7年後の元本利子の合計額は、約二倍の195万円になります。

Wikipediaにある複利の式を参考に電卓等で計算すれば、合計額がとんでもない勢いで増えていくことがわかるはずです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%AD%90

複利の計算式は「指数関数」です。この意味、わかりますよね。

借金返済が遅くなればなるほど酷いことになります。
よって、とにかく「短期的」に利潤を上げねばならないということになります。年利10%であれば、それは7年間で財・サービスの販売量(あるいは一販売単位の価値)を2倍にしなければ、借金が返せないことを意味します。

これは要するに7年の間に融資を受ける前の2倍以上働く必要があるということです。あるいは7年の間に以前より2倍以上も資源を浪費して、利益を上げる必要があるということです。(インフレや技術革新が起きないことを前提として)。

このことからも相当「伸びしろ」がなければ、資本主義経済など土台無理だということがわかるわけです。増殖するお金の恐ろしさというのは、このように人々の「未来の時間」や「未来の資源」を食い尽くすという作用です。

ミヒャエル・エンデが「モモ」で示した「時間泥棒」とは、まさにこのようなお金の作用を指しているのです。

利率を多少減じたところで、2倍になる期間が10年や15年に延びるというだけで、結局、その分自分が自由になる時間なり、子孫に残すべき資源を「先取りして」浪費しなくてはいけないことにかわりはないのです。

上記のWikipediaにもマグリッド・ケネディ氏の以下の言葉が引用されています。

>>>>>
マルグリット・ケネディはこのようなたとえを用いて複利計算の矛盾を問うている。

ヨゼフが息子キリストの誕生のとき(西暦1年か紀元前4年かは不詳)に、5%の利子で1プフェニヒ(100分の1マルク)を銀行に預けたとする。
彼が1990年に現れたとすると、地球と同じ重さの黄金の玉を、銀行から13億4000万個、引き出すことができることになる。
<<<<<

なんと単純な詐欺に人類は長い間騙されて続けてきたのか。


>需要があるから供給される、という、ごく当たり前の社会状態を生み出す

その通りです。本当にそれだけで、今よりはるかにまともになるはずです。
直感的・倫理的・論理的に考えて、そのための一番妥当な手法が、減価する通貨の導入であると思っています。

それから矛盾するようですが、この問題に気がついてしまった人はあんまり正面から「詐欺」そのものと格闘してはいけないと思っています。まともに正面から格闘すると非常に「疲れる」からです。疲れすぎると心身の健康を損ないます。

そもそも増殖する通貨を無理に駆逐しようとしなくとも、資本主義の限界によって、自然とその出番はなくなり、減価する通貨が徐々にそれにとって代わるはずです。私たちに必要なのは、その時までに生き延びることです。

平和党の大坂さんがいうように「自然主義経済」の実現には、まず『生存術』が基盤にあってこそなのだと思います。
・平和党公式ブログ「柔道・剣道の必修化よりも生存術を」
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/32585338.html

最近、私はその一つの実践として武道家で身体科学者の高岡英夫氏が開発した「ゆる体操」というのをやっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%82%8B%E4%BD%93%E6%93%8D

やり方は色々本が出てますし、「ゆる体操」で検索すると大体の雰囲気はわかると思います。拍子抜けするほど簡単な体操ですが、とても効果があるので、お勧めです。体をゆるめて、心もゆるめる。その結果として、人間本来の心身能力が戻ってくる実感があります。

ミヒャエル・エンデも日本人の身体性に注目していました。

・萬晩報:園田義明「ミヒャエル・エンデが日本に問いかけるもの」
http://www.yorozubp.com/0007/000726.htm

>>>>>>>
かってエンデは新たな精神性が日本で生まれる理由として日本人の肉体的構造をあげている。密度がつまっていない浸透性と繊細さに希望を見い出したのである。まだ日本と深く接していなかったころの、この漠然とした表現に本質が隠れているように思う。
<<<<<<<<

詐欺のからくりがバカバカしいほど単純なら、それを無効化することも、おそらくすごく簡単なことなのだと思います。

それは多分「体と心を使って周りの皆と楽しく生きること」なんだろうと。
はじめまして (ケネー)
2008-04-07 23:39:10
 こんばんは

 昨年の終わり頃に当ブログの存在に気付きまして、それ以降素晴らし記事に日々勉強させていただいています。とても素晴らしい記事ばかりで、もっと早く気付いていればと、後悔する日々です。
 また、記事だけでなく、コメント欄での皆様の論議ももの凄くためになります。

 話は変わりまして、花ブナ様やろろ様がご提案の、自然主義経済や鎖国論、分権化、廃県置藩などによる持続的な循環する社会と言う案は大変興味深く、私としても大賛成であります。
 私の好きな哲学者?に内山節と言う人がおりまして、彼も同じようなことを主張しております。ただ、彼の場合は皆様方よりは懐古主義的な面があります。でも、主張にそったことをフィールドワーク的に実践なさっている点は凄いところです。

 両者(皆様方と内山氏)の論をザッと読ませて頂いた上で、少し感想を述べさせて頂きたいと思います。
 国際金融資本なんてものを知ってしまいますと、陰謀論がどこまで妥当かという事は別にしましても、頭の中が混乱し、時に発狂してしまいそうにもなるのですが、私が疑問に思う点を三つほど。

 一つめは国際金融資本からの干渉をどう避けるかと言う問題。

 何が厄介かと言うと、資本主義は支配、戦争、科学技術(進歩主義)、近代国家などの近代的仕組みと大変親和性が高いと言うことです。クラッシュ&ビルドが彼等の基本戦略であることからしても明らかだと思います。これに対して自然主義的循環型社会と言うものはこれと真逆にあると言うことです。これは何を示すのかと言うと、欲望を刺激したり物量と言った問題では資本主義の方に分があると言うことです。
 資本主義、グローバリズムと言うのは無限に拡大することを目指しますが、地球や資源が有限であることを考えれば、これは最終的には破綻することは明らかなのですが、破綻までに余裕が少しでもあれば、物量に物を言わせて支配する事が可能であると言うことです。
 地球の未来の事を考えれば、持続的的な自然主義社会の方がベターであることは間違いないのですが、悪魔に心を売り渡した輩が破滅をしてでも欲望や支配に執着した場合、原理的にはこれを防ぐのが難しい。
 オーストリア・ヴェルグの地域通貨が国家に廃止にされたり、江戸が明治維新を経て中央集権化していったのも、権力による圧力、軍事力への脅威、恐怖があった為で、ある意味仕方がなかったとも言えます。
 破滅を覚悟してまでも、支配欲を捨てられない国際金融資本と言うものを、どう説得するか、或いはどう距離を置くかと言うことが自然主義経済を導入する為の最大の難関ではないかと考えるのですが、何か妙案はお有りでしょうか。
 物量で負ける以上、戦争を仕掛けられた負けますので、余り軍備の強化は有効ではないでしょう。と、なると核兵器を保有しながら、手を出したら自爆するぞと相手を脅すくらししか手はないような気がします。

 二番目の問題は「風土」に関する問題です。
 持続的な循環型社会のモデルとして良く取り上げられるのが、江戸時代のあり方ですね。江戸時代以外にも参考になるアイデアが日本には多くあるみたいです。日本独自の文化は自然主義経済にとてもマッチしているようですが、それは特別日本人が凄かったと言うよりも、日本が地政学的に恵まれていた事が大きかったように思います。
 それは島国であることや大陸との適度な距離、国土が広すぎもせず、狭すぎもせず、南北に伸びているetc
 内山氏はこのことを「風土」と言う言葉を使って説明していますが、この風土に恵まれた事が日本の文化を深いものにしたのではないかと思います。(日本の中だけでも様々な風土があります。)
 西欧のような人間中心主義ではなく、この風土との対話があったからこそ持続的な循環型社会を築いてくることが出来たのでしょう。
 と、考えると人間の命や文化という物も大事ですが、この風土と言う物も同じくらい日本文化にとっては大切であり、こういう風土の中にこそ自然主義経済へのヒントが多く隠れているのではないかと考えます。
 昨今では科学技術や工業化が進み、食糧の保存法や輸送手段の進歩などから、その風土を活かさなくとも多様な生産物がつくれるようになり、「空間的な普遍性」がほぼ確立されてしまいました。このことで、大型店舗の出現などでその土地(地方だけでなく都会も)の風土が壊れていっています。
 これと同じくらい重要な問題が原子力発電の問題です。まず誰もが気付くのが放射能の問題でしょう。地震やら何らかのハプニングで原発がメルダウンなどすればそれこそ人命も風土も失ってしまうことになります。
 また、、原発には原発誘致+補助金でその土地の産業を壊し、文化、風土を失わせて行くと言う面もあるように思います。
 今年になり日本では原発推進の動きが活発になってきているようですし、六ヶ所村の再処理工場も本格稼働するようです。日本が地震列島であることやこのところの中米の雲行きの危うさを見ると、原発は一刻も早く停止、解体して行くべきだとも思うのですが、いかがでしょうか?
  ユダヤの方や留学組(故郷を捨てた人々)がグローバリストに成りやすいのも、その土地、風土と時間をかけて結び付く事を捨ててしまったからかも知れません。

 三つ目は資本主義や貨幣自体にばかり目が行きすぎではないかと言う疑問です。
 「減価する貨幣」や地域通貨と言う考え方は素晴らしいのですが、BS特番「エンデの遺言」の動画などを見ますと、どうも貨幣にばかり拘り過ぎていて他の弊害に目が向いてないのではと言う思いを持ちました。
 確かに貨幣に「利子、利潤」と言う役割付加した為に、貨幣経済、商品経済が発達し資本主義、グローバリズムへとその速度を加速させていきますが、江戸までの日本や各地の中世、古代文明や未開の地と言われるところでも貨幣は存在しました。しかし、そこでは「社会の補助的機能」であった為に資本主義化することはなかったのではないかと内山氏は推論しています。
 では何が西欧では違っていたのか、それは「ヒューマニズム=人間中心主義」と言う考え方ではないでしょうか。確かに資本主義もこの閉塞感漂う世界の大きな要因なのですが、それとは別の要素が余り顧みられていないのではないかと思います。
 内山氏はこの資本制社会が産みだし、それを支えている精神として「合理主義」、「個人主義」、「科学主義」、「発達主義」と言うものを挙げています。
 こう言った四つの主義が、物の価値を量的に把握するようなり貨幣がより力を増し、全体や関係性ではなく個というものに価値を押しとどめた為に共同体が壊れ、科学技術の発達により工業化や輸送技術が発達した為に労働が単純化したり富の偏在が極端に偏るようになり、進歩し続けなければならないという強迫観念が閉塞感をより一層増しているのではないでしょうか。
 『エンデの遺言』の動画などを見ると、こう言った他の近代、現代的精神の負の部分は見ずに、その責任を貨幣だけになすりつけている気がしないでもありません。「腐る貨幣」と言う制度にさえすれば全ては上手く行くと言う幻想があるように思えます。貨幣の機能は変更するが、他の便利な近、現代性は手放さないというのであれば、持続ある循環社会への変化としては片手落ちで有るような気がしてなりません。
 また、動画で紹介されている地域通貨的な物は、全て先進国(西欧又は西欧化した
国)の例でした。これは既に第三世界の人々の犠牲の上に既にインフラがそれなりに揃った地域での試みです。また、農地などもそれらの国と比べればそれ程荒廃している分けではない。そして、今までの国の通貨と連動している事を考えると、地域通貨と言えども度合いの強弱は別としても、やはり第三諸国の犠牲があってなり立っているように思います。
 まだ試行錯誤の段階でのVや試論ですから、完成度を求めるも間違いなのでしょうが、少し近代西欧思想の貨幣以外の負の部分、ヒューマニズム的精神への警戒が薄いような気がするのですがいかがでしょうか?
 本当に持続する循環型社会を目指すのであれば、理念としては江戸時代に近い社会の形態になるのではないかと言う気がします。それまでに、ある程度は段階を踏んで行くべきではあるのでしょうが。

 大変長くなってしまいすみませんでした。私の理解不足の為に失礼な質問をしてるのだと思いますが、その点はお許し寝返れば幸いです。
ごめんなさい (ケネー)
2008-04-07 23:42:11
訂正です

>大変長くなってしまいすみませんでした。私の理解不足の為に失礼な質問をしてるのだと思いますが、その点はお許し寝返れば幸いです。

 その点お許しいただければ、幸いです。

 の間違いです。ごめんなさい。
>>ケネーさん (ろろ)
2008-04-08 01:26:22
  言わんとするところはよく分かりますよ。

>「合理主義」、「個人主義」、「科学主義」、「発達主義」

  私や、おそらく花ブナ氏の理解は、これらと通貨の問題とを切り離して考えないというものです。
  上に挙げられた概念は、全て「バーチャルがリアルを支配する」「書かれた言葉に身体や自然を隷属させる」という共通点を持っています。これは非常に危険です。理念に現実を近づけようとすると、無駄や無理がどうしても生まれます。
  たとえば、平等概念というのがそうですね。人間個々には差異があるという現実から出発しないで、とにかく平等に扱えという。言葉が現実に変革を迫るわけです。当然、うまく行くわけがない。
  そうすると、理念に凝り固まった人間は、「まだ徹底していないからだ」という。近年カイカクなるものを唱えている連中もそうですね。宗教の原理主義というのもそうです。

  私がそこに見るのは、「悲しみ」です。人間は完璧や理想を思い描くことができるのに、それにいつまで経っても近づくことの出来ないという、そういう悲しみです。
  私はそんな悲しみを、ロスチャイルドとかロックフェラーとかいった連中から感じますね。彼らは、バーチャルな通貨の世界では王者になった。バーチャルな金額単位で、リアルを服従させているように見える。しかし、本当は彼らは何も持っていない。何一つ所有していない。それをさらなる富の蓄積で乗り越えようとしているけれど、ケネーさんのご指摘通り、きっと地球を破壊するだけに終わるでしょう。
  日本の役割は、そういう不毛な世界を包み込んで越えることだと思います。(すみません、花ブナ氏の受け売りです)

  長々とすみませんでした。
>>花ブナさん (ろろ)
2008-04-08 01:32:49
>複利計算

  たしかにそうですね。単利でしかものを考えていませんでした。失敗失敗。
  マンションがほしいなーとか思っていたんですが、金利のことを考えたらばかばかしくなって結局やめました。みんな、金利を取られるのが悔しくないんでしょうか?(笑)
  金利なんて当たり前だろ、と思うのですが、そういう前提条件のところにこそ、何か致命的なものが隠れているような気がするんです。
  だいいち、庶民のカネの貸し借りで、複利計算なんてしません。オプション取引のブラック=ショールズ式なんかもそうですが、複雑なものというのは、中身がどうなっているかわからない代物だと思った方がいいかもしれません。
  経済学や金融工学で煙に巻く詐欺師と対抗するには、そういう土俵に乗らないことが大切だと思っています。
ろろ様へ (ケネー)
2008-04-08 21:35:26
 ろろ様へ

 はじめまして。ご丁寧なコメント有り難うございます。ろろ様のブログもいつも興味深く拝見させて頂いています。浅学な自分にはとても分かりやすく為になります。

>私や、おそらく花ブナ氏の理解は、これらと通貨の問題とを切り離して考えないというものです。

 そうでしたか。すみません。山内氏も「合理主義」、「個人主義」、「科学主義」、「発達主義」は貨幣経済と共に生まれて来た精神だと書かれているので、やはり通過と言う物に主要因はあるのでしょうね。
 ただ、私としては少し悲観的でありますので、もう少し欲望や利便性と言う物を捨てることをしなければ、持続的な循環する社会の実現は難しいのではないかと言う気がしており、そう言うものを強く意識していかないと、結局は欲望や利便性に飲み込まれてしまうのではないかと言う危惧があります。これは私の意志が弱い為でしょう。

>書かれた言葉に身体や自然を隷属させる
 これは的を射ていますね。それも西欧的な文言を何の躊躇いもなく信じ込んでしまう。つい最近までの私がそうでした。自然を支配下におこうした西欧のヒューマニズムの悪癖です。

>私がそこに見るのは、「悲しみ」です。人間は完璧や理想を思い描くことができるのに、それにいつまで経っても近づくことの出来ないという、そういう悲しみです。

 確かに。噂によればロスチャイルドの資産は1京とも言われますが、そんなに持ってどうするのでしょうかね。通帳?の数字とにらめっこするのが好きなのでしょうか。
 以前どこかのサイトでD,ロックさんが、日本の焼き物を見学している写真を見ましたが、彼にもそんな趣味があったのかと驚きました。各地の文化を破壊し世界をフラット化しようとする彼が日本の伝統文化に興味を示す…。何と矛盾したことでしょう。
 彼等はその欲の果てに何をみているのでしょうか。少し気になるところではあります。
 コメント有り難うございました。

 花ブナ様、また、長くなってしまいました。すみません。
>ケネーさん (花ブナ)
2008-04-09 20:24:51
>ケネーさん

ご訪問、コメントありがとうございます。
また、自然主義経済へのご理解ありがとうございます。

内山節氏のことはこれまで知りませんでしたが、著作等の紹介を見た限りでは、同じものを見られているなと感じます。上記のろろさんへの返答に書かれておられるように、私も
>「合理主義」、「個人主義」、「科学主義」、「発達主義」は貨幣経済と共に生まれて来た精神
であると考えています。

よって、ケネーさんが掲げた三つ目の質問、資本主義や貨幣自体にばかりに目が行きすぎではないかと言う疑問は、とても本質的な部分を含んでいます。

おっしゃるように問題の「根本」は貨幣そのものではありません。
貨幣をどのようなものとみなすか、どのように使うか、それは煎じ詰めれば、結局人間の抱くイメージ=心の問題だからです。

従って、貨幣について深く論じるほど、それは人間が世界をどのように把握するかという心性の問題(形而上学的な議論)に発展します。そのようなこともあって、私は必要に応じて、一神教の問題やそもそも経済とはなんだろうか、という考察や思考実験の結果をアップしてきました。
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/d31b66f59d12ff334d743549318f9cdb

私が感じている荒っぽい結論を言ってしまえば、問題の根本は善悪を二つに分けようとする極端な二元論にあります。西洋ではまず、キリスト教を改変して作られた二元論カルトが人々のイメージ支配装置として導入されたと考えています(それ以前には西洋にも『東洋的』な思想があったはずです)。増殖するお金に基づく資本主義(およびその派生形である社会主義その他の経済システム)は、結局そうした二元論的宗教と「同じ原理に基づく人間のイメージ支配装置」なんです。「彼ら」はお金が欲しいのではなくて、二元論的宗教というメソッドが作りだす「イメージ支配の力」を信奉しています。

だから、このシステムを考え出した人々というのは、とても人間の心の弱点を熟知しているといえます。彼らは人間そのものに対し、深い「諦め」を抱いているのです。これがろろさんが上記で指摘する「悲しみ」に繋がっています(おそらく)。

「お金」や資本主義の問題に気がついたエンデは、論理ではなくて、おそらく彼の心の中にあるキリスト教以前の『東洋的(ケルト的?)』心性で、その危険性と限界、そしてその裏側の深く悲しい「諦め」を感じたのです。

しかし、こうしたことは、メディアでは表立って指摘はできないでしょうね(マグリッド・ケネディ氏は涙を流していますが)。上記の私の考えだって、ある種の仮説の粋を出ません。エンデはこの非常にデリケートな問題をどうするかおそらく相当に悩んで、「モモ」という童話の中に「比喩」を用いて書き残したのだと思います。で、その種あかしを自分がなくなる前にしたのだと思います。

同時に、私はお金に関する形而上的な議論に拘りすぎることはある種の危険性を孕むと感じています。言葉により議論を進めることで真理や問題の本質を見出そうとすること自体、ある種の二元論・善悪中毒に嵌る可能性があると感じるからです。私は、西洋思想の限界・近代の問題を越える道は、間違いなく東洋的な心性を「思い出す」ことだと思っています。しかし、そういったものは近代的な教育=言語によって刷り込まれる「思想」ではなくて、その人が自分の親や先祖、周囲の社会や風土から自然と受け継いだり、感づいたりするものだからです(逆に言えば、そのような価値を深く実感する感性=能力を人々が失ってしまったのが近代の問題だといえます)。

だから、哲学的な議論は「そこそこ」にしておいて、あとは各自自分の経験を深める中で自然と東洋的な心性を思い出すことが大切だと思います。それから、闇を見つめるものは同じように闇に見つめ返されると言います。私たちは闇の深みに気がついたならば、もうそこにはあまり近づかない方が良いと感じます(事実、多くの文化人や哲学者がその闇に近づきすぎて、命を短くしたり、逆の方向に利用されてきたと感じます)。

おそらくエンデもその危険性を感じ、「あえて」現代的精神の負の部分を必要以上に掘り起こさなかったのではないかと思います。ただ、負の部分も見えないとそれをどう包んで越えれば良いか判らない部分もあり、この辺りのバランスが微妙なんですよね。ま、闇は正面から見つめずに、自らの地盤を作る『生存術』をマスターすることに力を注ぐ方が、結果として「全てを包んで超える道」を切り開くように感じます。

要するに「自然主義経済」というのは『生存術』の一部、人類が人生を再び楽しめるようになるための技の一部です。武道で言えば、心身を鍛え極意をマスターするための修行法みたいなものでしょう。我々が今目にしている経済システムは、心身を破壊するための間違った修行法です。しかし、どれだけそれが間違った方法であることを指摘しても、信じ込んでいる人の頭(価値観)はすぐに変わりません。だから彼らに対し、正面からその価値観を改めさせようと戦えば、疲れて「悲観的」になります。彼らがこれまでの方法が間違っていることに本当に気がつくためには、それが間違っていることをまず実感するしかないでしょう。そしてその日は遠からず訪れます(というか訪れている)。だから、利子つきの通貨をわざわざ締め出す必要もないですし、資本主義経済を信じている人に無理に「自然主義経済」を説得して回る必要もありません。

とにかくその時までに、無理なく実践できる方法を「復活」させて、上手くいことを示せれば、自然と多くの人がなびくはずです。私が、今回の記事で生き延びること、健康であることが大切だ、とかコメントで「ゆる体操」などを紹介しているのは、そういうことを考えているからです。

そして、「ゆる体操」を紹介した理由にはもう少し深いものがあります。あの体操は、体がゆるめば、心の問題も軽くなる/治癒する、(本来の)能力が開花するという思想に基づいています。体が心を支えるという考えです。そして、実際に効果があることを体験しています。

同様に、経済のシステムを「減価する通貨」で変えてやることによって、自然と「ゲゼルシャフト(唯物的な利益社会)」から「ゲマインシャフト(唯心論的な共同体社会)」に移行する力(まともな価値観)が生まれてくる(復活する)、と考えています。

要するに多くの人が、価値観が変わる⇒世の中のシステムが変わる、という一方向の発想(脳優先の思想)に囚われているのです。しかし、実際には、世の中の条件がまず変わって、それから人々の価値観が変わるということの方が多いのです。だから、まず「減価する通貨」という条件を導入してやることが、イデオロギーの戦いという不毛なことを避け、手っ取り早く人々の気持ちを変えることに繋がると思っています。

ここはとにかく「発想の逆転」が必要です。

これは「経済」だけに限らず、医療や軍事、科学や文化にも言えることだと思います。その辺りはまたいずれ述べたいのですが、もうすでに、平和党の代表がアップするブログに書いてあることが多いですね。

二番目の問題の「風土」については、おっしゃる通りだと思いますよ。
自然主義経済というのは、基本的にその風土にあったような経済システムができるようになっています。なぜなら、「地元の需要」のみが供給を生む究極の地産地消社会だからです。地元に需要のないもの、風土に合わないものは実施できません。原発についても、地元で電力を消費するだけであれば、あんなでかくて怖いものはいらないわけです。よって、自然とエネルギー生産の手段としては選ばれなくなります。

ここの発想も、原発をなくしてから、自然主義経済を、ではなくて、自然主義経済が進んで、自然と原発がいらなくなる、という流れなのです。

一番目の疑問については、前回の記事でNSさんから頂いた質問への答えとなるので、後日またお答えします。一言だけいえるのは、資本主義の強みは、なんでもかんでも「中央に集める」「中央が強くなる」ということです。しかし、物事には必ず「作用・反作用」の法則が働きます。豆腐を作れば、おからがでる。「強み」とはしばしば「弱点」なのです。それから、「自然主義経済」はまず先進国で始まると考えています。第3世界を救うためには、まず先進国が「自然主義経済」へと移行することが先決です。

長くなりましたので、この辺の詳細はまたいずれ。
>ろろさん (花ブナ)
2008-04-09 21:20:07
コメントありがとうございます。助かります。

>マンションがほしいなー

平和党の「住タダ政策」をお待ち下さい(笑)

>金利を取られるのが悔しくないんでしょうか?

そうですね。ただ、あんまり悔しがっても、しょうがないですよ。
なぜならば、貸家に住んでいるからといって、金利から無縁であるかというと、これがそうとはいえないからです。

以下のリンクはマグリッド・ケネディ氏の補完通貨というプレゼン資料(PDF)です。
http://www.margritkennedy.de/pdf/PRE_cc.pdf

上記の3ページ目のRent in Public Housingに締める利子(interest)の割合を見ると、なんと77%です。良く考えてみれば、自分がローンを組んで建物を手に入れた分の金利を支払うか、他人(企業・政府)がローンで建てた建物に住んで、金利分を含む家賃を支払うかの違いしかないんですね。(自分の土地に自分で家を建てない限り)

同ページの説明にあるマグリッド・ケネディ氏の計算では、全てのサービスやモノの購入費の実に約40%が「利子」の支払にあてられています。これはドイツの例ですから、厳密には日本とは異なると思いますが、まあ、我々の周りにある財やサービスはことごとく「利子まみれ」ってことです。

ですから、もういまさら目くじら立てても仕方ないですよ。
隷属の認識を持ちつつ、のんびりと平穏な気持ちで、健康に気をつけながら、「自然主義経済」を実施するチャンスを待ちましょう。

そして、上記の内容は自然主義経済が普及した暁には小学校の教科書に載るでしょう。

<未来の教室のとある風景>
若い先生「昔の人は、こんなにおかしな通貨システムを使っていました。もうこのようなことにはならないようにしましょうね」
生徒A「はーい」
生徒B「当たり前じゃん。でもなんでそんなアホなことをしていたの、昔の人は?」
若い先生「さあ?今度校長先生に当時の話を聞かせてもらいましょうか」

・・・未来の校長先生は、ちょっと辛い立場が予想されます。


「不都合な真実」は、実は当たり前の常識・前提条件に隠れているというのは、まさにことのことでしょうね。
なるほど (ろろ)
2008-04-10 13:55:42
>私はお金に関する形而上的な議論に拘りすぎることはある種の危険性を孕むと感じています。

  今村仁司だとか桜井哲夫だとかいった日本の現代思想家の貨幣に関する論考なんか、まさにこれになっちゃってますね。
  あと、柄谷行人がNAMとかいう左翼団体で地域通貨を実践しようみたいな試みをやったみたいですが、どうもこの人も「国家対人民」みたいな構図でしか物事をとらえていないような気がします。
  アカデミズムというのは、直感に従って実践しようとする人間に対して、縛りをかけるための道具なんじゃないでしょうか。「このリングに上がってきて勝てないってことは、君の言い分は嘘だな」という感じで、真の変革につながるムーブメントを抹殺するわけです。シルビオ・ゲゼルの発想なんてまさにそういう扱いを受けていますね。
  今現在進行形で某ブロガーに絡まれているのでよく分かるのですが(笑)、プロ市民やプロ学者みたいなやつの作った土俵に上がったら負けですね。「韓信のまたくぐり」に徹しましょう。