減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

「一神教」の問題と近代の超克

2008-01-08 21:43:49 | Weblog
下記のろろさんのエントリーへのコメントなのですが、話が非常に大きくそれてしまうのでこちに描いておきます(素晴らしい内容のエントリーで、コメントも充実していますので、はじめての人はまずそちらをごらんください)

『日々是勉強』【情報操作】メディアリテラシーというものを教育できるのか
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-89.html

>>>>>>>>>>>>>
>本来のPublicというのは、共同体内のPrivateな経験の積み重ねの
>中で育まれ、言語だけに頼らない「合意」として蓄積されていくものだと思います。

  転倒しているんですよね。具体的な生活なり感情なり経験があって、それに言葉をつけるというのではなく、言葉が先にあって、これに生活や感情を隷属させようとしているのです。そういう点では、右翼と左翼は全く同類です。
  聖書に「初めに言葉ありき」というくだりがありますから、彼らは実は一神教信者なのではないでしょうか?
<<<<<<<<<<<<<<

いわゆる言葉で書いてある理想に隷属してしまう教条主義的な右翼・左翼は確かに「一神教的」ですね。

ただ、一神教そのものについては、少し元から考えてみる必要はあると思います。

まず、素人ながらに一神教の根本は何かということを考えるのですが、おそらくそれは「明示的な万能の理性」を権威とする父権的な共同体文化なのだと思います。言葉というのは理性の明示化であり、宇宙の諸相は(究極的には)「全能の理性=父なる神」の言葉で言い表すことができるし、「実際に」そうなのだと。で、これは良い悪いではなくて、そういう自然条件にある共同体には自然にそういう文化・宗教が発生するのだと思います。

つまり、食糧生産に向いた土地が限定的で、広い地域に点在する共同体どうしが互いに交易等を通してなんとか生きていけるようなところでは、どうしても家族や個別共同体を越える超越的・抽象的でかつ明示的な存在にジャッジを委ねる必要がある、すなわち取引上の正当性を皆が認める「一つの神」に保証してもらうという必要があったのだと思います。また、そのために使われる「言語」にも、嘘偽りのない厳格さと「力」が備わっていると同意形成をする必要があったでしょう。また、この延長上に普遍的な取引媒体である「貨幣」が発明されたのも自然な流れだと思います。

ここで、貨幣が単なる交換手段であるなら問題ない。父権的な一神教の教義そのものも、抽象的な概念・契約の範囲にあれば、実際の取引、すなわち共同体どうしの存続を維持するものである限り、何の問題もない、というよりも必要な文化であった。

これが問題化するのは、父権的教義が特定の人物や組織、あるいは貨幣のような形で実態化・固定化してしまったからだと思います。本来、伝統的宗教はそういう概念の固定化・実態化(仏教用語でいうところの『法執』)を抑えるために様々な制御機構を有しています。例えば特定人物・組織あるいは偶像崇拝の禁止であり、利子取得の禁止であり、万物の流転・循環を意味するメメントモリ・無常観であったはずです。西洋の宗教に問題があるとしたら、伝統的宗教から「誰か」が巧妙にこの制御機構を無効化または「逆転」させて、大衆支配のために悪用した部分だと考えています。

私は、このアイデアを思いついたのは、ローマ時代の「被差別民」だったと推定します(あまり大きな声では言えませんが、キリスト教がローマで国教化された頃に活躍した教父たちの背後がとても怪しいと思っています)。その実際の仕掛け人が、カルタゴ後のフェニキア人か、ユダヤ人か、その特定はともかくとして、『彼ら』が積年の恨みと自己の身の安全を守るために先祖代々に渡って人間支配のノウハウを練り上げたと推定しています。これにより、かつての被差別民が、宗教闘争により「選民」となり、その後また新たな被差別民が多大な犠牲を払って次の「選民」になることを繰り返してきました。その度に宗教が本来守るべき共同体が崩壊し、滅亡した過去の民族の「怨念」が「狂った父」に注ぎ込まれたのだと思います。すでに守るべき共同体のない「狂った父」は、ただただ地球上の生命を去勢し、服従させるだけの存在になっていきます。

つまり、現在我々が、「一神教」や「科学万能・唯物思想」として否定的に見るものの根本は、本来の伝統的一神教ではなくて、以上のような過程を経て父権性があまりに肥大化した「破壊カルト」なんだと思います。その父権的力の象徴が指数関数的に増殖する貨幣であり、国際金融資本は、共同体を失った人間が狂った父の力にとても強く惹かれることを知っており、それ利用している、ということだと思います。このような心性を持つ人が増えれば、あとはなるべく民衆が分裂するような教義・理念・法を与えて、それぞれに狂った父を掲げて(自称)「被差別民」であるという認識の下に、互いに憎しみあって殺しあい、その結果として『彼ら』に利益と安息の時を提供するという仕掛けが完成します。

以上は私の極めて大雑把な推察です。ただ、この推察が正しければ、すべての始まりに、宗教の制御機構を「逆向き」にすることで自らが得をする方法を思いついた人間嫌いの大天才がいます。そして、なぜ彼がそういうことをしたかというと抑圧の歴史の中で、心に大きな「トラウマ」を抱えていたから、だと思っています(私が嵐の湖の底に垣間見た船は、この「トラウマ」でした。要するにカルトに染まったり、○○思想に染まって、自殺したり、仲間を殺すような人には、深い「トラウマ」があるということです)。

さらにその後、「狂った父」の象徴であり力である貨幣を増やすための様々な発明が生まれ、多くの人にトラウマが増殖し、世界規模での「うねり」となっていったのが「近代」でしょう。だから、この流れを断ち切る最もシンプルな方法は、「狂った父」と直接戦うことではなく、そういうトラウマを持った人間をなるべく生まない社会にすることです。またはそういうトラウマのない人々がよく活躍できる社会にして、その中で自然にトラウマを持った人々がそれを消化するのを待つことだと思います。

最近、私は日本人や伝統的な共同体感覚が残っている人々に期待されている役割があるとしたら、そのような世界に広がる「トラウマ」の増殖を抑え、ゆっくり溶かしていくような「セラピスト」になることではないかと思うことがあります。

宮崎駿は、映画「千と千尋」の中に登場する「カオナシ」を死の世界(沼地)からやってきた過去の欲望やトラウマに縛られる哀れな亡霊として書いていますが、あれは実際のそういった人間の(悲しくもどこか同情できるような)弱い心性を描いたものでしょう。弱い心性であるからこそ、他人に対して過剰に服従を強いる態度にでてしまう。ニーチェは近代のキリスト教が抱える「ルサンチマン」に気が付いたけれども、それを昇華する方法として、やはり父性的な発想しか持てなかったのが彼の限界ではないでしょうか。人々の心の中に広がる「カオナシ」のトラウマに、どのように対応していくのか。一つの方法としては、母性的な心性を持ちつつも、父性・母性双方の価値観を行きする勇気を持ったセラピストの育成であるように思います。

「千と千尋」を含め、最近のアニメやマンガで「戦う少女」や「普段頼りないけどやるときはやるみたいな少年」が多くでてくるようになっているのは、そうしたセラピストが現れてくることを待ち望む民衆の潜在的意識の現われだと私は思っています(ろろさんの好きな、というか私も好きだったサザンアイズのパイや八雲もその典型例であると思います)

映画「千と千尋」では、頼りない少女が人生の守・破・離を見事に成し遂げて、崩壊しかけていた世界のセラピストとなる様子が明快に描かれています。もちろん、現実の解決をはかるためには、映画とは異なった「守・破・離」のプロセスを個々人が成し遂げる必要があります。

そこでまずは『守』として、我々はなぜ日本が、明治維新という選択をしつつも、近年まで、そして現在でも、なんとか耐えてこれたのか、ままならない現実に憤るだけでなく、自らの存在と今日の気付きを支えてくれた有形無形の背景に想いを馳せる必要があると思っています。

私は単なる東洋的アニミズムの他に、我々の日本には多くの民族的な悲劇とそれを乗り越えてきた歴史があり、それに伴う深い心性の進化があったと思っています(先の大戦における犠牲というものもおそらくそうした歴史の中に位置づけてはじめて昇華できるものではないかと思っています)。民族としての蝦夷、氏族としての物部は滅亡してもその心性は後の世に引き継がれ、広がりました。すなわち鎌倉仏教として後の世に花開き、さらに江戸文化の繁栄にもつながりました。日本列島という風土が、様々な民族や文化の受け皿となり、東と西で大きく律動してきた歴史には、(多くの犠牲を生みながらも)縄文の心性が消えることなく、様々なものを溶かし込む「溶媒」へと進化(自己変革)してきたことが感じ取れます。日本人の心の底には、滅びの美学があると、指摘する人もいます。確かにそういう面はあるかもしれない。ただ、もう少し正確には「たとえ身が滅ぼうとも我が精神は生きる」という気持ちが強かったのではないでしょうか。自他の「共苦」を受け止め、それを昇華する何かがそこに感じます。

私たちの先人が、狂った父である「一神教カルト」に相対しても、日本の文化が完全に崩壊しなかった理由の一つにそのような心性の深さ・柔らかさがあったと思うのです。明治の頃から物事が見えていた人々というのは、日本が近代化するにあたって、そのような日本人の心性に、ある種の「賭け」をしたのではないでしょうか。昭和天皇が南方熊楠を愛していたのは、彼の中に日本人が近代を超克する光を感じたからではないでしょうか。ただ、一方でその苦しみの中で亡くなっていった知識人も大勢います。先の大戦に関連してなくなった多くの将兵さんやその他の方々もある意味近代超克のための尊い犠牲のように思います。近代超克のための作業は、アカデミズムや文壇などではなく、実際の戦場や戦前・戦後の経済において行われてきたと思います。そして、その戦いは今現在も形を変えて続いています。また、この戦いは、日本だけで展開しているわけではなく、世界各地で継続中であり、戦いに負けないためにはそれぞれの連携も大切だと思います。


今後、多くの人々が協力して、「死のみやこ」からどんなカオナシがやってきても、自然とトラウマが抜けるような社会を作ることが望ましいと思う。

そうした社会の構築に必要な材料は意外と自分の足元や心の中に転がっているように思う。

そして、以上の過程で最後まで我々が負けたと思わなければ、いずれ「必ず」近代は超克される。

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10 コメント

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なるほど (ろろ)
2008-01-09 01:39:38
  これは・・・コメント欄では無理だ(笑)。

>我々はなぜ日本が、明治維新という選択をしつつも、
>近年まで、そして現在でも、なんとか耐えてこれたのか、
>ままならない現実に憤るだけでなく、自らの存在と
>今日の気付きを支えてくれた有形無形の背景に
>想いを馳せる必要がある

  ここをクリアすれば、先行きは明るいでしょうね。

  明治維新を、列強に征服されないためには仕方なかったとか、自発的な改革だったとか、そうやって取り繕うのをもうやめにした方がいいんじゃないでしょうか。
  確かに、いまさら明治維新を呪ったところで何も変わらないでしょう。ただ、あの維新の真の意味を知ることで、同じフォーマットで運営されている現代の社会の欠点を冷静に分析することは出来ます。

  たとえば、日本人の歩き方は、ナンバ歩きが普通だったのに、格好が悪いからと言って「体育」の授業を通じて西洋式の姿勢を導入してしまいました。それによって、確かに世界に通用するバレリーナなどが生まれていますが、本当にそれでよかったんでしょうか。実は日本の八百万の神と呼応してきた日本人としての身体を失ってしまったのかもしれません。
  これが、学制や教育基本法を通じた近代教育であれば、言わずもがなでしょう。内面を相当変質させられてきたはずです。教育勅語で取り繕っても無駄です。あれで育つのは大日本帝国臣民ではあっても、「日本人」ではないのです。
  問題は、我々自身が、そういった喪失に対して目隠しをされていることだと思うのです。別に、誰も意識しているわけではないと思うのですが、教育や文化宣伝というのはそういう効果を後に残すのです。言ってみれば時限爆弾です。GHQの洗脳と初期の日教組教育が、戦後60年にして本格的に各地でテロを引き起こしているのがその典型です。
  もういっそのこと、明治維新で「外国勢力に膝を屈した。日本は欧米列強に隷属した」と正直に認めてしまった方が気が楽になれると思います。
  右翼はそういった実情に気づいているのに自分をごまかすから中国韓国を狂ったように叩いて現実逃避しているのでしょう。あるいは、本当に馬鹿なだけか。
  左翼も、自分たちが明治維新で作られたシステムをそっくりそのまま利用しようという魂胆があるために、こともあろうに江戸以前の「日本」を批判するという暴挙に出てしまい、いまだにピントのずれた言論しかできません。

  彼らも、明治維新で日本が負けたこと、それによって日本人が改造され始めたことを素直に認めれば、きっと心が軽くなると思います。
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光とおにぎり (花ブナ)
2008-01-09 23:13:37
>これは・・・コメント欄では無理だ(笑)。

はは、そうですね。
いつもながながとすみません

以下、また、長々といきます(笑)

>ここをクリアすれば、先行きは明るいでしょうね。

そう思います。

何度も出して恐縮なんですが、「千と千尋」で面白いシーンがあります。

主人公の千尋(ちひろ)は、異世界の湯屋で働くことを決めたとき、自分の名前を湯婆婆に奪われ「千(せん)」に変えられてしまうんですね。その後、千尋は自分の本当の名前を思い出せなくなり、自分を千だと思い込みます。これは、自分が何者なのか忘れてしまって、メディアや「近代教育」によって与えられた表層記号だけでしか自分というものを判断できなくなってしまった現代人を指すのだと思います。その後の千尋はかろうじて生きてはいるものの、何を信じて良いか判らない状態になります(もしそのままであれば彼女はその世界に囚われたまま、自分を思い出すことなくただ湯婆婆に使われて人生を閉じていたことでしょう)。これを救い出したのが、湯婆婆に仕えているはずの「ハク」です。彼は千尋にお前の本当の名前は千ではなくて千尋というのだ、と告げます(もしそのまま名前を思い出さなければ湯婆婆の思うがままだったということも知らせます)。名前を思い出した千尋は、自分の主体性を取り戻し、世の理不尽と向き合いながら、成長を遂げていきます。

本当の名前、つまり過去からつながる自己の主体性を取り戻すことで、自分を取り巻く社会というものを冷静に捉えることができ、その良い部分も悪い部分も自己消化できるようになるのです。

ですから、ろろさんのおっしゃるように、まず我々が『喪失に対して目隠し』されている状況を克服することが重用だと思います。ただ、この目隠しは、初めこそ他人から被せられたものですが、そのうち自分でもその目隠しをかけたままの方が気持ち良いと思ってしまう(映画「マトリックス」の世界のように)。本人の時期が来ないときに他人が目隠しを無理やりはずそうとしても上手くいかない。で、どういうときが時期かというと、本人が現状に疑念や喪失感を感じたときなんだと思います。おなかいっぱいの時には自分がなんらかの権威の下に畜養されている豚だということに「気付きたくない」わけです(宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」のように。賢治はきっと今の1サイクル前の守銭奴時代に「それ」に気が付いたのだと思います)。名前を奪われた千尋がハクから名前を告げられてすぐに気が付いたのも、彼女が自分の喪失感をしっかりと感じていたからだと思います。無駄に辛いことや理不尽なことはもちろん避けたいと思いますが、人生の中には必要な辛さというものがあって、それが自分を救ったり、他人を救うこともあるだろうと(少し自分を励ましつつ)思います。

維新や近代についての真の意味については、大分情報がでてきているので、時期を得た人が我々やその他の人の言葉に触れて根気強く調べると判ってくると思います。ただ、私が少し気にしていることは、気が付いた人をそのまま、放置するのではなくて、何かしらの光をかざしておかねばならないだろうということです。「千と千尋」では、ハクは千尋が自分の名前と喪失感の正体に気が付いたあと、元気がでるまじないをかけた「おにぎり」を渡します。「おにぎり」が全てを解決するわけではありませんが、そういうものが必要なんだと思います。ここを間違うと、芥川龍之介のように自殺したり、エリートがオウムにはまるような「将来に絶望する」危険性があると思います。

だから、我々が失ったものに気がついたあと、何を取り戻すことが必要で、近代における「敗戦」をどのように克服すれば良いのか、少しでも行き先を照らす光が必要でしょう。私はこの光には、多様性があって良いと思います。要は元気になれる「おにぎり」ですから、完璧でなくても良いし、色んな味があって良いでしょう。

で、私が最近考えているおにぎりですが、「ナンバ歩き」でご指摘のように、百万の神と呼応する身体性の復活かなあと思っています。これは大坂さんとも最近議論したことですが、我々はあまりに頭で物事を考えすぎるところがある。自分でも良く思うのですが、こうやって色々書いていても、やはりそこには言語による限界がある。近代を超克するには言語偏重の思考パターンやそれに染まった「アカデミズム」から離れて、自らの身体性(体の使い方から日常生活に対する所作の諸々)を「思い出す」必要があると思っています。

具体的には、持続可能な代替農業やバイオ燃料生産活動、古武術をベースとした老人介護および自警団活動を通して、地域の『教育と自治』の中で自然や人を結び付けるための無理のない身のこなしのようなものを「思い出す」のが良いと思っています(地域通貨・並行通貨はこれら活動を支えるために使います)。

ただ、言語活動も否定するわけではなく、しっかり続ける必要はあると思います。それは名前を忘れてしまった千尋に名前を伝えるためにはやはり確かな「言葉」が必要だからです。千尋に名前を伝えた「ハク」が、母性と父性を兼ね備えた「戦うセラピスト」の役を果たします。大勢の千尋が、自分の名前に気付いて、成長するまで、ハクも頑張らねばなりません。

これはやや余談ですが、ハクが湯婆婆の配下にあるのは、深い意味があると思っています。彼は戻るべき場所を失ったのち、京(みやこ≒湯婆婆の世界)に仕えることとなった物部(や国津神を祀る人々)の心性の象徴でしょう(だからこそハクの本当の名前が物部の始祖とシノニムになっている)。ハクは戻るべき場所の奪回を試みながら、「俘囚長」として、みやこで多くの悲劇を見守ってきた。だから千尋に手を差し伸べたのです。ハクの中にある大きな喪失感が千尋との「共苦」を受入れ、それを乗り越えるための前提(ともに戦うセラピストとしての資格)になっています(そしてハクが抱えていたトラウマ・弱さも千尋の成長とともに解消されます)。
これが宮崎駿が隠喩に込めたメッセージでしょう。ご存知のように宮崎駿は左翼からスタートしていますが、その到達点に深く共感しています(同じ出身の高畑氏の映画にはまったく共感できませんが)。そして各所に宮沢賢治へのオマージュが取り入れられているのも私の好きなところです。

千尋がハクに名前を教え、「世界」の縛りから自由になった証拠が、ラストシーンでの湯婆婆の質問に対する答えになっています。

本当の「リテラシー」とはなにか。その答えに全てが集約されていました。

うん、これでやっと長かったコメントのオチがつきました!

あ、ろろさん、「千と千尋」って見てますよね?(いまさらですが・・・汗)
返信する
こんばんわ (I-IRAS)
2008-01-10 01:01:51
よかったら・・・

ろろさんの所で何度か拝見させて頂いております。
日本の病理の元凶というのを自分のブログに
アップしてみました。

トラックバックが出来ないので、挨拶ついでに
コメントさせていただきました。オシテ文字・・
初めて聞きました。少し・・興味が沸きました。
では
返信する
>I-IRASさん (花ブナ)
2008-01-10 16:19:51
コメントありがとうございます。
日本の病理の元凶、よくわかります。

おそらくご指摘のようなところに我々が錯誤を重ねる原因となった「何か」が埋まっていることは確かでしょう。その「何か」とは比喩的にいえば、やはり肥大化したカオナシだと思います。そのカオナシにどのように朝廷が乗っ取られ、最終的に皇室の中で日本と同化していったのか、その過程を整理することは後世のためになりそうですが、あんまり闇を見つめすぎない方が良いようにも思います(正直、資料も少なく一般人には難しいでしょう)。むしろ普通の人にとっては、その「何か」に覆われる以前に日本にどのような精神性があったか「思い出すこと」にスポットを当てた方が良いかなと思っています。

これは文献に頼らないでやるとすれば、先のコメントに書いたように一種の体感や直感を自然や人と付き合う作業を通して取り戻すしかないと思うのですが、ヲシテ文献の解読というのは、きっとそうした「思い出す」作業の一助(以上のもの)になると思っています。

ただ、それは誰にでもすぐ握れる「おにぎり」ではないようです(言語の概念を根本から考え直すある種の才能が要るよう)。先の記事で私はびーちぇさんの情報を引用させてもらいましたが、私自身まだわかっていないことや誤解している部分があるかもしれません。ですから、ヲシテについては、びーちぇさんのブログなどを見ていただいた方がよいと思います。

また、ヲシテ文献に基づく記紀の批判やフィールド調査(巡礼紀行)は真名さんという方が精力的に進められております。現在、研究に集中するためブログ活動は停止されていますが、I-IRASさんの感じておられるいくつかの問題についても深い気付きの種があるかもしれません。

・真名の日本巡礼:http://blog.goo.ne.jp/manasanda

以上、ご参考までに。
返信する
長い記事に~^^♪ (さゆみん)
2008-01-29 09:48:05
「先祖代々に渡って人間支配のノウハウを練り上げたと推定しています」以下の説明に私も同感です!
学識者の解説は素晴らしいですね!
返信する
どうも (花ブナ)
2008-01-30 01:02:23
ありがとうございます。

でも解説は学識者だからできるのではなくて、誰も言わないから、仕方なくしているんです。それだけ人材が払底しているのか、あるいは本物はネットなどに出てこないだけでしょう。

そして私のような半端モノはいつも言語の壁にあたって、疲れ果てるわけです。スピリチャルなものがその壁を超えるのなら私も安心して寝てられるのですが、今のところ、言語を使って朴訥に努力する人以上にスピリチャルな力を適切に使える人は少ないといわざるを得ないでしょう。

多分、これは大坂さんのいうようにもっと身体の修練を積む方向でクリアしないと無理なのだと思います。

それでは、また。
返信する
ろろさんのところでお目にかかりました? (愚樵)
2008-02-08 21:16:17
花ブナさん、こんにちは。遅ればせながら、興味深く読ませてもらいました。一神教について、これほど腑に落ちる文章は初めてです。千と千尋の解説もとても興味深いです。なぜ、この記事に気がつくのが1ヶ月も遅れたんだろう?

>「死のみやこ」からどんなカオナシがやってきても、自然とトラウマが抜けるような社会を作ることが望ましいと思う。

まったく同感ですし、こうした社会には物分りの良すぎるアタマデッカチたちには育てることはできないと思っています。

以前からROMさせてもらってはいましたが、今後ともあまり「勉強」し過ぎずに花ブナさんの記事を読ませてもらいたいと思います。
返信する
>愚樵さま (花ブナ)
2008-02-09 13:33:59
はい、ろろさんのところと関さんのところで、いくどかお目にかかっております。

拙論にご同意いただき、ありがとうございます。
千と千尋という映画は、非常に先進的で深いメッセージが込められていると思います。より後世においてそのエポックメーキング性が改めて評価されそうな気がします。

樵というスタイルも、とても先進的ですよね。私のいったことはもしかしたら、釈迦に説法だったかな、などと思ったりします・・・

私は、元々アタマデッカチな方なのです。ただ、あるときこのままのやり方では、近代の超克はできないのだろうなとはっきりと感じました。その後も彷徨いつつ綴るのがこのブログです。しかし、ある程度の答えは見えています。それは頭で越えるのではなくて、生身の人間から分裂してしまった経済・文化・医療・科学etcといったものを、もう一度東洋的な感性でもって身体に「統合」することだと思います。言葉で表現しなくても、そういうことがわかっている人はわかってますよね。日本人の心の中にある粘り強さやある種の触媒性は、おそらくそういう言葉にできないものの中に眠っていると思います。そこを明らかにしたり、誰もが感じられるようにするのは、おそらく「言語」(だけ)ではないだろう、というのが一つの結論です。ただ、それでもなお、言語を用いて不恰好な戦いを演じる必要性はあると思います。そこに全ての体重をかけるのではなくて、他の様々な精神・身体活動にも重心を分散させ、心と頭を解放してやることが、大切なのだと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。
返信する
一神教原理と多神教原理:トランス・モダンと差異共振共同体 (明月庵)
2008-03-15 01:21:25
花ブナ様

初めまして。プラトニック・シナジー理論他をご紹介いただきありががとうございました。
 さて、本記事にたいへん興味をもちました。コメントはボリュームがあるので、又、後で読ませていただくことにしたいと思います。
 さて、私も一神教、とりわけ、ユダヤ・キリスト教が今日の世界の問題の核にあると考えていて、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明を唱えています。
 また、キリスト教の教父に問題があるというのは、まったく同感であります。なにか商業の匂いがします。キリスト教会を大企業にしたのが、教父たちのように感じられてしまいます。
 私はこれまで、哲学的に、差異と同一性の問題を検討してきましたが、一神教は当然、同一性主義であり、多神教は差異主義であると今では考えています。(キリスト教の問題は複雑なので、ここでは詳述しません。)
 そして、近代的自我/近代合理主義は、同一性主義の結果でもあります。私は差異を否定する同一性主義の発生原因について執拗に検討してきましたが、結局、父権主義に、とりわけ、ヤハウェに達してました。
 なんらかの原因で、母権的多神教的な世界が衰退して、父権的一神教的世界に征服されました。
 花ブナ様の言うように、トラウマが原因というのは、興味深い発想ですし、私もそれを考えたことがあります。
 しかし、今の私の考えでは、一神教的心性(男性性)と多神教心性(女性性)の二つのタイプがあり、資本主義においては、前者が中心的になってしまったと思っています。
 しかしながら、何らかの原因で、心性の変化が起り、一神教タイプが衰退する時期に今日達していると感じています。心の病が多いのは一つは、この変化があるからではと感じています。つまり、多神教タイプの心性が今日、賦活されてきているのであり、一神教タイプの人間は、流入してきたエネルギーに反動的に対応するので、心の病を起しているのではと思っています(妄想?)。
 まとまりのない話しですが、以下のアドレスに一神教と多神教に関する拙稿がありますので、ご参照していただければ幸いです。
 今はここで留めます。乱文にしてたいへん失礼しました。
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000302823.html
 
返信する
コメントありがとうございます (花ブナ)
2008-03-18 20:33:38
お返事が遅くなって申しわけありません。
先週末からずっと出張その他が重なっておりまして。

プラトニック・シナジー理論は素晴らしいですね。
ただ、それが本質を掴んでいることを直感的にしか判らないので、自分で言語化しようとすると、手の内からこう「するり」と抜けてしまいそうな気がします。
ですから、自分なりに理論化を目指すのはゆっくりいこうと思っています。
これも直感なのですが、プラトニック・シナジー理論の本質を深く知るには、おそらくある種の体感を磨く必要があるのではないかなと思います。

自分としては子供の頃から学生の頃まで、良く行ったブナ林とか、沢登りなどの体験などが、心の深いどこかで気付きに役に立っているように感じます。

ここに書いた文章は、貨幣の本質や人間のイメージを操作するためのポイントはどこにあるのかということを考えていて感じたことやそれを克服するためのきっかけを求めていて辿りついたものです。

>一神教的心性(男性性)と多神教心性(女性性)の二つのタイプがあり、資本主義においては、前者が中心的になってしまったと思っています。

そうですね。良く考えれば単なるトラウマ起源論では表層的な感じがします。正直、この記事では一神教的心性を克服するための方法論の提示を重視したため(無意識に)ややデフォルメ・意訳したように感じます。

本質を丁寧に究明・記述するのも重要ですが、ある一定の考察段階で方法論(らしきもの)を指し示せる場合は、多少思い切った意訳も必要だと私は思っています。正直マイナス利子の実践についても多少の意訳を感じます。ただ、そのギャップをムキになって埋めるより、その時点で望ましい実践を通して、さらに理論を成熟させるほうに私は魅力を感じます(具体的にどこまでできるかは別にして)。

さて、そのような前提を踏まえて、母権的多神教的な世界が衰退した要因は何かを考えれば、私は単純に自然環境の変化ではないかと想像します。これまで豊穣で何でも与えてくれた母が、突然手のひらを返してモノを与えてくれなくなれば、母なる自然に裏切られた人間は大きなトラウマを抱えますよね。より具体的に言えば異常気象の多発とか長期化、そうしたものが多神教心性(女性性)の衰退に繋がり、一神教的心性(男性性)への強化を招くと考えています(この仮説を自然科学的に証明できれば面白いとは思うのですが、そんなに暇はないです(笑))。と考えると、一神教的心性にもそれなりの必然性があって、本来人間という自然体に内在する因子であるとも思います。

とても大雑把な私のイメージとしては、時間軸に沿って進む物質相と精神相の二重螺旋(太極図を波動関数に変換してやわらかくしたようなイメージ)を「くるくる」と前に進ませる力が多神教心性で、螺旋の振幅方向に直角に働く遠心力に相当する力が一神教的心性です。本来、両者はばらつきのなかの「中庸」でベクトルがつりあって、振幅が0(何も生まれずに時間だけが経過する状態)になることもなく、遠心力が強すぎて振幅が伸びきる状態(全ての存在が物質化・固定化を目指す状態)になることもなく「くるくる」と進むのだと思います。

そして自然環境の回復や人間側の能力進化などで「基盤」が復活すると、一神教的心性である遠心力方向へのモーメントは自然と減少し、螺旋自体は以前よりも振幅の大きなダイナミックな回転に成長するというイメージです。これを繰り返して、人間という種の精神的成長(より調和のとれた関係性の深まり)が起こるのではないでしょうか。

すでに我々は、高度な生産力とモノと制御系を手にしました。だから心が過度な一神教的心性から、多神教心性へと戻りたがっている。これは本能だと思います。その本能が、増殖する貨幣や近代的自我・合理主義という一神教的心性によって作られた現実(振幅方向への遠心力が極端に強く、前に進めない状態)に縛りつけられて悲鳴を上げている。

そんなところではないかと考えています(やはりちょっとデフォルメがあるような気はしますが、現在の私にはたぶんこの辺ぐらいが限界です)。

YMO・坂本龍一のような音楽や日本のアニメがクールだとか、カワイイとかいわれるのは、きっとそうした心性がサブカルチャーで表現されているからと思います。そういう意味では、我々の心性の底に沈んでるセンスと創造力こそがまずは「トランス・モダン」を推進する力として顕れてくる/顕れていると思います。
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