減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

近代の「超克」(ポスト・モダン)から「包んでこえる」(トランス・モダン)世界へ

2008-01-31 22:06:43 | Weblog
参考リンク

・Theories for the Platonic Synergy Concept.
「質と量との関係を数的に表現する。」
http://theory.platonicsynergy.org/?cid=31404

・未来からの風
「風の便り」
http://www.hiroshitasaka.jp/tayori/

・人として生きる!
田坂広志「風の便り」 第83便 「ゲーテのすべて」
http://plaza.rakuten.co.jp/ozawaseiji/diary/200801220000/
田坂広志「風の便り」 第82便 「知識人の落とし穴」
http://plaza.rakuten.co.jp/ozawaseiji/diary/200801150000/

・松岡正剛の千夜千冊
宮澤賢治『銀河鉄道の夜』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0900.html


気になる理論・法則

2008-01-18 17:41:58 | Weblog
最近、不連続的差異論、あるいはプラトニック・シナジー理論というのがあることを知りました。

はてな-Diary-Keyword:不連続差異論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%CF%A2%C2%B3%C5%AA%BA%B9%B0%DB%CF%C0

はてな-Diary-Keyword:プラトニック・シナジー理論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%C8%A5%CB%A5%C3%A5%AF%A1%A6%A5%B7%A5%CA%A5%B8%A1%BC%CD%FD%CF%C0

不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論入門講座
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913

Platonic Synergy from Economics to Platonics
http://main.platonicsynergy.org/

Theories for the Platonic Synergy Concept
http://theory.platonicsynergy.org/?cid=30509


私も一応科学者の端くれなのですが、数学にはそれほど強くありません。その道にはその道の天才がいるものです。だから、上記の理論的な妥当性に言及したいとは思わないし、その資質も(たぶん)ない。

ただ、これは直感なのだけれども、上記の理論が、人類が自然主義経済へ移行する必然性とその意味を説明する可能性があると思います。また、サルカールの社会サイクル論は、この理論から導かれるマクロレベルの答えではないかと思う。
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/tachibana/post_295.html
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/batracycle.htm

自然主義経済の根本には、『即非』や『-1の生む豊穣性』がある。
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=693367
欠損が豊穣を生み、豊穣が次の豊穣のための欠損を生む。
これは物質と精神が奏でる振動・律動の進行だろう。
美しいオイラーの公式が、社会化されていくことに感動する。

これで「千と千尋」で片道通行だった電車が、実数世界と虚数世界を往復できるようになる。

(蛇足ですが、拙論『商取引の根源的な意味から問いかける「増殖する通貨」の危険性』
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/846d2ac28ecdfad403de3f15f1efeb48
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/1c47d937efa2251b0d60d4d09ab698c2
は「欠損の生む豊穣性」を指摘するために、現実とすり合わせるための思考実験でした)

ただ、私は、哲学者や科学者の描く理論が新たな現実を生むのではなく、現実に起きつつある事象に基づいて、後から気が付いた人が説明可能な理論を構築するのだと思う。これらの「プレ」理論がさらに成熟し、一般的化・実用化されるには自然主義経済という実践が必要だと思う。実践は理論からではなく、庶民の直感から生まれる(例えば、このようなプレ理論からは、東洋と西洋文化の融合、あるいは新たな東洋思想による西洋思想の『包み込み』が想起されるが、そうした現象はすでにサブカルチャー分野で先行し、大衆に支持されている。坂本龍一の音楽などがその代表だろう)。

また先日、平和党ブログで議論した自己組織化の理論がこれらと統合される日も近いような気がする。
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/29837196.html
http://ameblo.jp/renshi/entry-10063397929.html
http://blog.kaisetsu.org/?eid=521428

もっと言えば、現在、スピリチャルな領域で扱われている「引き寄せの法則」や「鏡の法則」ですら、いずれこうした新理論の発展の中ですんなり説明される日が来るような気もする。
http://blog.sbcr.jp/hikiyose/000854/
http://coaching-m.co.jp/payforward.htm

これらは、みな今はまだ科学以前なのかもしれない。オカルトだと一笑されるかもしれない。しかし、自分の直感を重視してここに記述しておきたいと思う。

なぜかというと「ああ、やっぱ俺って先見性あったなぁ」と数年後~数10年後に自己満足でムフムフしたいからです(笑)

うん、あとは「創造の成果を行動で楽しむ」ことにしよう。

「一神教」の問題と近代の超克

2008-01-08 21:43:49 | Weblog
下記のろろさんのエントリーへのコメントなのですが、話が非常に大きくそれてしまうのでこちに描いておきます(素晴らしい内容のエントリーで、コメントも充実していますので、はじめての人はまずそちらをごらんください)

『日々是勉強』【情報操作】メディアリテラシーというものを教育できるのか
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-89.html

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>本来のPublicというのは、共同体内のPrivateな経験の積み重ねの
>中で育まれ、言語だけに頼らない「合意」として蓄積されていくものだと思います。

  転倒しているんですよね。具体的な生活なり感情なり経験があって、それに言葉をつけるというのではなく、言葉が先にあって、これに生活や感情を隷属させようとしているのです。そういう点では、右翼と左翼は全く同類です。
  聖書に「初めに言葉ありき」というくだりがありますから、彼らは実は一神教信者なのではないでしょうか?
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いわゆる言葉で書いてある理想に隷属してしまう教条主義的な右翼・左翼は確かに「一神教的」ですね。

ただ、一神教そのものについては、少し元から考えてみる必要はあると思います。

まず、素人ながらに一神教の根本は何かということを考えるのですが、おそらくそれは「明示的な万能の理性」を権威とする父権的な共同体文化なのだと思います。言葉というのは理性の明示化であり、宇宙の諸相は(究極的には)「全能の理性=父なる神」の言葉で言い表すことができるし、「実際に」そうなのだと。で、これは良い悪いではなくて、そういう自然条件にある共同体には自然にそういう文化・宗教が発生するのだと思います。

つまり、食糧生産に向いた土地が限定的で、広い地域に点在する共同体どうしが互いに交易等を通してなんとか生きていけるようなところでは、どうしても家族や個別共同体を越える超越的・抽象的でかつ明示的な存在にジャッジを委ねる必要がある、すなわち取引上の正当性を皆が認める「一つの神」に保証してもらうという必要があったのだと思います。また、そのために使われる「言語」にも、嘘偽りのない厳格さと「力」が備わっていると同意形成をする必要があったでしょう。また、この延長上に普遍的な取引媒体である「貨幣」が発明されたのも自然な流れだと思います。

ここで、貨幣が単なる交換手段であるなら問題ない。父権的な一神教の教義そのものも、抽象的な概念・契約の範囲にあれば、実際の取引、すなわち共同体どうしの存続を維持するものである限り、何の問題もない、というよりも必要な文化であった。

これが問題化するのは、父権的教義が特定の人物や組織、あるいは貨幣のような形で実態化・固定化してしまったからだと思います。本来、伝統的宗教はそういう概念の固定化・実態化(仏教用語でいうところの『法執』)を抑えるために様々な制御機構を有しています。例えば特定人物・組織あるいは偶像崇拝の禁止であり、利子取得の禁止であり、万物の流転・循環を意味するメメントモリ・無常観であったはずです。西洋の宗教に問題があるとしたら、伝統的宗教から「誰か」が巧妙にこの制御機構を無効化または「逆転」させて、大衆支配のために悪用した部分だと考えています。

私は、このアイデアを思いついたのは、ローマ時代の「被差別民」だったと推定します(あまり大きな声では言えませんが、キリスト教がローマで国教化された頃に活躍した教父たちの背後がとても怪しいと思っています)。その実際の仕掛け人が、カルタゴ後のフェニキア人か、ユダヤ人か、その特定はともかくとして、『彼ら』が積年の恨みと自己の身の安全を守るために先祖代々に渡って人間支配のノウハウを練り上げたと推定しています。これにより、かつての被差別民が、宗教闘争により「選民」となり、その後また新たな被差別民が多大な犠牲を払って次の「選民」になることを繰り返してきました。その度に宗教が本来守るべき共同体が崩壊し、滅亡した過去の民族の「怨念」が「狂った父」に注ぎ込まれたのだと思います。すでに守るべき共同体のない「狂った父」は、ただただ地球上の生命を去勢し、服従させるだけの存在になっていきます。

つまり、現在我々が、「一神教」や「科学万能・唯物思想」として否定的に見るものの根本は、本来の伝統的一神教ではなくて、以上のような過程を経て父権性があまりに肥大化した「破壊カルト」なんだと思います。その父権的力の象徴が指数関数的に増殖する貨幣であり、国際金融資本は、共同体を失った人間が狂った父の力にとても強く惹かれることを知っており、それ利用している、ということだと思います。このような心性を持つ人が増えれば、あとはなるべく民衆が分裂するような教義・理念・法を与えて、それぞれに狂った父を掲げて(自称)「被差別民」であるという認識の下に、互いに憎しみあって殺しあい、その結果として『彼ら』に利益と安息の時を提供するという仕掛けが完成します。

以上は私の極めて大雑把な推察です。ただ、この推察が正しければ、すべての始まりに、宗教の制御機構を「逆向き」にすることで自らが得をする方法を思いついた人間嫌いの大天才がいます。そして、なぜ彼がそういうことをしたかというと抑圧の歴史の中で、心に大きな「トラウマ」を抱えていたから、だと思っています(私が嵐の湖の底に垣間見た船は、この「トラウマ」でした。要するにカルトに染まったり、○○思想に染まって、自殺したり、仲間を殺すような人には、深い「トラウマ」があるということです)。

さらにその後、「狂った父」の象徴であり力である貨幣を増やすための様々な発明が生まれ、多くの人にトラウマが増殖し、世界規模での「うねり」となっていったのが「近代」でしょう。だから、この流れを断ち切る最もシンプルな方法は、「狂った父」と直接戦うことではなく、そういうトラウマを持った人間をなるべく生まない社会にすることです。またはそういうトラウマのない人々がよく活躍できる社会にして、その中で自然にトラウマを持った人々がそれを消化するのを待つことだと思います。

最近、私は日本人や伝統的な共同体感覚が残っている人々に期待されている役割があるとしたら、そのような世界に広がる「トラウマ」の増殖を抑え、ゆっくり溶かしていくような「セラピスト」になることではないかと思うことがあります。

宮崎駿は、映画「千と千尋」の中に登場する「カオナシ」を死の世界(沼地)からやってきた過去の欲望やトラウマに縛られる哀れな亡霊として書いていますが、あれは実際のそういった人間の(悲しくもどこか同情できるような)弱い心性を描いたものでしょう。弱い心性であるからこそ、他人に対して過剰に服従を強いる態度にでてしまう。ニーチェは近代のキリスト教が抱える「ルサンチマン」に気が付いたけれども、それを昇華する方法として、やはり父性的な発想しか持てなかったのが彼の限界ではないでしょうか。人々の心の中に広がる「カオナシ」のトラウマに、どのように対応していくのか。一つの方法としては、母性的な心性を持ちつつも、父性・母性双方の価値観を行きする勇気を持ったセラピストの育成であるように思います。

「千と千尋」を含め、最近のアニメやマンガで「戦う少女」や「普段頼りないけどやるときはやるみたいな少年」が多くでてくるようになっているのは、そうしたセラピストが現れてくることを待ち望む民衆の潜在的意識の現われだと私は思っています(ろろさんの好きな、というか私も好きだったサザンアイズのパイや八雲もその典型例であると思います)

映画「千と千尋」では、頼りない少女が人生の守・破・離を見事に成し遂げて、崩壊しかけていた世界のセラピストとなる様子が明快に描かれています。もちろん、現実の解決をはかるためには、映画とは異なった「守・破・離」のプロセスを個々人が成し遂げる必要があります。

そこでまずは『守』として、我々はなぜ日本が、明治維新という選択をしつつも、近年まで、そして現在でも、なんとか耐えてこれたのか、ままならない現実に憤るだけでなく、自らの存在と今日の気付きを支えてくれた有形無形の背景に想いを馳せる必要があると思っています。

私は単なる東洋的アニミズムの他に、我々の日本には多くの民族的な悲劇とそれを乗り越えてきた歴史があり、それに伴う深い心性の進化があったと思っています(先の大戦における犠牲というものもおそらくそうした歴史の中に位置づけてはじめて昇華できるものではないかと思っています)。民族としての蝦夷、氏族としての物部は滅亡してもその心性は後の世に引き継がれ、広がりました。すなわち鎌倉仏教として後の世に花開き、さらに江戸文化の繁栄にもつながりました。日本列島という風土が、様々な民族や文化の受け皿となり、東と西で大きく律動してきた歴史には、(多くの犠牲を生みながらも)縄文の心性が消えることなく、様々なものを溶かし込む「溶媒」へと進化(自己変革)してきたことが感じ取れます。日本人の心の底には、滅びの美学があると、指摘する人もいます。確かにそういう面はあるかもしれない。ただ、もう少し正確には「たとえ身が滅ぼうとも我が精神は生きる」という気持ちが強かったのではないでしょうか。自他の「共苦」を受け止め、それを昇華する何かがそこに感じます。

私たちの先人が、狂った父である「一神教カルト」に相対しても、日本の文化が完全に崩壊しなかった理由の一つにそのような心性の深さ・柔らかさがあったと思うのです。明治の頃から物事が見えていた人々というのは、日本が近代化するにあたって、そのような日本人の心性に、ある種の「賭け」をしたのではないでしょうか。昭和天皇が南方熊楠を愛していたのは、彼の中に日本人が近代を超克する光を感じたからではないでしょうか。ただ、一方でその苦しみの中で亡くなっていった知識人も大勢います。先の大戦に関連してなくなった多くの将兵さんやその他の方々もある意味近代超克のための尊い犠牲のように思います。近代超克のための作業は、アカデミズムや文壇などではなく、実際の戦場や戦前・戦後の経済において行われてきたと思います。そして、その戦いは今現在も形を変えて続いています。また、この戦いは、日本だけで展開しているわけではなく、世界各地で継続中であり、戦いに負けないためにはそれぞれの連携も大切だと思います。


今後、多くの人々が協力して、「死のみやこ」からどんなカオナシがやってきても、自然とトラウマが抜けるような社会を作ることが望ましいと思う。

そうした社会の構築に必要な材料は意外と自分の足元や心の中に転がっているように思う。

そして、以上の過程で最後まで我々が負けたと思わなければ、いずれ「必ず」近代は超克される。

新年の挨拶にかえて

2008-01-07 22:14:53 | Weblog
以下の絵本を贈ります。

平和の絵本「嵐と湖」
http://www.j15.org/Picturebook-Mind/index.html


嵐の中だからこそ、じっと目を開ける意味がある。

私はこれを読んで、目頭が熱くなり、そして癒されました。

本年も色々なことがあるかもしれませんが、ことしもなにとぞよろしくお願いします。


で、たまには肩の力を抜いたエントリーをあげてみようということで、最近気になったマンガを一冊紹介。


いがらしみきおの「かむろば村」です。
http://www.s-book.com/plsql/com2_detail?isbn=9784091818102

これはビッグコミックに連載中のマンガです。
簡単に言えば、お金アレルギーで銀行員を辞めた(ヘタレな)青年が、農村に引越しして全くお金を使わずに暮らそうとする物語。

文字で書くと単なる脱サラストーリーのように見えるけど、内容は相当に異色で湿度が高い不思議な展開が続く。それでいて、なぜか自然に納得してしまう話の数々。

例えば、青年が銀行を辞めた(辞めさせられた)理由を語る中に以下のようなセリフがある


  まるでお金が酸素のようで、
  それを止められて窒息死する人を
  ジッと見ているみたいな感じでした

  それからですね、オカネ怖くなったのは


このセリフ自体に強い説得力があると思う。

しかし、この作者がさらにすごいところは、この青年の話しを聞いた村人の態度を『ぜんぜん同情して』いないように描いているところだ(こちら)。

そしてそれにつづく女性の肉感的なお尻の描写。


うーん、自然主義経済の始まりを感じる(笑)

(このあたりは上手く言葉に出来ない部分なので、興味がある人は実際にマンガを読んでください)


シュールギャクをやっていた頃から、いがらしみきおは「常に時代を先取りしすぎる」マンガ家だ。彼のセンスは確かに「神がかっている」。
http://www.ztv.ne.jp/keiko/comic_lab/sakusha/a/i/igarashi_mikio.html


近年エロスを失ったアカデミズムに代わり、次世代を担う哲学というのは、まず感度の高い芸術家がキャッチし、サブカルチャーとして表現されている、と思う。

「かむろば村」も、おそらく宮崎駿の「千と千尋」同様、深い隠喩に富んだ名作になるだろう。
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2004/09/post.html


そして両方ともそこに示された隠喩は、近い未来に相応の形で現実化するような気がする。