減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

人を救う経済が自然を救う

2007-10-28 21:34:37 | Weblog
色々誤解されている方もいるかもしれませんが、私は単なる環境系の研究者です。

これまで、自然のために良かれ、人のために良かれと思ってやっても、なかなか現実を変えることはできませんでした。とりあえず、出来ることといえば、現状がこれ以上悪くならないように、こんなに悪いことが起こっていますよ、などと情報を伝えることぐらいです。

これは私の仕事とは直接関係はありませんが、例えばこんな例です。
http://www.crra.com/ewaste/ttrash2/ttrash2/

私は地方在住ですが、たまに外国に行くのは、グローバリズムの負の面を調べ、世界の「地方」で起こっている環境破壊の様子を調査するためです。それらを通して感じたことは、伝統的な人間の生活が破壊されるから、環境破壊が起るということでした。これはまたバブルの時期から格段におかしくなってきた日本の地方を知る私の経験と照らし合わせてもある意味当然のように思えました。

しかし、悪いことを批判するだけでは、なかなか世の中はかわりません。加えて、批判することというのは、要らぬ敵を作ったり、逆に敵に良いように自分の主張が利用されるということでもあります(上記で紹介した記事にもGreenpeaceが係っています。ですから、私も全面的にこういう活動を支持するわけではありません。ただ、グローバリズムの進展を少しでも止めるのに利用する価値があるとは思っています)。

私の知り合いにも自然保護活動をしている人はいますが、しばしばそういう活動は良心的なものとしてリベラル方面の方々にもてはやされます。ですが、ひねくれものの私はどうしてもその「嘘くささ」に閉口するたちです。ゴアの「不都合な真実」も、原子力産業や世界を食料危機に陥れるバイオ燃料(食料)業界にバックアップされた体の良いセールス番組だと思っております。

とにかく何か問題がずれている、場合によって自然保護を訴えることは、体制批判の罠や伝統的生活をさらに破壊する方向にすら向いていると思うことがありました。このブログは、そのような悩みから始まって、環境問題の本質は、全て「現行の経済システムが人間のためになっていない」からだと気が付いたところに基礎があります。

「現行の経済システムが人間のためになっていない?むしろ人間の欲望が顕在化した経済だから、環境破壊が起きんじゃないの?」

そう思う方は、自分の心の中に「破滅願望」や「自己否定」が潜んでいないか気をつけてください。また、そういう思考パターンが、実は現行の経済システムを肯定する方と全く同じような「人間・自然観」であることに気が付いてください。

私はこう思っています。本来、人間のために役に立つ経済というのは、自然のためにも役に立つはず、と。そして、この二つを相反するように思い込まされているとしたら、それこそが問題の本質ではないかと。

そして、そのことを認識して、経済政策につなげているのは、やはり平和党しかないのが日本の現状であると思います。平和党が国政ですぐに活躍できなくとも、このような政策は、日本そして世界の「地方」から徐々に進める意義があると思っています。

平和党公式ブログからの引用です。

・自然えるねぎー促進の方法は経済システムにある
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/24932750.html
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なぜ自然エネルギーが活用されないのかといえば、一言で言って、資本主義だからです。

では政府型資本主義であるマルクス主義・社会民主主義などで可能かというとこれもノーです。

北欧は社民で今のところうまくいっていますが、これは資本の力を利用しているので必ず限界がきます。市場に委ねているのではなくて政権に委ねているからです。ということはやがて右派政党によって政権交代がなされれば崩れる可能性もあります。今のところその前兆は北欧には見られませんが、自由市場が選択したものではないから不安定だということです。

これらの経済システムは、どこかに富を蓄積させます。そうなると原子力や火力発電こそがもっとも効率のよい方法となります。だから、今までそうしてきたのです。

太陽光エネルギーの普及状況をみると、わずか1%にも満たない程度です。これでいったい、将来に持続可能な経済社会などできるものでしょうか。

これら自然エネルギーで日本国内のエネルギーを自給することができないことはよく言われています。だから原子力が重要なんだと言っています。原子力が「絶対安心」と偽らなければならない理由はここにあるのです。

それで、これら原発に反対する人々の意見を聞いてみると、「自然エネルギーにすればよい」と皆が言います。それも無責任に、何の根拠もなく言います。なぜ無責任になるかというと、自然エネルギーで自給できるだけの論拠を持たずにただ願望だけを述べているからです。そして、彼らは資本主義を肯定しています。主に政府主導の資本主義経済で環境問題を解決するとのことのようです。あるいは社会主義でも言いが、これも資本主義経済と同じです。

すなわち、政府が介入・調整する社会主義経済のようなことも含めて、とにかく、現行のお金の制度を肯定した上で、政策を立てようとしているから無理が起きます。

「持続可能な社会はできるんだ」・・・と、言うのは勝手ですが、その内容は、国民に無理に押し付けたりするものが多く、とても国民の同意を得られるようなものではありません。

平和党の提唱する自然主義経済では、政府の規制によることなく、市場が自動的に自然エネルギーを好むように設定されています。つまり、現行の自由競争主義、あるいは政府介入経済では、資本の強さを認めた上で行おうとしているためにおのずと限界がくるということです。

自然主義経済では、通貨が時間とともに減価するために、貯蓄滞留が起きません。現在の経済制度は、短期的な見返りをみなが期待します。しかし、自然主義経済であると長期的な見返りが、短期的な見返りにつながるのです。

お金で持っているよりも、モノで持っているほうが価値があるわけです。すなわち電力料金支払いのための現金よりも、ソーラーシステムそのもののほうが得をします。自宅に小型原発を買ってきてとりつけても効率はいいのですが、そんなことは誰もしないでしょう。というよりもそういうものは売ってませんね。

太陽光発電・風力発電・地熱による冷暖房装置というのは、半永久的に(現在のソーラーシステムの耐用年数は約30年)家計が助かることはわかっています。二酸化炭素の排出もない。だけれども、高いから買いませんね。ローンで払っても利子がつきます。貯金がある人でも、このような自然エネルギーのものは買いにくいでしょう。買う人がいるとするならば、お金よりも環境問題が大事なんだという意識が強い人だけです。

だから、こういうことを広げるためには、政府が強制的に国民に買わせる以外に方法はないことになりますが、プラス利子のまま、このようなことを強引にするととんでもないことがおきます。

どの環境派の人々も、資本主義、すなわちプラス利子を肯定したまま、こうしたことを推進しているので矛盾するということです。ただ矛盾するだけならば、知識のお遊びだからいいけれども、こういうことを実際にやってしまうと、多くの失業問題が発生し、経済はめちゃくちゃになります。自然だけが生きて人間は死滅することを意味しているのです。これはエコ・ファシズムにつながります。

これを私は、誰に主に言いたいかというと、今回の参議院選挙で全国比例区に立候補予定の「9条ネット」(新社会党及びみどりのテーブルで構成)なる左派集団に対しての警告です。そして、自民党・民主党・公明党・共産党・国民新党・社民党など、資本を肯定して政策を作る全ての政党に対してです。

ここに二つのものがあったとします。
Aは、高くてもいったん買えば、そのあとにかかる費用が少ない若しくは全くないもの。
Bは、安いものであるが、毎月支払っていき、ほぼ永久的に支払うもの。

自然主義経済はすばやく支出したがるのでAを好み、資本主義経済は金融市場を回ってプラス利子の増殖をしたいのでBを好みます。

平和党の提唱している住宅無償供給の政策で、「必ずしも家を国民全員に買わせる必要はなく、家賃を支払う人もいていいのではないか」との意見がありました。もちろん、それもありです。建物の賃貸借を禁止する必要もありませんが、賢明な人は借家を選ばないでしょう。なぜなら毎月に支払う家賃というものは、自然主義経済であると損をするからです。家賃は金融市場に入り込み、利回りが多いものを有利にさせます。貸主はローンにプラス利子をつけて返済しなければなりません。借主の家賃にはプラス利子が含まれています。

Bを資本主義が好むのは、そのあとに流れ出た資金をまたさらにプラス利子をつけて回していくから、得をすると考えているからです。しかし、それが架空の富である事がどんどんわかってくるようになると、この仕組みは自転車操業ですから破滅します。

資本主義であると、Aに相当する自然エネルギー設備は購入されません。Bで毎月電力料金を支払っていき、電力会社にお金が入り、二酸化炭素や廃熱、放射能汚染を垂れ流します。その代わりに、プラス利子ですから、ある程度のところまで経済波及効果はあり、発電所の地元は経済的に潤います。でも、自然界とのバランスを崩すために、別のところで大きな被害をもたらします。

青森県六ヶ所村の問題で今後、放射能による被害は、太平洋側は東海地方にまで影響が及ぶでしょう。ここ二十年のうちに、日本の近海ではもはや水産物はとれなくなるかもしれません。ここまで計算に入れず、目先の利益だけを考えてしまうのが、資本主義経済の特徴です。自分さえよければ、目先さえよければ、競争に自分がうちかってこそ、経済は成長発展するとの考えが、今「正義」とされていますから、当然このような結果を招きます。

では、「これを政府で調整すべきか」と、多くの人々は既存の政治学・経済学の尺度でしか考えられないためにこのような方法を言うでしょう。これも資本の力によってできています。

貨幣にマイナス金利を加える事によって、多くの問題が解決されます。当然、エネルギー問題も経済コストの壁をぶちやぶることができるでしょう。
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今世の中の改革に必要なのは、旧来の価値観や既得権で動きの取れない中央官僚や政治家・学者ではなくて、自分の住む地域の社会と自然を愛するリーダーとその意志を実現するための「道具」が扱える実行部隊ではないでしょうか。「減価する通貨」を運用するためのIT技術、そして通貨発行の担保となる食料・エネルギー生産の目処さえ立てば、あとは地方行政や経済を担う方々のやる気次第ではじめることが可能だと思います。


しばらく、仕事で忙しくなるので、ブログ更新から離れます。
(コメント・メールには、できるだけ返信したいと思います)

資本主義経済の末期と悪徳商法(の傾向・対策)

2007-10-28 18:46:56 | Weblog
私もしばしばお邪魔する「復活!三輪のレッドアラート!」で、悪徳商法に関するエントリーがありましたので、ご紹介したいと思います。資本主義経済の末期を強く実感させる話だと思います。

復活!三輪のレッドアラート!:胸締め付けられる記事
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-435.html
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この記事を読んだ時、私は思わず落涙してしまった。
なんと哀しい記事なのだろう。

<クレジット>年収200万なのに契約1385万…女性自殺
10月26日3時6分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071026-00000016-mai-soci
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 東北地方の小さな町で昨夏、50代の女性が海に身を投げた。
 死後、自宅から総額約1385万円のクレジット契約書と封も切られていない大量の呉服が見つかった。
 契約は支払い能力をはるかに超え、返済に窮した女性はうつ病を発症していた。「質素な母がなぜこんな買い物をしなければならなかったのか。(支払い能力の)審査がずさんでなければ、母は死なずに済んだはず」。大手クレジット会社の過剰与信に追い込まれた果ての死を、息子らは悔やむ。

 「これ以上めいわくかけたくないです。そう式もかんたんに」「今度生まれてくる(長男の)赤ちゃん顔見たいです」

 台所のテーブルに置かれた孫の漢字学習帳。9ページにわたり書かれた遺書の字はひどく乱れ、「世界一バカ バカ」と何度もつづられていた。

 昨年6月の早朝。女性は家族の就寝中に家を出て、近くの海岸で変わり果てた姿で発見された。
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これが今の日本の姿です。
需要を無理やり作り出している、哀しい姿がここにあります。
亡くなられたご婦人の冥福を祈ります。
ご家族の傷心がいつか癒される日が来ます様に・・・。
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私から付け加えることは何もありません。本当に胸が締め付けられる話です。お亡くなりになられたご婦人には心よりご冥福をお祈り申し上げます。

恥を忍んで書きますが、私も賃貸マンション購入の悪徳商法の営業マンに騙されて契約ハンコを押させられる寸前までいったことがあります。まさに悪徳不動産会社が個人の人脈を調べあげ、ターゲットを絞り、クレジット会社とタッグで攻めて高額ローンを組ませるというパターンでした。彼らの「騙し・脅し・懐柔」のテクニック(心理的戦略)は相当なものがあります。私がアホだった部分も思い返せば確かにあるのですが、冷静に考えても、攻める側はこれまでに様々な修羅場を経験してきた百戦錬磨のプロの詐欺師であり、少々の知識や意志を持ったとろで、一度ターゲットに絞りこまれた素人は、抵抗するのは極めて困難です。騙される側の自己責任だなどと思う人がいたら、絶対今のうちに考えを改めるべきです。そうしないといつの間にか現実にご自分やご家族、ご友人が犠牲になる可能性があります(悪徳業者の傾向と対策はこのエントリーの末尾に書いておきます)。


そして、この様な事件がなぜ起こるのかについても三輪さんが述べられている通りと思います。

復活!三輪のレッドアラート!:何故悪徳商法が蔓延るのか?
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-436.html
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前のエントリーでは、悪徳商法の被害者の女性の事を紹介致しました。
では何故これほどに悪徳商法が蔓延るのか?

それは社会に需要がなくなって来ているからです。
具体的に言えば、こんな負の連鎖です。

不況の中で緊縮財政を行う⇒社会に金が回らなくなる⇒
しかし企業は業績をあげないといけない⇒しかし、金は日本国民に行き渡っていない⇒
対象にできる売り先がない⇒各企業の営業が弱者を騙し始める⇒
金融会社も業績が欲しい⇒金融会社が信用枠を誤魔化す⇒
各企業の営業は金融会社の後ろ盾を得て「騙す努力」に励む⇒
悪質な詐欺行為が人々に周知され始める⇒営業がやりにくくなる⇒
気の弱い人、老齢で思考力が衰えた人達を繰り返し騙す⇒
気の弱い人、老齢で思考力が衰えた人達が全てを奪われる⇒
最悪の場合自殺⇒企業の活動が更にやり難くなる


こんな事に何故なったのか?それは政府と財界が国民を騙した結果です。

経済コラムマガジン 況下の物価上昇
http://www.adpweb.com/eco/eco499.html
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日本では賃金が全く上がらないのに、物価だけが上昇する世の中が来ようとしている。これは明らかに経済政策の重大ミスである。さらに政府は、景気が良くなったと判断し、定率減税の廃止などの増税を行っているのである。
しかし家計の可処分所得は2000年度の298兆円から2005年度の283兆円へ15兆円も減っている。
この状況で消費者物価が上昇しようとしているのである。これからは実質成長率の方も低下するのだ。
筆者はこれを「日本型スタグフレーション」と呼ぼうと思う。これに対して日本国民がどのような反応を示すか興味がある。
自民党の政治家は、官僚から実質経済成長率の数字を使って「日本経済は戦後最長の景気拡大を続けている」と吹込まれている。
何と自民党は、この官僚達の言葉に乗って「経済成長を実感に」というキャッチコピーを参議院選で使っていた。景気が悪く感じるのも「気のせいだ」という言うのである。
筆者は「ばかじゃなかろうか」と思っていた。
国民の実感の方が正しいのである。自民党も方向転換に向かおうとしているが、党内の人材も枯渇しており既に手遅れである。
今後、自民党は混乱した政策を次々と打出してくると思われる。
しかし「2011年のプライマリーバランスの回復」という世紀の大悪方針を完全放棄しない限り、まともな経済政策は行えない
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経済コラムマガジン プライマリーバランスの話
http://www.adpweb.com/eco/eco500.html
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先週号で「家計の可処分所得は2000年度の298兆円から2005年度の283兆円へ15兆円も減っている」ことを指摘した。本来、経済が成長して、逆に家計の可処分所得が増えていなければならないのに、逆に減っているのである。その差額が大企業の収益になっていたり、プライマリーバランスの回復に使われていると考えれば良い。
長期金利がわずか1.6%なのに、なんで「財政危機」なのか。
政治家もマスコミも、そして国民も全て騙されているのである。ところが肝腎の政治家の大半が騙されていることにいまだに気が付いていない。
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経済コラムマガジン 税派と成長派
http://www.adpweb.com/eco/eco501.html
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表現はちょっと綺麗ではないが、増税派だ成長派だと言っても所詮「目くそ鼻くそ」の対立関係である。筆者は、財政危機が真の問題ではなく、「財政危機」と騒がれることによって、金融・財政政策が間違った方向に走ることが本当の問題と考える。
本当に日本の財政に問題があるなら、日本の国債を誰も買わないはずである。
つまり問題がないものを問題だと騒ぐから、これが本当の問題を引き起すのである。
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国民全員が詐欺に引っ掛かって騙された挙句にこのザマです。
詐欺にかけた自民党の一部(小泉純一郎、竹中平蔵、そのお友達の元大蔵官僚木村剛等)も悪いですが、それが詐欺だと知った上で追従し、更に過激で自分達だけに都合が良い方向に政策を変更させた財界も悪い。

現在までに経済諮問会議に参加していた者には、それ相応の罪を問わない事には社会正義の実現などありえません。
20万人の自殺者と、その何十倍かの困苦にあえいだ人の苦しみを償わせる為には、刑罰は上から下まで一つしかありえないでしょうけど。
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私も本当に三輪さんのおっしゃる通りだと思います。
思いますが、一言だけ。

「財政危機」を騒ぐのが「悪質なデマ」であることはわかります。しかし、現行の経済システムを変えない以上、どれだけ悪人の首を切っても、頭と心の弱い人々(含む政治家・公務員・企業人・マスコミ)を詐欺師に仕立て挙げようとすることはいくらでもできます。

意図的に罪を犯すような悪人はどんな世の中になってもいるとは思いますし、死刑のような極刑の存在も必要悪として否定しません。しかし、経済システムの根本が「詐欺」を推奨するようになっているとすれば、頭と心の弱い人々が詐欺師となり、その犠牲者も生まれ続けると思うのです。そして(犠牲の程度に差はあるものの)騙す方も騙される方もともに犠牲者ではないかという気がするのです。

その残酷な「構造」自体を意識するとき、私はまた胸を締め付けられる思いがします。だから根本的には、(どれだけ時間がかかろうと)今日の経済システム(マスコミ含む)とそれを支える貨幣の性質を改めねばならないと思うのです。

もちろん、根本治癒には時間がかかるので、対処療法を否定するものではなりません。むしろ対処療法を続けることで、多くの人々が根本的な問題に気が付くという過程を経る必要性があるとも感じています。重要なのは最終的に「もっとも犠牲者が少ない」ことを目指して、適切な方法を皆が知恵と心を使って考え、実行することだと思います。



補記:悪徳業者の傾向と対策
まず、とにかく重要なのは絶対にそういう人達と会わないことです。悪徳業者は普段付き合いのある個人名や団体名を出してその紹介でなどと言ってきますが、それは大概「名簿屋」から手に入れた個人情報で、適当に言ってくるだけです。本当に知り合いなどとつながっていることなどはまずありえませんし、仮に本人からの紹介であっても怪しい営業マンなどとは断固としてあわない方が間違いなく「お互いのため」でもあります。電話なら基本は全て「ガチャ切り」ですが、しつこく勧誘される場合は、「あんたらのやっている勧誘は法律違反だよね。警察に連絡するよ」と言って、取り合わないことです。この「会うことを拒否する」というのは、何度いってもいい足りないぐらい重要なことです。会ってしまったが最後、百戦錬磨の悪徳営業マンの話術(脅しを含む言葉巧みな洗脳)から『まともな方法』で逃れることは極めて困難になります。

対面での勧誘やすでに合ってしまった場合は、とにかく彼らはあらゆる手段を使って、ターゲットを孤立させようと画策します。これは「何かおかしい」と感づいた段階で、なるべく早く近くにいる家族・知り合い、あるいは他人に対して「この人達はサギの犯罪者だから、すぐに警察を呼んで下さい」と叫びます(実際、強制的に購入を勧誘することは、本当に商法違反ですから遠慮などいりません)。相手がなんとかその場をとりなそうとしても、もう馬鹿のように叫びまくって、隙を見てその場から逃げるようにしてください。すでに、完全に隔離されている場合は、とにかくトイレに行きたいとか、携帯電話に緊急の用事が入ってきたとかいって、その場を離れた隙に逃げるか、それでも付いてきた場合は、やはり人のいるところに出てから「こいつら犯罪者だ。警察を呼んでくれ」と叫びます。このなりふり構わず叫んで回りの人の注意を向けさせるということが、絶対に重要です(実際、これがなかなか出来なかったために、私は相当危険なところまで行ってしまいました)。また、最悪、契約させられてしまった場合も、とにかく少しでも早く力になってくれそうな人に相談することです。悪徳業者は、他人のプライドやコンプレックスを利用して、これは人に相談するものではないとか、他人にしゃべってはいけないなどと言葉巧みにターゲットを洗脳し、孤立化させます。騙された方の人も、そういう洗脳や自責の念、恥ずかしさなどが綯い交ぜになってなかなか家族等にはしゃべれなくなっています。ですから、家族でも、友人でもなんかこの人最近おかしいぞというシグナルを拾ったときには、ぜひそれに感づいて「丁寧に」相談にのって欲しいと思います。

とにかくまず絶対に会わないこと。不運にも会って、隔離されそうになったら、なりふり構わず叫んで人の注意を呼びつつ、逃げること。さらに騙されたとしても、孤立しないこと、孤立させないことが、ポイントです。



続:商取引の根源的な意味から問いかける「増殖する通貨」の危険性

2007-10-25 20:34:59 | Weblog
今日は、昨日のエントリーについてろろさんの質問を元に言い切れなかった部分や説明の足りなかった内容を補足したいと思います。

>よく巷で言われるような「共同体は自己完結できない」的な論理とはちょっと違うようですね。この論理は相互依存を強化する時の屁理屈として用いられるものですが、そうではなくて、生命活動から生じるゴミの処理の問題だとしている点は面白いと思い、また利点の多い解釈だと思いました。

私も巷で良く言われる「共同体は自己完結できない」論は、あまりに乱暴で傲慢だと思います。上記のように商取引(奴隷等の人間移動含む)が共同体内部のエントロピー解消つまり排泄と浄化が目的にあると考えれば、その時々の「共同体の開き具合(閉じ具合)」は、その時々の共同体内部の都合と外部環境の状態により決まるべきものとなります。それを共同体内部に対する理解も外部の状況も知らない人が「お前は開くべきだ」みたいなことを言うのは、傲慢で愚かです。実際に共同体が外部に対してどの程度開くべきか閉じるべきかを決めるのは、その共同体の維持に責任を持つ指導者(権力者)となるでしょう。内外のエントロピーの差異を注意深く観察しながら、商取引の範囲(市場の大きさ)を設定することになると思います。これも進化した生物の細胞が内部の老廃物の貯まり具合と外部環境の状況を自律的に判断して、細胞膜上のチャンネル(物質交換のためのトンネル)を適切に開け閉めするのと似ています。単純な「共同体は自己完結できない」論を主張している人は、周囲の水の塩分が高くても、低くても、ウィルスがやってきても細胞が常にチャンネルをオープンにしていたらどうなるか、ということを考えろといいたいです(確信的破壊者はそれを知った上で言っていると思いますが)。

一方で、共同体内外の状況を権力者が注意深く観察したとしても、「商取引」において完全にリスク成分を排除することは困難なはずです。また、長期的に共同体の存続維持を図るには、権力者は内外の利益を大所・高所からみて調節する必要があるため、そこには必然的に「2面性」(悪く言えばエージェント的性格)が生じてきます。

このあたりの権力者の持つ「2面性」というのは、実は全国各地にある塞の神・道祖神として祀られている「サルタヒコ」の神話・性格(神性)からも読み取ることができるのではないかと思っています。

この点について、フリーライター岡林秀明氏が宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の謎解きの中で興味深い論点を示しています。

・謎とき『千と千尋の神隠し』 第6回
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_3.html
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道祖神とは「さえのかみ(障の神、塞の神)」とも呼ばれ、「悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神。旅の安全を守る神。また、生殖の神、縁結びの神ともする。猿田彦神と習合したものも多い」(『大辞林第二版』)。

「侵入を防ぐ神」でありながら、同時に「旅の安全を守る神」であることに注目してほしい。

「記紀」によれば、天つ神たちが地上に降りることを決めたとき、途中、道を塞(ふさ)いでいるような神がいた。

「鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り。当に七尋と言ふべし」(『日本書紀』)とあるから、異形の姿であったことは間違いない。
この神がサルタヒコだ。

天つ神たちはアマノウズメを派遣して、サルタヒコと交渉させる。
アマノウズメは露出度の高い、かなり刺激的なスタイルで現れ、サルタヒコを陥落し、一転して先導役にしてしまう。
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・サルタヒコの2面性
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2005/06/post_200d.html
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いったい、どっちなんだ?

猿田彦(以下、サルタヒコ)は「さえの神」(道をふさいで、外来者の侵入を許さない)と「みちひらきの神(先導者、案内人の役割を果たす)」という一見矛盾した性格を持っている。



一方は閉じられ、一方は開かれている。
矛盾しているとしか思えない。
記紀にも、両面性のある神として登場する(明示的ではないが)。

どうして矛盾した性格を持っているかといえば、ひとつの解釈としては、猿田彦が集団の指導者(あるいは指導者像が投影された神)だったからだ。

指導者にとって、まず重要なのは集団の構成員を守ることだ。

疾病、災厄などのトラブルは外部から訪れるものが持ち込んでくることが多い。
とすれば、外部のものは徹底的に排除せざるをえない。
集団を守る者、すなわち「さえの神」としての性格だ。

一方、まったく外部のものが入ってこないと、集団は衰亡していく。
衰亡をくいとめるためには、積極的に外部と交わり、外の血を入れていくしかない。
集団を導く者、すなわち「みちひらきの神」としての性格だ。

矛盾した性格と見えるものは、集団の存続・発展を担わなければならない指導者だけが持つ「責任感」のあらわれとみれば、何の矛盾もなくなる。



別の解釈は時間的な経過を問題にする。

暴力的・破壊的な外来者が侵略してきたら、当然、国を守るため、妻子を守るため男たちは戦わざるを得ない。
サルタヒコも男たちの先頭にたって戦ったことは間違いない。

激烈な戦いだった。

残念ながら、運が味方せず、敗れたときにどうするか。
部族の存続を願えば、降伏せざるを得ないだろう。

サルタヒコは外来者が派遣した「進駐軍」を案内して、自分たちの国に帰っていく。
自分の思いはとにかく、「みちひらきの神」としての役割を果たしているわけだ。

昨日までのリーダーが先導役を務めているわけだから、国の人々の胸に、どんな思いが去来したか。
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う~ん、最近の日本には「サルタヒコ」がいなくなってしまったのだなぁ、とつくづく思うわけですが、それはさておき。

私は上記で語られるサルタヒコの2面性こそが、共同体という細胞が本来有するべき「チャンネル」の役割なのだと思います。また、開いていながらも閉じている、排泄すると同時に取り込んでいる、リスクであると同時にメリットである、そういう重ね合わせの状態というのが、自然界・生命システムの中には多く存在し、人の世もそういった「原則」に則って運営すると良い(せざるを得ない)ことを先人たちは民話や神話の物語りに託してきたのだと思います。今後、21世紀に持続可能な社会を築くという意味でこういった概念への理解が非常に重要になってくると思います。


>人類学的な話になりますが、外部婚が行われてきたのと同様に、生命体としての本能に近いものがあるでしょうね。

そうですね。外部婚も共同体内に貯まったエントロピーの放出方法の一つだと思います。実際、花嫁・花婿は売買の対象でもありました。また、家族という単位も共同体内にある小さな共同体だと考えれば、婚姻はまさに典型的な共同体間の「商取引」の一つだといえるかもしれません。

我々現代人は貨幣を中心に経済を見てしまうので、それゆえ商業(経済)活動の全てを極度に矮小化して考えていると思います(あるいは経済とは別のもの経済と呼んでいる)。先に述べたように商業(経済)活動全体は、人間が「共同体を形成する生き物」である以上必ず発生する物質的・精神的な「新陳代謝」全般であるとみた方が本質を把握できると思います。よって、この「新陳代謝」を様々な共同体が適切に継続することで、人類全体の系としても、その内面と外面が「成長」することになります。少し話しを飛躍させると、人間一人の中にたくさんの臓器・組織や細胞があって、それらは互いに独立しつつも相補的に関連しあって「人間の生存」が維持されているように、人間の作る共同体も人類という一つの「オーガニズム」を存続させるための、臓器・組織あるいは細胞であると言えます。そこにはマクロ(地球全体)からミクロレベル(細胞)までの「生命体」に共通の「フラクタル構造(曼荼羅)」を見出すことができそうです。

よって、経済の本質というものは、経済学などという屈折・矮小化した分野ではなく、広く人類学、社会科学、生態学、生命科学、地球科学、心理学的な観点から統合しなおす必要があると思っています。そういうといかにも難しいように感じますが、私はこれらに共通する視点はやはり共同体(生命)の維持に必要な「新陳代謝」と環境や共同体間の「関係性」を明らかにすることであると思っています。我々の祖先も、民話や神話の中で、そうした新陳代謝や関係性の意味を論理ではなく、感性に訴える形で示唆しています。例えば、八百万の神々とそれに対する信仰というのは、人と人、人と自然などの間に生まれる多様な「関係性」に「神」というイメージ(姿)を与え、通常は目に見えない関係性の意味を人々が理解し、それを畏れたり、守ったりするという行動につなげる一つの仕組みと見ることができます(もちろん信仰そのものにはそれ以外の多様なものを含んでいるでしょうが、ここではその話には触れません)。すなわち、小難しい知識などなくとも、ある種の「アートの力」があれば、共同体の「新陳代謝」や生命システムに内在する「関係性」の重要さを一般の人々も充分理解できるということです。そのためには西洋的な唯物論偏重の思考を、東洋的な唯「関係」論で超克するような意識変革が必要です(実際、アートの世界では宮崎駿の『千と千尋の神隠し』やミヒャエル・エンデの『モモ』『果てしない物語』などの中にその萌芽が見えます)。

>私が思うに、その根本的な部分にあるのは、人間の欲望です。そして、これが非常にやっかいであり、「彼ら」はここをうまく利用して支配する側に回ったのです。

私は人間の欲望もやはり生命の二面性を持っていると思います。欲望がなければ、人間は成長しません。しかし、欲望が何でもかなうという究極の状態は、もう成長する機会がない「精神的な死(エントロピーの極大)」を意味します。通常、人間の欲というのは様々な自然的制約、社会的制約により、簡単には究極の状態に向かわないようにできています。とくに共同体内でお互いに顔と顔を突き合わせている状態であれば、自他の行為の影響がダイレクトにわかりますから、自己の欲望の実現に拘ることが必ずしも自分に好ましい状況を招かないことを必然的に悟るわけです。そのような自他の関係性が生むフィードバック効果により、人間の内面は常に変化し、その結果精神的なエントロピーは極大に向かわずに済む(持続的に成長できる)、というのが現実かと思います。

しかしながら、(とくに減価しない)通貨というものは、その交換性や保存性の高さ故に、この自然的・社会的制約を無視できるような錯覚を抱かせることができるわけです(ましてや通貨の発行権を有するということは、価値をいくらでも捏造することができるようになるわけで、貨幣発行者は全ての制約を打ち砕くパワーを得たと錯覚するでしょう)。そしてこの妄想は、経済活動に携わる皆が「そう思い込むこと」によって、相当程度現実化します。ただ、個人が持つプリミティブな欲望を極大化させることは、やはり物的にも精神的にも無理があるので、どんなに貨幣の力が強くても、どこかで崩壊するわけですが、その過程で「自然的・社会的制約」はどんどん無視され、破壊されます。ここで重要なのはこの「自然的・社会的制約」の正体とはなんだったのか、ということです。実は制約のように見えていたもの、それこそが自己と自然・他者とのかかわり=関係性ではないでしょうか。

上記のプロセスを映画『千と千尋の神隠し』は、「カオナシ」が砂金を手からぼろぼろと出しながら、周囲を奴隷化して、自己肥大していくというシーンにより、上手く表現しています。

ということで、近代社会において人間の欲望という2面性の負の面だけが、暴走してしまう根本は、やはり増殖する通貨の「非自然性」にあると私は思っています。欲は確かに正負様々なものを生み出しますが、人間を成長させる因子ですから、一概に否定するのではなく、それが適正に働くような有形・無形の制御システムを考えることだと思います。もっともこれは理想を言い出すと「ブッダ」レベルの適正さを求める話になってしまうので、当面は人間の欲を間違った方向に導く最大の原因である増殖する貨幣の性質を改めて、その後はゆっくりと時間をかけて思考錯誤すれば良いと思います(それが人類本来の進化の道筋ではないでしょうか)。

少なくとも、人々がモノそのものではなくて、関係性を重視するようになれば、己の欲に対する認識も徐々に変わってくるでしょう。増殖する通貨は「モノを超えるモノ」(のイメージを人々に与える虚像)ですから、これに頼っている限り、私たちは唯物信仰をやめられません。「近代経済システム」が民主主義の名で唯物信仰を共同体に予め植えつけることは、あたかも細胞のチャンネルを「有価物に偽装したウィルス(増殖する通貨)」に対して開かせる役割を果たしていると思います。

ですから、これに対して、減価する通貨を導入することで人々の認識をモノを得るための「関係性」を重視する方向に変化を促すわけです。そもそも、生命体・共同体の維持・進化にとって大切なのは「新陳代謝」ですから、お金はモノとの交換という関係性の媒介を果たした後は、内部で「分解される」ことが適切だと思います。血液の健全性は、すばやく体内をめぐってモノを運び、役目を終えたら、分解されることで保たれています。血液の流れが滞れば、人は病気になります。体内で白血病のように役に立たない血液が増殖すれば、それは死を意味します。

「増殖する通貨」はまさに人類の体内で発生したガン化した白血球であり、これを「減価する通貨」に改めることで、共同体の間にきれいな血液を流すことができます。

色々言葉を重ねましたが、起きている事実はとてもシンプルなことです。地域経済における現実的対応も当然必要ですが、アートの力で広く人々の洗脳を解く事ができないかと考えている今日この頃です。


≪加筆・修正≫
「減価しない貨幣」が人に抱かせる妄想の部分についての記述(2007/10/26)

≪参考≫
貨幣と市場の歴史、そして貨幣の他者支配力に関する詳しい考察は「晴耕雨読」の下記の記事が非常に参考になります。
・市場・貨幣そして貨幣の「他者支配力」 
http://sun.ap.teacup.com/souun/447.html

その他、今回の記事と同時に見ていただきたいサイト

・萬晩報:ミヒャエル・エンデが日本に問いかけるもの(園田義明)
http://www.yorozubp.com/0007/000726.htm

・平和党公式ブログ:自然主義経済
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/23943572.html

・補完通貨研究所:金利システムの問題
http://www.olccjp.net/wiki/index.php?%B6%E2%CD%F8%A5%B7%A5%B9%A5%C6%A5%E0%A4%CE%CC%E4%C2%EA

・新たな経済
http://www3.plala.or.jp/mig/econ-jp.html

・福井プログラマー生活向上委員会:未来を奪う利子
http://chikura.fprog.com/index.php?UID=1145803186

・経済の民主化
 オーストリアで地域経済を復活させた地域通貨
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/09/
 ドイツのキームガウアー: 地域経済の自律性を取り戻す新通貨
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/16/
 開かれた通貨宣言
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/22/

(2007/10/26追記)




商取引の根源的な意味から問いかける「増殖する通貨」の危険性

2007-10-25 00:16:20 | Weblog
ろろさんのブログで以下のような興味深いエントリーを拝見したので、私もインスパイア(笑)されて久しぶりに関連する話題のエントリーを立ててみます。

・日々是勉強
【商人の歴史1】商業が生まれてきたころ
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-59.html
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つまり、古代の社会では、一般国民である農民が生産した物が、いったん権力者のところに集まり、そこで権力者が消費しきれなくなったものを運用していたのが商人だったということです。
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私も商取引のはじまりは、ろろさんの言うように共同体の中に発生する余剰(消費しきれなくなったもの)が原因であると思います(そしてその取引を活性化・進化させたのは遊牧民のような遠方の共同体と共同体の間をつなぐ交易メディアの存在だと思います)。

ただ、ここではちょっと違った方面からこの「余剰」というものに着目して、商取引の根源的な意味みたいなものを考えてみたいと思います。そして最後に「生命性を有する共同体」において生じる「エントロピーの増大=マイナスの富」の交換物という観点からみた「貨幣」の意味、そしてそのリスクを考えます。

まず、そもそも共同体において「余剰とはなにか」ですが、確かに余った穀物のようなものは有価物のようにも見えますが、共同体内の活動で生じるそれ以外の不用物・ゴミなどと一緒に考えれば、それは系内における「エントロピー増大」の一部といえます(余った穀物もそのまま放置しておけばまさにゴミです)。また、単に物質的なものだけでなくて、共同体が社会的に外部に閉じていれば、その共同体内には、硬直化した人間関係・生活のマンネリ化などによる鬱憤・不満、すなわち「精神的なゴミ」が貯まりやすくなります。つまり、共同体が閉じているとその生産性向上や精神活動の高まりに伴って、物的・精神的なゴミが発生しやすくなり、共同体内部のエントロピーが高くなって、生産性が限界に達したり、共同体自体が崩壊する危機に晒されるわけです。余った食糧およびその他の物質的・精神的なゴミ・毒素は、共同体内部から排泄し、体内を浄化しなくてはいけません。それが共同体の内部からみた商取引を促す要因です。だから商取引というのは、共同体にとって自然発生的な欲求に基づくと思います。あたかも「便意」のように(笑)。

さて、ゴミは適正に共同体の外部に放り出してしまえば、当面内部のエントロピーが低下するように思えます。しかし、ゴミと言えども、かつては貴重な資源や人的な労力を投入したものです。単にそのまま捨て続けたのでは、資源が外部に流れ出て、いずれ生産性が低下します。また、無駄なモノを作ってしまう人々の心にも徒労感ややりきれない気持ちを生みます。よって、ゴミとして失われた共同体内の物的・精神的な「隙間」は何かで埋め合わせをしておかないとやはり系=共同体が不安定になります。すなわち、この「隙間」を外部からのモノで埋めるようとすることが、トレードとなるわけです。まるでウンチの後でお腹が空くように(笑)。

ここで重要なのは、共同体が浄化したい・取り戻したいものは、単なる物質的なもの(肥料・原材料・エネルギー等)だけではなくて、精神的なものも含まれるということです。そもそも先にあげたような共同体内の社会に貯まった鬱憤・不満などは、物的なトレードのみでは解消しきれない「ゴミ」です。この精神的な「ゴミ」の浄化に必要なのは、非日常を演出する芸能(祭・演劇・ゲーム・娯楽としてのセックス)だったり、生・病・死のストレスを和らげる祭祀や祈祷、芸術であったり、装飾品・貴重品を得たときに伴う「満足感」だったりします(また、共同体になんらかの形で利益を提供する特殊な人材・奴隷も非常に低エントロピーで魅力的な取引商品です)。

要するに共同体には、構成人員と内部資源が互いに関係することによって醸し出す「生命性」があり、地球上の他の生命体と同様に新陳代謝が必要である、ということです。またその新陳代謝には目に見えない「精神的なモノ」も含まれる、ということです。

で、ここで問題なのがこの新陳代謝(商取引)に伴って、外部から内部に取り入れた有形・無形のモノが、新たなゴミや毒とならずに、共同体に「役立つ」ためには、それらが完全に共同体内部で「消化」される必要があるということです。ゴミを放出したのに、外部から取り入れたものが、また無用なゴミや毒となって共同体内に残ったり、増えてしまったりしては困るのです。

よって、原則的には商取引で得た物品やサービスというのは、共同体内のエントロピー放出と同時に消化されてなくなるか(人材・奴隷の場合は共同体の一員として最終的に同化されるか)、人間の生活を持続的に豊かにさせるための有形資産(衣服・住宅・道具・武具・装飾品等)や無形資産(知恵・技術・感性の深化・新しい価値観等)に変換・昇華されなければなりません。

しかし、この外から入ってくる有形・無形のモノが果たして本当にゴミでも毒でもなくて、有用なもの(共同体の持続的繁栄につながるもの)であるかどうか判断することは、実はかなり難しいと思います。はじめて食べてみるきのこが毒きのこなのかどうかは、実際食べてみないと判らないような「リスク」がそこにあります。さらに、外から入ってきたモノがゴミ・毒となるか、有用物となるかは、共同体(を構成する人々)の内面(スキル・価値観)によっても大きく変化します。つまり共同体にとって外部から購入したモノの価値は、絶対ではなく、自らのスキルや価値観、状況の変化によりプラスにもマイナスにも変わりうるという相対性と自由度があるのです。商取引という行為の中には、常にそのような「リスク」と「あいまいさ(相対性・自由度)」がついて回ります。その結果、商取引自体に人々は直感的に「いかがわしさ」を感じるわけですが、共同体持続のためにはそれを受容しなくてはいけないという命題があります。そしてその「いかがわしさ」の受容こそが、共同体のさらなる活性化(進化・深化)のきっかけとなる可能性があります。

このことを端的に語っている著書・書評があります。ちょっと長いですが、非常に重要な内容だと思いますので引用します。

・松岡正剛の千夜千冊
小松和彦・栗本慎一郎『経済の誕生』1982 工作舎
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0843.html
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信貴山縁起は日本の中世における「都・里・山」という3つの場をまたいで、どのように「富」(経済力)が発生したのかをよく暗示している。この物語では、里の長者は山の命蓮に米を提供(喜捨)し、命蓮は都の帝(醍醐天皇)の重い病いに対して祈りを提供(祈祷)し、帝は里の長者に対して市場活動を提供(認証)する。ここにはこういう三角形が成立している。
 ふつう、市場というのは生産と消費が物品を媒介に交換されているところをいうのだが、この物語はそこにもうひとつ、「山」が関与している。すなわち、市場や宮廷になんらかの「欠損」のような問題が生じているときに、山がこれに関与してこの欠損を回復するようになっている。そこで二人が持ち出そうとしている仮説は、富の発生とは、このような欠損と回復というシステムが稼働したときにおこっていたのではないかという仮説なのである。

 ここで「富」とは、貯蓄高や貿易高のことではなく、カール・ポランニー流には、共同体の生存や力を象徴しているような価値のことをいう。この価値観は時代によって民族によって場所によって、変化しつづけている。
 しかもこの価値観は「交換」によって初めて見えるかたちをもってくる。いくら貯蓄高があったとしても、第一次大戦後のドイツのように、パンや肉が1万マルクもするようになるのでは、富の目安にはならない。また、ある者にはひどい病気を治してくれる薬の値段がいかに高かろうと、その薬を入手する力が富なのである。その病気が祈祷で治るなら、そのために支払う値段は世の中とまったく違っていてもいい。つまり、一般に公定価格や流通価格とされているような価値の目盛だけでは測れないところに、実は「富」の本質がある。健康も安全も富なのである。

たとえば小松は「支払い」とは民俗学では「お祓い」なんだと言う。お祓いとはプュリフィケーション(浄化)のことである。ということは、何かによって穢れている事態を祓うというしくみのなかに、しだいに「支払い」が発生していったのではないかとみなせるということになる。実際にも、「幣」(まい)とは神と人とのあいだの支払いをはたすものをいう。
 栗本は、そうだとしたら、共同体や社会が何を穢れと見るかというということ、すなわち何をタブー(禁忌)と見るかという価値観がそもそも生じたことが、そうした「お祓い」を「支払い」にしていくようなしくみをつくったのではないかと言う。
 では、どうして共同体に穢れやタブーが出てきたかということだが、これは、てっきり「自」と思っている共同体のなかに「他」や「異」が入ってきたと見なしたからである。それを穢れや異質なものと見た。そしてこれを取りこんだり、排除した。民族学や民俗学ではこれを「外部性の問題」という。
 しかし、このことをよくよく考えてみると、実は逆のプロセスでこのことがおこっていたのだということがわかる。つまり、外部性としての「他」や「異」をあえていったん共同体の内部に入れてみることによって、しだいに「自」が成立してきたのではないかという見方がありうる。どうも、この見方のほうが正しいのかもしれない。
 そもそも交易や商業というものは共同体の内部で確立するものではない。共同体から見て外の、いわば「異界」との交流や、その異界との何かの交換がおこることによって、経済は発生し、確立していったはずなのである。そういうものだったのではないか。

 こうしてあらためて検討してみると、日本の昔話には桃太郎や一寸法師や花咲か爺のように、妙に外の異界と交流することで最後に金銀財宝の富を得て、めでたしめでたしとなっている話が多い。栗本と小松はそういう例のひとつとしてウントク譚をあげる。
 貧しい爺さんが売れないマキやタキギを水の底の水神にあげていた。すると水の中からウントクとかヨケナイとかハナタレといった名の醜い童子が授けられる。爺さんはうんざりするのだが、ところが、この汚い童子をそれなりにちゃんと扱っているとお金や幸運がやってくる。いいかげんにしていると童子が去り、富もなくなっていく。外部性の関与が内部の富にかかわっているという典型的な話なのである。
 となると、この童子は貨幣や通貨と似た性質をもっているということになる。これはいわば動く貨幣、生きた通貨なのである。別の見方をすれば、ウントクは排泄物のようにも見える。不要物のようにも見える。ということは、ある地域にとっての不要物は他の地域にとっての必要品であったというふうにも、この物語を解釈することもできる。
 ここにはポトラッチや沈黙交易のような、一種の市場交換原理が発生しているとも考えることができるわけなのである。けれども通貨が発達していなかった時代には、いったいどうして「交換」がおこって、そこに価値が発生したかの説明がうまくできない。そこで、童子や排泄物や穢れが交換のメディアの役割をはたした考えた。それが昔話として伝承されていった。そう考えると辻褄があってくる。
 実際にも、このようなことは多くの歴史の一端の場面からもうかがえる。たとえば阿倍比羅夫が粛慎(みしはせ)国との戦いで、武器を含んだ物品をおいて退却すると、粛慎の船団から長老が降りてきて衣類と交換して帰っていった。そういう歴史的事実もある。
 南方熊楠は中国の「鬼市」に注目して、ある共同体に鬼がくると戸を閉めてしまい、鬼はしかるべき者から物品を巻き上げて帰ってくれるという例をあげ、ここには交易の原型があらわれていると指摘した。新井白石は『蝦夷志』に砂浜で交換をするアイヌの例を紹介した。
 こういう例はいっぱいある。どうやら他界や異界との交流が富の発生の原型か、もしくは富の発生を物語るにはそのような話で伝えていくルールをもっていたのだと考えられるのだ。

 こうして二人は、しだいに南近江に伝わる俵藤太伝説や小野猿丸系の語り部伝説や木地師伝説にことよせながら、近世近代の近江商人の発生などを議論する。また、さまざまな「憑きもの」とは何かを議論する。
 これらの議論のなかでそのころぼくが関心をもったのは、「マイナスの富の交換」ということだった。プラスの富を得るためにはマイナスの富ないしは富に代わるあやしげなものが先行しているということだ。
 この「マイナスの富」の考え方は、その後のぼくにいろいろのヒントをもたらした。共同体に欠損があるから、そこに流れこむ富が発生したというのは、そのひとつの考え方である。また。身体の欠陥や欠損が富をもたらしたということも多い。一寸法師や鉢かつぎ姫は、身体的な欠損が富につなかったという例である。竹取のかぐや姫のように、まさに異界からやってきて、共同体の富を失っていったという物語もある。どうやら「富と負」とは深い関係をもっているようなのだ。
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上記で述べられている「マイナスの富」を、生命性を持つ共同体が内部に必然的に溜め込むエントロピーの増加(有形・無形のゴミ)と捉えれば、それを外界に排泄し、何かと交換する商行為によって、共同体の浄化と活性化が(多少のリスクといかがわしさを伴いながら)起こることがわかると思う。

そして、ここでふと思う。もし「いかがわしさ」を伴わない商取引、つまり誰にも共通の価値を持つ(と考えられる)通貨を導入すれば、外部から入って来るモノのリスクやいかがわしさを回避して人々はハッピーになれるのか?貨幣的価値の高さは、より高い共同体の浄化や活性化を約束するものなのだろうか?いやむしろ商行為に伴う「いかがわしさ=価値の相対性・自由度」こそが、実は共同体内部の浄化や活性化を生むソースなのではないか?さらに貨幣という外来物が、共同体内部で消化もされず、同化もされず、資産として固定化もせずに、貯まり続け、増殖を続ける、ということは、富の蓄積・増加ではなくて「毒素」の蓄積・増加ではないか?腐らずに増殖する通貨を流通させた人は、以上のことに「気が付いていて」やったのだろうか!???

美しく、完璧で、誰にでも平等な価値を持ち、自然の力に抗って増えるもの、そんなものはこの世に存在しない。存在するとしたら、我々の頭の中だけだ。誰かが人々のイメージ力を操って、この世に存在しないものを降臨させている。それは人の心の中の幻なのに、あたかも万能の神のように振舞い、現実の全ての価値の「自由」と「関連性」を奪い、「進化の機会」をも奪っている。そんな離れ技が可能なのは、人の商取引というものが、そもそも精神的で無形なモノのトレードを伴う行為であるからだ。「彼ら」との戦いは、人間の想像力・概念支配のコントロール権をめぐる戦いである。

「減価する通貨」が、「彼ら」の降臨させている「狂った神」から、人々と自然を解放し、かつて両者を仲立ちしていた八百万の神々を復活させる。


≪補足説明≫
この記事をはじめて読まれる方は、上記の「彼ら」が何を指し示すかについて「晴耕雨読」の下記の記事を読まれてください。

・抜け出す第一歩は「隷属の認識」
http://sun.ap.teacup.com/souun/178.html
・寄生性と知的謀略
http://sun.ap.teacup.com/souun/143.html
(2007/10/26追記)