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お釈迦様の教え方 中部経典『ノコギリのたとえ』その2

2017年01月16日 | お釈迦様

釈迦様の教え方、語り方に学びたいと思います。

『ノコギリのたとえ』は、”パッグナという比丘が比丘尼(女性の比丘)たちと過度に仲良くし、誰かが比丘尼たちを批判しようものなら機嫌を悪くし、怒ったり言い争ったりしている”、ということをある比丘から聞いたお釈迦様がパッグナに諭す話です。

まず、聞いた話が事実かどうか、パッグナに確かめます。

>「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、・・・・・・」

「そのとおりです、尊師」

まずは、ありのままの事実を確かめる。お釈迦様は、きちんと、詳細に正確に事実を確認します。聞いた話を聞いた通りに一字一句変えないで、そのまま尋ねるのです。パッグナも事実と違えば、「いえ、そうではないのです」と言うことができます。パッグナがその通りだと納得した上で、


次に、パッグナの立場を確認します。

>「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないのですか」
「そのとおりです、尊師」

パッグナは自分の意志で、理解し、納得し確信して出家した。パッグナの意志が大事なのですね。押しつけや強制ではなく、自分の意志で決めた出家である、ことを確認する。


そして次の言葉です。

>「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。

「自分で納得して出家したのに、そんなことじゃだめでしょう」とか「そんなことをしちゃいけません」などと叱ったり脅したりするのではなく、
「自分の意志で出家したあなたにとって、過度に比丘尼たちとつきあうことは、ふさわしいことではありません」とパッグナの立場にたって話される。

過度に比丘尼たちとつきあうこと」それは感情的に言い争う態度からわかる、比丘尼たちや又は自分(の意見)に対する執着心です。それは、「あなたにふさわしいことではない」と言われるのです。「出家して悟りを開きたいのなら、それはあなたにふさわしくないよ」、とやさしく諭されると話を聞く気にもなります。


そして、悟りたいのであれば、どういう態度がふさわしいのかを話されます。

>パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。

パッグナは出家した比丘、長老ですから、一般世間の人のような意欲や考え方(感情的に何かをしたくなるエネルギーや思考)をしていてはいけないのです。

>そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めばなりません。ー私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

比丘尼たちを批判した人(や意見)正しいか正しくないかということが問題なのではないのです。もしかすると比丘尼たちがいわれのない差別や批判を受けていたのかも知れません。

けれど、パッグナが”比丘尼たち”を”過度にかばった”こと、比丘尼たちの”味方”になって、他者の意見に対して”感情的に”なること、つまり「一方に”過度に”仲良くすること」が問題なのです。異論があれば、冷静に「これこれこうで、その意見は事実とは違います、真理とは言えません」と、理性的に述べればいいのですね。怒りや執着(敵味方になったり)がだめなんです。

まだ、最初の部分ですが、この言葉(戒め)はこのあと何度も繰り返し出てきます。大事なことは繰り返し繰り返すことで、確実に心に入っていくように配慮されているのだと思います。

>パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちを手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナよ、あなたは、このように戒めねばなりません。私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたはこのように戒めねばなりません。私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだーと。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

出家者というのは、厳しいものなのですね。一般世間の人間には大変なことでしょうが、でも、やさしく何度も「パッグナよ・・・」と言ってもらって、パッグナ長老は、ああそうなのだなあ、と心に刻み込んだと思います。

 

事実を確認→相手の立場や意志(目的)を確認し尊重する→「~であるならば、そのふるまいや態度はあなたにふさわしくありません」→「あなたにふさわしい態度、めざすべき生き方とは~です」→大事なことは繰り返す

そして常に、真理に基づいて話される。
どちらがいいか悪いかを問題にする(裁く)のではなく、みんなが幸せになるような態度やふるまい、心のもちよう、生き方(その人にふさわしいこと)を慈悲の心で教える。 

大前提として、お釈迦様が悟りを開いたすごい人、お手本であり尊敬される人物、大先生である、というのがあるでしょうけど、そういう人でも、いや、そういうできた人物だからこそ、偉そうに説教したりしないのですね。

この初めの部分だけでも、大変勉強になります。
(学校の先生、お父さんお母さん、いかがでしょうか?^^)

経典はまだ続きがあります。

(「怒りの無条件降伏」スマナサーラ長老著より) 

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2 コメント

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都月さん、こんばんは。 (まる)
2017-01-16 21:15:26
出家したお坊さんは厳しいですね。それぐらいの勢いで精進しましょう、てことですね。
でも、大きな悟りはかなり本気でやらなければ無理かも知れませんが、凡夫でも小さな悟りならいけるんじゃないかと思いますよ。
何でも目の前の一歩からですからね。
小さな一歩でもものすごく大きな成果(生きるのがむっちゃ楽に)が得られると思います。^^
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悟り (都月満夫)
2017-01-16 20:46:59
悟ることは、私には無理だということが分かった^^
したっけ。
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