第三章 相手の中から引き出す自分 それが愛
ほんとうの相手をつかむ愛しかた愛されかた
ぼくはいつも、子供側に立って、腹が立つ
誰でも子供だったことがあり、今も存在の底の底には子供そのものの心が生きているはずなのに、
ほとんどがそれを忘れてしまっている。思い出してみるがいい。
七つか八つ頃から、もう大人なのだ。今の社会制度が「子供」という枠にはめてしまって、
人間的責任、誇り、人格を認めないから、そのズレに、いらだち、無力感、憤懣が生まれてくる。
親子、先生と生徒、立場の違いはある。親だから生活的面倒はみる。先生は教える。
としても、しかし人間としてはまともに、向きあうべきだ。人間同士として。
でなければ尊敬も愛情も、一体感も生まれるはずがない。
わが亭主、わが親、わが子って、小さく仕切ってしまうのは、つまらない生き方だと思う。
そうでなく、世界中の子供はみんな自分の息子だ、世界中の親はみんな自分の親だ、
そういうおおらかな豊かな気持ちを持ちたいと思う。
今は、親も子供も甘え合っている。
第四章 あなたは常識人間を捨てられるか
いつも興奮と喜びに満ちた自分になる
政治家は自分たちの囲いの中での権謀術数、かけひきのかたまり、
経済人はソロバン勘定だけ。
その面ではきびしいが、人間としての生き方の哲学については、まるでうとい。
素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。
失った人間の原点をとりもどし、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。
全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。
人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。
いのちのほんとうの在り方だ。
大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。
自分自身を突き飛ばせばいいのだ。炎はその瞬間に燃え上がり、あとは無。ー爆発するんだ。
今、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。
それがすべてだ。
生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどと言ってよい巨大な部分は
非合理である。
存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。
無条件で生きる人間、最も人間的に純粋に燃焼する、つまり
芸術家が、政治、経済と相対し、抵抗する権威、力をとりもどすべきだ。
芸術=人間の復権。
ほとんどの人は政治、経済だけが価値であり、社会の現実だと思って生きているようだ。
条件のみの上に成り立つ世界。それでは人間は空しい。駄目になってしまう。
人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。
本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。
大量生産の機械文明にふりまわされ、もううんざり。
機械のように正確に、熟練した器用な手がロクロを廻し、木を削った、となると
機械も手作りも結局変わりはない。
職人芸の枠を受け継いだ、人間疎外のコマーシャリズム
まったくの素人、下手なのが平気で作ったものに、
「手づくり」のほんとうのよろこび、人間的なふくらみがあるはずだ。
手先ではなく、心で作るのだ。手作りは決して器用である必要はないのだ。
ぼくは「人類の職業分化に反対だから」
職業だけにとじこめられてしまうと、結局は社会システムの部品になってしまう。
滅びたっていいじゃないか。当たり前のこと。
悲観論も楽観論も実は同じ心情の裏表にすぎないのだ。
人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、
今現時点で、人間の一人ひとりはいったいほんとうに生きているのだろうか。
死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。
無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには光栄だと思える。
戸川純ちゃんも岡本太郎さんをリスペクトしてたようですが、
私も大好きです。
「芸術は爆発だ」は生きること。こうありたい。
岡本太郎さんの言葉に生きるエネルギーをもらえた気がします。
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