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「ガダルカナルのうた」

2024-08-15 | Weblog
「ガダルカナルのうた」取材メモより 

愛媛県松山市に住む、久保慎一さん、(2018年の取材時65歳)。
2015年、久保さんの実家で、古い封筒が見つかりました。

「2月に母が89歳で病死をしたんですけど
母親の遺品を整理していたところ、多分母親も捨てるつもりだったと
思うんですけど、一番上にこの手紙が置いてあったんですよ」
日付は、昭和17年、1943年1月5日とあります。

送り主は、第4工兵隊からガダルカナル島に派遣された馬場喜八大佐。
あて先は、同じソロモン諸島の1つ、ショートランド島にいた
第4工兵隊 司令官 西原八三郎少将です。

彼らは誰なのか。
久保さんが経緯を説明してくれました。

「私の母親の伯母、大おばが西原少将の後添い。
晩年は西原家から離れており、私の母親が、大叔母の面倒を見ていたんです。
ですから、私の母親に託されたものなのかなと」

しかし公務員の仕事をしてる久保さんは、
「行政上の報告書にしてはおかしい」と思ったといいます。
だから捨てなかったのだと。

「ガ島ニ於(お)ケル 感想ノ一端 別紙、
愚作ニテ ゴ想像願(ねが)イタシ」

同封されていた薄い紙4枚には、たくさんの短歌や俳句、漢詩が。
なかでも短歌は40首近く、丁寧な文字で書かれていました。

激戦のガダルカナルにいた馬場大佐は
上官である西原少将へ、
「うた」を送っていたのです。

誰がつけし 餓島の名こそ ふさはしや 散り逝く将兵の 数に驚く
朝もやを 破りて飛ぶや 大編隊 敵か味方か 心をののく
絶え間なく 砲撃の音 いとはげし 眠っては起き 眠っては起き
削りつつ 日々に細まる 鰹節 我が身を削る 思いこそすれ

久保さんによると、西原少将の妻となった大叔母は昭和55年頃に亡くなっており、久保さんとは、ほとんど交流がありませんでした。
ですから、手紙を受け取った西原少将も、短歌を詠んだ馬場大佐も
どんな人物なのか全くわからないままですが
今も手紙を保管しています。

凄惨な戦いが繰り広げられたガダルカナル島は
「飢島」とも呼ばれました。
そんな島から、近くの島の「上官」に向けて「短歌」を送る?
信じられないまま、二人の人物像に迫ることにしました。

・・・が、これに大苦戦。

調査を重ねてやっとわかったのは
「西原少将のお墓の場所」が都内にあるらしい、ということでした。

東京・府中市にある多磨霊園。
広大な敷地の一角にある大きな松の木に守られるように
「西原家」と刻まれた墓石が。

ご遺族に会いたいと、
多磨霊園の担当者に手紙を託しますが、
とうとう返事は返ってきませんでした。

「西原さん、
あなたはなぜ、大切に部下の短歌を大切に持っていたのですか?」

ーーー
1942年8月から翌1943年2月までの半年間、
ガダルカナル島では、日米の激しい攻防戦が繰り広げられました。

日本の陸海軍は、およそ3万人の将兵を上陸させますが、
2万人以上の日本人が戦死。
でも、
その多くが、飢えと病によるものでした。

いったいどんな状況だったのか。

太平洋戦争研究会・代表、
平塚柾緒さんに取材しました。

1941年12月8日。日本海軍はハワイの真珠湾にあった
アメリカ軍基地を攻撃。太平洋戦争が始まりました。

開戦以来、日本軍は連戦連勝を重ね、
東南アジアのほぼ全域を占領します。

ところが翌1942年6月のミッドウェー海戦で、
戦局が大きく変わります。

「太平洋戦争開戦以来、日本軍が初めて大敗を喫したのが、ミッドウェー海戦。でも陸軍にすれば、負けたのは海軍。帝国陸軍は向かうところ敵なしだった。当時陸軍と海軍は非常に仲が悪かった。そして陸上での最初の敗北が、このガダルカナルであった」

日本から6000キロ離れたガダルカナル島は、
千葉県とほぼ同じ大きさの
ソロモン諸島最大の島です。

しかし、初めは軍関係者でさえ、
所在地も島の名前も知りませんでした。

なのになぜこの島が、
陸上における日米初の激戦地となったのでしょうか?
 
平塚さん:
「きっかけは1942年7月から日本海軍がガダルカナル島に
密かに建設していた飛行場。同じ南太平洋の、ラバウルという所にも海軍の航空基地があったが、ガダルカナル島は、ラバウルから1000キロも離れている。戦線拡大のため、さらにはアメリカと同盟国のオーストラリアの連絡路を
絶たせるために建設されることになった。

しかしアメリカ軍は、飛行場建設に携わった現地住民から情報を得て
100%、知っていた。暗号も解読。つまり全部筒抜けだった。
その証拠に、飛行場が完成した直後、アメリカ軍がガ島に上陸するわけだが、上陸の前の晩には、現地住民が1人もいなくなってる」

1942年8月7日の早朝でした。
激しい艦砲射撃とともに、
1万人以上のアメリカ海兵隊がガダルカナル島に上陸。
圧倒的な兵力で、飛行場を占領します。

島にはおよそ2800人の日本人がいましたが、その殆どが、飛行場建設に派遣された設営隊の軍属。戦闘員ではありませんでした。

静岡県出身の岡谷捷夫(おかやかつお)さんは当時19歳。
第11設営隊の隊員として飛行場近くの兵舎で艦砲射撃の音を聞きます。

1985年に平塚さんが行ったインタビューで、次のように語っています。

「わたしらね4時の起床。とにかく薄暗い時に飯食べて朝礼集合したら空襲だっていうわけ。いっぺんバラバラになったけど友軍機じゃねえかって、また集まったで。
そしたら照明弾ポコンポコン落とされ、それ空襲だって。
何時間くらい椰子の木でジッとしてた。
ふと見たら椰子の木、半分寄れちゃって」

アメリカ軍の奇襲攻撃に、日本軍は大混乱に陥り、
ジャングルへと逃げ込みます。

18歳の設営隊員だった増田実さんは、
こう証言しています。 

「死にもの狂いだった。
俺らジャングルをそのまま入って一日中歩いて
あくる朝になって、やれやれ明るいところで出たなあって

馬鹿に見かけたところだなあと思ったら、おい入ったところに出てきたぞ。
もう敵さんが上陸してきて、ダダダダって。どうにも動けねえ。 
あん時は怖くてな、敵の標的だもの、逃げたよ」

平塚さんは続けます。

「東京の大本営は最初、偵察上陸程度だと考えていた。
帝国陸軍は向かうところ敵なし、という意識が強く、その奢りからアメリカの戦力を侮った作戦指導をしてしまった。
4度にわたる日本陸軍部隊による、飛行場奪還作戦も悉く失敗。
何故なら、東京の大本営も、上陸部隊も島の地形を把握していない。

日本軍は飛行場の南にあるジャングルやアウステン山に逃げ込み
攻撃の機を狙ったが、アメリカ軍は餓島の奥に兵隊は出していない。
その代わり、マイクロフォンを設置し、敵の行動を把握していた。
目的は飛行場を遣わせないこと。島を獲ることではなかった。
ガダルカナル島の戦いは、日本の陸海軍が一番軽視していた情報戦の負け」

ーーー
短歌を書いた馬場喜八大佐、
それを受け取った西原八三郎少将は
どんな立場の人物だったのか。

第4工兵隊という所属部隊と2人の名前だけを頼りに、
戦没者の調査資料を保管している靖国神社 偕行文庫を訪ね
葛原和三さんに聞きました。

「2人の共通点は工兵ということ。
エンジニアなんですね。
まず馬場喜八大佐は仙台幼年学校の出身、士官学校は26期。

で、西原八三郎さんは幼年学校には行ってなくて、
中学出てから陸士の23期として入っているということなので、
馬場さんより3年陸軍士官学校では先輩。

同じ陸軍士官学校の先輩後輩ですよね。
第4工兵隊司令部の編成を命じられ、第1工兵隊司令部にて編成完結、
昭和17年の3月21日。

チャムスカ出て、釜山寄って、ニューブリテン行って、どんどんどんどん、で、ラバウルに入港する。これが11月29日。そしてブーゲンビル島に上陸して、ガ島前進のため待機、並びにブーゲンビルと警備及び交通作業、ブーゲンビル島でね」

偕行文庫が所蔵する資料によれば、
昭和17年、1942年3月、第4工兵隊司令部が編成されました。

軍用道路を作る工兵として転戦を続けるなかで、
馬場大佐は、上官である西原少将と親交を深めたと考えられます。
当時馬場大佐は49歳。西原少将は52歳でした。

「ただし、馬場大佐以下5名は12月8日より、2月7日までガ島に前進。
交通作業に任ずと書いてある。だから馬場さんたちが行ったのは17年の12月8日、開戦記念日から1年後ちょうど2月7日まで、約2か月間、ガ島にいたわけですね」

馬場大佐がガダルカナル島に到着した時、
既に日本は4度にわたる陸上攻撃に失敗。
苦戦を強いられていました。

葛原さんは語ります。

「攻めれば攻めるほど、どんどん強化していく、米軍の方が。
日本軍はやせ細っていく。銃砲や戦車が動くような地形じゃないんですよ。
ガダルカナルっていう地形情報も得てないところに待っていたのは、海兵隊という今までの概念と全く違う水陸両用部隊、しかも陸海軍の統合部隊。戦力的には3倍くらい」

それだけ追い詰められた状況のなか、馬場大佐はなぜ、
短歌という形で西原少将に手紙を送ったのでしょうか。

葛原さんは、
1冊の色あせた教科書を広げました。

「これ幼年学校の作文読本。文章の作り方っていうのを教えてる。文は人なり、作文道、作文一般の心得、軍人用文章の特筆って教えてるわけですね。

この中に詩歌がありましてね、
詩歌の作法、和歌、俳句、詩、軍歌、漢詩とありまして

……最終的に和歌、短歌がどういう風になっていくかというと

辞世の句になるわけですよね、辞世の句」

ーーー
僕は、2人の消息を追いかけて愛媛県松山市内を巡りました。
兵士らの供養塔があるいくつかのお寺を回ったり、
地元の図書館で資料を探したり。

大きな供養塔のある「成願寺」さんでも、
ご住職さんが親切に協力してくださいました。
でも・・・

「いろいろ探してみたんですけど、西原八三郎さん言われたんですかね。
 名前が出てこないんですよ、どこの資料にも。
どういう方なんですか?そもそも……」

資料を調べ訪ね歩くうち、
愛媛友愛会という団体が発行した写真集、
「愛媛の慰霊碑 : 戦没者に捧ぐ鎮魂詩」に辿り着きました。

この写真集によれば、
愛媛県内に267基の慰霊碑や忠霊塔が建てられていました。

タクシーの中でページを繰っていた指がとまりました。

とある忠霊塔の中に
「西原八三郎」の名前が刻まれています。

「お寺ではなく、神社か?」

探し疲れ、
帰りの飛行機の時間も気になっていましたが

この塔のあるお寺にタクシーの車内から電話してみることにしました。
「同姓同名かもな」

「三嶋大明神社さんですか?
文化放送の石森と申しますが、

そちらさまの石碑に名前のある
西原八三郎少将というかたの消息を・・・」

「主人の母が、八三郎の娘になります。私が嫁になります」

え?

・・・今なんと?

「い、今からおじゃましてもいいですか!?」
「どうぞ、母とは
同居していています」

松山市内にある三嶋大明神社。
その敷地内に、西原八三郎少将の娘、
大内幸子(ゆきこ)さんが
ご家族とともに暮らしていました。92歳です。(※2018年当時)

幸子さんは
にこやかに出迎えてくださいました。

「東京杉並区阿佐ヶ谷に家がありまして
そこから昭和16年12月8日に戦争が始まりましたでしょ。

17年になってすぐ北方に今の北朝鮮ですわね。
そして、いつの間にか南方に行って、
昭和18年3月か5月に盲腸になったんですよ、
ニューブリテン島で、父がね。

それが化膿して治らないがために陸軍病院に行って、
18年の8月、7月頃に東京に帰ってきて、すぐ治ったんです。

父はそれから余所へ行かないで東京阿佐ヶ谷で終戦まで。
私たちは焼け出されたんです。その時、母を亡くしています」

幸子さんの父、西原八三郎少将は、
終戦の2年前に帰国。

体調が回復すると、軍需工場の工場長として働きました。
しかし空襲で妻を亡くし、東京の家を失った後、
幸子さんたち兄弟を連れ、一家でふるさとの愛媛県・松山市に戻ったのです。

僕は、
部下の馬場大佐から送られた封筒や報告書、
そして大量の短歌をテーブルに広げてお見せしました。

幸子さんは、驚くというよりも
うなづきながら見ていました。

幸子さんは、
短歌の送り主である「馬場喜八」という名前は知りませんでした。

ですが幸子さんもまた、
父が書いた手紙を大切にとっていました。

「父はこんなの私にくれたのよ。
これ父の字です、ほら、昭和22年5月吉日。父より」

しかし、僕には達筆過ぎて読めない……

「どこが読めないの?全部読めるでしょ。
『この度大内家との縁組は、先方より特に所望せられてのなかですが、我が家としては罹災以来、母を亡くし、家財も支度もともに貧弱。不如意の現況ではまことにありがたき次第です。結婚の上は西原家に未練を残さず、里心を起こさず、ただただ大内家のために全力努力精進せねばなりません。・・・あー胸がつまるう」

幸子さんが結婚するときに、西原少将が送った文章でした。

幸子さんによれば、父親の西原少将は、
戦地から子どもへ贈る手紙の一番最後に必ず
短歌を1首、書き添えていたと言います。

そして三嶋大明神社の石碑にも、
西原少将の「うた」が記されていました。

幸子さんと、神社の宮司を務める息子さんが案内してくれました。
「昭和41年。77歳」と刻まれています。

安らけく 神鎮まりて 永久に 
國護る御霊 斎きまつらむ 

西原少将は
戦場のことは、
ほとんど家族に話さなかったそうです。

ーーー

1942年12月31日、大晦日。
皇居大広間で、大本営御前会議が開かれます。
そこでガダルカナル島からの撤退が決定されました。

軍の最高首脳
公式に天皇の前で作戦の誤りを認めたのは初めてでした。

前出の太平洋戦争研究会・代表
平塚柾緒さんはこう解説します。

「弾薬もない、食料も底をついた日本軍は死の島から撤収作戦を開始する。
だが、それが始まったのは年が明けてから。

生還したのはおよそ1万人。
帰還兵の証言では日本軍が去った後も負傷や栄養失調、マラリアに罹って動けない兵士たちが置き去りにされた。

ジャングルを彷徨い、撤退命令を知らなかった兵士もいた。
餓島の悲劇はこの後、他の戦地でも繰り返されていったのだ」

ここからは取材しての想像ですが

馬場大佐は、公式文書として残る「報告書」には
軍部の誰に見られてもいい内容を記し、

本当に伝えたい、
部下たちの置かれている苦境については

辞世の句のために身に着けた文学の力を生かして
「きっとあの人ならわかってくれる」と思った上官の西原少将に
短歌のかたちを借りて伝えていたのではないでしょうか。

ただ、気になるのは
その大量の「本音」が書かれた短歌について、
西原少将は、どう受け止めていたのか、です。

――
短歌を書いた馬場大佐の消息。

第4工兵隊に所属していた馬場喜八大佐は
太平洋戦争からちょうど1年経った1942年12月8日、
ガダルカナル島に上陸します。

ジャングルを切り開き、
]道路整備を行う工兵として2か月間任務にあたりました。

島を離れたのは、最後の部隊が撤収した1943年2月7日の夜。
向かった先は、1000キロ離れたラバウルの日本軍基地でした。

終戦はインドネシアの島、セレベスで迎え、
愛知県・名古屋港に復員。

しかし、その後の消息は定かではありません。

ただ、1948年2月28日付けの朝日新聞・東京版の片隅に、
小さな記事が載っていました。

「巣鴨拘置所に抑留されていた(元陸軍少将)馬場喜八氏ら14名の
戦犯容疑が晴れ、釈放された」とあります。
1975年1月、82歳で亡くなりました。

一方、終戦の2年前に日本へ戻った西原八三郎少将は
晩年をふるさと愛媛県松山市で過ごし、
79歳で生涯を終えました。

実は、馬場大佐が4枚にわたって短歌を認めた手紙の1枚だけ、
一番最後に、

「別の筆跡」で、
詠まれたうたがあります。

「かねてより 聞ける ガ島の辛苦をば 部下の便りに目にも見るごと」 


この短歌に出てくる「部下」という言葉のすぐ隣には、
どちらの表現にしようか迷ったかのように

「友」
という字が添えられています。

僕には、
西原少将が馬場大佐にあてた
「おかえしのうた」であるような気がしてなりません。

何より戦場の出来事を一切、家族に語らなかったのに
生涯、馬場大佐からの短歌は
大切に残していたのですから。

―――
以上は、2018年に制作した
文化放送「ガダルカナルのうた」を取材したときのメモをもとに、
再構成して保存しようと試みたものです。

ただ、これはほんの一部です。

実際の放送では、進行役だった詩人のアーサービナードさんに
現在のガダルカナルを訪れていただき、レポートしてもらいました。

実際の取材音声で構成された「ガダルカナルのうた」は
横浜スタジアムの近くにある「放送ライブラリー」に収蔵され、
無料でお聴きいただけます。機会があればぜひどうぞ。
https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=172744