きょう、文化放送のラジオ番組
「吉田照美のやる気まんまん」が20年の歴史に幕を下ろした。
僕は浜松の出身で少年時代はSBSを聴いて過ごした。
もともと静岡県から中京地区はラジオが人気の地域で
カリスマ的なローカルDJがたくさんいる。
東京のタレントでありながら、おそらく静岡でのほうが人気のあるかたもいた。
SBSではネット局の関係で、
東京の深夜放送はオールナイトニッポンぐらいしか聞けないが
文化放送の青春キャンパスなどは箱番組として聴くことができたので
文化放送のアナウンサーや出演者のことは好きだった。
文化放送に親しんだのは上京してからだ。
上京してすぐ、めぞん一刻(ただし美人の管理人さんなし)を地で行くような
木造2階建て、一間の下宿アパートに暮らした。
当時はまだ浪人だったのでTVも買わずエアコンもなかったが
ラジカセだけは、つけっぱなし。
昼は小倉智明さんの番組、夜は照美さんの「てるてるワイド」。
葉書を書いて送るようなタイプでもマニア的なファンでもなかったが
生活の一部になっていた。(後に引っ越すが)
予備校は特別なコースにいたから
夜遅くに、下宿に帰ってもその夜は話す人がいなかったし
一足先に大学に進学した先輩に失恋しても
「いつもの声」たちが少しだけ救ってくれた。
大学に入って、悪友がたくさんできて
いつもツルんでいてもいても、ラジオは手放せなかった。
その頃、しばらくして「やるまん」が始まる。
また照美さんに「逢えるんだ」
僕の父親は車の開発者で、その関連で
卒業間際に小さな車を一つ買った。
アルバイトの行きかえり、
横浜への行きかえりに車の中でよく聴いた。
一人で笑ったり歌ったりしていたから
まわりは相当不気味だったに違いない。
時にはガールフレンドを助手席に乗せ、
小俣さんのぼけっぷりと
照美さんの力の抜けた突っ込みに2人で大笑いした。
おにゃんこクラブや、とんねるずが大人気のころで
他局はタレントがDJをすることが多かった。
バブル真っ只中で浮かれた内輪受けの番組が多くなったが、
それは「業界人」がもてはやされたためで業界用語も流行した。
・・・しかしそんな中でも
文化放送はアナウンサー自身がキャラを持っていて
しかもとても「家族的」な感じがした。
FM-GUNNMAで
憧れのアナウンサーになることが決まり、
なんと正式な入社前から担当番組も決まる。
あんな楽しい番組ができるかな?
わずかな荷物を積んで
あの小さな車で関越に乗った。
そうだ!(これ書いていて思い出したけど)
あの日も「やるまん」を聴きながら走っていたんだ。
そのとき、僕は気付いてしまった。
前橋に近づくほどにノイズが混じっていき、
照美さんや小俣さんの声が遠ざかっていくことを。
料金所を過ぎて白い山々が見えた頃には
ほとんど聴こえなくなっていた。愕然とした気持ちになった。
でも、そんなことも言ってられないほど忙しい日々が始まる。
覚えなきゃいけないことは山ほどあるし
アマチュアでやってたころはハジケタしゃべりで
生意気にもファンもいたが、
新人として訓練を受けているうちになんだか萎縮してしまい、
どんどんカタにはまっていく。
一番怖かったのは自分のしゃべりが、徐々に
「自分でなくてもよいしゃべり」になることだった。
ステレオタイプのまじめキャラだ。
僕は「後退している」と悩んだ。
しかし、それはリスナーの葉書が救ってくれた。
アホでHな葉書に時には乗って、時には突き放し答えているうちに
本性を出すことができるようになった。
一緒に組んだ先輩女子アナが、これまた突っ込みキャラで
思う存分ボケられた。
一時80キロぐらい体重があったのでコンプレックスも利用した。
やがてリスナーに可愛がってもらう新人時代を過ぎて
自分で番組をある程度作らせてもらえるようになる。
リスナーもたくさん応援してくれていたので
結果がでれば文句をいう人はいなかった。
文化放送では
「梶原しげるの本気でドンドン」という番組が始まり
(なぜか受信しやすくなっていた)
ひとつのニュースを
生放送中によってたかって取材するスタイルに衝撃を受けた。
これそラジオだ!
しかしこれは在京局で、スタッフが大勢いないとできない。
悔しくて(笑)負けたくなかった。
キー局の人は全く意識して無いだろうが
関東の地方局のエリアはキー局のそれとかぶっており
聴取率でも比べられるのだ。
ローカルを逆手にとって攻撃型の番組を作った。
自ら取材していろんな謎を追及する一方、
中央に負けない情報の速さを競った。
東京からゲストを呼ぶたび、その内容に驚かれた。
このころになると、後輩女子アナをアシスタントに迎えるようになる。
この女子アナは純真なのに(←少なくともこのころは)物怖じせず
いじられても「かわいそう」な感じというよりも
「自分でうけて笑いが止まらなくなる」へんなやつだった。
そこで僕の番組ではアシスタントという概念を捨ててもらい
ダブルプロデューサーぐらいの気持ちでやってくれと言い、
毎日の番組に全力を注いだ。
民放連から賞をいただいたこともあったが、受賞自体よりも
遠藤泰子さんや井筒監督から、
この「2人の掛け合いの面白さ」を評価してもらえたことが嬉しかった。
今から思えば、このスタイルは
照美さんと小俣さんのありかたに大いに影響されたのかもしれない。
やがて後輩女子アナは、なんと文化放送に移籍し
なんとなんと「本気でドンドン」でも活躍する。
僕はその1年後にフリーランスになり、TFMなどを経て
今も文化放送にお世話になっている。不思議な縁だ。
あの梶原さんの番組にもレギュラーで出させていただき
今でもばったり会うと「いしもりくーん、何してんのー?」と
気さくに話してくださる。
それからも社員のかたがたに感謝にたえないぐらいよくしていただき
ニュースのレポートなどで時々は「やるまん」に出させていただいた。
もっとも照美さんは僕の顔は「なんかよく見かける奴」と思っていても
名前と結びついていないだろう。
来週から照美さんは朝6時から新番組「ソコダイジナトコ」を始められる。
(http://www.joqr.co.jp/soko/←参考)
僕も毎週水曜日の朝「朝いち情報デリバリー」のコーナーなどで
番組中、照美さんとお話することになるが、今ちょっとドキドキしてる。
※なお、文中の後輩女子アナ「鈴木純子」アナも
その前の時間の番組「笑顔でおは天」の水から金のパーソナリティとなります。
これ、「ドンドン」の名プロデューサーさんの渾身の番組であり
やはりドンドンのアシスタンとだった伊藤佳子アナが
月、火のパーソナリティ。
夜明け前後は、この時間に働いているかたや
病気などで戦っている人には、
もしかしたら深夜よりも淋しい時間だけど
彼女らの優しい語りと、たくさんの町の人の声が流れます。
きっと生活の一部になるでしょう。
こちらも是非聴いてね。http://www.joqr.co.jp/new0704/
「吉田照美のやる気まんまん」が20年の歴史に幕を下ろした。
僕は浜松の出身で少年時代はSBSを聴いて過ごした。
もともと静岡県から中京地区はラジオが人気の地域で
カリスマ的なローカルDJがたくさんいる。
東京のタレントでありながら、おそらく静岡でのほうが人気のあるかたもいた。
SBSではネット局の関係で、
東京の深夜放送はオールナイトニッポンぐらいしか聞けないが
文化放送の青春キャンパスなどは箱番組として聴くことができたので
文化放送のアナウンサーや出演者のことは好きだった。
文化放送に親しんだのは上京してからだ。
上京してすぐ、めぞん一刻(ただし美人の管理人さんなし)を地で行くような
木造2階建て、一間の下宿アパートに暮らした。
当時はまだ浪人だったのでTVも買わずエアコンもなかったが
ラジカセだけは、つけっぱなし。
昼は小倉智明さんの番組、夜は照美さんの「てるてるワイド」。
葉書を書いて送るようなタイプでもマニア的なファンでもなかったが
生活の一部になっていた。(後に引っ越すが)
予備校は特別なコースにいたから
夜遅くに、下宿に帰ってもその夜は話す人がいなかったし
一足先に大学に進学した先輩に失恋しても
「いつもの声」たちが少しだけ救ってくれた。
大学に入って、悪友がたくさんできて
いつもツルんでいてもいても、ラジオは手放せなかった。
その頃、しばらくして「やるまん」が始まる。
また照美さんに「逢えるんだ」
僕の父親は車の開発者で、その関連で
卒業間際に小さな車を一つ買った。
アルバイトの行きかえり、
横浜への行きかえりに車の中でよく聴いた。
一人で笑ったり歌ったりしていたから
まわりは相当不気味だったに違いない。
時にはガールフレンドを助手席に乗せ、
小俣さんのぼけっぷりと
照美さんの力の抜けた突っ込みに2人で大笑いした。
おにゃんこクラブや、とんねるずが大人気のころで
他局はタレントがDJをすることが多かった。
バブル真っ只中で浮かれた内輪受けの番組が多くなったが、
それは「業界人」がもてはやされたためで業界用語も流行した。
・・・しかしそんな中でも
文化放送はアナウンサー自身がキャラを持っていて
しかもとても「家族的」な感じがした。
FM-GUNNMAで
憧れのアナウンサーになることが決まり、
なんと正式な入社前から担当番組も決まる。
あんな楽しい番組ができるかな?
わずかな荷物を積んで
あの小さな車で関越に乗った。
そうだ!(これ書いていて思い出したけど)
あの日も「やるまん」を聴きながら走っていたんだ。
そのとき、僕は気付いてしまった。
前橋に近づくほどにノイズが混じっていき、
照美さんや小俣さんの声が遠ざかっていくことを。
料金所を過ぎて白い山々が見えた頃には
ほとんど聴こえなくなっていた。愕然とした気持ちになった。
でも、そんなことも言ってられないほど忙しい日々が始まる。
覚えなきゃいけないことは山ほどあるし
アマチュアでやってたころはハジケタしゃべりで
生意気にもファンもいたが、
新人として訓練を受けているうちになんだか萎縮してしまい、
どんどんカタにはまっていく。
一番怖かったのは自分のしゃべりが、徐々に
「自分でなくてもよいしゃべり」になることだった。
ステレオタイプのまじめキャラだ。
僕は「後退している」と悩んだ。
しかし、それはリスナーの葉書が救ってくれた。
アホでHな葉書に時には乗って、時には突き放し答えているうちに
本性を出すことができるようになった。
一緒に組んだ先輩女子アナが、これまた突っ込みキャラで
思う存分ボケられた。
一時80キロぐらい体重があったのでコンプレックスも利用した。
やがてリスナーに可愛がってもらう新人時代を過ぎて
自分で番組をある程度作らせてもらえるようになる。
リスナーもたくさん応援してくれていたので
結果がでれば文句をいう人はいなかった。
文化放送では
「梶原しげるの本気でドンドン」という番組が始まり
(なぜか受信しやすくなっていた)
ひとつのニュースを
生放送中によってたかって取材するスタイルに衝撃を受けた。
これそラジオだ!
しかしこれは在京局で、スタッフが大勢いないとできない。
悔しくて(笑)負けたくなかった。
キー局の人は全く意識して無いだろうが
関東の地方局のエリアはキー局のそれとかぶっており
聴取率でも比べられるのだ。
ローカルを逆手にとって攻撃型の番組を作った。
自ら取材していろんな謎を追及する一方、
中央に負けない情報の速さを競った。
東京からゲストを呼ぶたび、その内容に驚かれた。
このころになると、後輩女子アナをアシスタントに迎えるようになる。
この女子アナは純真なのに(←少なくともこのころは)物怖じせず
いじられても「かわいそう」な感じというよりも
「自分でうけて笑いが止まらなくなる」へんなやつだった。
そこで僕の番組ではアシスタントという概念を捨ててもらい
ダブルプロデューサーぐらいの気持ちでやってくれと言い、
毎日の番組に全力を注いだ。
民放連から賞をいただいたこともあったが、受賞自体よりも
遠藤泰子さんや井筒監督から、
この「2人の掛け合いの面白さ」を評価してもらえたことが嬉しかった。
今から思えば、このスタイルは
照美さんと小俣さんのありかたに大いに影響されたのかもしれない。
やがて後輩女子アナは、なんと文化放送に移籍し
なんとなんと「本気でドンドン」でも活躍する。
僕はその1年後にフリーランスになり、TFMなどを経て
今も文化放送にお世話になっている。不思議な縁だ。
あの梶原さんの番組にもレギュラーで出させていただき
今でもばったり会うと「いしもりくーん、何してんのー?」と
気さくに話してくださる。
それからも社員のかたがたに感謝にたえないぐらいよくしていただき
ニュースのレポートなどで時々は「やるまん」に出させていただいた。
もっとも照美さんは僕の顔は「なんかよく見かける奴」と思っていても
名前と結びついていないだろう。
来週から照美さんは朝6時から新番組「ソコダイジナトコ」を始められる。
(http://www.joqr.co.jp/soko/←参考)
僕も毎週水曜日の朝「朝いち情報デリバリー」のコーナーなどで
番組中、照美さんとお話することになるが、今ちょっとドキドキしてる。
※なお、文中の後輩女子アナ「鈴木純子」アナも
その前の時間の番組「笑顔でおは天」の水から金のパーソナリティとなります。
これ、「ドンドン」の名プロデューサーさんの渾身の番組であり
やはりドンドンのアシスタンとだった伊藤佳子アナが
月、火のパーソナリティ。
夜明け前後は、この時間に働いているかたや
病気などで戦っている人には、
もしかしたら深夜よりも淋しい時間だけど
彼女らの優しい語りと、たくさんの町の人の声が流れます。
きっと生活の一部になるでしょう。
こちらも是非聴いてね。http://www.joqr.co.jp/new0704/