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「わくいさん」はどこに。(再掲)

2022-05-11 | Weblog
2010年の記事を再掲。
まだ「わくいさん」は見つかっていない。
情報をお持ちのかたあれば。
~~~
「友情と平和の記念品」だった勲章を、日本の友人に返したい――
アメリカ・カリフォルニア州に住むアメリカ海軍の退役軍人が、50年以上昔、
元日本兵が自分にくれたメダルを返すためにこの元日本兵を探している。
 
このかたはアラン・シングルトンさん。現在82歳。
1950年の朝鮮戦争の時に来日、
横須賀基地で軍の車両の配車管理をする部署に配属された。
このとき
資材トラックの日本人ドライバー「わくいさん」と一緒に働くように言われ、
道を教えてもらうなどしているうちに友情が芽生えたという。
そこで、
在日アメリカ海軍・横須賀基地司令部の協力で、カリフォルニア州にいる
シングルトンさんに連絡をとった。
シングルトンさん:
「南の島でアメリカ軍に包囲された「わくいさん」たち日本兵は、
食料が底をつくなか、草や虫までも口にして戦ったというのです。
私は同じ軍人としてその魂に感激しましてね、
私はわくいさんに、「その精神を尊敬します」と言ったのです。
そうしたら「わくいさん」は、そのメダルを私に下さったのです。」
シングルトンさんはメダルを友情の証として捉え
3年後の帰国のときに持ち帰った。
ところが・・・・。
近年、
何気なくご家族が「なんだ、これ?」とインターネットで調べたところ
このメダルが「勲八等白色桐葉章」(くんはっとう・はくしょくどうようしょう)
であることがわかった。
つまり、
日本政府が軍人に贈った勲章だったのだ。
シングルトンさんはこう語る。
「このメダルはね、
命がけで国に仕え、家族を守ったことに対する
「証」じゃありませんか。
だから、やっぱり
「わくいさん」が持っているべきものなのですよ。
きちんとお返ししなければならない」
シングルトンさんは横須賀基地の司令部に協力を求め、
司令部もこの想いに答えようとした。
取材にご協力いただいた横須賀基地司令部広報の杉田恭子さんも
各方面に連絡をとったが
「わくいさん」につながる確定的な情報えられなかったという。
ここまでの調査で名前のあがった2人は
※わくいかずひろさん(1950・4~1954・10勤務)と
※わくいけんいちさん(1950・5~1951・7勤務)だが
この名前を横須賀市には見つけられていない。
石森も
少なくとも「わくい」さんが当時奥さんと住んでいたという情報をもとに調べたが
「横須賀市追浜」に「わくい」という苗字の人は見つけられていない。(2010年当時)
近隣に住む「わくい」姓のかたがたに片っ端から電話したところ
みなさん興味を持ち「親戚に聞いてあげるわ」など非常に親切に協力してくださったが
結論は得られていない。
シングルトンさんによれば
日本の新聞社が地元版に掲載したことがあったそうだが、
現在までに有力な情報はないという。
もし「わくいさん」が見つかれば来日し、直接メダルを手渡したいという。
今回の取材にあたり、
シングルトンさんからメッセージを送っていただいた。
もし見つかれば、このメッセージを「わくいさん」に渡そうと思う。
そのテープの内容は以下の通りだ。
~~~
わくいさんは日本陸軍の軍曹だが、詳細な階級はわかりません。
米軍は戦争のカタがつくと
南の島での戦いに労力を費やさなかったので、
我々にとって、もはや日本は脅威ではありませんでした。
一方、日本軍は、島に残った日本兵を撤去するには膨大な費用がかかるため、
その後、物資などの供給はされなかったと聞いています。
しかし、その島の名前は思い出せません。(石森注:硫黄島のような状況か?)
そんな島に
兵士のわくいさんも、足止めを食らってしまったのです。
また、わくいさんの兵役の連隊名や所属人数などもわかりません。
わくいさんと他の日本兵たちは孤立して
出来る限りそこで生き延びなければならなかったのです。
食料、弾薬、兵器は一定量しかなく、
戦争が終わるころには全ての食料は尽きてしまったといいます。
その島では、過酷な状況のあと、
そこに生息するねずみや鳥などの動物は
いなくなってしまったのではないかと想像します。(石森注:食べた?)
彼らが日本に帰国するとき、
虫や地虫などを探すために木の根元や
まぐさ(?)などをあさっていたとも聞きました。
わくいさんはどのようにして、
そこでの指導的立場を与えられたのか言ってはいませんでしたが、
そこで皆が生き残るために
リーダーとして
かなり尽力したであろうことは容易に察しがつきます。 
彼はそんな人物なのです。
冷戦(Cold War)と同様、
3つのHot Warsを戦った人として、
我々は敵を低く見積もっていました。 
しかし、
勇気、献身、人的資源、身体的強さ、意志の強さ、
あるいはそのほかの技術が、彼と部下の命を救ったのでしょう。
私はわくいさんを心から尊敬しています。
彼は「価値のある敵」であり、
特別な価値をもった、尊敬すべき信頼に足る友人です。
私は、彼が、今でも元気でいることを願っています。
わくいさんと過ごしたことについて話をさせていただき、
ありがとうございます。
皆さんのご協力、石森さんに心から、感謝しています。
あなたの友達、アラン・シングルトン
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終戦後まもない頃、基地で働いた人々の心情は特別だった。
数年前まで殺しあった相手と一緒に働くのだ。
しかしやがて、互いに「なぜこの人たちを殺そうとしていたのだろう」という
気持ちになっていく。
とまどいながら友情が深まる中で
わくいさんにとっての「大切なもの」が変わっていったのではないか?
 
以下、もう一度「わくいさん」の特徴を記す。
※1950年ごろ
横須賀市追浜に奥様と住んでいた「わくい」さんというかたで
基地でドライバーをしていた。
※南の島でアメリカ軍に包囲されながら戦った日本兵で
階級は「サージェント」(軍曹)だった。
※小柄で筋肉質の体つきらしい。
※そして「勲八等白色桐葉章」をくれたときに
実はもうひとつ何かのメダルを見せてくれた。
何かほかの勲章を受章していたらしい、
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