石森則和のSEA SIDE RADIO

ラジオマンの
石森則和がお届けするブログです!

文化放送「サンデーNEWSスクランブル」

2020-03-29 | Weblog

2020年4月5日日曜日より

文化放送「サンデーNEWSスクランブル」の

パーソナリティを担当させていただきます。

放送は午後5時50分から6時まで。

日曜日の夕方、ご一緒に。


文化放送報道特番『~封印された真実 BC級戦犯~翻弄された人生』

2020-03-10 | Weblog

3月7日18時に放送された

「シリーズ被災地の真実 あれからどうしてた?作家重松清が歩く山元町」

お聴きいただきありがとうございました。

放送から一週間、radikoタイムフリーで聴けますのでよろしかったらどうぞ。

さて、今回も報道特番のお知らせです。

☆☆☆

3月28日(土), 18:00~18:57,

『文化放送終戦75年企画 シリーズ

             ~封印された真実 BC級戦犯~翻弄された人生』

あるBC級戦犯の生存者に、詩人のアーサービナードさんがお話を聞きます。

「BC級戦犯」という言葉をご存知でしょうか。

「A級戦犯」ならニュースなどでお聴きになったことがあるでしょう。

 

A級戦犯は戦争を指導した将校クラス。

これに対しBC級戦犯は「上官の命令に従った兵隊や軍属」で、

連合国側から戦犯と判定されました。

 

A級戦犯で処刑されたのは25人ですが

BC級戦犯の被告は5千人を超え、

約1千人が死刑判決を受けました。

 

私が去年の報道特番の取材で行方を捜した元兵士のひとりも

BC級戦犯として巣鴨プリズンに収監された、というところで

消息が途切れました。

 

BC級戦犯は

捕虜収容所の監視にあたった者が多かったとされます。

階級は高くなく、再雇用された高齢者や傷を負った軍人、

また日本の国策で雇用された朝鮮人、台湾人軍属も少なくありませんでした。

 

しかし、そうしたアジア人軍属は、敗戦後

サンフランシスコ講和条約により日本国籍を離脱したとみなされ、

日本の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」からも外されました。

つまり、日本の軍属として裁かれながら、

日本人BC級戦犯なら受けられた補償が受けられなかったのです。

今回取材したのは

1925年、朝鮮半島南西部の全羅南道で

小作農家のの長男として生まれた李鶴来(イ・ハンネ)さん(95歳)です。

17歳で軍属となり、泰緬鉄道で働く捕虜の監視員をつとめました。

 

現場では病気の捕虜も駆り出され、命を落とす人もいましたが

李さんは命令には背けず、捕虜たちの怒りを買いました。

 

1945年、大日本帝国の敗戦後に、李さんらは「捕虜虐待」の疑いで逮捕され、

裁判で死刑判決が下されます。

 

ただ、李さんを告発したひとりである軍医が

死刑に反対したことで、懲役20年に減刑されました。

 

1951年8月、李さんは東京の巣鴨プリズンに移ります。

そして、日本国籍をはく奪され

日本人が政府から受ける補償からも切り捨てられてしまいます。

李さんらを待っていたのは生活苦でした。
李さんは1956年10月に巣鴨プリズンを出所したあと
仲間とともに総理官邸前に座り込むなど、補償を求める運動を続けたのです。

 

ところが、そんな生活苦の中、一人の日本人医師が

「日本人として恥ずかしい」と私財をなげうって支援を申し出ます。

この医師の行動の背景には

巣鴨プリズンで「教誨師」を務めた僧侶の存在がありました。

 

この番組では李さんの人生を負うとともに

李さんを支援した日本人医師、

医師に影響を与えた教誨師らについても遺族や関係者に取材、

語られることのなかった「戦争の素顔」に迫ります。

 

ーーー

なお、文化放送では今年

戦争に翻弄された人々の人生や

語られてこなかった真実について、

数回にわたる特別番組を放送します。

3月28日(土), 18:00~18:57,

『文化放送終戦75年企画 シリーズ

             ~封印された真実 BC級戦犯~翻弄された人生』

http://www.joqr.co.jp/article/detail/75.php


文化放送「あれからどうしてた?~作家、重松清が歩く山元町」をお聴きになる前に

2020-03-06 | Weblog

宮城県亘理郡山元町。

この町では637人が東日本大震災による津波の犠牲になりました。

何もかもが流された沿岸部は、砂を巻き込んだ強い風が吹き荒れる荒野。

 

その一部には大規模な農地が開発され、

内陸部に移設された常磐線の駅の周辺には

見違えるような復興団地が広がります。

 

この町の状況に触れた小説があります。「希望の地図」。
作者は「流星ワゴン」などの作品で知られる直木賞作家の重松清さん。


~~
震災の翌年にりんごラジオなどを取材した重松清さんは
その後「希望の地図 3・11から始まる物語」という小説の形を借りたルポルタージュを執筆したのです。
文化放送では2017年、重松清さんと共に山元町を訪れて取材し、
報道特番を放送しました。

 

では、あれから山元町のかたがたはどうされているのか。

家族が学校、失われた命の大切さを慈しむ様に描いてきた

直木賞作家、重松清さんと

もう一度、山元町を歩きました。

 

まず訪ねたのは

退職後、終の棲家として山元町に移り住んでいた

東北放送の元アナウンサーの高橋厚さん(東京出身)と

奥様の真理子さん(仙台出身)。

 

「臨時災害FM局」は大震災後、東北3県で計24市町で開設されたものの

被災地の助けになった臨災局は、免許の更新をせず閉局する局が相次ぎました。

しかし「りんごラジオ」は、町長以下行政側の復興についての話や

町民の声を届ける等、地域の事は、地域でやる目標で町内の復興に向け放送による活動を続けたのです。

 

厚さんは2014年に脳出血で倒れ、言葉に軽い障害が残りましたが

真理子さんが献身的に支え、番組に復帰しました。

しかし、文化放送特番が放送された2017年の3月31日をもって

閉局したのです。

 

このラジオは高橋夫妻の人生を大きく変えました。

人前にでることなど考えたこともなかった真理子さんは

アナウンサーとしてマイクに向かい続けたのです。

その経験を生かして

このほど町議会議員選挙に当選、町のために尽くそうとしています。

また厚さんは健康問題を抱えながらも、

高校生に就職の面接の指導をするなどお元気なご様子でした。

~~~

その次に重松さんが訪ねたのは、大久保三夫さん、恵子さんご夫妻。

去年8月28日夜、山元町に近い太平洋沿岸で

震災以来探し続けてきた娘の真希(当時27歳)さんの骨が発見されました。

 

遺骨は下あごと歯の一部とみられ、

山元町にある磯浜漁港の東約6キロで

漁船の刺し網に引っ掛かっているのが発見されたのです。

 

その後、宮城県警が歯型やDNA鑑定を行い、10月17日、

真希さんと判明しました。

 

大久保真希さんを含む従業員や教習生ら計37人が津波の犠牲となった

旧常磐山元自動車学校の跡地には慰霊碑が建立されています。

 

この自動車学校を巡っては、犠牲になった大久保さんと教習生25人の遺族が損害賠償を求め提訴、2016年に和解しています。

―――

大久保ご夫妻は慰霊碑のもとに桜の木を植えました。
訪れるたび、真希さんの好きだった缶コーヒーを飲むことも日課だったのです。

今回の番組では、このおふたりが今の想いを語ります。

 

 

東日本大震災の津波に襲われ、

2013年3月に閉校した宮城県山元町中浜小では

2020年度の一般公開に向けて保存工事が進んでいます。

 

中浜小は津波で2階建て校舎の2階天井付近まで浸水。

屋根裏に避難した児童や住民ら計90人が全員津波を逃れ、

ヘリコプターで救助されました。

津波からの避難方法を震災以前に決め、

校舎屋根裏に児童を連れて逃げた当時の校長、井上剛さんは

「教訓を伝え、未来の命を救いたい」と決意。

教職を退いた後も被災校舎前で語り部を続けています、

 

そしてもうひとり。

取材に答えてくださったのは斉藤百華さん。

 

2011年の夏、小学校2年生だった当時、りんごラジオに出演。

「通っていた学校の校歌」や「大きな栗の木の下で」などを歌った。

中学校の教科書に「りんごラジオ」の高橋厚さんの手記が掲載されているが、

その手記に添えられた画像の女の子が斉藤百華さん。

 

前回2017年当時に放送させていただいた特番では

「将来の夢」について「お医者さん」と答えました。

「人を助けるのってかっこいいと思いませんか」。

今は高校1年生。

常磐線で40分以上かけて通学しています。

 

復興復旧の過程の中で子供時代を過ごした彼女はどんな未来を望むのか。

 

文化放送サタデープレミアム・シリーズ被災地の真実『あれからどうしてた? ~作家、重松清が歩く山元町』 は今週土曜日(7日)夕方6時からです。


文化放送『あれからどうしてた? ~作家、重松清が歩く山元町』

2020-03-01 | Weblog

宮城県山元町を

作家の重松清さんと歩くのは二度目です。

 

前回は2017年。

 

震災発生当時

防災無線を含む情報を全く立たれた中で

元東北放送のアナウンサー高橋厚さんが孤軍奮闘立ち上げた災害FM

「りんごラジオ」を中心に

山元町のかたがたを一緒に取材しました。

 

この「りんごラジオ」

何年もの間

多くの町民が、すがるように聞いていたのですが

放送されたその年に閉局が決まりました。

 

山元町の鉄道の駅や、町の中枢部、住宅街は

内陸寄りに移動し、ぴかぴかのコンパクトシティとなりました。

 

でも・・・沿岸部は。

 

いちごの大規模栽培などはなされているものの

多くは今だに荒れ果てた荒野のよう。

 

ここは頻繁にメディアで取り上げられてきた被災地ではありません。

震災発生当時もなかなかとりあげられませんでした。

 

ただ、このように

注目されないまま、静かに姿を変えていく被災地が

全国にはたくさんあります。

 

そういう地域こそ

繰り返し取材し、何が変わり何が変わらないのか

追いかけ続けることが必要だと思っています。

 

町が変わり、人の暮らしが変わり、人の心も変化する被災地。

家族のつながりや学校、友達

失われた命の愛おしさをテーマに小説を書いてきた重松さんに

語っていただきたいと思いました。

今回は「りんごラジオ」という、

町の誰もが聞いていたメディアが失われたあとの

人々の生き方を描きます。

 

りんごラジオを立ち上げた元アナウンサーを支えた奥様、真理子さん。

当時マニュアルにこだわらず生徒全員を津波から救った小学校の校長先生

行方不明になった当時27歳の娘さんを探し続けてきたご夫婦

震災当時小学生で、2017年のときには中学1年だった少女

その全員が、

2017年には想像できなかった今を生きていました。

 

そんなみなさんと重松さんとの会話を

ぜひ聞いていただきたいと思います。

また、言葉以外にも聞きどころがあります。

 

「海から吹いてくる強い風の音」

「ひっきりなしに通り過ぎる工事のトラックの走行音」

「最愛の娘を失った夫婦が

慰霊碑の前で『娘と一緒に』飲み続けた缶コーヒーの空き缶の音」

 

その生々しい音は

映像以上にあなたの心に迫ると思います。

 

ラジオは大勢でいっしょに聞くというよりも

何かに取り組みながら

ひとりで向かい合ってきくことが多いメディア。

 

重松さんと山元町の人々の会話に

あなたも加わっているような気持ちで

お聴きいただければと思います。

◎文化放送公式サイト

http://www.joqr.co.jp/article/detail/post_270.php

◎ラジコで聴く方はこちら

http://radiko.jp/#!/ts/QRR/20200307180000

 

文化放送サタデープレミアム

『シリーズ被災地の真実

あれからどうしてた? ~作家、重松清が歩く山元町』

3月7日(土) 18:00-18:57

ぜひ、お聴きください。