オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

満足死 寝たきりゼロの思想

2016-01-11 | 社会
自分の死が以前より身近になった。しかし「どう死にたいか」は考えたことがなかった。
 
本書はいきなり、主治医が通夜の席で遺族に対し、故人の死亡までの経過を説明するところから始まる。主治医の名は疋田善平(ひきた よしひら)、80を超える年齢だが現役の医師だそうだ。
疋田は「家族の死を師として、自分の死を考えてもらう」ために通夜の席でわざわざ話をするという。「尊厳死」という言葉はよく耳にするが、疋田が提唱する「満足死」とは何か、それを理解するために著者は何年も疋田のもとを訪れて、地域医療の現場、特に過疎地のそれを見続けて来た。
 
現在のわが国では、病院内での死亡が7割を超える。集中治療室ICUに収容され、医療器械に囲まれてスパゲッティ症候群の状態で死を迎えるケースもある。医療側の経営上の圧力が加わって、命を延ばす技術だけが独り歩きしている。その反面、「在宅医療」政策は単に医療費削減を狙ったものにしか見えない。
 
疋田先生が赴任した当時、診療所の担当地域には約1500人の住民がいて、50人前後の寝たきり老人がいたと言う。彼は家庭でできるリハビリを根気よく指導することによって5人にまで激減させた。
1987年、佐賀町では国民健康保険の保険料値下げを行い、以後16年も据え置いたままだった。佐賀町の医療費が削減でき、住民の多くが満足死を実現できる環境が整ったという。
疋田先生は、病院から自宅に戻って死にたいと希望した一人の患者を看取った体験から、「本人の満足、家族の満足、医療側の満足」を満たした死こそ理想的な死と考えて、これを「満足死」と名付けて全国国保地域医療学会に1979年発表した。すでに世界的に有名な「カレン・尊厳死裁判」後のことで、わが国でもそれまでの「安楽死」には安らかに死なせるという「殺人」のニュアンスが含まれることから、それに代わって「尊厳死」が市民権を得るようになっていた。他人から見て尊厳であるよりも、まず自分で満足することが疋田先生の満足死だ。だから尊厳死は二人称、三人称の死であるのに対して、満足死は一人称の死だ。ご本人の言葉を借りると、「施設に入って思うとおりに死ぬことができれば、それは尊厳死でしょう。しかし本人が望んでそこへ行くなら、それは満足死です。もし本人が望んでいないのに施設で死ぬことになれば、不満足の尊厳死であり、それは満足死ではないのです」。
「人は三度死ぬ」という話が出てくる。退職し、社会のため、他人のために貢献できなくなった時が『社会死』、自分で自分の身の回りの世話ができなくなり、寝たきりになり、おむつをあてられるようになる『生活死』、そのあと心臓が止まって死亡する『生物死』が訪れる。今は『社会死』から『生活死』までが20-30年。『生活死』から『生物死』までも5-10年はざらで、その間はだれかのお世話にならなくてはならない。満足な死を迎えたければ、死ぬ直前まで元気でいること。理想は『生活死』から『生物死』までが一週間。疋田先生は住民の満足死を叶えるために、30年も前から医者として予防医学に取り組んできて、満足死と予防医学を結びつけることによって、寝たきりゼロや在宅死亡率70%、さらに国保保険料の値下げという驚くべき成果を上げた。「お通夜教室」と称して、通夜の席で故人の病歴や死因についてこと細かく解説したり、健診データはもちろん、家族環境にいたるまで細かく記載された「一生涯一カルテ」方式を採用したのも彼流の予防医学の実践だった。意外にも、経済的に豊かな地区には寝たきりが多く、貧しい山間部の地区に理想的な死が多かった。出た結論が「死ぬまで働け。カネのためではなく、健康のために」、そうすれば満足死が得られる。著者の奥野氏は「医療の質を落とさずに、医療費を下げる」、厚生労働省がこの命題に本気で取り組むつもりなら、まず現場を知ったうえで、謙虚に「満足死」に学ぶべきだと警告している。
 
自分の死をイメ-ジするのは死の準備のためにも大切なことかもしれない。
倉本聰の健さんとのエピソ-ドを思い出した。
倉本:「僕にどんな死に方をしてほしいですか」と健さんに聞かれたので、ニューオーリンズかどこかにある汚い街のドブ川で、ある日、身元不明の東洋人の死体が見つかる。安置所で3日くらいしてから、どうやら高倉健という日本で有名な俳優らしいぞ、とわかる—。
 
15分くらいしてから、ぼそっと、でも嬉しそうに
高倉:「違うんじゃないですか。アカプルコの海に浮かぶ、一艘のクルーザー。そこで僕は暮らしているんです。毎日、空輸で届けられる東京・青山『ウエスト』のチーズケーキを楽しみにしながら。ある日、それを喉につまらせて死んでしまう」
 
死から一週間、公表されず、静かに逝った健さん。尊厳ある満足死だったと思う。
 
尊厳死の中に安楽死は含まれないが、満足死となると、安楽死も範疇に入ってくる。
安楽死が認められているオランダでは国民的な議論を重ねた結果、「殺人だが、手続き通りなら罰しない」とする安楽死法がある。その手続きとは、
(1)本人が死を望む意志(2)主治医が認めて実行者となりもう一人の医師の承認が必要(3)死後に検視官が調べ検証委員会に報告――などが決められた。
2011年には、死者13万6000人のうち安楽死は3695人。12年は4188人に上り、全死亡者の3%弱。毎年増えており約8割強がガン末期の人だ。
発症前から手続きを踏んでいれば認知症の人も安楽死しており49人に上る。安楽死を認める国は広がり、隣国のベルギーやスイスに、そして欧州外のオーストラリアやアメリカのオレゴン、ワシントン、モンタナ、ニューメキシコ各州に及んでいる。
23人のスタッフのほかに、120人ものボランティアが活動を支える。
「電話をしてくるのは相談相手となる家族やパートナーがいない独り暮らしの人が多く、電話を受けたら必ず自宅を訪問します。家族や友人代わりになってじっくり話を聞きます」。相談で難しいのは「自分の家庭医が安楽死に理解を示してくれない」という訴えだと言う。「昔ながらの考えに固執する医師には、なかなか理解してもらえないことがあります。そんな時には別の医師を紹介します」。
 
  安楽死で使う2つの薬、チオペンタールという睡眠導入剤と筋弛緩剤だ。全身麻酔の時使われる薬で、一瞬で意識を失う。
 
日本では、終末期の議論が進んでいないせいか、安楽死と尊厳死の違いすら十分に認識されていない。尊厳死とは、延命治療を受けずに自然の成り行きに任せて死ぬこと。本人が食べたり飲んだりできる程度に合わせて、食事を提供するが、胃瘻など経管栄養や点滴もしない。日本では近年、事実上の尊厳死は多くの在宅医療の現場やグループホーム、特別養護老人ホームなどの老人施設でみられるようになってきた。死亡診断書に「老衰」と書かれる。尊厳死法に対して、その立法化に立ちはだかっているのは障害者や難病の団体。確かに難しい問題だ。
 
「終末期」を、適切な治療をしても回復の可能性がなく、死期が間近と判定された状態にある期間と定義。「延命措置」については、人工呼吸器や、おなかに穴を開けて管から栄養や水分を胃に送る胃ろうなど患者の生存期間を延ばすための行為とした。そして「15歳以上の患者が延命措置を拒む意思を書面で示しているケースで、二人以上の医師が終末期と判定した場合には、延命措置をしなくてもよい」とする。
 患者の意思は「事前指示書」(リビングウイル)などと呼ばれる書面に残す。法案では、すでに実施している延命措置の中止は含まないほか、認知症患者や知的障害者ら本人の意思が分からない場合は対象外とした。「安楽死」は、医師が薬物などで積極的に患者の余命を縮める措置で、国内では認められていない。尊厳死の場合も、医師が延命措置を中断した場合に刑事責任を問われる可能性がある。
 このため法案では医師の免責条項を設け、延命措置をやめても「民事、刑事、行政上の責任を問われない」と明記。生命保険契約では「自殺者と扱わない」とした。
 障害者インターナショナル日本会議は「法案に示された終末期の定義があいまいな上、延命措置という表現がマイナスイメージで使われている。法制化に関する国民的な議論が足りない」と白紙撤回を要請。
 日弁連は「現状ではそもそも患者の権利保障が不十分。法制化の前に医療、福祉、介護制度の問題点を解決すべきだ」と指摘した。
 「高齢化で増え続ける医療費の抑制が目的ではないか」という見方もある上、難病患者や障害者らは深刻な不安を抱えている。
 「法制化で、患者は生きることを断念するよう無言の圧力を受ける。世話をする家族が仕事を辞めるなど負担は大きい。家族の迷惑を考え、強く『生きたい』とは表明できない」と言う筋萎縮性側索硬化症の患者の訴えも重い。
 
 死に際のあり方を家族で話し合う機会が増えるといい。流行の「エンディング・ノート」に希望する死に方を書き込んでおくのもいい。高齢社会の歪が顕在化する団塊世代が死を迎える時代、日常会話で死が語られ、議論が深まることを期待したい。

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