オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

羽生結弦ー若きヒーロー誕生

2014-02-20 | 社会
 
キノコ頭の可愛い少年があれよあれよと言う間に世界のトップになってしまった。
男子SPで世界最高得点を出した羽生結弦。勢いだけの新人ではない巧さも、努力も真摯な人柄も世界のトップにふさわしい。焦ったり、オリンピックの空気に飲み込まれそうな気持ちを、完璧にコントロールした強さもあった。
  
 
 羽生結弦とプルシェンコ。19歳と31歳。団体戦では戦えたものの個人戦の世紀の対決は見られずじまいで終わった
羽生は、ソルトレイクシティでのプルシェンコVSヤグディン(ロシア)を見て、オリンピックへのあこがれを強くした。プルシェンコをまねた髪型をして「ゆづシェンコ」と呼ばれていた。ローカル試合で優勝すると、プルシェンコがするようにトロフィーを得意げに観客席に掲げて見せた。2010年に世界ジュニアチャンピオンとなり、アイスショーで憧れの人と接する機会が増えた。
「練習時間にプルシェンコさん、僕にビールマンスピンを教えてくれたんですよ!」  「俺に勝てよ! なんて言われちゃった!」
 「いろいろ教えてもらってたら、彼の奥さんが怒り始めちゃったんです。『もうその子には何も教えるな』だって(笑)」
 
10歳以上年の離れたふたりがオリンピックで対戦することはあり得ないことだ。年上の方がよほど長く第一線に立ち、年下の方が早く成長して同じ舞台に上がってこなければ不可能だ。世代の違うスーパースターふたり、彼らふたりともがその難条件をクリアし、ついに初対決を迎えたのが、オリンピック史上初の団体戦だった。
 
羽生は、滑らかさ、スピード、技術の確かさ、そして現在の採点システムで高得点を出すために精緻に組み立てられた演技で、憧れの人を上回った。しかし羽生自身も、わかっていることだが、プルシェンコは存在感とオーラで羽生を引き離した。
 「僕の表現は、まだまだジャンプに助けられているんです。ジャンプを成功した勢いで、そのまま全力で滑りきる。その姿にみなさんが感情移入してくださる。僕らしい表現って、まだその範囲でしかないと思うんですよ」(2013年10月のコメント)
まだまだ「一生懸命の表現」にとどまっていたことは羽生自身が一番よく知っている。
フィリップ・キャンデロロ(フランス)など往年のスターとショーで共演した時も、「やっぱり彼らは違うんです。ジャンプなんてダブルアクセルしか入っていないのに、見ていると涙が出てくるんですよ……」などと感動し、同時に悔しがっていた。
 
 とにもかくにも、史上稀に見る、10代のオリンピックチャンピオン誕生である。
今回の勝ち方がチャンピオンらしい演技での勝利でなかったことは、彼自身が一番よく知っている。彼自身が一番驚き、一番悔しがっているだろう。次の世界選手権で、あるいは4年後のピョンチャン五輪で、チャンピオンにふさわしい演技を見せること、ソチでの彼自身の演技を、超えて見せることが彼に課せられた使命だ。他者に勝つことよりも難しい挑戦が、彼自身を待ち受けている。

 「ここから先、僕が22、23歳くらいになったころ――自分がみんなを引っ張っていけるような選手になれたら、うれしいですよね!そんな存在だったのが、パトリック(・チャン)選手であり、(エフゲニー・)プルシェンコ選手です。彼らはあまりにも強くて、ひとりでタイトルを総なめにする状況を作ってしまった。誰も彼には勝てない、そんな口惜しさが、世界中の男子みんなに芽生えた。みんなが、プルシェンコを負かそう、パトリックを負かそう……そう思って、すっごくうまくなって、時代は変わっていったんです。時代を変えていくような選手は、必ずいます。だから自分は、そんな存在になりたい。パトリック選手がいても高橋(大輔)選手がいても文句がないくらい、しっかりトップにふさわしい選手になりたいんです。」

 4回転を跳んで、その他の要素ももれなくレベル4が求められ、プログラム構成点で演技力や滑りこなしも細かくチェックされる……そんな採点システムが採用されたのは初めてのオリンピックだったのだ。4年前はチャンピオンが4回転に挑戦しなかった。8年前は新採点方式がスタートしたばかりだった。今ほどジャンプ、ステップ、スピンも最上級、パフォーマンスも最上級を求められる時代は、かつてなかったのである。そして、オリンピックという場の尋常でない緊張感が加わると、トップスケーターでさえもミスしてしまう……それが、ソチオリンピックだった。
 そして東日本大震災から復興途上の仙台市を離れる決断をし、カナダに渡って約2年。最高の結果で恩返しのメダルを届けた。
 「日本の皆さん、世界中で応援してくれる皆さん、何千、何万の思いを背負ってここに立てた。すごくうれしい。恩返しができたんじゃないかな。」
 「本当は仙台にいたかった。自分は裏切り者なんじゃないか。」
 震災から立ち直ろうとする故郷へのうしろめたさ-。
 震災の時、スケート靴が脱げずにリンクにひざをついて逃げた。4日間は家族4人が避難所暮らし、畳1畳に毛布1枚の生活。
 「生活で精いっぱいなのに、なんでスケート…。やめようかな」とまで思った。60以上ものショーが練習代わり。その最中、500通のファンレターに返事を書いた。「僕が、本当は支えられていたんだな」と心に染みた。」
 4歳から通ったアイスリンク仙台に出発直前、あいさつに行った。「いってきます」の短い言葉。それが限界だった。そのまま、靴の刃を研磨してくれる隣の店へ。その奥の小さな部屋で泣き崩れた。長く、悲しい時間。「僕は行きたくないんだ…」。
 母と2人、カナダでのアパートの2人暮らし。地下鉄を乗り継ぎ練習場へ通う日々。ぜんそく対策のマスクをつけると「変な人に見られる。英語もできない。いちいちストレス。こんなんでよかったのか」。差別的視線に、友人もいない異国は冷たい。ただ、進むしか道はなかった。
 フリーの選曲は、震災があった2季前と同じ「ロミオとジュリエット」。最高の舞台で、2季前から成長した自分を見せられたら、それが「恩返し」だと思った。
 そして、まだ恩返しは十分ではない。
 「メダリストになれたからこそ、震災復興のためにできることを。ここからがスタート。東日本大震災があって、色んな人に支えられているうちに考えが変わりました。五輪の金メダルは子どもの頃からの夢でしたが、それはあくまでも具体的な目標。だから五輪の金があって、そこからがスタートです。プロのショースケーターとしてスケートの魅力を伝えるとか、支援活動とか、色々と広げていくためのスタート。みんなに恩返しをしないといけない。」
 

 「僕は僕。羽生結弦以上でも、以下でもない。ありのままの自分が出来る事を、五輪でもしっかりやりたい。」
 「昔は『勝ちたい』とだけ考えていた。それは僕の向上心の源だから大事にしつつも、試合では『勝ちたい』と『自分に集中』のバランスが大事。」
 「自分ってこんなに出来ないんだ!自分の弱さが見えたので、これを直せば根本的にスケートが変わって、もっと納得いく演技が出来るんだ、新たなステージに上がれるんだ、って思ったんです。」
 「あれだけの歓声を浴びたし、期待を背負ってる。もうスケートは自分だけのものではないんだ。表彰台に立ったからには、自分の感情は優先させちゃいけない。」
 「トロントに来たのは、ブライアン(コーチ)がキム・ヨナを育てたからじゃないです。俺はもっと戦略的に考えたんですよ。僕はライバルがいて競い合わないとダメなタイプ。だからショーや試合の公式練習で刺激されて上手くなることが多かった。だったら、その重圧を毎日受けられたら、僕はどれだけ変われるんだろう? って。4回転を2種類跳べるハビエル(フェルナンデス)の秘密も見たかった。だから、俺をカナダまで突き動かしたものは、ライバルと一緒に練習できるこの環境。ヨナは全然関係ない。」
 「合宿の時だったんですけど、浅田選手がトリプルアクセルを跳んでいて。「タイミングで跳んでいる」というのを、すごく感じたんですよね。やっぱり生で見るのとテレビで見るのとはまた違っていて、その感覚というかイメージが無意識に入っていった。そのおかげで僕もトリプルアクセルを跳べたのかなと思いますね。浅田さんがトリプルアクセルを跳んでるのを自分の体で具現化するというか、想像と一致させるようにすると跳べてましたね。」
 「大きなリンクの中で、試合の時は一人だけで滑り、自分だけを見てもらえる。僕は目立ちたがり屋だったんです。それと、難しいことを達成した時の達成感というのがすごい良かったんで。それではまりましたね。」
 「プレッシャー、大好きですから。トラブルだって、いいきっかけになるんですよ。」
 「広いリンクで一人で滑って、一人のためだけに歓声が起こる。その瞬間が魅力の一つ。4回転ジャンプを転倒したときも、会場に『あーっ』と大きなため息がこぼれますよね。それだけファンの皆さんが真剣に見てくださっているんだと思う。本気で見入ってなければ、ああはならない。演技を終えると、大量の花束をリンクに投げ込んでもらえる。いつも、『また、頑張らないと』と高いモチベーションになっています。」
 「スケーターって、「アーティスト」であり「アスリート」でもある。どっちの魂も捨てちゃダメなんだと思っています。」
 「僕は跳ぶ直前に、バッって頭の中に成功する軌道とかのイメージが湧いて、そこに身体を乗っけていって跳ぶ。だから口で指導されてもダメ。視覚で伝わってくるものが良いんです。ビデオとかを繰り返し見て、イメージを記憶します。」
 「王者になる。まずそうして口に出して、自分の言葉にガーッと追いつけばいい」
 「いい演技をするのが目標なんて謙遜する選手が多いけど、完璧な演技で負けたら屈辱的でしょ! 僕は勝ちたい。自分の気持ちを、こうやって飾らず正直に口にするとこ、すごく好きです!「世界王者になる」とか「勝ちたい!」とか。」
 「自分は今、オリンピックで演技をしている、という感覚はなかった。ただそれは、あくまでも自分の解釈ですが、頭の中で感じないように処理していたんだと思います。人間の体ってショックを受けると痛みを感じなくなりますよね。そういう現象に陥ってたんじゃないかと。それが緊張や体の硬直、呼吸の速さ、脈拍数、そういうものにすべてつながっていって、最終的にはベストパフォーマンスができない。それが“オリンピックの魔物”なのかなと思います。」
 「僕はどちらかというと緊張している時の方が結構いいパフォーマンスができるタイプなので、緊張は嫌いではないですし、何とかなるという感覚はありました。でも、やっぱりどこかしら処理できない、見つめ切れない自分の緊張感というものがあったんだと思います。」

 「震災があったシーズン(2011年~12年シーズン)は練習環境もあまり整っていなくてつらかったです。そのシーズンの初めごろは「僕が何かしなきゃ」とずっと思っていました。
シーズン最後の世界選手権で銅メダルが取れたのですが、そのとき、被災地の方々、東北の方々がすごく僕を支えて下さって、逆に勇気をもらっていたなと思ったんです。
今回も被災地を含めた東北の方々や宮城県、仙台市のみなさん、また日本で応援して下さっている人たちがたくさんいました。その方々にどれだけ勇気をもらえたか、どれだけ背中を押してもらえたかをすごく感じているので、逆に本当にありがとうございましたと言いたいです。もしかしたら、この金メダルは羽生結弦じゃなくてもよかったかもしれません。でも、僕というその存在の中にたくさんの思いが宿っていると思うので、決して一人じゃないということを忘れないようにしたいですね。本当にうれしかったです。」

羽生の新たなる挑戦が始まる。これからも若さあふれる正直で新鮮な名言をたくさん聞かせてくれることだろう。日本の若きヒーローが生まれたソチ・オリンピックだった。

(安倍首相)羽生選手のすばらしい演技、そして氷に向かって一礼するたたずまい、さすが日本男児だなと思いました。どうかこれからも頑張ってもらいたいと思います。

ものすごい違和感!!!日本男児???日本男児(にっぽんだんじ)とは、伝統的日本において、男子たるに相応しい要件を満たした者を指す。具体的には、「国と家族は、俺が守る」と言い切れるような、男子を指す。第2次世界大戦中に、模範的な日本兵に対して、多用された。
羽生は世界男児と呼ぶにふさわしい世界のヒーローです。日本などとタガをはめて欲しくないものです・・・・・・・

 

それにしても日本のマスコミの羽生に対する報道は週刊誌のゴシップ記事のレベルだ。
15日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、羽生結弦(19)のジャンプの分解写真を1面に掲載した。スポーツ面でも「19歳、よろめきながらも日本に画期的な金メダルをもたらす」などの見出しで、ほぼ1ページを割いて詳報。また、羽生が東日本大震災で被災した仙台市出身であることに触れ、「(震災当時は)3年後に羽生がオリンピックのチャンピオンになるとは、想像もできなかっただろう」と報じた。
羽生が2回転倒して、なぜ高得点を獲得したのか、彼が成功したジャンプの得点がいかに平均点を超えたのか、写真とグラフィックスで解説した。これぞメディアがすべきことだ。

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