中国政府は、去年から毎年9月3日を「抗日戦争勝利記念日」と定め、去年は北京郊外にある「抗日戦争記念館」で記念式典を開催した。
習近平国家主席を筆頭に共産党の最高指導部7人が出席し、国営テレビやラジオを通して中国全土に中継された。
毛沢東は、抗日戦争勝利記念行事を一度も行ったことがない。中国(中華人民共和国)が1949年10月1日に誕生すると、その年の12月23日に抗日戦争勝利記念日を8月15日にしようと決定した。しかし実際には実行されておらず、1951年8月13日に、記念日を「9月3日」にすると、文書上で決めた。
しかし、その後、記念日に、いかなる行事も行っておらず、ソ連のスターリンに向けて祝電を送ったぐらいが目立った行動だった。内容は「抗日戦争勝利6周年に際し、中国人民解放軍と中国人民を代表して、スターリンとソ連武装部隊およびソ連人民に熱烈な祝賀と感謝を表する」。
スターリンが亡くなった後、毛沢東に代わって周恩来がソ連のマレンコフ、モロトフ宛てに祝電を送り続け、1954年にはアメリカ帝国侵略集団が日本に軍国主義を復活させようとしていることを痛烈に非難し、日米安保条約に関して抗議、ソ連に協力団結を呼び掛けている。
1950年代、中ソ対立が生まれる1955年までは、ただ単にソ連に祝電(謝意)を送っているだけである。つまり、「抗日戦争はソ連のお蔭で勝利した」という位置づけをしていた。
1960年9月1日にメキシコ代表と対談し「日本人民は素晴らしい人民だ。第二次世界大戦では一部の軍国主義者に騙されて侵略戦争をしただけだ。戦後はアメリカ帝国主義に侵略され、日本にアメリカ軍の基地を作っている。アメリカ侵略国家は台湾にも軍事基地を置き、我が国を侵略しているのは許せないことだ」という趣旨のことを語っている。1972年9月には、日本の田中角栄元首相の訪中と日中国交正常化に関する記述に多くのページが割かれ、日本を讃えている。
毛沢東は、主に日本軍と戦ったのは国民党軍であり、中共軍はゲリラ戦で協力したに過ぎないことを知っていた。抗日戦勝日を祝えば、国民党を讃えるということになる。中国は、国民党軍を倒して誕生した国であり、建国記念日である国慶節(10月1日)は、毎年盛大に祝っている。
新中国成立以降の14回の軍事パレードは、いずれも建国記念日に行われた。だが9月3日に行われる軍事パレードでは、初めて抗日戦争勝利がテーマとなる。国防大学の喬良(チャオ・リアン)教授によると、抗日戦争勝利日の軍事パレードと建国記念日の軍事パレードには多少異なる点がある。建国記念日の軍事パレードは国家の盛大な式典だ。抗日戦争勝利記念日の軍事パレードは一方向的な記念日の軍事パレードであり、常態化する可能性はあるが、毎年行われることはない。 建国記念日の軍事パレードと異なり、抗日戦争勝利記念日の軍事パレードでは抗日戦争に参加し、今も健在な元兵士、前線支援模範と烈士子女の代表も閲兵を行い、抗日戦争元兵士と前線支援模範への敬意、抗日烈士をあがめる気持ちを存分に示す。
新京報の調べでは、前回の大規模な軍事パレードは2009年の建国記念日のもので、準備作業は2008年末から1年近くかけて行われた。同様に、1999年の建国記念日の軍事パレードの準備作業も1998年末から1年近くかけて行われた。
建国記念日以外で大規模な軍事パレードが行われるのは今年が初めてで、反ファシズム戦争における中国の貢献を振り返り、世界平和に対する責任を中国が担っていることを示すことだという。
中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。
「日本はなぜ70周年で憲法を改正し文官統制を変えるのか」
「日本に見せつけるためだよ。気分が悪いか?気分が悪くても見なきゃなんだよ」
「反ファシスト戦争から70年たって、一部の国は忘れてきているからな。常任理事国の一つとして思い出させる義務があるのだよ!」
「軍国主義を復活させようとしている国があるから、ビビらせるために軍事パレードをするのは必須のこと」
2015年5月12日、BBC中国語サイトによると、ロシアの首都モスクワの「赤の広場」で行われた戦勝70周年軍事パレードに中国の習近平国家主席が出席し、中国軍もパレードの隊列に加わったことに、中国のネットユーザーから「強盗と一緒に祝うようなものだ」「中国人は過去を忘れやすい」など批判コメントが相次いだ。
ネット上での批判の声に対し、中国人民解放軍機関紙・解放軍報は反論記事を掲載した。記事は「西側の主要メディアは良好な中露関係を壊そうしている」とした上で、ネット上での批判の声はそうした動きに同調するものだと指摘。「歴史を忘れることは国に背くことだ」とし、抗日戦争の際に旧ソ連が中国をサポートしてくれたことを忘れてはならないと強調した。 また、欧米流の民主主義や共産主義を覆す「色の革命」を誘っているのも、中国に対してハイテク技術を封鎖しているのもロシアではなく米国であり、チベットやウイグル、台湾、香港などの分離独立や扇動を画策しているのも米国だと記事は指摘し、「誰が中国の心の友人か明白だ」と伝えた。 この記事が掲載されたことで、「第2次世界大戦で中国を助けたのは米国だったのか、それともロシアだったのか」「ロシアがいつ中国の古くからの友人になった?天津条約に北京議定書、モンゴル独立、満州国承認、珍宝島事件などの中ソ国境紛争…そんな友人があるか」「スターリンはヒトラーと手を結んでいたではないか」「申し訳ないが、党はもう国を代表できていない」などの声が上がり、ネット上の議論はさらに過熱している。
たった一人の政治家の発言や歴史認識で、国同士の関係は簡単に変わってしまう。中国は常に大国から侵略を受け、欧米諸国やロシアからひどい目にあわされてきた。アジアの同朋である日本からもひどい侵略を受け、その裏切りはひときわ許せないのかもしれないが、中国と良い関係を保ってきた期間もある。日本に敵対する中国がアヘン戦争を画策して中国を長期間苦しめたイギリスをはじめとする欧米諸国を非難することもなく、良好な関係を保っているのだから、中国が執念深い国だとも思えない。
相手は自分を映す鏡である。安倍首相の歴史認識の偏りや欧米重視の価値観が必要以上に相手の態度を硬化させているように思う。
今日まで緊張が続く日中関係について、北京語言大学の王健蕾さんは違いを受け入れつつ、近いことの「縁」をより大事にすべきだと訴えている。 もし、誰かに「中国と係わりのある国を一つ挙げなさい」と言ったら、恐らく多くの人が日本だと答える。個人的な付き合いはスムーズで、人間味にあふれているのに、国や民族間となると、敵対しがちだ。柔軟な考え方、相手の立場で考える方法で両国間の壁を突き破ることはできないものか。日中両国、歴史の縦軸に沿って振り返ってみれば、2000年余りの交流史があり、先を眺めてみれば未来は果てしなく広がっている。アメリカに比べて、中国が悪辣で信用できないとは決して思えない。まず、こちらの偏見から正していくべきだろう。今の政権にそれを求めても無理な話だが・・・・・
今までの歴史教科書と育鵬社・自由社の教科書の違いは歴然だ。
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東京書籍
日中戦争の勃発
満州を支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入し、1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。戦火は華北から華中に拡大し、日本軍は、同年末に首都南京を占領しました。その過程で、女性や子どもをふくむ中国人を大量に殺害しました(南京事件)。このような状況下で、蒋介石は、政府を漢口、ついで重慶に移して、日本軍に対抗し続けました。
抗日民族統一戦線
中国では、国民党と共産党の内戦が続いていましたが、協力して日本に対抗しようとする共産党のよびかけにより、1937年9月に提携が実現し、抗日民族統一戦線が結成されました。日本は、国民政府にかわる親日政権の出現を期待し、これと和平を結ぼうとする声明を発表しましたが、中国民衆の抗日意識はいっそう高まり、日本の短期決戦の見こみに反して、両国が総力をあげて戦う全面戦争に発展していきました。
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大阪書籍
日中戦争の拡大と国民生活
長期化する中国との全面戦争
中国では、国民政府の蒋介石が共産党をおさえて統一を進めようとしました。そのため、共産党は、長征を行って華北の延安に根拠地を移し、毛沢東が指導者となって、日本の侵略と戦うことを中国国民に呼びかけました。このころ日本は、華北を中国から分離させようとはかり、北京郊外の日本軍を増強するなど、中国軍との対立を強めていました。
1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本政府の方針がまとまらないこともあって戦火は上海にも広がり、宣戦布告のないままに全面的な日中戦争が始まりました。国民政府も、共産党との争いをやめて抗日民族統一戦線を組織し、ともに日本と戦うことを決めました。
日本軍は、各地ではげしい抵抗にあいながらも戦線を広げ、首都の南京占領にあたっては、婦女子をふくむ多数の中国人を殺害し、諸外国に報じられて非難されました(南京事件)。
国民政府は首都を重慶に移して抗戦を続け、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連などの中国援助も活発になりました。共産党も華北の農村地域に勢力を拡大して日本軍に抵抗したので、日中戦争は長期化していきました。
◇盧溝橋の事件について、日本と中国の考えのちがいは?
〈中国の考え〉
「このたびの事件の経過から見ても、日本が長いあいだよく考えた上での謀略の結果であって、平和はもはや容易には得られなくなった。」(1937年7月17日 蒋介石の談話)
〈日本の考え〉
「わが軍は、交通線の確保およびわが居留民の保護のため、真にやむを得ざる自衛行動に出たるにすぎず、もとより、少しも領土的意図を有するにあらず。」(1937年7月27日 内閣書記官長の談話)
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日本書籍
日中全面戦争へ
宣戦布告なき戦争
中国では、国民政府と、毛沢東がひきいる共産党との間で内戦が戦われていた。根拠地を延安に移した共産党は、一致して日本の侵略と戦うことを国民政府によびかけた。日本は、新たな資源と市場を求めて、満州から華北に手をのばそうとしたため、中国では抗日運動が急速に高まった。
1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際非難をあびた(南京事件)。中国の側では、国民政府と共産党との協力が実現し、両党は抗日民族統一戦線を結成して日本の侵略に強く抵抗した。日本軍は各地の重要都市を占領したが、国民政府は首都を奥地の重慶に移して抗戦をつづけ、占領地域でも共産党が農民の支持をえながら、はげしいゲリラ戦を展開した。
日本軍は、1940年ころから華北の抗日根拠地をつぶすための軍事行動をおこなった。中国側はこれを、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦として非難した。
こうして、すぐに戦争に勝てるという日本側の見とおしははずれ、戦争は長期化していった。
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清水書院
日中戦争と戦時体制
日中戦争
満州国の実権をにぎった日本の軍部は、さらに華北を侵略した。1937(昭和12)年、北京郊外で日本と中国の軍隊が衝突した。事件後、現地軍や陸軍内部で拡大派と不拡大派が対立していたが、政府の和平交渉も失敗し、全面戦争へと戦火はひろがっていった(日中戦争)。
当時内戦をつづけていた国民政府と毛沢東の指導する中国共産党は、日中戦争がおこると、抗日統一戦線を結成した。日本軍が華北の要地や南京・広州などを占領すると、国民政府は首都を奥地の重慶に移し、アメリカ・イギリスなどの援助をうけて抗戦した。その後日本軍は、戦線を拡大し、やがていつ果てるともしれない長期戦となった。
日本軍と中国民衆
日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器を捨てた兵士、老人・女性・子どもまでふくめた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせたこのときの死者の数は、多数にのぼると推定されている*注。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。
*注:このときの死者の数については、数万人、十数万人、30万人以上などと推定されている。
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育鵬社・自由社の教科書-歴史歪曲記述多数
「わが国が朝鮮の独立と近代化にこだわった背景には、太平洋岸 に勢力をのばす 大国ロシアの南下政策 がありました。わが国のすぐ近くにある朝鮮が清の影響のもとで混乱を続け、ロシアの植民地になれば、日本の安全が脅かされることになる」(育鵬社)
「ロシアの極東での軍備強化をこのまま黙認すれば、わが国の存立の危機」(育鵬社)
併合後の朝鮮について「学校も開設し、日本語教育とともにハングル文字を導入した教育を行った」という記述を加え、現行本にあった「これらの 近代化事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、その他にも朝鮮の伝統を無視したさまざまな同化政策を進めたので、朝鮮の人々は日本への反感をさらに強めた」という記述を削除した。検定でほぼ同文が復活したとはいえ、本文での復活ではなく、(注)に落としての復活にすぎない。(自由社)
「中国各地 で日本人が殺害されたり、居留地が襲われる事件もおこり、関東軍による治安回復への期待が高まっていました 。」(育鵬社)
「日本は 3 万人の居留日本人保護のため、陸軍を逐次派遣」(自由社)
「わが国の勝利はアジアの人々に独立の希望」(育鵬社)
「アジアの人々をふるい 立たせた日本の行動」「日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々」(自由社)
「国民の多くはひたすら日本の勝利を願い、励まし合って苦しい生活を耐え続けました。」(育鵬社)
自由社では、現行本のコラム「20 世紀の戦争と全体主義の犠牲者」を「戦時国際法 と戦争犯罪」というタイトルに変え、「沖縄戦の悲劇」を加えた。そのなかで集団自決にもふれたが、その原因や責任にはまったくふれていない 。
「米軍の猛攻で逃げ場を失い、集団自決する人もいました 。」(育鵬社)「米軍が上陸する中で、追いつめられた住民が、家族ぐるみで集団自決」(自由社)