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傷病兵治療の学び舎--友情深めた日本軍医

2006年08月09日 | 社会
戦争の記憶:遺物を訪ねて/4 神戸捕虜病院跡(神戸市中央区) /兵庫

 ◇傷病兵治療の学び舎--友情深めた日本軍医

 マンションが並ぶ住宅街にある熊内小公園の片隅に、高さ約1・5メートルの
石碑がひっそりと立つ。前面に「中央神学校の跡」の白い文字。ここに米国長老
派教会が中央神学校を開いたのは1907年。しかし真珠湾攻撃のあった41年
に閉校になり、日本軍が建物を接収した。44年7月から、捕虜になった連合国
軍兵士のうち重傷病者が運び込まれ、かつての学び舎(や)は「神戸捕虜病院」
として使われた。
 市民団体「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」など
によると、神戸市内には、中央区の神戸市役所南側や脇浜町、長田区丸山町に計
三つの捕虜収容所があり、神戸捕虜病院は3収容所を含む周辺の収容所の傷病者
の治療を担当した。病院長は和歌山県出身の大橋兵次郎軍医(故人)。大橋軍医
に部屋を貸していたという宮崎俊弥さん(79)=西宮市霞町=は、「眼光が鋭
く、腹の座った立派な人で、捕虜とも友人のように話していた」と振り返る。
 宮崎さんによると、大橋軍医は米英の捕虜軍医から最先端の医療技術を学ぶな
どして友情を深めた。戦犯として巣鴨プリズンに収容されたが、捕虜軍医が嘆願
書を出して釈放されたという逸話も残る。戦後は芦屋市内などで病院長を務めた。
 一方で、収容所の捕虜たちは過酷な環境に置かれていた。神戸市役所南側の
「神戸分所」に収容されていたオーストラリア人のジョン・レイン氏は、著書
「夏は再びやって来る」(神戸学生センター出版部)で、神戸港で石炭を運ばさ
れていた捕虜仲間が海に転落し、「ドイツの船が救命ボートを降ろしたが、警備
兵が救助を認めなかった。捕虜病院にも連れて行けない状況で息絶えた」と書き
残している。
 神戸捕虜病院は45年6月の神戸大空襲で破壊され、1年に満たない歴史を閉
じた。77年になって神学校の卒業生が石碑を建立した。背部に神学校の歩みが
刻まれているが、捕虜病院だったことには触れていない。【田中謙吉】

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 ◇アクセス
 神戸市中央区熊内町1の8。神戸市文書館の南西にある熊内小公園に、
神戸捕虜病院が開設された中央神学校の跡を示す石碑が立っている。
〔神戸版〕

8月9日朝刊(毎日新聞) - 8月9日

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