城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

平田城址(大分県)と耶馬渓の文化財

2011-02-27 | 城(城址)歩き
2月27日、今年初めての城址めぐりに中津市耶馬溪に出かけた。
中津市の山国川沿いには、中世の山城の遺構が多く残っているということで、
いくつかの城址と周辺の史跡を散策してみようと思った。

まず、黒田武士・栗山大膳が少年期を過ごしたといわれる平田城址を目指した。

平田城は 『白米城』 とも呼ばれ、どうやらこちらが正当な呼び名らしい。
昔は白米がよく収穫された豊かな土地であったことから、この名が付いた・・・とのこと。

【登城口】

案内板の前に駐車し、小高い丘を歩いて登った。



石垣? と思って注意して見たが、それとは違うようだ。



途中、昭和天皇記念碑など、いくつかの石碑が建っていた。

【昭和天皇行事記念碑】

5~6分で登りきると、ひらけた場所に忠霊塔が建っていた。
神社のような建物もあるが、ここが城の本丸にあたる場所ということになるのだろう。
春には桜の名所となり、地元の人達の憩いの場となるらしい。
今日は小さい子を連れた、親子連れ一組と出会っただけだった。

【忠霊塔】

平田城は建久9年(1198)、城井宇都宮氏一族の豪族である長岩城主・野仲重房によって築城され、
城番として置かれた平田掃部介の居城となった。
長岩城は九州でも最大級の山城といわれる城で、この平田城は長岩城の支城ということになる。

重房は豊前守護・宇都宮信房の弟で、野仲郷を領して野仲氏を名乗っていた。
野仲氏は戦国時代、大内氏と大友氏の間を渡り歩き、勢力拡大を目指した。



やがて、九州制圧を成功させた豊臣秀吉によって新たに知行割りが行われ、
中津には黒田如水・長政父子が新しく領主として入部してきた。

これに城井宇都宮氏が抵抗を示し、それに野仲氏も加担したため、
天正16年(1588)、黒田の大軍に長岩城を攻め落され、滅亡することとなった。



長岩城攻めで戦功のあった黒田軍・栗山備後利安が、新たに平田城主となる。
後に 『黒田騒動』 を引き起こす利安の子、栗山大膳利章はこの城で少年期を過ごした。

後に黒田氏が筑前移封となると、この城は廃城となった。



曲輪らしき山道を下って行くと、先ほど歩いてきた登城口に戻った。



城の遺構はほとんど残っていなかったが、
巨城・長岩城から見て、この平田城は山国川からの敵襲を見張るという重要な砦だった。
また、黒田官兵衛についての小説などを読むと、
そこでは播磨以来から黒田家に仕えてきた家老である、栗山備後の活躍が描かれている。
その子である栗山大膳が10歳まで育った城であるということで、
とても興味深かった城址を見ることができた。



平田城址から裏耶馬渓にある 『後藤又兵衛の墓』 を目指した。
運転しながら、途中、城の石垣のようなものが見えたので寄ってみた。



久福寺というお寺だった。
ここの境内左手の円通洞と称される岩窟の中には 『勝宮守と子戸自売の墓』 があるという案内板があった。
見てみたかったが、柵が張ってあったので入ることはできなかった。



約1200年前の天長4年(827)、
勝宮守と子戸自売の夫婦は下毛郡を治める 『擬大領』(郡の長官) として都からやって来た。
そして蕨野(本耶馬溪の多志田)に居を構え、ここに久福寺を開いた。

妻の子戸自売は15歳で勝宮守と結婚。
勝宮守が若くして亡くなってしまった後も、一人で職務を果たし、日本後記にも名を残した。
美しい賢女だったといわれる。
48歳で亡くなり、ここ久福寺には二人の遺品と墓があるらしい。

門前には室町時代のものといわれる宝塔が建っていた。

【久福寺門前宝塔】

久福寺から車で20分ほどで、戦国武将・後藤又兵衛の墓に着いた。



今まで後藤又兵衛といえば、
大坂夏の陣の道明寺合戦で、真田・毛利隊と合流する前に徳川軍に突撃し、
鉄砲隊に撃たれて壮絶な討死をした・・・
と思っていたので、ここに墓があることに関しては半信半疑だった。



案内板によると・・・
敗戦後、放浪の旅の末に縁故のあるこの地に落ち延び、隠棲の中で豊臣家再興を期していたが、
豊臣家廃嫡の不運を知って自刃した・・・とある。

しばらくして村人が、この自刃した武士が後藤又兵衛だと知って墓を建て、
後に墓の荒廃を見かねた伊福茂助という人物が、墓を建てかえたということらしい。

これが事実なら面白い話だけど・・・
歴史にはロマンがあるな・・・なんて思った。

【伝・後藤又兵衛の墓】

次に向かった一ッ戸城址は、残念ながら登山口に柵が張ってあり、登城することができなかった。
次の機会に登ってみることにした。

【一ッ戸城址入口】

耶馬溪は景勝地として知られ、大正4年(1915)に新日本三景の一つに選ばれている。
車の中から見る景色はきれいで、何度も脇道に車を停めて眺めたりした。

この辺りは何千万年前もの大昔に火山活動によってできた、凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる台地となり、
その侵食によってできた、奇岩が多く連なった場所となっている。
途中、道路脇に石の名前と番号が標されていて、奇岩見学コースができている。



その大きさにびっくりした姫岩。
車と比較してみるとよくわかる。



耶馬溪は、以前に何度か来たはずだが、
こうやって史跡めぐりをしていると、とても見所が多い場所だった。
また、何度かドライブに来たい。

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