城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

八代城址(熊本県)

2010-09-20 | 城(城址)歩き
9月19日には熊本県の八代、人吉へ城跡を見に行った。
別府ICから八代市までは高速道路を使って3時間半くらいかかった。

八代城址は今は本丸と北ノ丸の石垣のみが残っており、周囲を水掘が囲んでいる。

小西行長が南肥後の拠点として築いた麦島城は、元和元年(1615)の一国一城令後も存続が許された。
しかし、元和5年(1619)に地震によって倒壊。
当時、熊本藩主だった加藤忠広(清正の三男・二代目熊本藩主)は幕府の許可を得て、
城代・加藤正方に命じ、新たに城を築く。 これが現在の八代城となる。
以降、明治維新まで肥後国の一国二城体制(もう一つは熊本城)が続くことになった。

城址周辺は車で簡単に1周できた。
城跡は城址公園となっていて駐車場もあったので、結構楽に城歩きができた。

駐車場から一番近い、高麗門跡から入城した。

【高麗門石垣】

欄干橋は本来、木造の太鼓橋だったが、今はコンクリートの橋が架かっている。

【欄干橋跡】

ここは八代城本丸正門にあたる表枡形門の一ノ門があった場所で、
高麗門または欄干橋門とも呼ばれていた。



この枡形門は四方を石垣で囲み、2箇所に門を設けたもので、
高麗門を通り、右に直角に曲がった場所に二ノ門である頬当門があった。
このつくりは外部からの敵が直進して城内に入るのを防ぐ為のもの。

【高麗門枡形】

【高麗門跡石垣】

外に見えるのは八代市役所。

【城内からみた高麗門跡】

しばらく城内を歩くと、埋み門(うずみもん)跡があった。
この門は、本丸から北ノ丸へと通じる裏枡形門の二ノ門となる。
両側の石垣の上に平櫓を渡し、その下部に門を設けていたとのこと。

【埋み門跡】

埋み門跡から一旦外へ。
ここには裏枡形門の一ノ門となる廊下橋門があった。

【廊下橋門跡】

再び城内に入ると大きな石垣があり、これが天守台となる。 高さは約12m。

【城内からみた大天守台】

本丸の北西隅に外観5層6階の大天守があり、
渡り廊下を通じて2層2階の小天守がつながっていた。

【小天守跡】

ということは、この通路が大・小天守をつなぐ渡り廊下があった場所なのだろう。

【渡り廊下跡】

大天守跡へ。

【大天守跡入口】

大天守は寛文12年(1672)に落雷によって焼失し、その後は再建されていない。



大天守跡の天守台石垣には 『天皇陛下御展望址』 と記された石碑が建っていた。



大天守台からみた水堀。

【水堀】

本丸石垣の上は通路になっていた。
右下は水堀、下を見るとかなり恐いのですぐに左側の階段から降りた。

【本丸石垣上通路】

しばらく本丸内を歩く。

寛永9年(1632)に加藤氏が改易されると、豊前小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、
その父・細川忠興(三斎)が八代城に入城する。
正保2年(1645)に忠興は没し、その時の藩主・細川光尚は八代城を細川家筆頭家老である
松井興長に預けた。
以降は松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くした。

明治3年(1870)に八代城は廃城となるも、
13年に南北朝時代の後醍醐天皇の皇子・懐良親王顕彰のため、本丸に八代宮を設置することとなった。

【八代宮】

舞台脇の櫓は梁間4間、桁行9間の建物で、再建後は桁行12間となったため十二間櫓ともよばれる。
二層二階の櫓で、東側の宝形櫓との間に三十間櫓とよばれる平櫓が続いていた。

かつて城内には能の舞台が設けられており、そこからこの名が付いたのだろうと思う。
能の舞台は、現在は相撲場になっている。

【舞台脇の櫓跡】

舞台脇の櫓跡からみた八代宮入口に架かる橋。

【舞台脇の櫓跡より】

宝形(ほうぎょう)櫓は方形櫓ともいい、屋根が仏事によくみられる、頂上に路盤宝珠をのせる宝形造りで、
この櫓の二階は仏殿になっていたものと考えられている。



磨(みがき)櫓は高麗門の南側にあり、本瓦葺の入母屋造りの屋根の平櫓だった。
南側の宝形櫓との間には、十六間の長さの総白塗込めの塀が続いていたとのこと。

ここから高麗門を見下ろすと、枡形の様子がよく分かる。



城内の相撲場を横切り、八代宮の入口に架かる橋から再び城外へ。
向かって左側にもう少し進んだ石垣上には、かつては月見櫓が建っていた。

【八代宮入口の橋】

堀沿いに歩くと大小天守台がみえてきた。

先ほどの本丸石垣上通路は、この写真の向かって右側の石垣の上。
上からだとかなり恐かったが、ここから見るとそれ程でもない。(笑)

そして中央が小天守台、奥が大天守台。

【大小天守台】

天守台上の左隅に天皇陛下御展望址の石碑が見える。

石垣の石材は石灰岩で、築城当時は白く輝いていたといわれる。
確かに何となく白い部分が残っていた。

【大天守台①】

松井神社側の交差点から見た天守台。

【大天守台②】

さらに歩いて廊下橋を通り過ぎた辺りから見た石垣。
かつて手前の石垣隅上には三階櫓が存在し、奥の廊下橋付近には北九間櫓があった。

【本丸石垣】

やはり城の東北方向は鬼門か、正方形が欠けたような形。

【本丸東北方向から】

ここで駐車場に戻り、城跡一周完了。

子供達が水掘を泳ぐ鯉にエサをあげていたり、部活の学生達がランニングをしていたり、
御宮では結婚式を挙げていたりと、八代城址は八代市民の憩いの場所でもあった。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【おまけ】

八代城址から人吉市へ向かった。 ここから一時間弱かかる。
ふと通り過ぎた看板に 『松中信彦記念館』 とあった。
ホークスファンならここを通り過ぎるわけにはいかないと思いUターン。(笑)

八代といえば、すぐにホークス秋山監督と松中選手を思い出す。
記念館は物産館と同じ敷地にあった。



記念のボールやWBC時に着ていたユニホーム、松坂との対決で折られたバットなど、
なかなか興味深いものが展示されていた。

入館者は自分ひとり。
もの好きもいるもんだと受付の(多分)地元のおじさんが話しかけてくれた。
しばらく話していて、八代城を見に来たことを話した。
多分、さらにもの好きな奴がいるもんだ。 と思われたに違いない。(笑)


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