城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

臼杵城址(大分県)

2009-12-28 | 城(城址)歩き
2009年12月27日(日)

今日は 臼杵城址 を歩いてみる。
別府から1時間ちょっとで、臼杵市にある城址に到着。
城は崖の上の要塞という感じで、見ただけでその堅固さが伝わる。

臼杵城は1556年(弘治2年)、 大友義鎮 (よししげ・後の 宗麟 )によって建てられた。
この城が築かれた丹生島(にゅうじま)は臼杵湾に浮かぶ島で、
断崖絶壁の地の利を生かし、ここに城郭を築いたと考えられる。

大友氏の改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後は、臼杵藩5万石を与えられた稲葉氏が城主となり、
明治維新まで臼杵藩を支配した。

【臼杵城古橋口】

ひときわ目立つのが、 畳櫓 (たたみやぐら)。
明治新政府の廃城決定によって城内の建物は破壊されてしまうが、
卯寅口門脇櫓とこの畳櫓は残された。

【畳櫓】

城の周囲の堀。



堀には石造りの橋が架かっている。



その 古橋 (ふるはし)を渡って城内へ。



渡った先は 古橋門櫓跡 となり、
櫓門 があったことを示す柱台が見られる。



右手に 亭櫓跡 (ていやぐら)となる櫓台がある。

【亭櫓跡】

鐙坂 (あぶみざか)を上がって本丸に向かう。
夜には足元に灯りが点き、ライトアップされるようだ。



【鐙坂】

坂を登りきると、中門櫓跡 がある。



そして城の外から見ると目立っていた 畳櫓 の正面に着いた。
この櫓は1644~1648年(正保年間)頃に建てられたのが始まりで、
1763年(宝暦13年)の大火で焼失、1764~1772年(明和年間)頃に再建されたと推測されている。
この名の由来は、祇園社(現 八坂神社)から見た方角から付いたという説や
中に畳が敷かれていたからという説があるが、はっきりしていないらしい。

【畳櫓】

平成13年に復元された、県指定史跡 大門櫓
稲葉氏入城直後17世紀初頭に建てられたもので、
畳櫓と同じく1763年(宝暦13年)の大火で焼失、1768年(明和5年)に再建された。
こちらは明治新政府の廃城決定により取り壊された。

【大門櫓】

大門櫓から畳櫓のある方向にのびる二ノ丸石垣。
奥は 井楼櫓跡



古橋口方向から見ると、井楼櫓跡は畳櫓の後方となる。

【井楼櫓跡】

井楼櫓が現存していた明治初期の古写真。





井楼櫓跡からみた景色。 手前は畳櫓。



大手門に戻り、二ノ丸跡へ。


【二ノ丸跡からみた大手門】

二ノ丸にある 会所櫓跡

【会所櫓跡】

二ノ丸敷地内を歩くと歴代城主年表や築城主・大友宗麟の石碑などがあった。

【大友宗麟碑】

1576年(天正4年)にポルトガル人から宗麟に送られた佛狼機砲(ふらんきほう)。
これが日本初の大砲といわれる。
宗麟はこの大砲を 国崩 と名付け、臼杵城に配備した。

廃藩置県後、国崩は国に献上され、現在は靖国神社境内に展示されている。
ここにあるのは複製されたもの。



臼杵護国神社を横切り、多目的広場に沿って歩き、本丸へと向かった。
途中、 着見櫓跡 があった。
ここは上ノ門近くにある場所なので、入城者を監視する所だったのだろう。

【着見櫓跡】

二ノ丸と本丸を仕切る 空堀 がある。



卯寅口門方面に歩くと鉄門櫓跡、武具櫓跡などがあった。
この辺り、大きな石垣も残っている。







本丸跡に入ると 天守櫓跡 がある。
ここには、かつて3層4重の天守櫓といくつかの付櫓が存在していたようだ。

【天守櫓跡】

野面積みの 天守台
この城址の石垣の中では、乱雑ではあるが最も頑丈なつくりになっているらしい。

【天守台】

天守台のある空堀から、旧来の道とされる所を歩いて戻った。
埋門前櫓跡 は道から突き出た所にあった。

【埋門前櫓跡】

上ノ門跡 に着く。
この辺りも立派な石垣が残されている。





【着見櫓跡石垣】

上ノ門跡から弓道場を横切り、畳櫓までの細長い通路は 帯曲輪 とよばれている。
稲葉氏入城までは鐙坂から上ノ門までこの通路が使われていたが、
遠回りになるため、城内通路が整備された。

今回は帯曲輪は通らず、二ノ丸跡から戻った。

【時鐘櫓跡】


最新の画像もっと見る

コメントを投稿