奥村忠雄・多田吉三「わが国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年
「家計調査前史」「家計調査の成立」「家計調査の発展」「戦後の家計調査」の順で,日本の家計調査の歴史をコンパクトにまとめている。
「家計調査前史」では,農商務大輔品川弥二郎が明治16年5月に当時の知事に対して下した「士族生計費一件」,農商務省大書記官前田正名が「人民平均生活の費用」を基礎として行った「人民の生活費」の推計(政治算術),他に財政の基礎資料を得るために行われた農民担税力調査がまず紹介されている。また,明治中期には進歩的な新聞記者による探訪的調査があり,これらは農村を追われて都市の貧民窟に滞留していた「働く貧民」の生計費事例調査のはしりであった。鈴木梅四郎の「大阪名護町貧民社会の実況紀略」(1888年[明治21年]),桜田文吾の「貧天地飢寒窟探検紀」(1890年[明治23年]),松原岩五郎の「最暗黒の東京」(1890年[明治23年]),横山源之助の「日本の下層社会」(1898年[明治31年])がそれである。これらの事例研究の伝統は,農商務省工場調査掛の「職工事情」(5巻,1903年[明治36年])にひきつがれた。
大正期に入って資本主義経済の本格的展開とともに,労働者家計への関心が高まり社会政策学会でも生計費問題が俎上にあがった。学会の第六回大会(大正元年)では農商務省工務局長・岡実が講演資料として「職工の生計状態」を提出した。これは統計の形をとった日本の最初の家計資料であった。しかし,その内容は当時の物価騰貴が「職工社会」にそれほど大きな影響を与えていないとする反動的なものであった。
「家計調査の成立」では,高野岩三郎が友愛会の協力を得て,大正5年に行った家計調査(「東京に於ける二十職工家計調査」)をもって,家計簿法による最初の家計調査だった,としている。この高野の指導による調査は,櫛田民蔵が1917年(大正6年)に実施した「大阪における窮民の家計調査」に応用された。他に,1919年(大正8年)に「月島労働者家計調査」「小学校教員家計調査」が,高野の助手権田保之助によって行われた。この頃,家計調査は種々あちこちで実施され,権田がこの事情を指して「家計調査狂時代」と呼んだほどの盛況ぶりであった。しかし,この盛況ぶりには,社会問題の真の解決を回避する鎮静剤的作用があったことを忘れてはならない。筆者はこの点について,「まさに,この時代の生活問題に対応する社会的政策は,家計調査をはじめとする各種の調査期間の設立や,社会事業的救済をはかるための時間的ひきのばしによる問題解決の方法がとられたのである」(p.62)と指摘している。この大々的な家計調査は大正末年に,内閣統計局が全国統一的家計調査を企画するに及んで,消滅してしまった。内閣統計局によるこの調査は調査の規模,調査期間の長さでも,前代未聞の事業であり,労働者を中心とする対象者(11824世帯の応募,7856世帯を抽出)の生活実態を実証的に抉り出したものと評価されている。現在の総務省統計局の家計調査の原型を示すものであった。
その後,内閣統計局の家計調査は,1931年(昭和6年)から1942年(昭和17年)9月まで,継続して実施された。目的は直接的には米穀法制定にもとづいて,「家計米価」の決定(実際には最高米価)のための基礎資料を得ることにあった。しかし,昭和のこの時期は恐慌期にあたり,農村の不況のために米価が農家の生産費を割ることが社会問題化し,最高米価よりむしろ最小米価を米穀法によって公示することが喫緊の課題であった。そのため第二次世界大戦にいたる内閣統計局の10年ほどの家計調査は,米穀法によるというより,労働者や給料生活者に対する社会政策上の要請のもとに実施された。さらに,この調査は生計費指数との関連でも重要であった。戦前には,朝日新聞社が1931年(昭和6年)から,内閣統計局が1937年(昭和12年)から生計費指数の作成を開始したが,これらはいずれも内閣統計局の家計調査の結果資料を活用した。「家計調査の発展」期として位置づけられるこの時期に実施された家計調査は,単なる「鎮静剤」的役割から,「政策的」利用へと活路を変えた。
戦後の「家計調査」は,1946年(昭和21年)4月,物価庁が行った「都市家計調査」で復活した。次いで同年7月からGHQの指令により「消費者価格調査」が総理府統計局によって始められた。目的は,当時の緊急物価対策のための基礎資料,消費者価格指数の算定資料の入手であった。全国の人口5万人以上の都市を対象に,これをまず①地理的位置,②人口の大小,③工業化率,④人口密度,⑤人口移動率,⑥戦災程度の大小によって28の層に分けたうえで抽出する標本調査の方式がとられた。「消費者価格調査」は消費支出調査の代役を務めたが,収入に関する調査項目がなかったので,しばらく勤労者世帯収入調査と並行実施された(1950年[昭和25年]まで)。「消費者価格調査」はその後,家計調査と小売価格調査とに発展的に継承され,消費者物価指数は後者で調査された小売価格が基礎資料とされるようになる。戦争直後の社会的混乱期には,諸官庁,企業,労働組合,研究所によってさまざまな家計調査が行われ,さながら戦前の「家計調査狂時代」の再来の感を呈したが,総理府統計局の家計調査が充実するにつれ下火になった。総理府統計局の家計調査以外では,関連した調査として要保護者に対する家計調査が昭和30年中頃まで続いた。
最後に,家計調査の実施要領(1962年[昭和37年]7月改訂),この家計調査と併行して実施された全国消費者実態調査(用途別分類)[1950年(昭和25年)9月から],家計調査で除外された世帯を対象とした「農家生計費調査」が紹介されている。
「家計調査前史」「家計調査の成立」「家計調査の発展」「戦後の家計調査」の順で,日本の家計調査の歴史をコンパクトにまとめている。
「家計調査前史」では,農商務大輔品川弥二郎が明治16年5月に当時の知事に対して下した「士族生計費一件」,農商務省大書記官前田正名が「人民平均生活の費用」を基礎として行った「人民の生活費」の推計(政治算術),他に財政の基礎資料を得るために行われた農民担税力調査がまず紹介されている。また,明治中期には進歩的な新聞記者による探訪的調査があり,これらは農村を追われて都市の貧民窟に滞留していた「働く貧民」の生計費事例調査のはしりであった。鈴木梅四郎の「大阪名護町貧民社会の実況紀略」(1888年[明治21年]),桜田文吾の「貧天地飢寒窟探検紀」(1890年[明治23年]),松原岩五郎の「最暗黒の東京」(1890年[明治23年]),横山源之助の「日本の下層社会」(1898年[明治31年])がそれである。これらの事例研究の伝統は,農商務省工場調査掛の「職工事情」(5巻,1903年[明治36年])にひきつがれた。
大正期に入って資本主義経済の本格的展開とともに,労働者家計への関心が高まり社会政策学会でも生計費問題が俎上にあがった。学会の第六回大会(大正元年)では農商務省工務局長・岡実が講演資料として「職工の生計状態」を提出した。これは統計の形をとった日本の最初の家計資料であった。しかし,その内容は当時の物価騰貴が「職工社会」にそれほど大きな影響を与えていないとする反動的なものであった。
「家計調査の成立」では,高野岩三郎が友愛会の協力を得て,大正5年に行った家計調査(「東京に於ける二十職工家計調査」)をもって,家計簿法による最初の家計調査だった,としている。この高野の指導による調査は,櫛田民蔵が1917年(大正6年)に実施した「大阪における窮民の家計調査」に応用された。他に,1919年(大正8年)に「月島労働者家計調査」「小学校教員家計調査」が,高野の助手権田保之助によって行われた。この頃,家計調査は種々あちこちで実施され,権田がこの事情を指して「家計調査狂時代」と呼んだほどの盛況ぶりであった。しかし,この盛況ぶりには,社会問題の真の解決を回避する鎮静剤的作用があったことを忘れてはならない。筆者はこの点について,「まさに,この時代の生活問題に対応する社会的政策は,家計調査をはじめとする各種の調査期間の設立や,社会事業的救済をはかるための時間的ひきのばしによる問題解決の方法がとられたのである」(p.62)と指摘している。この大々的な家計調査は大正末年に,内閣統計局が全国統一的家計調査を企画するに及んで,消滅してしまった。内閣統計局によるこの調査は調査の規模,調査期間の長さでも,前代未聞の事業であり,労働者を中心とする対象者(11824世帯の応募,7856世帯を抽出)の生活実態を実証的に抉り出したものと評価されている。現在の総務省統計局の家計調査の原型を示すものであった。
その後,内閣統計局の家計調査は,1931年(昭和6年)から1942年(昭和17年)9月まで,継続して実施された。目的は直接的には米穀法制定にもとづいて,「家計米価」の決定(実際には最高米価)のための基礎資料を得ることにあった。しかし,昭和のこの時期は恐慌期にあたり,農村の不況のために米価が農家の生産費を割ることが社会問題化し,最高米価よりむしろ最小米価を米穀法によって公示することが喫緊の課題であった。そのため第二次世界大戦にいたる内閣統計局の10年ほどの家計調査は,米穀法によるというより,労働者や給料生活者に対する社会政策上の要請のもとに実施された。さらに,この調査は生計費指数との関連でも重要であった。戦前には,朝日新聞社が1931年(昭和6年)から,内閣統計局が1937年(昭和12年)から生計費指数の作成を開始したが,これらはいずれも内閣統計局の家計調査の結果資料を活用した。「家計調査の発展」期として位置づけられるこの時期に実施された家計調査は,単なる「鎮静剤」的役割から,「政策的」利用へと活路を変えた。
戦後の「家計調査」は,1946年(昭和21年)4月,物価庁が行った「都市家計調査」で復活した。次いで同年7月からGHQの指令により「消費者価格調査」が総理府統計局によって始められた。目的は,当時の緊急物価対策のための基礎資料,消費者価格指数の算定資料の入手であった。全国の人口5万人以上の都市を対象に,これをまず①地理的位置,②人口の大小,③工業化率,④人口密度,⑤人口移動率,⑥戦災程度の大小によって28の層に分けたうえで抽出する標本調査の方式がとられた。「消費者価格調査」は消費支出調査の代役を務めたが,収入に関する調査項目がなかったので,しばらく勤労者世帯収入調査と並行実施された(1950年[昭和25年]まで)。「消費者価格調査」はその後,家計調査と小売価格調査とに発展的に継承され,消費者物価指数は後者で調査された小売価格が基礎資料とされるようになる。戦争直後の社会的混乱期には,諸官庁,企業,労働組合,研究所によってさまざまな家計調査が行われ,さながら戦前の「家計調査狂時代」の再来の感を呈したが,総理府統計局の家計調査が充実するにつれ下火になった。総理府統計局の家計調査以外では,関連した調査として要保護者に対する家計調査が昭和30年中頃まで続いた。
最後に,家計調査の実施要領(1962年[昭和37年]7月改訂),この家計調査と併行して実施された全国消費者実態調査(用途別分類)[1950年(昭和25年)9月から],家計調査で除外された世帯を対象とした「農家生計費調査」が紹介されている。
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