社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

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是永純弘「『政策科学』は可能か」『現代と思想』第36号,1979年,(『経済学と統計的方法』八朔社,2000年)

2016-10-18 11:25:58 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「『政策科学』は可能か」『現代と思想』第36号,1979年,(『経済学と統計的方法』八朔社,2000年)

 この論文の内容を理解するには,1970年代の政治状況,思想状況を知っておかなければならない。70年代の日本では,資本主義経済が深刻な矛盾に直面し(60年代末の国際通貨危機の影響,二度にわたるオイルショック,深刻な不況と環境破壊),その対極で民主的政治勢力の台頭が際立った。その延長線上で,経済理論の分野では体制批判ばかりでなく,政策作成能力が不可避で,実際に政策立案,政策提言を積極的に行わなければならないという気運が高まった。時代のこうした雰囲気のなかで,残念なことに,安易に近代経済学,計量経済学などの手法を取り入れ,それによって民主的な政策作成を行おうとする論者の見解が跋扈し,実際にそうした試みが評価された。経済学への数理的手法や計量経済学モデル分析に長く批判的姿勢をとってきた筆者にとって,こうした状況は容認できないことであった。

 この論文は,筆者のそうした考え方を示した力作である。論文の目的は,近代経済学にも部分的には科学的要素が含まれているので,それらを摂取していく必要があるという当時の雰囲気の危うさを解明することであった。数理的手法容認の空気には,資本主義経済が立ちいたった構造的危機のもとで,国民大多数のための経済政策作成には,諸政策の整合性を保持し,それらの有効性を測定する数学的方法の援用が不可避であるが,この方法は近代経済学者による研究の蓄積が多かったことから出てきたものであるが,その論理はきわめて安直なものであった。

 筆者は民主的経済政策への数学的手法の摂取の如何を言う前に,あるいはその当否を判断する前に,まず数理的分析の方法的性格,経済研究へのこの方法の適用の可否,その意義,適用条件が明らかにされなければならないとする。そこで,経済学研究における方法論的原則に照らし,問題となる主要論点が提示される。とりあげられたのは,数学的分析方法が科学研究の「厳密性」を高めるという見解,この方法が対象の量的側面,経済諸量の相互関係の分析,質的分析に有効であるという見解である。

これらの見解に対し,与えられた回答は,経済学としての厳密性がそのまま数学の厳密性によって保証されるとは限らない,数量的ないし数学的思考様式は人間の思考にとって一つの形態にすぎず,科学のあるいは人間の思考の歴史と現実は,数学以外の科学で,数学を利用しない限り思考の厳密性が保証されえないという神話を否定しているというものである。また分析対象の「量」に関しては,数学が扱う「量」と経済学でいう「量」は同じ「量」という表現をとるが,そのことからただちに両者の同等性を云々するのは拙速で,数学における数学的抽象としての質的に無関与な「量」と個別科学の対象に固有の質をもつ「量」,すなわち「定量」とは意味が異なる,経済カテゴリーから固有の経済的=質的規定性を捨象できないと述べている。

経済諸量の相互関係の分析に数学的方法が必要とする考え方は古くはローザンヌ学派の経済学者が唱え,現在でも計量経済学者や産業連関論者の言い分の一つである。筆者の批判は,経済的相互関係を方程式体系で数理的形式にまとめる方法が,経済学の外部からこの科学の主要な方法として導入されたことに懸念を示す。

一部の論者は,近代経済学の「弁護論的」性格を徹底的に批判するが,この科学における数学的にコンシステントな方法体系や計量経済学の方法体系がもつ原則的な誤りには関心がない。新古典派理論,産業連関論の均衡論的性格に対する批判はあっても,計量経済学が専ら数値的検証や数値的分析の「方法」に,連関分析が国民経済の生産技術的連関の数値的分析手法=「実証可能な線形体系」に,拘泥していることを方法論的に検討しようとする姿勢はない。数学的分析方法が対象の質的分析に有効という見解に対しては,「数学的認識,それ自身は量と量的諸関係を研究するものでありながら,・・・質的研究をも深めると考えるのは,数学が量における質的区別,質的規定性を扱う,いいかえるとその固有の対象としての量の内部での質にかかわるかぎりでは正当であるが,それは数学が具体的事物において統一されている量と質のレベルでの質を直接に取り扱うことを意味しない」という言説で,この見解の浅薄な方法理解を断じている。

 上記でも部分的に触れたが,この当時,近代経済学および計量経済学の批判という研究分野でかなり強い見解として存在したのは,それらの経済学の弁護論的性格の批判であった。この立場からすると,近代経済学および計量経済学の方法論を内在的に批判する方法論批判は,イデオロギー批判の意義を無視し,学問の批判活動と現実の民主主義運動の発展との有機的連関を切断している。重要なのは,方法論主義のもつ没イデオロギー的な,客観主義的な論議にはピリオドを打ち,積極的政策提言を示すことであるとした。筆者はこの見解に対し,近代経済学による数学的方法は経済学の論理の内的必然性から定着したのではなく,経済学の外部から持ち込まれたものであること,計量経済学のごとく理論なき数値的研究方法の体系は,その没イデオロギー的外皮の故に,利用目的次第でどのような経済理論にとっても有効なように見えるが,これでは理論の真理性の基準をその実用性にもとめる,科学とは無縁の特異な価値観として,これを排斥している。
この頃,経済学だけでなく社会科学全般は,単なる批判科学ないし実証科学から政策科学へと「飛躍」すべきとする声が強くあったが,筆者は数理的手法の分析・予測能力を厳しく方法論的に検討する姿勢がなければ,特定の立場にたつ性急な政策科学への「飛躍」は理論的誤謬に結果するだけであるとしている。

本稿の「注」に眼をやると,この論文と同時期に出版された『大月 経済学辞典』の「政策科学」「経済民主主義と近代経済学」「経済学における数学利用」「計量経済学」の項が取り上げられている。この辞典は経済民主主義の立場から編まれたもので,近代経済学や計量経済学へのともすれば安易な妥協が基調にあった。また,「弁護論批判」の旗頭であった関恒義(『経済学と数学利用』大月書店,1979年),横倉弘行(『経済学と数量的方法』青木書店,1978年),山田弥(「計量経済学批判における若干の問題点」『立命館経済学』215号,1972年)もとりあげている。筆者は,これらの「弁護論批判」が真摯な方法論的検討をせず,経済学や政策科学と称するものに数理的手法をたやすく取り込んでいく傾向を無視できず,社会科学方法論の研究蓄積と成果を擁護する立場からこの論文を執筆したのである。
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杉森滉一「現代経済学と数学的方法」是永純弘編『現代経済学の方法と特質(講座・現代経済学批判Ⅰ)』日本評論社,1975年

2016-10-18 11:23:08 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
杉森滉一「現代経済学と数学的方法」是永純弘編『現代経済学の方法と特質(講座・現代経済学批判Ⅰ)』日本評論社,1975年

 現代経済学では,数学利用が支配的である。それも単に理論を補助する手段として数学が利用されているのではなく,方法として使われる。この論文は現代経済学における数学的方法のもつ意味をさぐることであるが,現代経済学が数学利用を正当化する論拠の主要なものをとりあげ,それに即して構造と問題点を明らかにするという手続きをとっている。正当化の根拠として,経済現象は量的であるがゆえに経済現象の科学的研究である経済学は数学的でなければならないとする見解(「数量的,ゆえに数学的」説),経済理論は経済諸量間の相互依存関係を研究するべきであり,これらは関数関係でもっとも精密に表現されるので経済学は関数を通して数学化せざるをえないとする見解(関数関係説),経済理論の論理構造を厳密化すればそれは数学で示されているものと同じになる,ゆえに経済学は厳密な科学たろうとすれば数学的にならざるをえないとする見解(公理主義的利用論),数学利用の根拠を,数学が理論を厳密に進めうることに求める見解(「数学=論理」説)である。筆者は本論でこれらを一つひとつ丁寧に分析していく。

 「数量的,ゆえに数学的」説ではパレートの文言がまず引用されているが,枚挙にいとまない。古くは数学=数量の科学とする見解もあったが,それほど素朴な考え方は今はなく,量的な現象(主観の働く余地のない確固たるもの)の究明に不可欠なのが数学というのがこの考え方である。この考え方の背景には,質的側面の軽視,経済現象全体を力学(古典的な静力学)の均衡体系に擬する発想,経験(感覚的経験)を究極的なものとみなし,経験の背後にあって経験を起こさせるもの(客観的な存在,物質)の存在を認めないとする哲学がある。

 経済現象の多くが数量的側面をもつのは,確かである。しかし,ここからただちに経済学が数学化すべきとする帰結はありえない。経済現象の数量的側面はその質的側面との連関によりなりたち,質的側面に規定されている。これに対し,数学が扱う量は,質に無関与である。数学的方法はこの意味で,質的規定を前提とし,それに従属する副次的方法と位置づけられなければならない。このこととの関連で,筆者は経済学における数学的方法の実際の形態として,質的なものが数学的方法を限定するという場合があることを示している。その例として,筆者は連関分析における「サイモン=ホーキンスの条件」をあげている。しかしこの場合,質的限定性といってもそれが意味しているのは「生産される財の数量が負でない」といった程度の物理的(技術的)意味のものでしかない。

 「関数関係説」はどうだろうか。例としてパレート,シュンペーターの文言が引用されている。経済現象に相互依存関係があるから数学の利用が不可避であるとパレートは引用された文章のなかで言っている。ここで言われている相互依存関係は量的依存関係である(質的依存関係もあるはずであるが,パレートはそれには言及していない)。また,相互依存関係をかれらが強調する場合,そこには予定されているのは均衡概念である。相互依存関係と均衡とは別の次元の概念であるが,それが一体のものと混同されている。この説は「数量的,ゆえに数学的」説のように素朴ではないが,しかし発想として,後者は前者の延長線上にある。後者は一般均衡論と部分均衡論,微視的と巨視的,静学と動学といったように精緻化がはかられ,多様な展開をとっているように見えるものの,経済諸数量を関数関係で表現し,これに均衡条件を入れて各変数の水準と動きを分析するという方法は変わることなく,保持されている。古典力学だけでは満足できず,エントロピー法則を導入し,従来の一義規定性の代わりに確率的決定性をおく考え方が登場したが,そこで古典力学の代わりに推奨されているのは熱力学であり,依然として力学的類推で経済現象を解こうとしている点で変わらない。この説を基盤に経済学を構想するものは,当然,経験主義の立場にたち,因果関係の存在を否定する。要するに,彼らの思想は経験を存在の反映とみず,それを究極視する経験主義に立脚する。科学の形態としては,経験の分析ではなく,経験の記述を設定し,したがって因果関係ではなく関数関係を設定する方法論である。関連して,筆者は数学的な意味での関数関係,また因果関係と関数関係について,細かく説明を行っている。

 次にとりあげているのが,公理主義的利用論である。この説は,経済理論の論理構造は,数学で示されているそれと同じであるというところにポイントがある。経済学が過去から解明してきたものは,理論の核心を取り出すこと,それが数学,あるいは数学上の定理によって実現されるというわけである。この数学利用論は,メンガー,モルゲンシュテルンによって唱えられた。公理主義的見解によれば,数学体系自体は記号間の形式であり,ある関係を仮定すればある結果が得られることにすぎない。この体系は現実の関係とは無縁であるが,それが具体的現実と対応づけられればその現実の説明が可能である。ある具体的現実とある公理系が対応していれば前者を後者でおきかえ,前者の内容構成を公理系で厳密に提示できる。構造的同型性がその前提にある。公理系は要素間のさまざまな関係を呈示したもので,現実の諸事物はそこから具体性を捨象すれば公理系であらわされるものと同一の構造になる。この見解によれば,厳密な理論化を行うためには,対象を既存の公理系と対応させることで数学化しなければならないことになる。筆者は以上のことを確認して,公理主義的利用論の詳細な批判的分析を行い(そのプラトン主義的性格,プラグマ主義的性格),公理的方法の意義(科学一般の方法の一形態としての有効性)と限界(ゲーデルの不完全性定理による証明)を検討している。著者は次のように結論付けている,「・・・経済学が公理的方法を最上の方法として信奉するというようなことは,自らの対象そのものに忠実たるべき科学としての行き方に背反するとともに,対象をより深く把握することによって方法をも豊富化するという機会を自ら放棄するもの」にならざるを得ない,と(p.141)。

 最後に「数学=論理」説の批判的検討である。ごく一般的には,この主張は事実内容とそれを組み合わせていく推理とを相互に独立させうるものとして峻別し,数学を後者のみに関わらせる。数学は事実内容に言及しないで,それについて妥当な推理を行うための規則体系であり,そのようなものとして経済理論を科学的にするための道具である。ここでは数学は論理であり,数学の利用は論理の利用である。これを実際に行ったのは,数学基礎論における論理実証主義である。筆者はここから論理主義の解説を始める(公理主義との相違を意識しながら)。論理主義は論理的分析の徹底化を図り,原理的に数学を論理学に還元する。論理主義における数学の導出は,記号論理学の,とくに述語論理から,命題関数の形をとって自然数とその算法を定義することによって行われる。この基礎としての述語論理は,トートロジーによって成立している。
論理主義的見解では,数学は経験的内容にかかわらない限りで成立し機能するという意味での「形式」,そのような形式としての論理である。公理主義でも数学は記号間の形式的関係であるが,この場合の形式性は抽象性と同義で無内容ということではない。これに対し,論理主義では数学はまったくの無内容性において,内容に対する言語的表現形式として規定されている。論理主義にもとづく数学利用論は,論理実証主義によって展開された。論理実証主義は,最初から経験主義を標榜し,それと矛盾しないように論理学や数学を取り入れる。経験は表現にもたらされた次元での表現,すなわち言語(言語的経験)としてとらえられている。

 数学が科学の発展を牽引した時代があった。ガリレオ,ラプラス,コンドルセなどにも数学主義の片鱗が見出される。しかし,それには理由があり,この当時は数学の発達に比し,自然科学はその後塵を拝していた。未発達だった自然科学の諸分野が,すでに科学の体裁を整えていた数学を範とし,諸科学の進歩が数学化をもって代弁された。しかし,現在では事情は異なる。自然科学,社会科学は実質的な発展をとげ,その成果の蓄積は豊かである。このことによって科学の対象となる物質は,多様な形態,重層的な構造をもつにいたった。数学的法則ないし必然性は,合法則性一般ではなく,その一形態にすぎない。このような時に,数学を絶対視し,信奉することは,科学の発展とは逆行する。筆者は次のようなまとめを与えている,「かつての数学主義は多少とも唯物論的性格をもっていた。つまり,それは,客観的対象の客観的合法則性を追求して数学にいたったのであり,したがってわれわれはそこから,客観的対象に忠実たらんとする態度を学ぶべきであるのに,現代の数学主義は・・・数学という結果的形態のみを学び,数学をまず前提してそれで対象を処理するという倒錯をおかしている。この倒錯を正当化しようとする結果,現代の数学主義派は,かつてのそれとは反対に数学の対象反映性を否定する諸々の観念論哲学におちこんでいるのである」と。(p.161)
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是永純弘「システム分析とモデル論批判」『経済』1974年5月号

2016-10-18 11:20:52 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「システム分析とモデル論批判」『経済』1974年5月号

 1970年代に入った頃から,資本主義経済はその成長に翳りが顕著になった。そこに登場したのが,「成長の限界」論(ローマ・クラブ)であった。近代経済学の内部では一方に「経済学の危機」を叫ぶ論者がでてくるとともに,他方にはこの危機に対応する試みが生まれた。後者の一つの形態は,サイバネティクス,システム分析,モデル分析である。本稿はこれらの,当時としては目新しかった思考方法とそれにもとづく分析用具を,とくにその社会科学,経済学での利用との関連で,批判的に論ずることを課題に掲げている。この批判的方法は,筆者の見解によれば,サイバネティクス,システム分析,モデル分析そのものの認識方法としての特質を,方法論的原則に照らして(否,それに先立って)抉り出すとともに,こうした変種が生まれ出てこざるをえなかった事情を経済学的基礎にたちかえって検討するものでなければならない。

 サイバネティクス,システム分析は,科学としての未熟さゆえに,あるいはそれ自体としては極めて一般的抽象的な内容のものであるがゆえに,厳密な定義が難しい代物であったようである。その定義は,系の制御にかかわる「情報科学」,相異なる諸系の量的・構造的な類似性を論じる「構造科学」,情報を加工する規制系の質的側面の分析を対象とする「対象科学」,あるいは自然および社会の両方にわたる個々の対象科学の研究領域を横断する「横断科学」と様々であった。筆者によれば,こうした新種の科学はこれらの科学の創設者の思い付きによるのではなく,高度に発達した資本主義における「労働の社会化」の進展,とりわけ情報のシステム化,コンピュータの利用によって拍車がかかった生産の神経系統(通信,伝達,管理の労働手段)の飛躍的発展が背景にあるという。

 サイバネティクス,システム分析の諸手法はその性格において,「構造科学」に特有の汎用性があるゆえに,それらの諸手法と適用効果に種々の誤解や過大評価が生まれる。そのうちの一つはこれらの科学を哲学とみ,その分析方法を科学研究の一般原理にまで高め,これらによって諸科学の統一が達成されるとみる誤解である。また,それらの諸手法の一般性,抽象性は,資本主義と社会主義とを問わず,社会化された管理と計画化を全面的に保証するかのような幻想をもたらす。こうした誤解や幻想は,「構造科学」の研究方法を対象科学のそれにおきかえる,前者の方法への過大評価とその適用限界の逸脱である。それはつとに数理経済学と計量経済学が犯してきた方法論上の誤りであり,これによって近代経済学の現実性喪失と不毛化が生じたのである。同じ誤りが繰り返されていると言わざるをえない。

 筆者は次に,システム分析そのものの性格を,そのいくつかの構成要素とこの手法の手順にのっとって若干の問題点を指摘している。まず,システム分析の構造が示される。この手法の構成要素は,例えば,目的(意思決定者が達成しようとするもの),代替案(目的達成のために期待される諸手段),モデル(問題とされる諸要因の相互関係),費用(奪われた資源),効果(代替案による初期目的の達成度),評価基準(代替案を格付けする基準またはルール)である。
システムにおける意思決定者の目的は,客観的でなくともよいことになっている。これでは,システム分析で最も重要な問題の定式化のプロセスである目的の設定が主観的なものになるのは否めない。システム分析の手順で,あるいは評価の段階で重要な役割を果たす分析用具はモデルであり,モデルには目的達成度の算定という機能がもとめられるので数理解析的手法を用いる解析的モデルや数学的モデルが好んで用いられる。一般にシステム分析でモデルが形成される際には,定量化された関係諸要因の現象的依存関係が連立方程式体系で表現され,そこに含まれる諸要因の相互依存関係をそのまま諸要因間の因果関係とみなす誤認が特徴的である。それとともに,以上のような諸要因=経済変量の現象的相互依存関係の方程式体系による表現が,それらの経済的内実をモデルという暗箱に隠し,真の因果関係の追及を停止または阻止する役割を果たす。定量化された変量の方程式表示こそが厳密な分析のために不可避であるとするのは,明らかに誤解である。

 「成長の限界」論(ローマ・クラブ)に代表される新しい現代社会論は,その理論そのものの限界を,分析手法としてのモデル分析一般の方法論的性格のなかに露呈している。
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山田耕之介「近代経済学批判の方法について-盛田・久保庭両氏の青木昌彦氏批判について-」『経済』1973年12月

2016-10-18 11:19:18 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
山田耕之介「近代経済学批判の方法について-盛田・久保庭両氏の青木昌彦氏批判について-」『経済』1973年12月

 「近代経済学批判」が経済学分野の一つの大きな課題だった時代があった。東洋経済新報社から『講座・近代経済学批判』が出版されていたほどである。時代はすっかり変わってしまい, 現在, 近代経済学批判などをまともに自身の研究課題とし, また自分がしないまでもそのことの重要性を心得, 関心をもっている研究者は「絶滅品種」になりつつある。多くの研究者, グループは, わずかの例外を除くと, それぞれに我が道を行く式で研究しているのが現状で, 研究者, グループでの相互批判はもとより, 異なる経済学の間で相互に理論の哲学的, 方法論的基礎にたちかえって, 批判的研究する風潮は, いまはない。

 この論文が公になったのはちょうど40年前。再読すると, 個々の経済学研究が時代, 社会, 思想を意識し, それらと真摯に向かい合っていた時代背景に思い当たる。

 筆者は, 青木昌彦『組織と計画の経済理論』(1971年, 岩波書店)を批判的にあつかった盛田常夫・久保庭真影「『近代経済学』とシステム分析-青木昌彦氏の所説によせて-」(『経済』1973年7月)の批判の方法について論じている。

 筆者は盛田・久保庭(以下, 評者と略)の青木理論批判を次の点で評価している。すなわち評者は,青木理論が一定の歴史的背景のもとで生まれたことを正確に捉えている点, 危機への近代経済学の一つの対応として生まれてきた「経済技術学」に的確に反応し, 青木昌彦の所説を批判の対象としてとりあげた点を, (青木の所説に対する批判に若干の物足りなさがあるものの)的を射たものとしている。しかし, 評者の批判の姿勢の問題点にも触れている。というよりも, 本稿執筆の狙いは後者にあったことは, 論文の全体を読めば容易に推察できる。

 要約していえば, 評者の青木批判は, 近代経済学の危機の内容と深刻さの認識でオプティミスティックであり, 一面的である。具体的に言うと, 評者は一方で青木理論が新古典派の俗流的な枠をでず, その単なる外延的延長であり, 新古典派的・俗流的計画理論の典型であることに批判の眼目におきながら, 他方でシステム分析による経済学の再構築という, 統一科学を目指す運動が経済学解消につながる要因となる点を等閑視している。せっかくの青木理論批判がこのように不徹底な内容に陥ったのは, 評者が暗黙のうちに近代経済学批判と言えば, 新古典派批判だととりちがえていること, 経済システム理論(分析)の適切な評価に関して積極的な展開がないことによる。筆者は, このことをもって, 評者自身が当時「社会主義国のこうした新しい傾向を代表する経済学の正しさ, それがマルクス経済学の正しい発展であることを確信できないでいるからにほかならない」と断定している。(その後, 盛田は経済システム論を展開したハンガリーのコルナイの経済理論[反均衡の経済学]研究の第一人者になった。)

 思えばこの頃から, 社会主義諸国の経済体制の矛盾が表面化し(矛盾の根源はもっと以前から), これらの国々でシステム論, サイバネティックスなどが高く評価されはじめていた。筆者は, 評者がもっていたかもしれない, それらの議論への憧憬を見抜いていたかのようである。本稿末尾では, 旧社会主義諸国のマルクス経済学者が現状弁護におちいる保守的傾向に流れやすいことを指摘している。システム論, サイバネティックスの展開は, そのような保守的な現状肯定主義が受け皿となっていたのであった。

 本稿は短い論文であるが, 本来のテーマについて遺漏なく論じながら, 近代経済学批判の4つの要件を示し, テーマの枠組みにもしっかりとした目配りがある。近代経済批判とかかわるそれらの要件とは, 批判すべき理論が生まれてきた歴史的背景を明らかにすること, その理論と内容の検討が中心にすえられなければならないこと, その政策的社会的役割を明らかにすること, 科学方法論についての明確な問題意識に立脚しなければならないこと, である。最後の点について, 筆者の文言を引用する, 「近代経済学は, 経験主義哲学のさまざまな科学方法論によってその理論構築をみちびかれている(ので), 現実に経験主義哲学を背景とする多くの科学潮流についてマルクス主義哲学者のあいだに完全な意見の一致がみられない以上, 生きた現実を全面的にとらえ学ぶことによって, そして具体的な近代経済理論を批判し検討することによって, 自分自身の責任において判断する, 真に科学的な姿勢を確立することが緊急の課題である」。繰り返しになるが, 今から40年前の言である。
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是永純弘「『経済学の危機』と近代経済学の方法」『唯物論-科学の前進のために-』(札幌唯物論研究会)20号, 1973年6月

2016-10-18 11:15:40 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
是永純弘「『経済学の危機』と近代経済学の方法」『唯物論-科学の前進のために-』(札幌唯物論研究会)20号, 1973年6月

 この研究ノートが執筆された直前, 世界経済は混迷を極めていた。とりわけ, 戦後の国際経済の枠組みだったIMF体制は危殆に瀕していた。それだけではない。公害, 貧困, 南北問題など大小を問わず, 難問が累積していた。周知のように, この稿が公にされた1973年の暮れには第一石油危機が勃発した。これらの現実に直面して, 近代経済学が抱え込んだ危機感は甚大だった。

 本稿は, これらの現実の諸問題が近代経済学の伝統的な分析方法にどのような変容をせまったのか, 近代経済学がこれらをどこまで意識し, いかに対応したのか, 経済社会問題を解明しえなくなっている現状を, その分析方法, 思想的基盤の必然的帰結として批判的に評価することを課題とした。

 経済学の危機はまず, かれらが価値判断を排除し, 純粋経済学の抽象世界に閉じこもることを許さず, その研究方法論を, 思想的基盤を含めた全体系にわたって再検討することを余儀なくさせた。筆者はこうした一例として, E.H.フエルブス・ブラウンがイギリス王立経済学会会長就任のさいに行った演説(「経済学の後進性」)での指摘をとりあげている。ブラウンはここで経済学の現実からの著しい立ち遅れを克服するために, 研究対象領域を拡張し, その研究方法を本質的に変革しなければならない, と述べた。こうした見解は, ミュルダールの超学的アプローチと共鳴する。またハイルブローナーも論文「新しい政治経済学の可能性」で, もとめられる経済学は「純粋経済学」でも「経済科学」でもなく, 「政治経済学」であるとした。筆者はこれらの見解をもって, 「力学, 自然科学の研究方法の安易な借用をもってむしろその『科学性』をほこってきた誤りの論理的な帰結が, 今になってやっと近代経済学者自身によって, 経済学の危機として自覚されはじめた」, 「これはまたいわゆる分析的方法(仮説―演繹法), とりわけ数学的方法の, 研究対象とは無縁の独走をもって, 経験科学としての経済学の精密化であると誤認し, 『研究のための用具をもとめるのではなく, 逆に用具に合う研究を模索してきた』(ブラウン)近代経済学の当然帰着すべき点であった」と断定している(p.11)。さらに, 筆者はこれらの見解を確認してなお, 近代経済者自身の方法的反省はきわめて不十分としている点が注目される。それ自らの研究方法を貫く思考の思想的基盤と, その研究の具体的方法との関連をたちきり, そうすることで近代経済学の「科学性」を保持できると誤認する見解があとをたたないからである。

 次に筆者は, 近代経済学者の研究方法の変化の一つ(正確には力点の変化), すなわち数学的形式的な一貫性より事実観察を重視するという方法的反省を批判的に検討している。こうした反省は, 先にみたブラウンはもとより, モルゲンシュテルン, W.レオンチェフにも共通している。その共通項を摘出しつつ筆者は, こうした見解にも近代経済学が乗り越えることのできない一線があるという。それは, 彼らのいわゆるデータ, その獲得の手法と利用法, つまり「実証」の特異な意味づけである。具体的には, 彼らのいわゆる実証は, 事実, それも測定という直接経験の結果としてとらえた限りでの個別的な現象の一側面としての「事実」にすぎない。直接可視的でなく, 直接可測的でもない経済学的諸範疇は「実証科学」の外に追放されてしまう。直接経験の対象外に科学の対象をみとめようとしないこの立場は, 近代経済学の伝統的な方法論であり, その思想的基盤は分析哲学のそれ, あるいは「かつて経済学から主観的効用=価値を追放しようとしたV.パレートに対して杉本栄一氏が与えた評価, つまりマッハ主義的経験批判論に立つもの」である(p.17)と筆者は書いている。

批判のトーンは鋭く, 説得的であり, パワーをもった論考である。現在の近代経済学ははたしてどのような志向をもって展開されているのであろうか, 現時点でのその批判的検討があらためて必要である, と痛感させられた。
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