社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

奥村忠雄・多田吉三「外国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年

2016-10-16 11:33:33 | 10.家計調査論
奥村忠雄・多田吉三「外国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年

 家計調査の始まりは,18世紀前後のイギリスからである。17世紀の終わりに政治算術の創始者として知られるW.ペティ(1623­87)は,国富計算のために国民の中位の人々の消費内容を検討した。G.キング(1648­1712)はイングランドの人民の階級区分を行い,階級ごとの世帯の数や消費内容を計量した。この他,D.デフォ(1666­1731),J.マッシー(?­1784),A.ヤング(1741­1820)が「政治算術」的方法で国民の標準的な生活水準を想定した。18世紀の後半には,D.デーヴィスがイングランド,ウェールズ,スコットランドの各教区から137の農業労働者の家計を集めて出版した。デーヴィスが行った調査の方法はE.M.イーデンに受け継がれ,イーデン(1744­1814)は調査対象を農業労働者から一般労働者に拡張した。

 イーデンの死後,労働者家計の実証的調査の舞台は大陸(フランス,ベルギー,ドイツ)に移った。ル・プレイ(1806­82)は1855年,「欧州労働者」(3巻)という労働者の綿密な家庭生活のモノグラフ調査を公にした。この調査は,ル・プレイが1830-48年の間にヨーロッパやアジアの各国で典型的な労働者家計を選定して行った家庭生活の観察調査であった(フランス,イギリス,ロシアなどの36世帯)。ル・プレイの後を継いで,ドイツのG.アルント,フランスのA.ドレール,スイスのG.ランドルトら次々と成果をあげた。

 家計調査発展の契機として忘れることができないのは,第一回国際統計家会議(第一回万国博覧会の影響)で,労働者家計の資料を国際的に収集する提案がなされたことである。デュクプチィヨーはこの提案を受け入れ,調査の計画をベルギー中央統計委員会に提出し,直ちに実行に移した。家計収支の分類方法,生活水準の階層分類の方法を含む家計調査のモデルプランが,この時,承認された。デュクプチィヨーのこの計画に従って,ベルギーの各地から約1000もの労働者家計が収集された。デュクプチィヨーはこれを整理して『ベルギー労働者の家計』(1855年)を発表した。「このデュクプチィヨーの試みた家計調査と家計分析の方法は,調査対象となる世帯の狭隘性,調査期間の短期性,調査結果の編成方法や「生活最小限」による家計データの評価など,今日からみれば未熟な点が多かったが,それにもかかわらず,デュクプチィヨーの先駆的な試みは,まさに近代家計調査の出発点であった」(p.17)。

 ル・プレ,デュクプチィヨーの家計調査に注目したのは,C.エンゲル(1821 ­1896)である。エンゲル自身はオリジナルな家計調査に関わらなかったが,家計研究で大きな足跡を残した。その成果は,『ベルギー労働者家族の生活費』(1895年)である。筆者はエンゲルの家計研究の成果を3点にまとめている。第一は,いわゆるエンゲルの法則の発見である。第二は,ケトを単位とした「エンゲル方式」という生活水準の裁定技術である。第三は,家計支出に作用する種々の要因(収入,物価,職業など)の研究である。エンゲルの法則に触発されて十指にあまる有名な家計法則に関する追試がなされ,また1935年のR.G.D.アレンとA.L.ボーレーの『家計支出論』の出現とともに,エンゲル係数の一般化がエンゲル関数として現代の数理科学的手法で展開されるにいたっている。またエンゲルが考案した消費単位換算の方法は近代家計分析に継承されるとともに,副産物として家族人員修正係数,マルチプル係数を生み出した。エンゲの家計研究はその後の家計分析の礎となった。

 筆者がエンゲルの家計研究とともに評価しているのは,上記のアレンとボーレーの『家計支出論』である。この研究は,以後の家計支出に作用している諸要因の判別分離のための家計調査資料の整備と数理経済学的手法による消費行動の理論への接近,マクロ的な消費関数論とミクロ的需要分析に継承され,家計分析の一般理論を構築したとされる。

 家計調査の国際的基準は,国際統計家会議,ILOなどで検討が継続された。第15回0国際統計家会議(1923年)では,各国の生活費の変動を表す生計費を作成する決議が採択された。また第16回会議(1925年)では生計費指数のウェイトを決定する資料として,一定の期間を定めた標準家計の調査を勧告した。第7回国際労働統計家会議(1949年)は,家計調査の目的,調査組織,製表ならびに結果の分析に関する新しい国際基準を勧告した。さらに,ILOとUNESCOは1953年に,新しい生活水準の定義ならびにその測定方法に関する専門員会を開催した。これらの会議の勧告をもとに,ILOは家計調査の新国際基準の検討を開始した。 第12回国際統計家会議は,1973年にILOの検討結果をもとに家計調査に関する刊行を出している。筆者はその細部にわたる内容と日本の総理府統計局(当時)の対応の可能性に言及している。

 最後に,主要国の家計調査の紹介がある(イギリス,西ドイツ,フランス,ソ連,アメリカ)。以下はそのポイントであるが,本稿が書かれた1980年頃までの状況であることをお断りしておきたい(とくに西ドイツ,ソ連は現在は消滅)。イギリスの家計調査は1957年から継続的に実施されている。製表上の特徴は,世帯の属性による階層区分が豊富なことであり,各種の分布表が充実している。西ドイツの家計調査は1961年の「家計統計法」にもとづいて「経常的家計調査」と「収入・支出標本調査」から成る。フランスでは1956年から全国的規模で家計調査が行われるようになったが,現在のものは「世帯の生活実態調査」で1965年からの実施である。特定の支出項目を詳細に調査する特別調査と家計簿記入による調査と併用される聞き取り調査とがある。ソ連の家計調査は革命後から中央統計局による労働者世帯の家計調査が整備され1939年には家計調査の調査プランが組織的に行われた。1939­51年頃までに,当初のプランにしたがって家計調査の対象は飛躍的に拡大した。筆者は農民とコルホーズ員の調査に特色があると書いている。アメリカの家計調査は経常的に実施されていないが,19世紀の終わりごろからほぼ10年ごとに大規模な調査が実施されている。四半期調査と日計調査とに分かれる。


奥村忠雄・多田吉三「わが国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年

2016-10-16 11:31:58 | 10.家計調査論
奥村忠雄・多田吉三「わが国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年

 「家計調査前史」「家計調査の成立」「家計調査の発展」「戦後の家計調査」の順で,日本の家計調査の歴史をコンパクトにまとめている。

 「家計調査前史」では,農商務大輔品川弥二郎が明治16年5月に当時の知事に対して下した「士族生計費一件」,農商務省大書記官前田正名が「人民平均生活の費用」を基礎として行った「人民の生活費」の推計(政治算術),他に財政の基礎資料を得るために行われた農民担税力調査がまず紹介されている。また,明治中期には進歩的な新聞記者による探訪的調査があり,これらは農村を追われて都市の貧民窟に滞留していた「働く貧民」の生計費事例調査のはしりであった。鈴木梅四郎の「大阪名護町貧民社会の実況紀略」(1888年[明治21年]),桜田文吾の「貧天地飢寒窟探検紀」(1890年[明治23年]),松原岩五郎の「最暗黒の東京」(1890年[明治23年]),横山源之助の「日本の下層社会」(1898年[明治31年])がそれである。これらの事例研究の伝統は,農商務省工場調査掛の「職工事情」(5巻,1903年[明治36年])にひきつがれた。

 大正期に入って資本主義経済の本格的展開とともに,労働者家計への関心が高まり社会政策学会でも生計費問題が俎上にあがった。学会の第六回大会(大正元年)では農商務省工務局長・岡実が講演資料として「職工の生計状態」を提出した。これは統計の形をとった日本の最初の家計資料であった。しかし,その内容は当時の物価騰貴が「職工社会」にそれほど大きな影響を与えていないとする反動的なものであった。

 「家計調査の成立」では,高野岩三郎が友愛会の協力を得て,大正5年に行った家計調査(「東京に於ける二十職工家計調査」)をもって,家計簿法による最初の家計調査だった,としている。この高野の指導による調査は,櫛田民蔵が1917年(大正6年)に実施した「大阪における窮民の家計調査」に応用された。他に,1919年(大正8年)に「月島労働者家計調査」「小学校教員家計調査」が,高野の助手権田保之助によって行われた。この頃,家計調査は種々あちこちで実施され,権田がこの事情を指して「家計調査狂時代」と呼んだほどの盛況ぶりであった。しかし,この盛況ぶりには,社会問題の真の解決を回避する鎮静剤的作用があったことを忘れてはならない。筆者はこの点について,「まさに,この時代の生活問題に対応する社会的政策は,家計調査をはじめとする各種の調査期間の設立や,社会事業的救済をはかるための時間的ひきのばしによる問題解決の方法がとられたのである」(p.62)と指摘している。この大々的な家計調査は大正末年に,内閣統計局が全国統一的家計調査を企画するに及んで,消滅してしまった。内閣統計局によるこの調査は調査の規模,調査期間の長さでも,前代未聞の事業であり,労働者を中心とする対象者(11824世帯の応募,7856世帯を抽出)の生活実態を実証的に抉り出したものと評価されている。現在の総務省統計局の家計調査の原型を示すものであった。

 その後,内閣統計局の家計調査は,1931年(昭和6年)から1942年(昭和17年)9月まで,継続して実施された。目的は直接的には米穀法制定にもとづいて,「家計米価」の決定(実際には最高米価)のための基礎資料を得ることにあった。しかし,昭和のこの時期は恐慌期にあたり,農村の不況のために米価が農家の生産費を割ることが社会問題化し,最高米価よりむしろ最小米価を米穀法によって公示することが喫緊の課題であった。そのため第二次世界大戦にいたる内閣統計局の10年ほどの家計調査は,米穀法によるというより,労働者や給料生活者に対する社会政策上の要請のもとに実施された。さらに,この調査は生計費指数との関連でも重要であった。戦前には,朝日新聞社が1931年(昭和6年)から,内閣統計局が1937年(昭和12年)から生計費指数の作成を開始したが,これらはいずれも内閣統計局の家計調査の結果資料を活用した。「家計調査の発展」期として位置づけられるこの時期に実施された家計調査は,単なる「鎮静剤」的役割から,「政策的」利用へと活路を変えた。

 戦後の「家計調査」は,1946年(昭和21年)4月,物価庁が行った「都市家計調査」で復活した。次いで同年7月からGHQの指令により「消費者価格調査」が総理府統計局によって始められた。目的は,当時の緊急物価対策のための基礎資料,消費者価格指数の算定資料の入手であった。全国の人口5万人以上の都市を対象に,これをまず①地理的位置,②人口の大小,③工業化率,④人口密度,⑤人口移動率,⑥戦災程度の大小によって28の層に分けたうえで抽出する標本調査の方式がとられた。「消費者価格調査」は消費支出調査の代役を務めたが,収入に関する調査項目がなかったので,しばらく勤労者世帯収入調査と並行実施された(1950年[昭和25年]まで)。「消費者価格調査」はその後,家計調査と小売価格調査とに発展的に継承され,消費者物価指数は後者で調査された小売価格が基礎資料とされるようになる。戦争直後の社会的混乱期には,諸官庁,企業,労働組合,研究所によってさまざまな家計調査が行われ,さながら戦前の「家計調査狂時代」の再来の感を呈したが,総理府統計局の家計調査が充実するにつれ下火になった。総理府統計局の家計調査以外では,関連した調査として要保護者に対する家計調査が昭和30年中頃まで続いた。

 最後に,家計調査の実施要領(1962年[昭和37年]7月改訂),この家計調査と併行して実施された全国消費者実態調査(用途別分類)[1950年(昭和25年)9月から],家計調査で除外された世帯を対象とした「農家生計費調査」が紹介されている。

奥村忠雄・多田吉三「わが国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年

2016-10-16 11:31:58 | 10.家計調査論
奥村忠雄・多田吉三「わが国における家計調査の歴史」『家計調査の方法』光生館,1981年

 「家計調査前史」「家計調査の成立」「家計調査の発展」「戦後の家計調査」の順で,日本の家計調査の歴史をコンパクトにまとめている。

 「家計調査前史」では,農商務大輔品川弥二郎が明治16年5月に当時の知事に対して下した「士族生計費一件」,農商務省大書記官前田正名が「人民平均生活の費用」を基礎として行った「人民の生活費」の推計(政治算術),他に財政の基礎資料を得るために行われた農民担税力調査がまず紹介されている。また,明治中期には進歩的な新聞記者による探訪的調査があり,これらは農村を追われて都市の貧民窟に滞留していた「働く貧民」の生計費事例調査のはしりであった。鈴木梅四郎の「大阪名護町貧民社会の実況紀略」(1888年[明治21年]),桜田文吾の「貧天地飢寒窟探検紀」(1890年[明治23年]),松原岩五郎の「最暗黒の東京」(1890年[明治23年]),横山源之助の「日本の下層社会」(1898年[明治31年])がそれである。これらの事例研究の伝統は,農商務省工場調査掛の「職工事情」(5巻,1903年[明治36年])にひきつがれた。

 大正期に入って資本主義経済の本格的展開とともに,労働者家計への関心が高まり社会政策学会でも生計費問題が俎上にあがった。学会の第六回大会(大正元年)では農商務省工務局長・岡実が講演資料として「職工の生計状態」を提出した。これは統計の形をとった日本の最初の家計資料であった。しかし,その内容は当時の物価騰貴が「職工社会」にそれほど大きな影響を与えていないとする反動的なものであった。

 「家計調査の成立」では,高野岩三郎が友愛会の協力を得て,大正5年に行った家計調査(「東京に於ける二十職工家計調査」)をもって,家計簿法による最初の家計調査だった,としている。この高野の指導による調査は,櫛田民蔵が1917年(大正6年)に実施した「大阪における窮民の家計調査」に応用された。他に,1919年(大正8年)に「月島労働者家計調査」「小学校教員家計調査」が,高野の助手権田保之助によって行われた。この頃,家計調査は種々あちこちで実施され,権田がこの事情を指して「家計調査狂時代」と呼んだほどの盛況ぶりであった。しかし,この盛況ぶりには,社会問題の真の解決を回避する鎮静剤的作用があったことを忘れてはならない。筆者はこの点について,「まさに,この時代の生活問題に対応する社会的政策は,家計調査をはじめとする各種の調査期間の設立や,社会事業的救済をはかるための時間的ひきのばしによる問題解決の方法がとられたのである」(p.62)と指摘している。この大々的な家計調査は大正末年に,内閣統計局が全国統一的家計調査を企画するに及んで,消滅してしまった。内閣統計局によるこの調査は調査の規模,調査期間の長さでも,前代未聞の事業であり,労働者を中心とする対象者(11824世帯の応募,7856世帯を抽出)の生活実態を実証的に抉り出したものと評価されている。現在の総務省統計局の家計調査の原型を示すものであった。

 その後,内閣統計局の家計調査は,1931年(昭和6年)から1942年(昭和17年)9月まで,継続して実施された。目的は直接的には米穀法制定にもとづいて,「家計米価」の決定(実際には最高米価)のための基礎資料を得ることにあった。しかし,昭和のこの時期は恐慌期にあたり,農村の不況のために米価が農家の生産費を割ることが社会問題化し,最高米価よりむしろ最小米価を米穀法によって公示することが喫緊の課題であった。そのため第二次世界大戦にいたる内閣統計局の10年ほどの家計調査は,米穀法によるというより,労働者や給料生活者に対する社会政策上の要請のもとに実施された。さらに,この調査は生計費指数との関連でも重要であった。戦前には,朝日新聞社が1931年(昭和6年)から,内閣統計局が1937年(昭和12年)から生計費指数の作成を開始したが,これらはいずれも内閣統計局の家計調査の結果資料を活用した。「家計調査の発展」期として位置づけられるこの時期に実施された家計調査は,単なる「鎮静剤」的役割から,「政策的」利用へと活路を変えた。

 戦後の「家計調査」は,1946年(昭和21年)4月,物価庁が行った「都市家計調査」で復活した。次いで同年7月からGHQの指令により「消費者価格調査」が総理府統計局によって始められた。目的は,当時の緊急物価対策のための基礎資料,消費者価格指数の算定資料の入手であった。全国の人口5万人以上の都市を対象に,これをまず①地理的位置,②人口の大小,③工業化率,④人口密度,⑤人口移動率,⑥戦災程度の大小によって28の層に分けたうえで抽出する標本調査の方式がとられた。「消費者価格調査」は消費支出調査の代役を務めたが,収入に関する調査項目がなかったので,しばらく勤労者世帯収入調査と並行実施された(1950年[昭和25年]まで)。「消費者価格調査」はその後,家計調査と小売価格調査とに発展的に継承され,消費者物価指数は後者で調査された小売価格が基礎資料とされるようになる。戦争直後の社会的混乱期には,諸官庁,企業,労働組合,研究所によってさまざまな家計調査が行われ,さながら戦前の「家計調査狂時代」の再来の感を呈したが,総理府統計局の家計調査が充実するにつれ下火になった。総理府統計局の家計調査以外では,関連した調査として要保護者に対する家計調査が昭和30年中頃まで続いた。

 最後に,家計調査の実施要領(1962年[昭和37年]7月改訂),この家計調査と併行して実施された全国消費者実態調査(用途別分類)[1950年(昭和25年)9月から],家計調査で除外された世帯を対象とした「農家生計費調査」が紹介されている。

岸啓二郎「家計調査の発展-戦前期の日本を中心として-」『統計学』第37号,1979年9月

2016-10-16 11:30:35 | 10.家計調査論
岸啓二郎「家計調査の発展-戦前期の日本を中心として-」『統計学』(経済統計研究会)第37号,1979年9月

 標題は戦前期の家計調査となっているが,明治の貧民調査まで遡っている。家計調査の系譜はそこから始まるというわけである。本稿では救貧対策,治安対策などの目的で実施された明治期の調査から大正期の本格的な家計調査,昭和期のそれへと展開されていく様子が論じられている。
明治期のその種の調査は,鈴木梅四郎「大阪名護町貧民窟視察記」(1888年[明治21年]),横山源之助「日本の下層社会」(1898年[明治31年])である。これらは日本資本主義の発展過程で農村から出て都市雑業層に滞留した人々のルポルタージュ的生活調査であった。明治23年以降,警察署が実施した貧民調査も,明治30年代の内務省,農商省通達によって行われた調査も同種のものであった。国家による都市下層社会の調査は,1911年(明治44年)と1912年(明治45年)の内務省地方局の「細民調査」である。前者は調査方法が不明であるため,筆者は後者の内容をかいつまんで紹介している。調査対象は細民に属する者,主として雑業または車力その他の下級労働に従事する者,一か月の家賃が3円以内の家屋に居住する者,所帯主の職業上の収入が月額20円以内の者などの条件に該当する者であった。調査方法は,他計式の聞き取り調査,調査事項は職業,月収,教育程度,宗旨,嗜好,住居の構造などであった。生活費に関する調査事項は,関心の対象外におかれていた。

 生計費問題の資料作成のために行われた調査は,1916年(大正8年)5月の「東京に於ける二十職工家計調査」が最初である。高野岩三郎の指導によるもので,諸外国の経験に学びながらも実現可能な形の小規模な調査であった。調査区域は東京,調査対象は労働者,世帯構成は夫婦と子供で構成される親族的世帯,調査期間は一か月,家計簿式調査での典型調査で,調査事項は所帯全員の姓名,続柄,体性,年齢,配偶関係,職業,収入と支出であった。大正期の家計調査は,この調査を皮切りに「家計調査狂時代」という言葉も現れるほどの勢いで実施された。大正期のこの種の調査の特徴は,調査対象が労働者世帯中心となったこと,調査事項が家計の収支中心となり,賃金統計と不可分のものと位置づけられたこと,調査方法として家計簿式が定着したことである。調査期間も長期化し(一年),家計収支の項目分類が整理され,調査主体は中央官庁だけでなく,地方官庁,労働団体など多様化した。

 筆者は続いて,昭和期の家計調査,すなわち内閣府統計局による「第一次家計調査」(大正15年9月から昭和2年8月実施),「第二次家計調査」(昭和6年~15年)を紹介している。前者は大正13年実施予定であったのが関東大震災で順延となった調査で,内容的には「東京に於ける二十職工家計調査」とその後10年間の調査を集大成する性格をもっていた。調査対象は全国主要都市の工場労働者,給料生活者,交通労働者・日雇労働者,鉱山労働者,農業者などで,世帯の月収総額200円以下(農業世帯は耕地面積二町以下)の典型的な世帯で,家計簿記入者が募集され,そのなかから長期の協力が可能で,調査目的に適格と認められたものが抽出された。応募者11824世帯から7856世帯が選定され,83%の6506世帯の協力が得られたという。

 「第二次家計調査」は1931年(昭和6年)の米穀法改正にともない米の最高価格決定の資料として毎年実施されることになり,昭和6年から15年まで行われた。調査対象は家計米価との関連で給料生活者,工場・交通労働者を世帯とする白米を主食とした月収50円~100円の世帯という条件で抽出された。その他の調査方法などは,おおむね「第一次家計調査」と同じであった。「第二次家計調査」の特徴は,調査目的が労働問題対策の基礎資料の作成であったことの他に,最高米価決定の資料獲得,生計費指数のウェイト資料作成と多様化したことにあった。

 当時,統計局は1925年のILO第2回国際労働統計家会議の「生計費指数に関する決議」に促され,1937年(昭和12年)5月の「生計費指数基礎資料実地調査令」にもとづき「生計費指数」作成を企画していて,同年7月から毎月1回生計費指数構成項目について価格資料実地調査を行うことになった。「第二回家計調査」は,そのことをも念頭に入れて実施された。こうした事実は,当時の生計費指数が労働者に対する政策と不可分の関係で作成されていたことを教えている。

岸啓二郎「家計調査の国際基準-ILO国際労働統計家会議における論議-」『研究所報』No.21977年3月

2016-10-16 11:20:00 | 10.家計調査論
岸啓二郎「家計調査の国際基準-ILO国際労働統計家会議における論議-」『研究所報』No.2(法政大学・日本統計研究所)1977年3月

 国際労働機関(ILO)に所属する国際労働統計家会議は,その創立当初から労働統計全般にわたって議論を重ねてきた。家計調査に関しても,何度かメインテーマになっている。本稿はその議論の変遷をまとめたものである。

 家計調査が主題となった会議は,第3回国際労働統計家会議が最初である。この会議は1926年10月18日から23日まで,ジュネーブで開催された。主要な議題は,(1)家計調査,(2)労働協約統計,(3)労働争議統計,(4)産業分類であった。この会議に先立って,前年4月に開催された第2回会議で家計調査を行っていない国へ調査を実施するように勧告する決議があり,これを受けての第3回会議であった。

 次に家計調査がメインテーマになったのは,第7回国際労働統計家会議(1949年)である。議題となったのは「家計研究の方法」で,このテーマとともに「国際標準職業分類」「賃金統計」「労働生産性統計」も取り上げられた。

 その後,家計調査に関する諸問題が議題となったのは,1973年10月16日から26日までの会期で開1催された第12回国際労働統計家会議である。議題は「労働統計に関する一般的検討」「賃金および雇用者所得統計」「家計調査の範囲,方法,利用」であった。

 筆者は以上の3つの大きな国際労働統計家会議の内容を,順を追って解説している。その際,会議の前に配布された決議草案を含むレポート,会議の最終報告を利用している。

 第3回国際労働統計家会議では,事前に『家計調査の実施方法』が加盟各国に配布されていた。そこでは家計調査の目的が,生活水準に関する詳細な情報を得るためと生計費指数算定のウェイトを得ることの,2点があることが指摘されていた。調査対象は曖昧であったが,それは人口を大きく等質区分した各部分の代表的世帯としている。想定されていたのは,都市の賃金労働者,サラリーマン,公務員の世帯であったようである。対象を階層別に分類することの重要性についての言及もある。調査対象に,失業世帯を加えるかどうか,世帯の家族構成に限定を加えるべきかについても議論された。調査方法に関して,センサスは無理なので種々考えられたが,継続審議になった。また調査を家計簿によるか,面接方法によるかも話題になった。他に,調査期間,収入と支出の範囲に関わる諸問題が取り上げられた。会議の審議内容には,この頃までの各国での家計調査の経験を交流しあうという気運が強く,ひとつの方向に事柄を収斂させる空気はなかった形跡がみられる。そのためか,決議は4項目しかない。

 第7回国際労働統計家会議では,家計調査全般にわたるかなり詳細な指針が出された。大きな特徴は,家計研究が人口の重要部分の全て,具体的には各種の社会的経済的階層,各種の収入階層,各種の人種的民族的集団,都市および農村部分,各種の世帯または家族にまで広げられたことである。調査目的は(1)小売物価指数の作成基準として用いられる支出の型と,(2)その収入,支出および貯蓄の分析を行うことをできるような資料を含め,生活水準に関する十分な資料を得ることとされ,第3回会議のそれと位置づけが逆になった。対象が拡大されたので,人口の各階層間の生活水準の比較という視点がより明確になっている。特別な人口階層に属する世帯(失業世帯,移民または外国人労働者世帯,鉱夫世帯など)の生活状態に関し,特別調査を行うことの必要性が特記されているのも注目点である。
調査方法ではランダムサンプリングの有用性が事務局から問題提起され,これを巡ってかなり激しい対立があった。結果として決議では,事務局の専門家を中心とするランダムサンプリングの家計調査への全面的導入という考え方が,各国の反対論によって,後退した表現になった。調査を家計簿方式で行うか,対面方式で行うかについても,依然として一つの方向に落着させるのは無理であったようで,継続審議になった。世帯の収入および支出の範囲と分類とについては多くの議論がなされた。なかでも重要だったのは,農家世帯での自家生産物の自家消費の問題で(調査対象が全人口に拡大されたことにより),その区別ができるような努力を払うべきと強調された。第3回会議では簡単にしか触れられなかった収入と支出の分類に関して,第7回会議では細かな分類がなされた。その一覧表が本稿に掲載されている(pp.67-8)。

 第12回国際労働統計家会議に先立って,「家計調査の範囲,方法,利用に関する専門家会議」がジュネーブ開かれ,この会議が戦後のこの分野の動きの一つの大きな転換点になった。会議の前に事務局がレポートを纏め,決議案とともに資料として配布された。その内容は,家計調査を国民経済計算(SNAあるいはMPS)に対応できるものに方向づけるというものであった。この方向は,各国ですでに行われていた国民所得の推計,マクロ経済分析に適合した形での家計調査の再編を追認するものであった。本稿には,具体的な収入・支出項目について,ILOの分類提案とSNAのそれとの対照表が付されている(pp.73-8)。これを仔細にながめると,必ずしも一致しない部分が多々ある。その理由は,一方では前者がマクロ的な利用だけでなく,ミクロ的な分析も可能なように分類がなされなければならないからであり,他方では発展途上国にはSNAの分類が実際の統計の利用に適合しにくいこと,さらに調査の実施にあたってSNAの分類がもとめる資料の獲得が難しいからである。