日本・イラン友好関係発展を
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」323/通算754 2024(令和6)年8/16/金】夕べから台風、今朝も雨。それでもスズメに餌を与えなければならないが、帽子をかぶって庭に出たとたん急にドシャ降りに。ビショビショになってしまい、「天は我を見放したか!」と不愉快になったが、着替えをしたらシャワーを浴びた気分でさっぱりした。「涼しいからま、いいか、スズメもうれしそうだし・・・」、明日は止むだろう。
それにしても世界はきな臭く、一触即発の感。BBC2024/8/14「イラン、自制求める西側の働きかけを拒絶 イスラエルへの報復攻撃めぐり」はこう報じていた。
《イスラム組織ハマスの指導者イスマイル・ハニヤ氏がイランの首都テヘランで殺害されたことをめぐり、イスラエルへの報復を宣言するイランに対し西側諸国が自制を呼びかけるなか、イランは13日、そうした求めを拒んだ。イランの国営通信(IRNA)は13日朝、イランのマスード・ペゼシュキアン大統領がイギリスのキア・スターマー首相との電話で、「侵略者に対する懲罰的な対応は国家の法的権利であり、犯罪と侵略を阻止する方法だと強調した」と伝えた》
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浜の真砂は尽きるとも世に戦争の種は尽きまじ・・・日本では「パーレビ国王」と呼ばれたモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー国王時代(1979/2/11まで)のイランは、サンフランシスコ講和条約が調印された後の1953年に日本と国交を回復し、「正式な国交を樹立したばかりの日本とイランの二国関係は極めて良好なものだった。石油の輸出入を筆頭に経済関係が深まっただけでなく、両国の皇族がお互いに公式訪問もしている」(WIKI)
日本外務省の「各国基礎データ」によると日本とイランは《1929年8月、在イラン日本公使館開設(外交関係樹立)。1930年7月、在日イラン公使館開設。1942年4月、第二次世界大戦の影響を受けて、外交関係断絶。1953年11月、外交関係再開。1955年2月、在イラン日本大使館に昇格》
イランは昔は「ペルシャ」といっていたが、イランを表すヨーロッパ側の古名だという。略史によると「アケネス朝ペルシャ:紀元前5世紀」、「ササン朝ペルシャ:紀元3世紀」の時代には大版図を築いたそうだ。1925年にパフラヴィー(パーレビ)朝が成立。日本と国交回復後の1958年5月、パーレビ国王が訪日、1960年11月に皇太子同妃殿下がイランを訪問。また、1978年9月、福田赳夫総理がイランを訪問するなど活発な交流を行ったという。
パーレビ国王はイスラム教シーア派ではあったが、宗教よりも米英日など国際社会の協力を得ての「国力増強、経済発展」を最優先したようだ。1960年代より、秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まるなど権威主義体制を敷く一方、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる「開発独裁体制」を確立した。
また、改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はイスラム法学者などの猛烈な反発を招いた。
例えば1962年10月6日に、地方選挙において選挙権と被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハイ教徒などにも市民権への道を開こうとした時にはシーア派保守派の猛烈な抵抗にあい、1979年にはホメイニ師の指導したイスラム革命によりパーレビ国王は失脚、イランは消滅して「イラン・イスラム共和国 Islamic Republic of Iran」が成立した。
日本外務省によると日本とイラン・イスラム共和国との二国間関係は概ね安定している。
(1)1977年1月、在ホラムシャハル日本国総領事館を開設したが、1981年にイラン・イラク戦争のため一時閉鎖、その後1997年4月に正式に閉鎖。
(3)1979年のイスラム革命により現体制が成立して以降も、日本はイランとの伝統的友好関係に基づき、二国間関係を拡大していった。2000年10月末には、ハタミ大統領が訪日した。2019年6月には、日本の首相として41年ぶりに安倍晋三総理がイランを訪問した。2019年12月にはローハニ大統領がイランの大統領として19年ぶりに訪日した。
(4)岸田政権下では、複数回首脳会談(電話会談含)を実施し、伝統的友好関係の発展や中東地域における緊張緩和及び情勢の安定化に向けた粘り強い外交努力を行うとともに、伝統的友好関係の発展に関しても意見交換を行っている。
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イスラム教の中でも「シーア派」のイランは特殊な存在で、ガチガチのスンニ派イスラム教国から見れば「異端」である。この7月のイラン大統領戦では改革派のペゼシュキアン氏が当選し、対米関係改善目指すというが・・・日本&イランの友好関係のさらなる発展に期待したい。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>
必殺クロスカウンター https://www.mag2.com/m/0001690154.html
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“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」323/通算754 2024(令和6)年8/16/金】夕べから台風、今朝も雨。それでもスズメに餌を与えなければならないが、帽子をかぶって庭に出たとたん急にドシャ降りに。ビショビショになってしまい、「天は我を見放したか!」と不愉快になったが、着替えをしたらシャワーを浴びた気分でさっぱりした。「涼しいからま、いいか、スズメもうれしそうだし・・・」、明日は止むだろう。
それにしても世界はきな臭く、一触即発の感。BBC2024/8/14「イラン、自制求める西側の働きかけを拒絶 イスラエルへの報復攻撃めぐり」はこう報じていた。
《イスラム組織ハマスの指導者イスマイル・ハニヤ氏がイランの首都テヘランで殺害されたことをめぐり、イスラエルへの報復を宣言するイランに対し西側諸国が自制を呼びかけるなか、イランは13日、そうした求めを拒んだ。イランの国営通信(IRNA)は13日朝、イランのマスード・ペゼシュキアン大統領がイギリスのキア・スターマー首相との電話で、「侵略者に対する懲罰的な対応は国家の法的権利であり、犯罪と侵略を阻止する方法だと強調した」と伝えた》
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浜の真砂は尽きるとも世に戦争の種は尽きまじ・・・日本では「パーレビ国王」と呼ばれたモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー国王時代(1979/2/11まで)のイランは、サンフランシスコ講和条約が調印された後の1953年に日本と国交を回復し、「正式な国交を樹立したばかりの日本とイランの二国関係は極めて良好なものだった。石油の輸出入を筆頭に経済関係が深まっただけでなく、両国の皇族がお互いに公式訪問もしている」(WIKI)
日本外務省の「各国基礎データ」によると日本とイランは《1929年8月、在イラン日本公使館開設(外交関係樹立)。1930年7月、在日イラン公使館開設。1942年4月、第二次世界大戦の影響を受けて、外交関係断絶。1953年11月、外交関係再開。1955年2月、在イラン日本大使館に昇格》
イランは昔は「ペルシャ」といっていたが、イランを表すヨーロッパ側の古名だという。略史によると「アケネス朝ペルシャ:紀元前5世紀」、「ササン朝ペルシャ:紀元3世紀」の時代には大版図を築いたそうだ。1925年にパフラヴィー(パーレビ)朝が成立。日本と国交回復後の1958年5月、パーレビ国王が訪日、1960年11月に皇太子同妃殿下がイランを訪問。また、1978年9月、福田赳夫総理がイランを訪問するなど活発な交流を行ったという。
パーレビ国王はイスラム教シーア派ではあったが、宗教よりも米英日など国際社会の協力を得ての「国力増強、経済発展」を最優先したようだ。1960年代より、秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まるなど権威主義体制を敷く一方、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる「開発独裁体制」を確立した。
また、改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はイスラム法学者などの猛烈な反発を招いた。
例えば1962年10月6日に、地方選挙において選挙権と被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハイ教徒などにも市民権への道を開こうとした時にはシーア派保守派の猛烈な抵抗にあい、1979年にはホメイニ師の指導したイスラム革命によりパーレビ国王は失脚、イランは消滅して「イラン・イスラム共和国 Islamic Republic of Iran」が成立した。
日本外務省によると日本とイラン・イスラム共和国との二国間関係は概ね安定している。
(1)1977年1月、在ホラムシャハル日本国総領事館を開設したが、1981年にイラン・イラク戦争のため一時閉鎖、その後1997年4月に正式に閉鎖。
(3)1979年のイスラム革命により現体制が成立して以降も、日本はイランとの伝統的友好関係に基づき、二国間関係を拡大していった。2000年10月末には、ハタミ大統領が訪日した。2019年6月には、日本の首相として41年ぶりに安倍晋三総理がイランを訪問した。2019年12月にはローハニ大統領がイランの大統領として19年ぶりに訪日した。
(4)岸田政権下では、複数回首脳会談(電話会談含)を実施し、伝統的友好関係の発展や中東地域における緊張緩和及び情勢の安定化に向けた粘り強い外交努力を行うとともに、伝統的友好関係の発展に関しても意見交換を行っている。
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イスラム教の中でも「シーア派」のイランは特殊な存在で、ガチガチのスンニ派イスラム教国から見れば「異端」である。この7月のイラン大統領戦では改革派のペゼシュキアン氏が当選し、対米関係改善目指すというが・・・日本&イランの友好関係のさらなる発展に期待したい。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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