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雀庵の「常在戦場/87 キリスト教 vs イスラム教/続」

2021-09-23 12:59:00 | 日記
雀庵の「常在戦場/87 キリスト教 vs イスラム教/続」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/367(2021/9/23/木】彼岸で墓参。カミサンは奄美へ飛び、「多分、島に帰るのはこれが最後になりそう。コロナ禍でよそ者は黴菌扱いだから、実家に籠っているしかないわ・・・」とちょっと寂し気。


止まない雨はない、疫病もそのうち特効薬が開発されるだろう、今は耐えるしかないと淡々と暮らす人は日本では多数派のようだが、世界を見渡せば「もうウンザリだ! 俺は俺の道を行く」という人も結構いるようだ。


人生いろいろ、それは歴史、思想、宗教、学問、身分、貧富、民族性などによるのだろうが、千年二千年とかの長い時間の中で培われてきたものだから、それを変えることは難しいし、無理を通せばろくなことにはならない。特に外交では距離をもって付き合うのがいいのだろうが、現実には対立、敵対、紛争、戦争だらけ。人類の性か。


前回に続き、ハッジ・アハマド・鈴木氏の「イスラームの常識がわかる小事典」を元にした架空インタビューから学んでいこう。
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――イスラーム国と言うとオスマントルコを思い出しますが、今は「オスマン帝国」と呼ぶようになりました。建国が1299年で、帝制が廃止された1922年まで、600年以上も続いた大帝国ですね。「世界史の窓」によると、


<14~20世紀初頭まで存在したイスラム教スンナ派の大帝国。小アジアからバルカン半島、地中海にも進出、君主であるスルタンが教主カリフの地位を兼ねる体制をとり、イスラーム教世界の盟主として16世紀に全盛期を迎え(対立する)ヨーロッパ=キリスト教世界に大きな脅威を与えた。


17世紀末から(逆に)ヨーロッパ諸国の侵攻を受け、またアラブ諸民族の自立などによって領土を縮小させ、次第に衰退。19世紀、近代化をめざす改革に失敗、第一次世界大戦でドイツと結んだが敗れ、1922年に滅亡した>


「オスマン帝国はトルコ系オスマン族の建てた国。1453年にビザンツ帝国(ローマ帝国末期の呼称、キリスト教系のギリシア正教)の首都コンスタンティノープルを制圧、イスタンブールと改名したのを皮切りに、イランから北アフリカ沿岸を含む広大な地に君臨した。


中でも1520年に即位したスレイマン1世は黄金時代を築き、ヨーロッパ制覇に乗り出してベオグラードを陥落させ、ウィーンまで到達している」


――イスラームは欧州のキリスト教に押されるばかりではなく、積極的に攻める、版図もしているわけですね。いつ頃から始まったのですか。


「711年のスペイン(イベリア半島)征服から始まった。ターリク隊長がジャバルという地に第一歩を記したから、その海峡をジャバルターリク『ジブラルタル』と呼ぶようになった。732年にはピレネー山脈を越えてフランスのボルドーに達している。


スペインは『レコンキスタ(再征服、国土回復運動)』と呼ぶキリスト教徒の反撃で奪回されるまで、800年もイスラーム圏だった。


イベリア半島からムスリム(イスラーム信徒)が完全に姿を消したのは1492年のグラナダ陥落からで、勢いを増したキリスト教徒の進撃はその頃から始まる。これがスペインとポルトガルによる「大航海時代」へと続き、征服者たちは新大陸の先住民を徹底的に抹殺し、インカ帝国(ペルー)やアステカ帝国(メキシコ)を亡ぼした。


イスラーム勢と西欧との重要な対決は1571年の『レバンテの海戦』で、オスマン帝国海軍がスペインの無敵艦隊に破れてからイスラームの地中海覇権は終わりをつげ、以後、オスマン帝国は凋落の道を辿って1922年に滅亡した」


――“レコンキスタ”によるオスマン帝国の滅亡と、その後の「トルコ共和国」の誕生は、イスラームがキリスト教国に完全に屈服させられた印象を受けます。1924年にはカリフ制(宗教指導者による政治)を廃して政教分離を実現し、トルコ共和国憲法を制定、主権在民、一院制の議会制度、大統領制などを規定した。


これらの“世俗主義政策”によってイスラーム教による宗教的政治から脱し、トルコは表向きには西洋キリスト教国風の「近代国家」として自立したわけですが、基本的にキリスト教国からなるEU加盟交渉は停滞気味であり、また軍事同盟NATOからの脱退も噂されており、未だに揺れ動いている印象があります。


「近代は、ヨーロッパ勢による大規模な侵攻がアジア、アフリカ、アメリカ大陸へと展開された時代だった。その根底には西欧型文明を最善とするキリスト教至上主義があり、他の文明を否定する傾向が強かった。


中東においてはオスマン帝国の領土は植民地化により欧州諸国に侵食され、支配下に置かれていった。特に第一次世界大戦がその動きに拍車をかけ、例えば英国将校の“アラビアのローレンス”の任務に見られるように、オスマン帝国の領土を奪いアラブ諸民族に与えるという名目で、それらの地域を欧州列強の支配下に置くというものだった。


トルコ共和国は近代化のために“脱イスラム、入ヨーロッパ”で西欧との一体化を目指した。“過去清算”のためにアラビア文字をローマ字表記に変え、暦をビジュラ暦からグレゴリア暦に改め、法律制度にスイス法を導入した。これらは初代大統領の名をとって“ケマル主義”と呼ばれ、エリート層の基本的な考え方になっている。


しかしトルコ国民の大部分はムスリムであり、その西欧化が果たして正しい選択であったのか、100年を経た現在でもその評価は定まっていないようだ」


――トルコのエルドアン大統領は、トルコも一員であるNATO≒キリスト教国と反NATOのイスラーム教国やロシアの間の橋渡し役として存在感を高めているようです。


<現状でアフガニスタンのタリバンと交渉可能な国は、ムスリムが多数で外交上のつながりが深いパキスタン、カタール、トルコの3カ国に限定されている。トルコはパキスタン、カタールとの関係も良好であり、国際社会とタリバンの間の仲介を行なえる可能性のあるアクターとしてその存在感は増している>(Wedge 9/15)。


第2次大戦後に実に多くのイスラーム系植民地が独立しましたが、イスラーム教国の復興という面でトルコ、あるいはエルドアンはリーダーシップを取るのではないかと思いますが。


「第2次大戦後に多くの植民地が独立してイスラーム教国になった。例えばアルジェリアがフランスから独立を勝ち取ったのは1962年。アラブ首長国連邦、カタール、バーレーンなどの湾岸諸国が英国から独立したのは1971年。今日のイスラーム諸国のほとんどが新興の独立国だ。


つまり独立の歴史が浅い上に、異なった民族、宗教、慣習が絡み合い、そこにエネルギー資源の争奪戦も加わり、不安定な構造になっている。これに追い打ちをかけ、中東地域に衝撃を与えたのがユダヤ人によるイスラエルの建国だった」


――イスラエルは1948年5月に独立宣言、それ以後はイスラエル・ユダヤ教・ユダヤ人対パレスチナ・イスラーム諸国・アラブ人の対立が始まった。宗教観は人それぞれでしょうが、「宗教は人間の幸福のためにある」と考える人もいれば、「人間は宗教の世界制覇のためにある」と考える人もいる。混沌とした世界に秩序をもたらす解はあるのか・・・次回もよろしくお願いします。
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