フランス語をろくに話せなくなっているというのに、気分がとってもフランスです。
ぼんやり歩いていると、ふいに、好きだったフランス人女優のかわいらしい仕種と鼻にかかった声、セリフを思い出したりして、果てはこの寒さもロワールの冬のなかにいるとふと錯覚してしまうほどです・・・
というのは入り込み過ぎにしても、かなりフランス生活を思い出しているのは明らかで、その理由は2冊の本にあります。
先日シンポジウムでお目にかかった、ミュリエル・バルベリ氏の本を、ちょうど読みきったところ。
彼女が31歳で書いた処女作『至福の味』、そして近年フランスで一大ブームとなった『優雅なハリネズミ』。
これはじつは姉妹作で、どちらを先に読んでも問題はありませんが、登場人物がかぶっています。違うのは、それぞれの主人公の視点が中心となって物語に色がついていくこと。
見方しだいで世の中の色は変わりますが、そういう仕立てになっています。2作はまったく違う独立した物語でありながら、絶妙にリンクしている。同じ風景が舞台になっているからです。
最初に『優雅なハリネズミ』を読了したときは、途中と最後でさめざめと涙してしまいました。
突然涙がわきだして、一緒にこたつに入ってお笑い番組を見ていた夫がぎょっとして不気味がりました・・・。
自分でも予測できなかった涙で、つまりそれほどまでに作者の視点は心の琴線を激しくかき鳴らしたようです。言葉にはできない「ある感覚」をいろんな方向からいろんな言葉で織り進み、とうとう一枚の布に仕立て上げた。言葉で感覚の絵を描ききった。その見事さ。それはそれは緻密な作業で、深い思考と透明に澄んだ適正距離からの視線、その清清しい怜悧な立ち居地に、最高の洗練を感じました。
一番いいのは、このひと、作者が人生を愛してやまないところです。明るさと幸福が根底にある書き手の作品は光に溢れているから、読後の景色が目映く煌めく。
あらゆる感覚を愛してやまず、あらゆる美しいものを求めてやまず、それは目には見えない深いところに伸びていく視線で、表面の余計な飾りを全部取り払いながら進んでいく強い力です。
真に美しいものは、底から湧き出してくる。底とは、深くて慈愛に満ちた知性ある思考のことで、人間として生まれて得る最高の宝がそれではないかと常々思うのですが、まさしくここにはそれがありました。ある際立った知性の内部に入ってその中から物事を見る機会は、そうありません。小説というかたちは読者の感情移入を手助けするのに有効なツールですが、作者は「迷いとしがらみに囲まれた人間」という入れ物を見事に作って、使って、感覚の再現という技をやってのけてくれました。限られた人間のものである知性にこれだけ親切にはしごをかけてくれる作品に、ありがたさを感じました。
言葉に対する鋭い感覚は、彼女の誠実さを物語ります。フランスでも屈指のエリート教育を受けてきた明晰極まりない頭脳の持ち主、という情報はいろんな印象を生むでしょうが、この経歴は彼女の性格の芯にある誠実さを引き立てる役割を果たしているように思います。
物語の舞台はフランス。パリのあらゆる階層の人々の心情。
言葉におぼれ、美食におぼれ、美意識におぼれ、そんな人々を目に見えない社会の枠組みが危うく掬い上げる。枠組みに引っかけあげられ、息も絶え絶えになりながら、バランスをかろうじてとって、独楽のように無駄に回りながら人は生きている。
そんな華やかでうつろで、でもしっかり日々に染み付いた生活が、彩り豊かに描かれています。
知らず知らず人も自分も縛りあってしまうような滑稽な暮らしの中にある「真実」という小さな宝石の粒を探して、『優雅なハリネズミ』は生きる。処女作の主人公が死に際して求める『至福の味』も、そのひとつ。
両作いずれもフランスらしい皮肉なスパイスがツンと利いていて、うわあ、このクセのある感じ、これがあの文化の色そのものだわ・・・と思うことも数知れずで、とてもとても、おなかいっぱい愉しみました。
ぼんやり歩いていると、ふいに、好きだったフランス人女優のかわいらしい仕種と鼻にかかった声、セリフを思い出したりして、果てはこの寒さもロワールの冬のなかにいるとふと錯覚してしまうほどです・・・
というのは入り込み過ぎにしても、かなりフランス生活を思い出しているのは明らかで、その理由は2冊の本にあります。
先日シンポジウムでお目にかかった、ミュリエル・バルベリ氏の本を、ちょうど読みきったところ。
彼女が31歳で書いた処女作『至福の味』、そして近年フランスで一大ブームとなった『優雅なハリネズミ』。
これはじつは姉妹作で、どちらを先に読んでも問題はありませんが、登場人物がかぶっています。違うのは、それぞれの主人公の視点が中心となって物語に色がついていくこと。
見方しだいで世の中の色は変わりますが、そういう仕立てになっています。2作はまったく違う独立した物語でありながら、絶妙にリンクしている。同じ風景が舞台になっているからです。
最初に『優雅なハリネズミ』を読了したときは、途中と最後でさめざめと涙してしまいました。
突然涙がわきだして、一緒にこたつに入ってお笑い番組を見ていた夫がぎょっとして不気味がりました・・・。
自分でも予測できなかった涙で、つまりそれほどまでに作者の視点は心の琴線を激しくかき鳴らしたようです。言葉にはできない「ある感覚」をいろんな方向からいろんな言葉で織り進み、とうとう一枚の布に仕立て上げた。言葉で感覚の絵を描ききった。その見事さ。それはそれは緻密な作業で、深い思考と透明に澄んだ適正距離からの視線、その清清しい怜悧な立ち居地に、最高の洗練を感じました。
一番いいのは、このひと、作者が人生を愛してやまないところです。明るさと幸福が根底にある書き手の作品は光に溢れているから、読後の景色が目映く煌めく。
あらゆる感覚を愛してやまず、あらゆる美しいものを求めてやまず、それは目には見えない深いところに伸びていく視線で、表面の余計な飾りを全部取り払いながら進んでいく強い力です。
真に美しいものは、底から湧き出してくる。底とは、深くて慈愛に満ちた知性ある思考のことで、人間として生まれて得る最高の宝がそれではないかと常々思うのですが、まさしくここにはそれがありました。ある際立った知性の内部に入ってその中から物事を見る機会は、そうありません。小説というかたちは読者の感情移入を手助けするのに有効なツールですが、作者は「迷いとしがらみに囲まれた人間」という入れ物を見事に作って、使って、感覚の再現という技をやってのけてくれました。限られた人間のものである知性にこれだけ親切にはしごをかけてくれる作品に、ありがたさを感じました。
言葉に対する鋭い感覚は、彼女の誠実さを物語ります。フランスでも屈指のエリート教育を受けてきた明晰極まりない頭脳の持ち主、という情報はいろんな印象を生むでしょうが、この経歴は彼女の性格の芯にある誠実さを引き立てる役割を果たしているように思います。
物語の舞台はフランス。パリのあらゆる階層の人々の心情。
言葉におぼれ、美食におぼれ、美意識におぼれ、そんな人々を目に見えない社会の枠組みが危うく掬い上げる。枠組みに引っかけあげられ、息も絶え絶えになりながら、バランスをかろうじてとって、独楽のように無駄に回りながら人は生きている。
そんな華やかでうつろで、でもしっかり日々に染み付いた生活が、彩り豊かに描かれています。
知らず知らず人も自分も縛りあってしまうような滑稽な暮らしの中にある「真実」という小さな宝石の粒を探して、『優雅なハリネズミ』は生きる。処女作の主人公が死に際して求める『至福の味』も、そのひとつ。
両作いずれもフランスらしい皮肉なスパイスがツンと利いていて、うわあ、このクセのある感じ、これがあの文化の色そのものだわ・・・と思うことも数知れずで、とてもとても、おなかいっぱい愉しみました。