Belle Epoque

美しい空間と、美しい時間

Mille

2022-01-25 | Kyoto sneakers since 2008
新年もだいぶ過ぎましたが、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
タイトルは、かっこよく横文字で書いてみました。Milleミルは、「千」です。←今日は香水の話ではありません笑
通っているバレエ教室が本通にあり、レッスン後は東へいろんなルートを取りながら歩き、裏家と表家のお家元宅前を通りながら(近所のため)、帰宅しています。
千から千へ…
と何となく思いついて。『京都年の歴史』という本も、ありましたね。

京都のにまつわる雑感です。

実際のところ、1000年以上前、都になる前から、人は少しずつ住んでいました。
先日のレッスンの帰りには、今出川通りにある『京都市考古資料館』へ立ち寄ってみました。(撮影OKです)



(元は西陣織会館です。このレトロ感、好き)

東京に遷都されるまでの1100年間に渡り日本の首都であった京都、その各地で発掘調査された出土文化財の展示がされています。
縄文時代の竪穴式住居の模型も、土器もあり、おお!っとなります。
 


都が、奈良(あるいは大阪が最初?)から始まり滋賀大津宮、平城京、恭仁京、長岡京、平安京、と遷都を重ね、さらに、平安京の時代においても御所が変遷を重ねる。

782〜806年 平安京内裏造営(千本通沿い)
…以降14回焼失と再建を重ねる…
1227年4月 再建途中に内裏完全廃絶
1331年 御所が現在の場所に移動(烏丸通沿い)

という歴史も、実際に千本通(今出川〜丸太町通)→烏丸通を歩いてみると、非常に…感慨深いものです。
余談ですが、千本・中立売通りから少し東に入ると聚楽第跡の石碑もあります。

御所もしょっちゅう燃えていた上、
さらに、

1177年 安元の大火(都の30%が焼ける)
1180年 治承・寿永の乱=源平合戦(源氏VS平氏)
1221年 承久の乱(朝廷VS鎌倉幕府)
1467年 応仁の乱(戦国時代がスタート)

と、都は、炎と再建の繰り返しと共に歩き続けてきたのでした。
今では千本通りと呼ばれる南北の道路も、かつては朱雀大路というメインストリートだったのに、
その後、船岡山へ向けて1000本の卒塔婆を運んだ(或いは、卒塔婆が並んでいた)という葬送の地としての名が確定。
(※菅原道真の供養の卒塔婆であるという説もあるそうです)

千本通りから堀川通を東へ向かいながら、往年の輝きを想像する。
大通りの裏手の狭く細い道には、石碑や説明の看板が点在し、読んで歩くと空想が膨らみます。
御所跡が実際にある烏丸通りになると、やはり実際の建物がある分、雰囲気は直接的です。千本通りから烏丸通に向かうときは、歩きながらにしてタイムトリップして現代に向かうような楽しい錯覚が、私は好きです。

さて、利休(1522−1591)が大成した茶の湯文化は、現在表裏お家元が京都にて庵を結んで、聖地となっています。
私も裏千家の社中にて修行を積んでいる最中ですが、お稽古を通じて、京(みやこ)での生き方のヒントをたくさん頂いているなと折々ありがたく感じます。
何と言ってもまず、
距離感正しく「へりくだる」姿勢
それから
「尊重」する姿勢
これさえ肝に銘じておけば、悪いことはそうそう起きません。
京都でイケズに遭遇するヨソさんがつまづくのは、「そこまで」と任意の団体内で決められたちょうど良い塩梅のラインをずかずか踏み越えるところに原因があるのではと最近になって感じます。郷に入ったら郷に従おう、たまに肝に銘じ直します。

千年の歴史を経て残ってきた、みやこに暮らす人たちの、古都を護るすべ。
暮らす人びとの密に協力し合う中で培われた、
それは礼節であると、足で歩いていると、肌で感じるのです。



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