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名も無きねこに

二十年前のトンネル

2008-02-05 18:12:16 | わたし
去年の暮れの入院で返却期限内に返しそびれてしまった本を持って、
今朝は図書館に出かけた。
行きはいつもどおり、市営のマイクロバスを利用した。

帰り道は、少し遠回りをして、昔住んでいた家の前を歩いた。

二十年前、祖母が他界したのをきっかけに、
空家になった家屋にわたしたち一家は引っ越し、
以来、そこに住み着いている。
それまではあちらこちらを借家住まいで転々とし、
最後に住んでいた家も、四五年程しかいなかった。
それでも、多感な時期を過ごしたせいで、
わたしの一部は、今もその家に住みつづけている気がする。

久しぶりに訪れた家は、リフォームされており、
造りに昔の名残はあるものの、外観は以前とかなり異なっていた。
前にある公園も、フェンスの外に植えられて
緑を鬱蒼と茂らせていた雑木の枝がすべて切り払われ、
裸の幹が立ち並ぶだけだった。
住処を追われた野良ねこのような気分で、わたしはその場を後にした。

ところが、帰り道にでようと家の脇の坂を下ってトンネルの前に来ると、
気持ちが高ぶるのを感じた。

コンクリート製、長さは十五メートルほど、
車一台通るのがせいぜいの、高速道路をくぐる何の変哲もないトンネル。
中には照明が無いので、昼間ここを通ると、
いつも向こう側の光景が鮮明に目に映る。
子供の頃は、ただ、そこを通り抜けるだけで、
人生の明るみに足を踏み出すような、そんな予感をいだいていた。
学校とは反対方面、別の街や駅に出かけたり、
遊びに行くときには、必ず通った道だった。
いわばトンネルをくぐるのが、外の世界に出て行くための通過儀礼だった。
とりわけ、夏の盛りには、
トンネル内の冷気と暗さで、向こうの景色が一層まばゆかったのを覚えている。

二十年の時間が経っても、トンネルを前にして気分が高揚する。

その向こうに何も無いのはわかっているけれど、わたしは中に入っていった。

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