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まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

共通一次を夢見たあの頃と大学入試共通テストの今

2023-01-15 18:20:54 | 教育(日本語以外)

「(再来年の)共通一次というものを受けてみたいのです」

会社の上司と専務の前でそう告げたのは1988年10月頃であったと思う。

 

簡単にいえば、当時「『管理監督業務』をしていた私は勉強時間確保のために、たいてい17時半ごろには退社できていた『現場作業』をやらせて欲しい」と考えたのであった。

 

だが、社長は「それならなおさら『管理監督業務』を続けたほうが、体力的な負担が無くて良い。早く帰れるように応援するから」と答えた。

 

幸運なことに社長も働きながら学士入学をした経験があり、「勉強したい」という欲求についての理解があった。

 

「『共通一次(大学共通第1次学力試験)』は翌1989年1月で終わりになり、『大学入試センター試験』に変わったので、受けたくても受けられないのでは?」とツッコんだ方は意地悪・・・。

 

結局はその『大学入試センター試験』を受けずに、中学1年の頃に夢見た某私大の2つの学部で3回試験を受けたが、すべて敗退であった。

 

もっとも受かったところで、授業料を払っていける目途もなかった。

それに気づき、2回目と3回目は某夜間学部の前期と後期の試験を受けていたけれども。

 

暗い気持ちで迎えた1990年の春、気持ちを切り替えて専門以外の資格に手を出してみたものの、気持ちは落ち着かず勉強どころではなかった。

それでも、1年数か月間もの間、会社に気を使って夜早く帰れるようにしていただいたことを考えると、リベンジしたくてもできなかった。

 

まあ、なんだかんだいっても後に私は見事その大学の二部に入学することができ、今につながっている。

当時所属していた会社の応援がなければ今の私もない。

 

大学で勉強したくてもできない方は多い。

お金がなければ勉強もできないのであるから。

私の妹たちもそうであった。

 

その反面、私の親族の中にも奨学金を借りて、希望する私学の高校に通った輩もいる。

おまけにちゃっかりと超有名企業グループの某社に就職している。

奨学金を返しながら、私も羨望のかっちょええお車に乗り、バイクも持っていたりするのであるから、実にしっかりとした人生設計をしていたことになる。

(もっとも仕事は大変だとは思うし、ずっとそこにいるかどうかはわからないけれども。)

 

そのように、お金がないからと諦めない方も多い。

 

とはいえ、多くの方々は奨学金返済で苦労するのである。

つまり、大学に行く方々のすべてが裕福なうちに生まれ育ったわけでもないということ。

 

さて、私は幸運にも働きながらではあるが大学を卒業できた。

当時のクラスメートにも社会人学生はけっこういた。

また、私の交友関係にも、社会人になってから大学に入った方もけっこういる。

さらには日本語教育の恩師に当たる方々も働きながら大学院に通っていたのである。

 

しかし、すべての方が奨学金を利用したり、社会人学生を選んだりできるわけでもない。

 

文科省が昨年2022年12月に発表した大学進学率は56.6%であるし、東京都教育委員会が2022年7月に発表した高校進学率は98.53%となっている。

 

中学や高校を卒業して社会に出たほうが良い世界もあるし、別に行きたくもないのに行く必要もないと個人的には思っている。

それでも(本人に高校や大学への燃えるような進学の意思があるか否かはともかくとして)勉強したい方はこれだけいるのである。

 

そんなことをあれこれ考えた『大学入試共通テスト』の2日目となる日曜日であった。

考えただけで、何がどうという分析結果を出したわけでもない。

ただ、「当時21歳の私が夢見た大学入試の共通テストは良い方向に進んでいるといいな・・・」という想いがある。

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英才教育?

2022-07-19 21:24:29 | 教育(日本語以外)

日本語教師として中国に渡る1年数か月前。

住んでいる市の日本語ボランティアに登録をした。

次のクールが始まる前の数か月は見学をさせていただいていた。

ある日ベトナム人の学習者が見学にやってきたのだが、私がお相手をすることとなった。

 

対応しているうちに、「この方はこの資料ではもったいない」と気がついた。

そこで少々待っていただいて、他の資料を用意した。

 

ところが、授業後に先輩の方から、「あまり細かいことをしないほうがいいですよ」的なアドバイスを受けることとなった。

 

ありがたく耳を傾けたが、内心は「それでは理解できないのでは?」と。

 

のちにそこでクラス授業を2クール半、マンツーマン授業を1クール担当させていただいたのだが、そこでやっと先輩の言っていることが理解できた。

 

 

ボランティアを含めれば、10年ぐらいにはなった日本語教師の経験。

それは今でも役に立っている。

 

人を育ているとき、時間をかけても良い方であれば、1から丁寧に教えていく。

 

だが、本人のためにも即戦力としたい場合には1、2を教えてすぐに5に飛ぶことがある。

とても極端な話をすれば、最初に5に触れて、1、2を引き出すこともある。

そのような教え方であると、若い方の場合、やはり戸惑う。

 

あくまで個人的な意見であるが、1から丁寧に教えた場合、人によっては「考えることなく進んで行く」こともあり得る。

そうなると、応用力に欠けることにもなる。

また、「もし、教える人が間違ったことをしていたとしたら・・・」。

 

話を日本語教育に戻す。

五十音(ひらがな・カタカナ)から始まるゼロ初級であると、2週間は欲しいと感じる。

週に5、6日を2週間行うことは学習者も疲れるし、教師も疲れる。

しかし、最初が肝心なのである。

(アニメなどの影響や独学でけっこう話せる方もいらっしゃるが、そこで発音を矯正しないと、後で余計に大変。)

 

つまり、私が仕事などで考えさせることに重きをおいた教え方をする場合、その相手には基礎やそれに代わる仕事上の経験があると考えている。

 

ただ、自分でよくわかるし、感じることがある。

それはそのような教え方をすると、人によってはかなりのストレスを感じるということ。

 

「それを踏まえて、どこまで無理やりな教え方をするのか判断しなければならない」と本日改めて感じた次第・・・。

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広瀬すずさんの演技に見入ってしまった

2022-03-06 00:00:20 | 教育(日本語以外)

大和和紀先生の少女漫画が好きである。

特に好きなのが『ヨコハマ物語』。

自宅に有ったのだが、引っ越しの整理のときには既に無かった。

だが、妹たちは持って行っていないと言う。

そこで昨年ネットで古本を取り寄せた。

今でも休みの日の昼ごはんの前後に何度も何度も読み返している。

 

万里子もお卯野も英語を話せる。

だが、それは勉強すれば誰もが必ず身に着くというわけでもない。

やはりそれなりの努力が必要なのである。

 

もっとも昔は他の作品のほうが好きであった。

それは主人公ではない登場人物に自分と重なる部分があったからであった。

だが、作品の好みは己の経験で変わっていくもの。

何にしても、大和先生の構成力はとても偉大だと感じている。

 

それはともかくとして・・・。

本日は他の話題を記すつもりであったのだが、広瀬すずさんが主演された『津田梅子~お札になった留学生~』(TV朝日系列 2022.03.05)を見た影響により、急遽内容を変えることとなった。

 

津田梅子氏のことは軽く知っているだけであった。

だが、アメリカに留学されたのが7歳であったことは初めて知った。

 

仕事であれ、勉学であれ、他所の国で生活をすることは簡単なことではない。

ましてや7歳である。

それは大変であったに違いない。

 

また、女子教育を続けていかれたことも、それはそれは大変なことであったことであろう。

 

ただ、ここで経験しなければわからないことについて、「大変」だと安易に記してヨシとするつもりはない。

 

私自身、教育は大切だと思っている。

そしてその教育は何も高等教育のことを指しているわけではない。

誰もが高等教育を受けるチャンスがあるわけでもない。

そして、教えるほうも教壇に立つことだけが教育だとも思っていない。

(「教壇って何?」というのが現代だが、それはともかくとしておく。)

 

今の私は私の行動がどこかで老若男女を問わず、様々な方に良い影響を与えれば良いと考えている。

それが今の私が他の方々に施すことができる一番の教育のような気がしてならない。

 

いつかまた私も教室に立つ日が来るのであろうか。

もし、その日が来なかったとしても、私は私に与えられた教育の手法を取るだけである。

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急に開けた西洋への興味 と 外国語を楽しむ姿勢

2021-05-26 22:03:28 | 教育(日本語以外)

子どもの頃から外国に興味があった。

 

ただ、なぜだかわからないのが、13歳頃から中国を筆頭としたアジア路線を走っていくことになった。

それでも西洋を含めた世界観を保っていられたのは小説のおかげだと思う。

 

最近になって、とみに西洋へと目が向くようになった。

それでも毎日中国語で何らかの情報を得てはいるけれど。

 

かなりしつこいようであるが、元日本語教師である。

特に日本語に関しては文法などへのこだわりも大きい。

 

しかし、教師時代からずっと「文法だとかにこだわらず、もっと気楽に言語を覚える手法はないものか」と考えている。

 

 

小学生の頃、瓶のコカ・コーラの王冠の裏に、英単語が記されていた。

それはけっこう楽しかった。

私は思っていた。

「読み書きができなくても良いから、英語は話せるようになりたいな」と。

しかし、周りの友人たちの反応は違った。

「やはり読み書きも必要だと思う」と。

 

友人たちの意見は正しい。

それでも、私の考えもまるっきり良くない考えではないはず。

 

さらに私は強く感じるようになった。

英語こそが世界共通語であるという状態が不思議で仕方がなかった。

 

人より遅れて大学に入ったとき、英語の授業で「やばい・・・」と感じた。

力を入れて勉強したわけではないが、英語は別にそれほど苦手でもなかった。

それなのに、「わからない」状態に陥った。

さらに追い打ちをかけたのが、私が覚えていることとは違う常識が存在したこと。

 

高校が普通科ではなかったことだけが原因ではなく、私の高卒後から大学に潜り込むまでに常識が変わっていたということ。

 

当時は既に「筆記体を使わない」傾向が増えていたという驚きもあったけれども、自分が知っていることを否定されたショックこそ大きかった。

それ以前に授業についていけない。

私は働きながら通っていたわけであり、大学の授業としての英語は放置することとなった。

もちろん、後に自分で努力をした。

普通に大卒一般教養程度の英語は身に着けたつもりである。

 

中国生活で英語に触れる機会があっても、わからない・・・。

英語のネイティブ教師の授業に参加させていただいたときなど、思いっきり英語がわかる日本人同僚に片っ端から訊きまくっていた・・・。

そんな状態であるのに、下手をすれば文化摩擦一歩手前の持論をダメダメ英語でのたまった記憶が残っている。

 

 

帰国後も中国語や韓国語だけでなく、英語にも触れるようにしていた。

他の言語にも手を出している。

 

それでも、この1年かな。

「あれっ? 俺、こんなに英語がわかったっけ?」と思うことが増えたのは。

 

どうやって進歩したか。

真面目に勉強することを止めただけのこと。

いや、真面目に勉強した部分もある。

だが、それは英検3級程度のおさらいに過ぎない。

 

普段は興味のある話題の動画を見たり、興味がある記事を斜めに読んでいるだけ。

 

 

別に外国語教育に限らず、「興味があることや長所を伸ばすことで、学習者の能力を高める」という手法はけっこう使われている。

 

もちろん、すべてが楽しいことだけで成り立つわけでもなく、我々はルールやマナーの中で生きている。

文法もルールのひとつであろう。

 

 

以前も記した。

帰国後幾つかの語学試験を受けてきた。

やはり実力程度の結果しか出ない。

 

そして試験のための勉強をしていると、ある目に見えない分厚い境界線と遭遇するようになった。

 

そこで考えた。

今の私に必要なのは己のレベルを数値化された資格ではなく、使える言葉を身に着けることではないか、と。

 

確かにどうしても欲しい語学試験の某レベルがある。

しかし、おっちゃんになった今、もっと大切なことは話して通じること。

余り悠長なことはしていられない。

 

だが、やることも多く、それなりに忙しい。

そんな状態で続けていくにはどうすれば良いのか。

 

短時間でも良いから、楽しむこと。

これは語学の勉強に限らない。

 

今年私は久しぶりに技術の世界の試験を受けるのだが、その知識が増えていくことがとても楽しい。

楽しいといつの間にか頭に残っている。

 

限られた時間の中で長文を記していて、なおかつ文章がまとまっていないこのブログ。

 

だが、私のブログであり、まずは私が楽しむことが大切かと思う。

もちろん、人を不愉快にさせることは良くないけれど。

 

 

話は変わる・・・・・・。

YouTubeの動画もそれなりに見ている。

主に外国語のものを。

 

ただ、極度の騙しは良くない。

これは私にしては珍し、く日本語配信のものなのだが、先日、けっこう好きなチャンネルで「見るんじゃなかった」という動画と出会った。

視聴者数を稼ぐことは大切であろうが、おそらく逃した視聴者もけっこういるのではないかと思う。

 

テレビでも同じこと。

人間の尊厳は大切にしなければならない。

楽しいこととそれは別物だと自分勝手に思っている。

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力技一本の短絡資料と対峙して思うこと

2020-08-07 23:54:55 | 教育(日本語以外)
昨日2020年8月6日(木)に抱えていた仕事をひと段落させた。
そんなわけで、お盆休みの前日であった本日は次の仕事の資料を軽く眺めておくつもりであった。

しかし、ついつい勢いにのってしまい前段階に突入してしまった・・・。

ただ、今回の資料は「この内容に詳しくない方にとっては、どうしてそんな数値が上がってくるのかが納得できないに違いない」状態であった。

現在の仕事は日本語教師よりも長い技術の世界の経歴が役に立っている。
見方によっては全く同じ業界であるともいえる。

とても簡単に言ってしまえば、私にとっては計算書を見ただけで、その数値の出どころがすぐにわかる。
ただ、それを簡単に説明するのはとても難しい。

一番良いのはその計算書のデータを拾う元になる資料の中にわかり易いものがあること。

しかし、今更それを言ったところでどうにもならない。

とはいえ、私が仕上げる資料を誰に渡すかによってはある程度の補足資料も作成しておいたほうがベターであろう。

そう考えると、補足資料作成のための分析もしなければならない。

連休の前日であるのに、エアコンの効いたオフィスで脂汗を流しつつ、パソコン内と紙の資料を見比べ、時には軽くうめき声をあげている不気味なおじさまと化した私・・・。


ちなみに私が格闘し始めた資料は他所から回ってきたものである。

はっきり言えば、昔はこんな短絡的な資料は存在しなかった。
しかし、パソコンを使う現在は昔よりもはるかに膨大な量の資料と格闘することになる。
となると、いちいち細かいことをやっていられないのである。

もっともそれを引き継ぐ方がそれをわかる経験者であれば、問題はない。
少なくとも私は理解できる。

一番の問題は私が今いる業界は平均年齢が高いということ。
となると、そのうちに全く内容がわからないのに私の役目を行ったり、その次を担当する方が出てくることになる。

若い力が少ないのであるから、今まで以上にじっくり丁寧に教えてもらうことは難しいのである。

となると、いきなり意味不明の数字データと対峙することになる。
考えて、考えて、考えまくるので、時間がかかるであろう。

もっとも救いはインターネットを駆使すれば、けっこう様々な情報が拾えるということ。

私もあまり詳しくない内容はネットを駆使している。
ヒットしたキーワードをまた検索したりして・・・。


本日言いたいこと。

イライラしながら仕事をしているときにふと気が付いた。

「日本語教師としての学習者への説明、その他の業界で若い方々に指導するときに「力技一本!」的な手法を使ってはいないだろうか」と。

そう考えたとき、「お盆休み以後、実に有意義な仕事が待っている」と感じ、とても嬉しくなった。


実際資料を見て、イラっとするのは今の仕事だけではない。
他の仕事でも同じこと。

何でもかんでも簡略化されてしまい、技術上の表記においても、提示の順序においても、ショートされている資料が多過ぎる・・・。

忙しい現在であるからこそ、次世代につなげるための基本を大切にすべきではなかろうか。
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