ラオコーンはギリシャ神話の登場人物で
トロイの預言者であり、
アポロン神殿に仕える祭司でした。
ギリシャ軍は巨大な木馬を作り、
まるで退散するかのように見せかけ、
翌日その巨大な木馬を
ギリシャからの贈り物だと信じたトロイ市民は
木馬を市内に運び込もうとします。
ちょうどネプチューン(ポセイドン)への
生贄の準備をしていたラオコーンは
この木馬を破壊するように市民を諫め
木馬の腹部に石を投げつけます。
このラオコーンの行為は
トロイの敗北を布告していた女神ミネルヴァ(アテネ)と
ネプチューンの怒りを買い
彼らの命で海から2匹の巨大な蛇が現れ
ラオコーンの息子二人は襲われ
それを助けようとしたラオコーンもやがて蛇に殺されて、
海蛇はミネルヴァの神殿に彼方に姿を消します。
トロイの市民はラオコーンの死を
「神の怒り」の象徴であり「ギリシャの誠意」と理解して
彼らは木馬を市内に運び込み
自ら敗北・滅亡の道を選んだのです。
ウフィツィ美術館所蔵となっている
Bacio Bandinelli(バチョ・バンディネッリ)の
Laocoonte(ラオコーン像)は公開修復が終わって
2010年年初から通常展示となっています。
この作品はヴァチカン博物館に所蔵される
ヘレニズム期のラオコーン像の大理石コピーで、
ラオローン群像のほかに
かの有名なPorcellino(いのしし像)と
Ercole in riposo(休息するヘラクレス)とともに
ウフィツィ美術館の第3廊の端に置かれています。
1762年8月12日のウフィツィの火災の時には
焼け落ちた屋根の下敷きになり40ピースに粉砕。
因みにこの火災でPorcellinoの一部だったはずの「狩人」は
修復不能なまでに壊れ、そのまま喪失しています。
1506年1月14日にローマのオッピオの丘にあるブドウ畑に
突然空いた穴に落下した人がいたために
偶然発見されたラオコーン像は
それ以来古代彫刻の傑作として高く評価され
当時はヨーロッパ各地の貴族や有力者が
挙って購入を申し出たといわれます。
しかし、当時のローマ教皇であったGiulio II(ユリウス2世)は
教皇庁専属建築家だった
Giuliano da Sangallo(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ)と
Michelangelo(ミケランジェロ)を即座に現場へ派遣し、
彼らの目で発見された作品の価値を確かめさせ
Tito Flavio Vespasiano(ローマ皇帝ヴェスパシアーノ)の
邸宅にあったと記録される彫刻群であるとの報告を受け
その正当な相続を主張してそのままヴァチカンへ持ち込みました。
ミケランジェロを感動させたとも言われるこのオリジナル作品は
多くの芸術家に影響を与えていますが、
1520年にLeone X(ローマ教皇レオ10世)が
枢機卿Bernardo de' Medici(ベルナルド・デ・メディチ)を通じて
コピーを依頼して製作されたのが
ウフィツィにあるバンディネッリの作品です。
ウフィツィ美術館所蔵のラオコーン像
当時はレオ10世からFrancesco I(フランス王フランソワ1世)への
贈り物として製作予定だったのですが、
完成までに教皇が変わったこともあり
Clemente VII(クレメンテ7世)は
フランスには別の古代彫刻を贈り
バンディネッリの作品は1525年にメディチ家の宮殿の庭に置かれました。
その後1671年にウフィツィ美術館に移管されています。
ヴァチカン所蔵のオリジナルのラオコーン像は
ラオコーンの右腕、ラオコーンの息子(長男)の右手、
そして次男の右腕が欠けていますが
バンディネッリはこの3箇所も自分の意思で再現しています。
ラオコーンの右腕が伸びているのはバンディネッリ作です。
オリジナルとは微妙に表現方法が違っているのです。
またラオコーンの臀部に食らいついている蛇の頭も
オリジナルでは随分前に張り出して迫力がありますが
バンディネッリ作では少し引き気味で表現されています。