Baccio Bandinelli(バッチョ・バンディネッリ)は
ルネッサンス後期からマニエリスム期にかけて
フィレンツェを中心に活躍した彫刻家。
フィレンツェの有名な金細工士を父にもち
若くして絵画を学ぶために修行に出されますが
彫刻の分野での才能を評価され彫刻家としての道を選びます。
彫刻家としてミケランジェロの影響を強く受けるようになり、
ミケランジェロの作品を模倣し、ライバル視するようになります。
しかし、その力の差は歴然としていて
ミケランジェロと張り合ってフィレンツェで作製した数々の作品には
巨大性を誇張しながらも
構造的には歪弱であるという特徴が見られます。
一般的にあまりよい評価を受けていない
バンディネッリの「Ercole e Caco(エルコレとカークス)」。
フィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオの前に
ミケランジェロのダヴィデ像と並んで置かれています。
牧神ファウヌス(fauno)の薄肉彫りが美しい基盤部分には
ラテン語で作者名も刻まれています。
本作品の寓意テーマは、
ウシを盗んだカークスの悪行を暴き罰するという
エルコレ(ヘラクレス)の力強さと天賦の才。
Virgilio(ヴェルギリウス)などによって語られた
ギリシャ神話の挿話で
エルコレ(ヘラクレス)の「12の苦行」のひとつ。
もともとこの作品は
1505年にミケランジェロに依頼されていたもので
ローマでの仕事が増えていた当時のミケランジェロは
なんとか模型を作製したものの
(現在はブオナロッティの家所蔵)
本作品を作製する時間を見つけられずじまい。
作製は中断され
1525年にバンディネッリに一回目の打診があったものの
その後1528年には再びミケランジェロへ打診され、
このときにはミケランジェロの希望により
主題の変更も議論されています。
彼はこのとき「エルコレとカークス」よりも
「Sansone e i filistei(サムソンとペリシテ人)」を好んだようです。
しかし、これも実現しないままとなり
一時追放となっていたメディチ家が
1530年に正式にフィレンツェに戻ると
作品製作の最終依頼はバンディネッリに届き
直ちに作成を始め1534年に完成。
きっと張り切って作ったんだろうなぁ。
なんといっても本来ならば、崇拝するミケランジェロが
手がけるはずだった作品ですから。
Vasari(ヴァザーリ)は著書「列伝」の中で
「バンディネッリは最もミケランジェロに傾倒していた
芸術家の一人であり
非常に熱心にミケランジェロの作品を研究、模倣し
偉大なる彫刻家に肩を並べようと努力した」
と書き残しています。
しかし、ミケランジェロに匹敵する才能を
持ち合わせないことを知り
やがてミケランジェロに対する思いは
崇拝から羨望へ、そして憎しみへと変化していきます。
こうした変化は
バンディネッリの作品にも次第に現れていき
ミケランジェロの主題や巨大性を模倣しながら、
感情が薄く、解剖学的に正しくない、
構造的にも弱い作品を残す結果となります。
この「エルコレとカークス」は製作までのいきさつもあり
バンディネッリがミケランジェロを超えようとした、
あるいは少なくとも肩を並べようとして
努力をして作製した作品の典型的なもの。
しかしミケランジェロの傑作である
ダヴィデの横におかれてしまうと
表現力や動きに欠ける筋肉のより集めのようで
作品の巨大性だけが目立ちます。
実際作製した本人も自分の力が
到底ミケランジェロに及ばないことを
痛感したのではないかと思われます。
バンディネッリの天敵としてよく知られるBenvenuto Cellini
(ベンヴェヌート・チェッリーニ)はその自伝の中で
バンディネッリの「エルコレとカークス」をこき下ろし
「髪の毛を除いたら頭部には脳みその欠片もなく、
巨体は壁際に置かれたメロンの入ったズダ袋のようだ」
と評しています。
それは言い過ぎじゃぁないかとも思いますが、
確かに素人が見ても不恰好です。
背伸びをしすぎた一人の彫刻家の悲運がにじみ出るような作品。
模倣をやめていたら、
マニエリスム期の偉大な彫刻家の一人として
もっと活躍していたかもしれないと思うと少し残念。
どちらかといえば
サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会にある
「ピエタ」のほうがよいし
ミケランジェロの影響の少ない
メディチ・リッカルディ宮殿の「オルフェウス」や
ドゥオーモの聖歌隊席のレリーフのほうが
繊細で独創的でよいんだけどね。