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不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Porta della Mandorla

2012-06-06 13:30:00 | アート・文化

フィレンツェのドゥオーモの北側側面、
クーポラの入り口として使われている扉は
La Porta della Mandorla
(アーモンドの扉)と呼ばれています。
1391から1423年にかけて
数多くの彫刻家たちの手によって製作され
Donatello(ドナテッロ)などもかかわっていますが、
その大部分はNanni di Banco
(ナンニ・ディ・バンコ)が手がけています。
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2002年から2年の予定で開始された修復は、
なんと結局10年も続き
6月5日にようやく幕がはずされ、
修復により蘇った全貌が明らかにされました。

「聖母被昇天」をテーマにしたティンパノ部分は
ナンニ・ディ・バンコが手がけ、
天使が支えるアーモンド形の光輪の中に
聖母が座しています。
Nfc__226
この光輪の形からアーモンドの扉と呼ばれています。
この扉はドゥオーモの両側面にある4つの扉の中でも
最も遅い時代に作られたもので
最も美しい扉と評価されています。

扉のすぐ上に
半月形のモザイクによる「受胎告知」がありますが、
もともとはGiovanni d'Ambrogio
(ジョヴァンニ・ダンブロージョ)作といわれる
受胎告知の彫刻群がおかれていました。
現在見ることのできるモザイクは
1490年のDavid Ghirlandaio
(ダヴィデ・ギルランダイオ)によるもの。
おそらく兄弟のDomenico(ドメニコ・ギルランダイオ)も
手を入れているだろうといわれています。Nfc__221

この扉の一連のテーマは
聖母マリアと彼女が負った人類救済使命。Nfc__220
ティンパノ部分は天に召されていく際に
聖母が自分の腰紐を
聖トンマーゾに渡していくシーンを描いています。
聖母の左下に跪き、
手を差し伸べる聖トンマーゾの姿が確認できます。
その天に昇る聖母を4人の天使が支え、
その上で3人の奏楽天使が
トランペットやバグパイプ風の楽器を奏でています。
ルネッタのモザイクが受胎告知なのは
聖母が大天使ガブリエレから
神の子を身ごもったと告げられたとき、
人類救済の使命も受け入れたとされているからです。

外枠の小尖塔には
旧約聖書の預言者たちの像が置かれ
聖母の使命と運命を予言する形になっています。
この2体はそれぞれ
ドナテッロとナンニ・ディ・バンコの手によるものといわれ、
現在おかれているのは複製、
オリジナルはドゥオーモ付属美術館収蔵。

ルネッサンス様式が主流のフィレンツェでは
珍しいゴシック様式で、
ゴシックからルネッサンスへの移行期の
最終段階といわれる貴重な作品群です。

ちなみに昇天聖母の右下、
聖トンマーゾと対称を成す形で
木に登るクマが彫られています。
未だに謎といわれているこのアレゴリー、
みるたびに気になります。


Villa Corsini di Castello

2012-05-30 13:30:00 | アート・文化
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フィレンツェ市街地からバスで20分ほど行った
フィレンツェ北部にあるカステッロ地区には
メディチ家の別荘をはじめ、
いくつかの別荘が点在しています。

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フィレンツェでは珍しいバロック様式のファサードをもつ
Villa Corsini di Castello(カステッロのコルシーニ荘)。
最近終了した修復の結果、
正面ファサードの壁は
1800年代のオリジナルに近い色で塗り直されました。

元々この周辺は森林で、
狩猟を楽しむ貴族がこぞって狩猟用の別荘を建てたのですが、
この別荘はストロッツィ家(Strozzi)が
1400年代に建てた農園荘がベースになっています。
メディチ家と対立したストロッツィ家が
フィレンツェを追放されると、この別荘も売却され
親メディチ派のリニエリ家(Rinieri)の手に渡ります。

1500年代後半、リニエリ家の手を離れ
所有者が何回か入れ替わったあとで
周辺に別荘を次々と整備したメディチ家の
コジモ2世(Cosimo II de' Medici)が1618年に購入。
しかし、その後も売却を重ねて
1697年にフィリッポ・コルシーニ(Filippo Corsini)の
妻であるルクレツィア・リヌッチー二
(Lucrezia Rinuccini)の所有となり、
第二次世界大戦後までコルシーニ家が所有。
1950年代にフィレンツェ美術監督局が買い取り
現在はウフィツィ美術館や国立考古学博物館に収蔵しきれない
彫刻や考古学コレクションを展示&保管しています。

リニエリ家はトリーボロ(Tribolo)に依頼して
別荘の改修を手がけます。
建築家トリーボロはリニエリ家を通して
コジモ1世(Cosimo I de' Medici)に紹介され
やがて、この別荘の近くにあるメディチ家の別荘
(Villa Medicea di Castello)の庭園や
ピッティ宮殿裏手に広がるボボリ庭園
(Giardino di Boboli)を手がけることにもなります。
トリーボロはこの荘のイタリア式庭園の装飾として
川のアレゴリーの噴水を制作しています。
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噴水は解体されてしまいましたが、
川のアレゴリー(Fiume)は
現在この荘の地上階大広間の一角に展示されています。
個人的には像の後ろに見える電話を
なんとかしてほしいと
気になって仕方ないのですが。

その後コルシーニ家の所有となってから
フォッジーニ(Giovan Battista Foggini)が
1500年代の建物をベースにバロック様式に改築しています。
このときに正面ファサードも改築され
現在のようなものに整えられました。
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正面大扉の上には、バルコニーが取り付けられ
更にその上にコルシーニ家の紋章、
そして巨大な時計が取り付けられています。
両翼にも最上部にバルコニーが取り付けられ
そこには大理石風に彩色されたテラコッタの壷が並んでいます。

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コズマ&ダミアーノ祈祷所入り口。
正面向かって左手の端に小さな祈祷所がありますが、
この荘の前を通って
更に上にあるメディチ家のペトライア荘(Villa Petraia)に
足繁く通う親メディチ家及びメディチ家に敬意を表して
メディチ家の守護聖人である、コズマ&ダミアーノの名が付けられています。

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中庭よりファサード裏を臨む。

この荘は3方を庭園で取り囲まれていますが、
南側がイタリア式庭園、北側が自然をそのまま利用した森、
中央に四季の庭園と呼ばれた半楕円に広がる庭園。
更に1800年代半ば頃まではこの中央の庭園の奥に
馬場が設けられていたそうですが、
1900年代に整備され今は形を残していません。

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窓をもうちょっと綺麗に掃除しておいてほしいと
強く思った(笑)。
南側のイタリア式庭園を一階より臨む。
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2階の窓の方が綺麗に掃除されていた(笑)。
美しいイタリア式庭園。

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中央の四季の庭園に続く前庭。

地上階の展示室と中庭の回廊部分には
エトルリア時代の石棺や彫刻、
ローマ時代の石碑のコレクションなどが収蔵されています。
Dscn2175
エトルリア時代の石棺コレクション。
時代の流れで発展しているのもわかります。
死者が最初の頃は横に伏せているだけ(手前)ですが、
時代が進むと上半身を立てる(奥)ようになるのです。

Dscn2163
また大広間は1805年に描かれた
4つの「考古学的遺跡を描き込んだ風景画」で飾られています。
Dscn2159
左側の立像がニオベの息子。
群像なのに一つだけ無意味に隔離されている可哀想な像。
Dscn2161

この部屋には前述のトリーボロ作の川のアレゴリーの他に、
修復の終わったアポロ像(Apollo)や
なぜか群像なのに一体だけ別にされてしまった
ニオベの息子(Figlio di Niobe)の立像が収められています。
Dscn2169
こちらの左の男性像はゼウス。

別にアポロフェチではないけれど、まずは後ろ姿。
Dscn2170
そして正面から。
Dscn2174
そして遠景アポロ。

ニオベはアポロの復讐により
7人の子供を失うというエピソードがありますが、
それを再現するべく、大広間の地上階にニオベの息子
バルコニーの上にニオベの息子に対峙する格好で
アポロが設置されています。

2階部分には肖像彫刻コレクションがあります。
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ウフィツィ美術館のトゥリブーナに
元々展示されていた細かな彫刻作品の多くも
現在はこちらに保管されています。

Villa Corsini di Castello
Via Petraia 38
Frenze (Castello)
開館日:毎週土曜日 9:00-13:00,15:00-18:00
入場料:無料
*フィレンツェ駅東脇から市バス2番でアクセスできます。



Verso al Marchio Unesco per le Ville Medicee di Firenze

2012-05-23 13:56:48 | アート・文化

フィレンツェ市内及び近郊に点在する
メディチ家の別荘群は
今年1月に正式にユネスコの世界遺産への
登録申請を行っています。

登録される建物群は下記の通り14件。
Giardino di Boboli(ボボリ庭園)
Giardino di Pratolino(プラトリーノ公園)
Villa di Cafaggiolo (カファッジョーロ荘/Barberino di Mugello)
Villa Il Trebbio (イル・トレッビオ荘/San Piero a Sieve)
Villa di Careggi(カレッジ荘)
Villa Medici di Fiesole(フィエゾレ・メディチ荘)
Villa di Castello(カステッロ荘)
Villa di Poggio a Caiano(ポッジョ・ア・カイアーノ荘)
Villa la Petraia(ペトライア荘)
Villa di Cerreto Guidi(チェッレート・グイディ荘)
Palazzo di Seravezza(セラヴェッツァ宮)
Villa La Magia (マジア荘/Quarrata)
Villa di Artimino (アルティミーノ荘/Carmignano)
Villa di Poggio Imperiale(ポッジョ・インペリアーレ荘)

このうち、主要構成建築は下記のようなものになります。

Villa Medicea di Castello(カステッロ荘)
フィレンツェ郊外カステッロ地区にあり、
ペトライア荘にもほど近い別荘。
ボボリ庭園に継ぐ、
豊富な植物の多様性を誇る庭園に囲まれています。
メディチ家の時代から
冬の間に柑橘類の樹木を保護する目的で作られた
温室リモナイアは有名で、
今でも特殊な接ぎ木などによる
柑橘類の新種交配なども行われています。
また、イタリア語純化を推進するべく
1583年に設立された
l'Accademia della Crusca(クルスカアカデミー)の
本拠地が置かれています。

Villa la Petraia(ペトライア荘)
カステッロ荘からほど近く、
非常に良く手入れされた別荘の一つ。
1800年代
フィレンツェが統一イタリアの首都となった時代には
イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世
(Vittorio Emanuele II)が
暮らしたことでも知られています。
建物内は絵画やフレスコ画、
調度品、タペストリーなどで装飾され
非常に華やかな雰囲気になっています。
多くの彫刻作品も残され、
特にジャンボローニャ(Giambologna)の
ヴィーナス(Venere)が有名。
宮殿の裏手のユートピア思想に基づくロマン主義の公園、
宮殿の手前には美しいイタリア式庭園が広がります。

Villa Poggio Imperiale(ポッジョ・インペリアーレ荘)
ミケランジェロ広場の裏手の丘(Colle di Aretri)にある別荘。
現在はネオクラシックの建物に改装されて
国立女子寄宿学校が置かれています。
かつてVilla di Poggio Baroncelliと呼ばれたころの
古い面影を残すのは
入り口を入ってすぐの中庭部分のみ。
ここにはフィレンツェ滞在中の
若きモーツァルトが奏でたというピアノが保存されていたり
メディチ家やロレーナ家の東洋趣味を反映した
中国陶器などの膨大なコレクションも収蔵されています。

Villa Careggi(カレッジ荘)
ロレンツォ・イル・マニフィコ
(Lorenzo il Magnifico de' Medici)が
当時のプラトン学派アカデミー
(L’Accademia Platonica)内の
メンバーとよく集った場所であり、
彼が晩年を過ごした別荘でもあります。
最もメディチ家らしさを残すメディチ荘であるともいわれます。
ここにも非常に種類の豊富な植物を擁する
庭園が残っています。

数年足を運んでいないメディチ家の別荘群、
季節がよくなったら久々に巡ってみたいです。


Chiesa di San Carlo alle Quattro Fontane

2012-05-16 19:01:32 | アート・文化

ローマに行くことは多くても、
いつも同じ場所ばかり歩いて、
訪れる教会もいつも同じところ。
それも芸がないと思い、いつもとちょっと違うところへ。

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クイリナーレ通りに面した、とても小さい教会。
交通量の比較的多い通りで、
外壁は排気ガスで真っ黒に汚れています。
四噴水(Quattro Fontane)の交差点にあり、
教会の壁にも4つの噴水のうちひとつである
テヴェレの噴水(Tevere)が設置されています。

これほどの交通量があるにもかかわらず、
教会内に一歩踏み込むと
外の喧騒がまるでうそのような静けさ。

教会は17世紀の建築で、
ローマバロックの傑作のひとつとも言われます。
教会、修道院、そして小さな中庭からなる建築物は
大部分は1634年から1644年にかけて
Francesco Borromini
(フランチェスコ・ボッローミニ)が手がけています。
彼の在命中に完成しなかった部分は、
彼の死後も1680年まで
Bernardo Borromini
(ベルナルド・ボッローミニ)が引き継いでいます。

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スイス人のボッローミニは
1620年ころからローマで活動し
ヴァチカン・サン・ピエトロ寺院の
主祭壇前におかれる
巨大な飾り天蓋も手がけています。

この教会は聖三位一体修道会
(I Trinitari)の依頼によるもので
あまり裕福でなかった修道士たちのために最低限のコストで、
限られた小さなスペースを有効に使うよう工夫され、
なおかつエレガントで質の高い建築物に仕上げられています。

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I Trinitariのシンボルでもある十字架紋章。

教会正面ファサードは二層構造になっており、
3つに区分される下層部分は
両脇が凹状、中央入り口のある部分は凸状になっています。
それに対して上層部は同じく3つに区分されていますが、
すべてが凹状で
中央部分に凸状の壁がんが取り付けられて
アクセントとなっています。
この凹凸の動きが、
ファサード全体に躍動感を与える効果を生み出しています。
Carlo Borromeo(カルロ・ボッローメオ)の
立像の置かれる中央入り口上の壁がんは
ケルビム天使の羽で装飾されています。
また上層部の中央には空を舞う天使に支えられるようにして
メダリアの装飾がつけられています。
当時はここにもカルロ・ボッローメオの肖像がはめられていたそうです。

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教会内部は直線と曲線の入り混じる構造で
ギリシャ正十字が少し縦方向に伸びた形になっています。
楕円形のクーポラは
八角形、六角形、十字架の3つのモチーフの組み合わせで
格間装飾されています。
このクーポラの明り取り窓から入る光で格間装飾にも陰影ができ
動きのある美しさを強調しています。
きれいな曲線で動きのある内部には華美な装飾はなく、
三位一体を思わせる3を基本とした装飾や組み合わせが各所に見られます。

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隣接する回廊つきの小さな中庭も
八角形を基本として
教会内部と同じように
直線と曲線の組み合わせの美しい空間になっています。
回廊は二層構造になっており
特に上層部はシンプルな柱で支えられ、
装飾として用いられている欄干の小柱には
三角形の装飾が交互に使われています。
このようなシンプルで動きのある装飾のおかげで
非常に狭い空間でありながら、
明るく圧迫感のない仕上がりになっています。
中庭の真ん中に置かれた井戸もさりげなく八角形で統一が取れています。

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冠している名前は
ミラノの司祭Carlo Borromeo(カルロ・ボッローメオ)。Nfc__1443
ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院の丸天井を支える
4本の柱の一本分しかない、その大きさから
San Carlinoの縮小詞をつけて呼ばれ親しまれています。


Piazza della Repubblica

2012-05-09 08:35:00 | アート・文化

フィレンツェの街の中心にある共和国広場。
しかし、共和国広場(Piazza della Repubblica)と
今のような名称で呼ばれるようになったのは
実は最近のことで、
第二次世界大戦後から。
75メートル×100メートルの長方形の
現在の形に整えられたのは
フィレンツェが統一イタリアの首都となった1865年以降。

古代ローマ時代から街の中心であったといわれる
長い歴史のある広場です。
ローマ人は主要道路を交差させた地点を街の中心として
都市形成をしていましたが、
この広場も同じく、南北と東西を結ぶ主要道路があり
その交差点の部分に
現在は「豊穣の女神の柱
(Colonna dell'Abbondanza)」が建てられています。
数週間前に一部崩壊したために修復中です。
この豊穣の女神も、もともとは1431年から
Donatello(ドナテッロ)作の像が置かれていたのですが、
修復不可能なほどに傷んでしまったため、
1721年にGiovan Battista Foggini
(ジョヴァン・バッティスタ・フォッジーニ)が
再製作したものに置き換えられています。
そして1956年からはフォッジーニのオリジナルも
CRF(フィレンツェ預貯金銀行)の所有となり、
現在広場に置かれているものは複製品になります。

中世の時代になると、広場周辺は緑地や農地も減り、
建物が密集するようになります。
人口が増え、スペースが不足してくると
塔状の建物が多く建てられ
空間を求めて上へ上へと街が広がっていきます。
ほかのイタリアの主要都市と同じように
フィレンツェの街でも
広場は市民生活の中で重要な役割を果たすようになり、
ドゥオーモ前の広場は宗教(当時は政治にも密着)の中心、
シニョリア広場は政治の中心、
そして現在の共和国広場は商業の中心として
役割分担ができそれぞれに発展していきます。
これにより、現在の共和国広場は「市場」として活用され
1500年代にもっと川に近い部分に新しい市場が作られると
Mercato Vecchio(古い市場)と呼ばれるようになります。

そしてコジモ1世の時代になると
市場としての機能を除かれ
当時、街の各地に住んでいたユダヤ人たちを
一箇所に集めて生活させる
ゲットーとして利用されるようになります。
ゲットー内には
イタリア系ユダヤ人、スペイン系ユダヤ人、
レバノン系ユダヤ人の
それぞれの礼拝所として
3種のシナゴーグが建てられていたそうです。

やがてイタリアが統一され、
フィレンツェが一時的に首都となると、
大掛かりな街の整備が始まり、
1885年から1895年にかけて
共和国広場周辺も大きく様相を変えることになります。
このころフィレンツェ周辺で活躍していた
マッキアイオーリ派の
Telemaco Signolini(テレマコ・シニョリーニ)は
古きよき広場周辺の区域が
急速に変わり失われていくのを嘆き、
新しくできた建物を不恰好だと批判しました。
当時大人気だった建築家
Vincenzo Micheli(ヴィンチェンツォ・ミケーリ)、
Luigi Buonamici(ルイジ・ブオナミチ)、
Giuseppe Boccini(ジュゼッペ・ボッチーニ)が
この大整備の大半を手がけています。
現在の共和国広場の西側のアーケードと
そこにかかる巨大なアーチは
ルネッサンス建築にインスパイアされた
ミケーリの手によるものです。

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この大改修&大整備のあと
広場は当時の国王の名前を取って
ヴィットリオ・エマヌエレ2世広場と呼ばれるようになります。
広場にはエマヌエレ2世の騎馬像も置かれていたのですが、
これがフィレンツェ市民には不評で
1932年には広場から取り除かれ、
カッシーネの森の入り口に現在もおかれています。

ほとんどの建物は取り壊されてしまいましたが、
Vasari(ヴァザーリ)の手による
Loggia del pesce(魚介のロッジャ)は
一度解体され、チョンピ広場に再建されています。
またいくつかの建物の破片や石碑などは
現在もサンマルコ美術館に保存展示されています。

広場周辺は考古学的にも非常に興味深い場所で
近くには
ローマ時代の浴場跡が見つかったVia delle Termeや
ジュピター神殿があったであろうことが想像される
Via del Campidoglioなど
その考古学的発見の名残を残す通りの名前がいくつかあります。

何気なく歩いている場所も
歴史を刻んでいるのだなぁと改めて実感しています。

Nfc__1404