25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習、最終回、小田山山麓の史跡探訪の後半では・・・
善龍寺・大窪山墓地・小田山史跡をめぐります・・・
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善龍寺の山門・・・

会津藩主・保科正之の会津入部とともに建立され、
保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展してきた寺という。
寛政9年(1797)の建立とされ、龍宮城のような造りで、会津地方では見かけない唐風山門・・・
二階には高欄が巡らされ、内部には西国三十三観音が安置されていたことから、
この山門だけが西軍に焼き払われることを免れたという・・・
善龍寺の奈与竹の碑、戊辰戦争で自刃された婦女子233名を追悼・・・

西軍が城下に侵入した8月23日、家老西郷頼母一族の婦女子は自宅にて
足手まといとならぬよう、一家で辞世の句を作り自刃・・・
家老西郷頼母の妻千重子の辞世の句
”なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ”
昭和3年、「なよたけの碑」として善龍寺に碑を建立・・・
碑陰には戊辰戦争で散った名のわかっている233名の会津藩の婦女子名が刻まれています。
毎年5月1日に奈与竹墓前祭がおこなわれます。
奥にある墓地には西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した「二十一人の墓」があります
史跡 旧会津藩大窪山共同墓地・・・

大窪山墓地は、会津藩士共同墓地として保科正之によって創始され、寛文四年に整備された。
当時藩では火葬の風習を改め、土葬を推奨した。
この大窪山墓地には約4000基の会津藩士の墓があり、戊辰戦争によって、藩士が四散した為、
墓石の倒壊や埋没が目立つものの、これだけの藩制墓地は全国的にも珍しいという。
近年「小田山麓の歴史を訪れる会」などの有志により整備され、墓碑案内板も設置された。
急な坂をのぼり、ここに墓参に訪れるのは大変だったのではと思いました。
文治5年(1189)から天正18年(1590)まで会津の領主だった葦名氏の小田山城跡・・・

山城ははじめ、標高371.7メートルの小田山地区に築かれ、南北朝時代には標高723.3メートルの
隣接する青木山の奴田山地区造られ、その後荒佐原山地区が築かれたようです。
若松の市街地は標高約220メートルです。
16世紀中頃には16代葦名盛氏が永禄11年(1568)に向羽黒山城を完成させたことから、
山城の最後の砦とする機能は向羽黒山城へ移され、物見を除き使用されなくなります。
完全に廃城となるのは、天正18年(1590)に蒲生氏郷が会津に入った時という・・・
西軍砲陣跡、お城まで1.6kmという・・・

戊辰戦争では、西軍がここから直線距離で1,600mの若松城めがけて
大砲を打ち込んだ場所・・・。小田山中腹の見晴らしの良い場所で
ちょっと左に移動すると、スライドショーの中のお城のショットが・・・
狭い駐車スペースに県外ナンバーの車が駐車しているのは「八重の桜」効果!!