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 秋 田 奇 々 怪 会

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO等不思議大好きの会です

      「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか


昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。


奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メールアドレス arashigeru@yahoo.co.jp

春の例会行われました

2018年05月29日 | 例会
昨日28日、春の例会が開催されました。
参加人数はちょっと少ない17名、秋田駅を7:30に出発、今回のテーマは「岩手の隠れた名所巡り」なので一路岩手県に向かってGo!!

最初の訪問地は古墳の一種”円墳”が数多くある北上市の「江釣子古墳群」だ。
江釣子古墳群は和賀川北岸に分布する、五条丸・猫谷地・八幡・長沼の各古墳群の総称です。昭和26年に初めて発掘調査が行われ、北東北の古墳群の調査の先駆けとなりました。これらの古墳は7世紀後半から8世紀前半にかけて造られたもので、直径6~15mの円墳が約120基以上あり、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)、蕨手刀(わらびてとう)、直刀、馬具などが数多く出土しています。中でも金張ガラス玉は国内でも数例しかない貴重な出土品で、古代に大陸との交易があったことを推測させます。
江釣子古墳群は1979年(昭和54年)、国史跡に指定されました。





その後に宮沢賢治ゆかりの花巻市「イギリス海岸」へ
北上川と瀬川の合流点付近に位置し、凝灰質の泥岩が川を沿って露出している。現在はあまりその姿をあらわさないが、渇水期には時々見ることができる。宮沢賢治が「イギリスあたりの白亜の海岸を歩いているような気がする」といって「イギリス海岸」と名づけた。
それぞれの地点では親切なボランティアが胡桃の化石や、お茶の接待までしてくれる。賢治のマント姿の撮影までしてくれる。しかし水量の増えた今の時期、賢治がイギリス海岸と名付けた露出は見られない。




FM花巻見学を経て宮沢賢治記念館にある山猫軒で昼食、ここの”すいとんセット”は美味かった・・・・




さて、最後の行程は盛岡市報恩寺、ここの見所は五百羅漢だ。
曹洞宗の古刹、本尊は釈迦如来。
羅漢堂に納められる羅漢像は、京都の九人の仏師の手により、享保16年(1731)から4年を費やして作られた。全て寄せ木造り、漆塗りで、像の中にはマルコポーロ、フビライなども見られる。
盛岡市指定の文化財。

この迫力はなんと表現すればよいのだろうか・・・・・
圧倒的な存在感が襲ってくる。




これを経て一路秋田に、いや途中道の駅で買い物もしながらですが・・・
秋田に着いたら既に陽は落ちていました。お疲れ様でした。



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イザベラ・バード奥地紀行10

2018年05月26日 | 本・雑誌から
神宮寺から川船に乗って雄物川を下り、久保田(現 秋田市)に着いた。
「人口3万6千人、非常に魅力的で純日本風の町」「太平山と呼ばれる立派な山がその肥沃な流域の上方に聳え、雄物川はその近くで日本海に注ぐ」「商売が活発で、活動的な町である」「繁栄と豊かな生活を漂わせている」
「美しい独立した住宅が並んでいる街路や横通り、・・・
住宅は、樹木や庭園に囲まれ、よく手入れされた生垣・・・
静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる。・・・
公共の建物には立派な庭があり、傍らを走る幅広い道路があり、石で上張りをした土手があって、このように都から遠く離れた県にしては珍しい・・・

私はたいそう親切な宿屋で、気持ちのよい二階の部屋をあてがわれた。当地における三日間はまったく忙しく、また非常に楽しかった。西洋料理--おいしい ビフテキ、すばらしいカレー・きゅうり・外国製の塩・辛子がついていた。それを食べると彼女は、旅の途中、秋田市で西洋料理を楽しんだことを紹介しています。おいしいビフテキ、すばらしいカレーなど。秋田市 で巡り会った西洋料理は、食べると「眼が生きいきと輝く」気持ちになるほど素晴らしいものでした。三か月を超える彼女の旅の中で、こんなにも食事に満足し た記述は、ほかに見あたらず、当時の秋田市の西洋料理の充実ぶりが伺えます。文明開化から間もない時期の秋田市にどうしてそんな素晴らしい西洋料理があっ たのでしょうか。

広報あきたの記述から・・・・
秋田市の明治初期の西洋料理店といえば、川反四丁目に明治十一年頃に開店したと言われる「与階軒」(與諧軒)が知られています。与階軒は、日本式の宴会 を嫌った当時の石田県令(知事)の働きかけで開店した店であり、イザベラ・バードが西洋料理を楽しんだのもこの「与階軒」かもしれません。

また、一般に牛肉を食べることが少なかった江戸時代においても、重労働が求められる鉱山で働く人たちは、体力をつけるために牛肉を食べていたと伝えられ ます。秋田市は、全国有数の鉱山を抱える秋田藩の城下町であり、寺内地区のように鶏や動物の肉を食べることを厳しく禁ずる地域があった一方、肉料理を中心 とした西洋料理への抵抗感の少ない人たちも多かったのではないでしょうか。与階軒は開店当初、来店者は少なかったとも伝えられますが、市民の間には着実に 新しい食文化が浸透し始めていたようです。

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」は、旅行中に書かれた手紙を中心にまとめられたものであり、素直な印象が綴られています。その中で、秋田市は「久保田 (秋田市)は秋田県の首都で人口三万六千、非常に魅力的で純日本風の町である。~(中略)~美しい独立住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めてい る。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れした生け垣がある。~(中略)~このように何マイルも続く快適な郊外住宅を見ると、静かに自分の家庭生活を楽し む中流階級のようなものが存在していることを思わせる」と書かれています。

イザベラ・バードの感じた秋田の美しさは、目を見張るような建物や景勝地としての美しさではなく、手入れされた庭園や生け垣など、「家の外をきれいにし て街を美しくしよう」という公共意識の高さ、心の豊かさから生まれたものだったのでしょう。秋田市の街を絶賛したイザベラ・バード。明治十一年七月二十三 日付、久保田(秋田市)で書かれた手紙の後半には、こうも綴られています。「私は他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである…」と。
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「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十六話

2018年05月25日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」39話~春になれば・・・
ヒラメ釣り等の中型や大型釣りに使う生き餌と言えば、先ずイワシや豆アジ等の小魚を釣ってから使用する場合と、予めドジョウを用意するケースが有る。ドジョウは「今日はヒラメ!」と、狙い目がハッキリしている場合比較的入手しやすいし、すぐに使えると言う利点がある他、淡水魚にしては長持ちする。釣りは勿論、食べても栄養豊富なこの魚、最近は養殖物が年中見られるので、目にする機会が多い。しかし、ドジョウの季節と言えば「♪春になれば…」と童謡に歌われる様に「春」ではないだろうか。雪深い東北の田んぼの泥の中でジッと春を待つドジョウは、何やら長い冬に耐える東北人の気質を表わしている様な気もする。

①ドジョウの思い出
10歳の時に父の転勤で、秋田市から当時東京都多摩郡の小金井町(現小金井市)に移り、大学卒業まで東京で暮らしていた。父は自然豊かな旧西仙北町土川(現大仙市)の出身で、夏休みには必ず帰郷し、一人息子の私を連れて実家を訪ねた。しかし、当時の秋田~東京間は奥羽線経由で今の新幹線の約2倍の時間を要する長旅、ウォークマンや携帯ゲームも無い時代で結構疲れた記憶が甦る。そんな苦労をしてやっと帰って毎年見るその光景は、都会の喧騒を忘れさせてくれる正に日本の原風景で、緑豊かな田園と小川のせせらぎが目に鮮やかだった。そして、毎年の楽しみの一つが「ドジョウ捕り」だ。いとこ達と田んぼ際の流れにドジョウ網をしかけ、「よーし!行くぞー!」と一斉に追い込んで行く。すると網の中で生きのよいドジョウがピチピチと跳ねまわる。大小入り混じったこのドジョウを実家で鍋にしてもらい、たらふく食べたのが忘れられない。食されるドジョウには申し訳無いが、大自然と大地のエネルギーを頂いた気がする。

②童謡「どじょっこふなっこ」
さてそのドジョウが登場する歌と言えば、世代を超えて誰でもが幼い頃から親しんで来たお馴染みの童謡「どじょっこふなっこ」だ。秋田市北部の金足地区にある金足西小学校が発祥の地とされていて、校庭の一角には記念の歌碑が建立されている(平成7年建立)。
記念歌碑には「どじょっこ ふなっこ」作詞:豊口清志 作曲:岡本敏明、
♪1、春になれば すがこもとけて どじょっこだの ふなっこだの 夜が明けたとおもうべな 
2、夏になれば わらしこ泳ぎ どじょっこだの ふなっこだの 鬼っこ来たなと 思うべな 
3、秋になれば 木の葉っこ落ちて どじょっこだの ふなっこだの 船っこ来たなと 思うべな 
4、冬になれば すがこもはって どじょっこだの ふなっこだの てんじょこはったと 思うべな…と、四季の移り変わりと共に土中や水中の魚達の表情が盛り込まれている。毎年6月には「歌のつどい」が開かれ、発祥の地として歌の継承が行われているそうだ。さて慣れ親しんでいるこの童謡は如何にして生まれたのだろうか。


③誕生のいきさつ
校庭の一角にある歌碑にも歌の誕生経緯が記されているが、平成7年に発行された秋田県の広報誌「ホットアイあきた」(通巻394号)に詳しく紹介されているので、こちらを参考に大筋を辿ってみよう。
…昭和11年、東京の玉川学園(現在の玉川大学)合唱隊一行が、体操と音楽実演で全国を巡回する中、5月に金足西小学校を訪れた。学生約20人と同行していた音楽指導者は、「浜辺の歌」で知られる秋田の音楽家・成田為三に師事していた岡本敏明氏だった。約600人の児童が注目する中、当時としては珍しい混声合唱が披露され、初めて耳にするコーラスに目を見張ったと言う。
そして歓迎会が開かれ、余興が次々と披露される中、鹿角市毛馬内(けまない)の豊口清志氏が即興的に作ったとされる「どじょっこふなっこ」が詩吟調で飛び出した。これを聞いた岡本氏は、歌詞をメモし僅かな時間で曲を付け、その場で歌ったと言う。多くの人々に愛される童謡誕生の瞬間だった。
岡本氏は「わたしの履歴書」の中に「私がこの時に、これはおもしろい歌であると瞬間的に気づかなかったならば、この歌は日本に曲として永遠に残らなかったであろう」と述べている。

④全国への広まり
岡本氏はその日のうちに合唱用の曲に仕上げ、翌日の公演からレパートリーに加えられたと言うから、岡本氏の熱の入れ様が伝わって来る。そして広く世の中に知られる様になったのは戦後間もなくで、親しみのある東北訛りが全国で歌われ広まって行った。
秋田を始め東北では末尾に「~っこ」を付けるのが常で、この響きが無ければ味気ないものになってしまう。もしも曲名が「どじょうとふな」では親しみも湧いては来ない。「~っこ」が付くだけでまるで印象が違って来るのだ。豊口氏の作詞については諸説あり、青森や秋田に伝わる田植え歌を豊口氏が採録・補作したとの説もある。いずれにせよ東北の農村の四季が、ユーモア溢れる歌詞に生き生きと描かれていて、本格的な春の到来に相応しい気がする。
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ハワイキラウエア火山の噴火

2018年05月24日 | 地球・宇宙・太古
日本も火山国であるのだが、今回のハワイキラウエア火山の噴火、溶岩流を見るとスケールが違う感じがする。
地球は太古より、こうした営みを繰り返して来たのだとは思うのだが、煮えたぎる溶岩が噴き出すさまは当に”地球は生きている”を実感せざるを得ない。
既に負傷者も出ているようであるが、多大な被害につながらない事を祈りたい・・・・・

ハワイでのボルカノ爆撃2018
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イザベラ・バード奥地紀行9

2018年05月23日 | 本・雑誌から
この湯沢での騒動のあと、馬に乗って横手に入る。

「横手は人口一万の町で木綿の大きな商取引が行われる。この町のもっとも良い宿屋でも、立派な物は一つもない。
町は見ばえが悪く、臭いも悪く、わびしく汚く、じめじめしたみじめな所である。
町の中を歩いていると、人びとは私を見ようと風呂から飛び出してきた。男も女も同じ様に、着物一枚つけていなかった。宿の亭主はたいそう丁寧であったが、部屋には、怒りたくなるほどたくさんのノミや蚊がいた」

「横手では毎週木曜日に雄牛を殺すということを途中で聞いたので、夕食にはビフテキを食べ、もう一片は携行しようと心に決めていたのだが、着いてみると全部売り切れであった」

「横手を出ると、非常に美しい地方を通過していった。山の景色が見え、鳥海山がその雪の円屋根を時々のぞかせた。そして、六郷という人口五千の町に着いた。ここには立派な神社や寺院があるが、家屋は特にみすぼらしかった」
*この六郷では警察の親切な取り計らいで、金持ち商人の葬儀に参列。その模様も詳しく陳述されているが、ここでは省略・・・・・・


神宮寺では町の細かな記述はない、ただ、バードを覗きに来る無作法を厳しく咎めている。
彼女は外人が珍しいこの時代に好奇の眼にさらされ、プライバシーが保てない嘆きを各所でしているが、神宮寺では遂に警察に通報している。
「神宮寺の旅館は低く暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子で仕切ってあるだけだった。
庭先に人びとが入り込んで、私を見ようとしていた。朝五時に外側の格子に三人が顔を押し付けているのを見た。
夕方までに障子は指穴だらけとなり、それぞれの穴からうす黒い眼が見えた。
夜九時に足をひきずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので眼を上げたところ、向かい側に約40人の男女と子どもたちが、顔を灯火に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。彼らは、廊下の隣の障子を三枚、音もなく取り去っていたのである!
私は戸外で群集が集まってきてじろじろ見られる事には、辛抱強く、時には微笑して我慢してきたが、この種の侵入には耐えられない(で警察に通報した)」
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さざえ堂 秋田魁新報で採り上げる

2018年05月20日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」は鈴木会長の投稿を転載しているのだが、4月28日に”怪建築を訪ねて”の副題で会津若松市のさざえ堂をアップした。下記黄色枠クリックで該当記事にリンクします。

そうしたら昨日の秋田魁新報、土曜日に連載されている「遠い風近い風」になんと”さざえ堂ミステリー”との題名で探検家 高橋大輔氏がこのさざえ堂を採り上げていた。
昨日の記事をアップいたします。
この「遠い風近い風」は週毎に執筆者がかわるのだが、私はいつも”探検家”との氏の職業を見て・・・・・どんな事するんだろう?・・・・・と思っていました。
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「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十五話

2018年05月19日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」サクラの不思議

「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」秋田が生んだ平安の歌人・小野小町がサクラを詠んだ和歌だ。毎年4月~5月にかけてサクラ前線が列島を縦断し、開花期間は短いながらも東北地方に「春本番」を告げてくれる。その花を愛でながらの宴に酔いしれる様は、長い冬からの解放感と陽光への感謝でもある。この様に日本人とサクラは切っても切れない縁にあり、年が明けると早々に、天気予報でも日本気象協会から「今年の開花予想」が発表されるほどだ。では、これほど親しまれていて毎年咲き誇るのが当然のサクラだが、その歴史や生態とは?


①田打ち桜
東北地方では雪解けが進み春の農作業が始まる頃、野山で真っ先に開花するサクラがある。その名は「田打ち桜」。本物のサクラでは無く、実は野生のコブシの花がその正体で、千昌夫の歌う「北国の春」でもお馴染みだ。東北以南では開花が早いので、本物のサクラを「田打ち桜」「田植え桜」「種まき桜」と呼ぶ地域も有るらしい。それほど一番に咲く花は、「春の息吹」と言う大切な役割を担って来た。
さて、本物の話だが、サクラのそもそもの語源は諸説あり、「古事記」に出てくる山の神「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の転化説、田の神に由来して「サ」は穀物に宿る霊、「クラ」は神が鎮座する「座」で、これが一緒になったと言う説もある。参考までに神の御座所とされる「磐座(いわくら)」は、全国各地の大きくて平らな岩(磐)が残る遺構等に見られる古来からの信仰だ。山に居る神(サ)が雪解けと共に田(クラ)に降りて来ると言う信仰は、命の糧である稲作の大切さを物語る。かつて万葉の歌に詠まれたサクラは、都の貴族の楽しみから地方へと広まり、やがては農村文化と信仰に結び付いたのではないだろうか。

②開花の不思議
サクラが開花するメカニズムは、学術的な解説は難しすぎるので、簡単に言えば「休眠状態」を何時のタイミングで解き放つのか…にある。花が散って葉桜状態の時期に太陽光をいっぱいに浴び、休眠に必要な要素「休眠物質」を蓄える。そして秋から厳しい冬の季節に徐々に蓄えが減少し、春の陽気が感じられると「休眠打破」作用が働き生成~開花へと進む。このメカニズム、以前テレビ番組でも実験されて、九州と青森のサクラを対比したが、何故か青森の開花が早い結果が示された。温暖な九州と比較して一定期間の「低温」が大きく作用している為だそうだ。長く厳しい寒さの中でじっと耐えて生活する東北人の気持ちに相通ずる部分が、サクラには有るのではないだろうか。

③サクラの名所
バラ科サクラ属のサクラは、ソメイヨシノ・ヤマザクラ・サトザクラ・ヒガンザクラ・シダレザクラ・キザクラ・カワズザクラ等、500種以上もあるらしいが、中でも最も親しまれ80パーセント近くを占めるのがソメイヨシノだ。1990年、当時の建設省・運輸省・環境庁等の後援を得て(財)日本さくらの会が創立25周年を記念して公表された「日本サクラ名所100選」の中で、東北地方の名所は
①青森県「弘前公園」「五所川原市・芦野池沼群県立自然公園藤枝ため池」
②岩手県「盛岡市・高松公園」「北上市立公園展勝地」
③宮城県「柴田町・船岡城址公園白石川堤」
④秋田県「秋田市・千秋公園」「横手市・真人公園」「仙北市・角館桧木内川堤」
⑤山形県「鶴岡公園「南陽市・烏帽子山公園」
⑥福島県「会津若松市・鶴ヶ城公園」「二本松市・霞ケ城公園」「三春町のシダレザクラ」
⑦新潟県「燕市・大河津分水」「五泉市・村松公園」「上越市・高田公園」
で、当誌の発刊時期に真っ盛りな所も有れば、既に見ごろを過ぎた所もあるのではないだろうか。


④お気に入り
さてお気に入りスポットは数多くあるが、筆者の住む秋田県以外でトップに挙げるとするならば、福島県会津若松市の鶴ヶ城のサクラだ。仕事やプライベートを含め、かれこれ数十回は通っている特別思い入れの深い場所でもある。歴史を訪ねながら、鶴ヶ城公園内を散策しサクラを愛でる楽しみは格別だ。戊辰の役で約1カ月の攻防に耐え、明治になって取り壊されたが、昭和40年に再建されその雄姿を今に伝える鶴ヶ城。淡いピンク色のサクラがマッチする期間は短いが、大勢の観光客の目を楽しませてくれる。昨年放映された大河ドラマ「八重の桜」の舞台ともなったので、特に観光客が急増していて、この影響から今年はさくら祭り本宮の神輿の練り歩きが取りやめとの事。東日本大震災で観光客が大幅に落ち込んだ時期もあったが、今回はテレビ効果が生んだうれしい悲鳴の対応となった。この後はソメイヨシノに代わって、より色鮮やかでテレビタイトルと重なる「八重桜」が公園内を彩る事だろう。
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イザベラ・バード奥地紀行8

2018年05月17日 | 本・雑誌から
【いよいよ私の住まい、秋田に入る】雄物川の上流に沿って院内(現にかほ市)まで山道を歩く、主寝(シオネ)と雄勝の二つの峠を越えた。院内で一泊、また好奇の眼にさらされる。
イザベラが秋田県に入って最初の宿泊は院内(いんない)だった。
幸いにも院内での宿屋は心地よく、隣部屋には技師六人が居合わせた。彼らはイザベラが越えてきた2つの峠に、トンネルを掘れるかどうかの調査に来ていた。
また、院内町には、当時脚気(かっけ)が多く発生しており、7ヶ月間に100人が死亡していた。このため久保田(秋田市)から2人の医学生が、この地方の医師の応援に来ていた。

院内峠を越えてきた彼女の目に、最初に映った秋田人について次のように記している。
「女性はやはりズボンをはいているが、短い着物ではなく、長い着物をその中にまくり込んでいる。男性は胸あてと前掛けを一緒にした綿布をつけているが、そのほかに何も着ていないか、あるいは着物の上に、それをかけている」
      
10キロほど馬に乗って湯沢に着く(7月22日だ)
「何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に上がった。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども50人ばかりが下の部屋に投げ出された。
幸いにも部屋には誰もいなかった。誰も叫び声を立てなかった、これは注目すべきことである。数人が擦り傷を受けただけで負傷者はいなかった」
旅券確認の警官が来て帰ると「群衆が前より激しい勢いでまたも押し寄せてきた。係りが彼らに、立ち去ってくれ、と頼んだが”こんなことは二度と見られないから”と彼らは言った。一人の年とった農夫はこの”見世物”が男か女か教えてくれたら出てゆく、と言った。それがお前にとって何の用があるのか、と係りが尋ねると”今日見たことを家に帰ってみんなに話したいのだ”と答えた」
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イザベラ・バード奥地紀行7

2018年05月13日 | 本・雑誌から
【山形に入った寒村で】「ここでは商品の大半を人夫が運ぶ、男と同様に女も重い荷物を運ぶ。人夫は一人で20Kgを運ぶが、ここ山形から運んでくる人夫は40Kgから60Kg、それ以上を運んでくる。
この連中がかわいそうに山の峠道を大弱りの格好で喘ぎながら登ってくるのを見ると、気持ちが悪くなるほどである。峠の頂で休んでいた彼らは息遣いが荒く、その眼は飛び出しそうであった。・・・・・・
彼らは家族のためにパンを得ようとまじめに人生を生きてきているのである。しかし、この地方で一人も乞食にあったことがない」

「乗った牝牛は子牛を伴っていた。私は新鮮な牛乳を得られると思ったが、それを聞いて皆に笑われた。伊藤に聞くと、そんなことはとてもいやらしいことだと思っている、日本人は外国人がお茶を飲む時に”こんな強い臭いのするもの”を入れるのはとてもいやらしい事だと思うのだと言った」
  
  
  
【山形の田舎の駅舎の休憩中】「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。
料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。
彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。私の”尊名”を帳面に記してもらったのだからと言う。そればかりでない、彼らはお菓子を一包み包んでよこし、その男は彼の名を扇子に書いて、どうぞ受け取ってくれ、と言ってきかなかった・・・・・彼らの親切には心をひどく打たれるものがあった」
「伊藤は私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼 女はその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、 ここは人情の美しいところであると感じた。」

【米沢平野】南に繁栄する米沢の町、北に湯治客の多い赤湯があり、大地は実り豊に微笑するここはアジアのアルカデヤ(桃源郷)であると絶賛。畑も”鍬で耕したというより鉛筆で描いたように美しい”
『これは大きな宿屋で、客が満員である。宿 の女主人は丸ぽちゃのかわいい好感をいだかせる未亡人で、丘をさらに登ったところに湯治客のための実に立派なホテルを持っている。彼女には十一人の子ども がいる。その中の二、三人は背が高く、きれいで、やさしい娘たちである。(中略)どれほど長いあいだ宿屋を経営しているのか、と未亡人にたずねたら、彼女 は誇らしげに「三百年間です」と答えた。職業を世襲する日本では、珍しくないことである。

「鳥海山のすばらしい姿が眺められた。雪に おおわれた壮大な円頂で、8000フィート(2,400m)の高さだといわれている。山は比較的に平坦な地方からまったく思い掛けない高さで聳えている。
同時に湯殿山の大 雪原が見えて、下方にとても美しい連山が幕のように囲んでいるので日本の最も壮大な眺めの一つであると考えられよう」

さて、いよいよ次回から秋田県に入ってきます。
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イザベラ・バード奥地紀行6

2018年05月12日 | 本・雑誌から
【津川から船で新潟入り】新潟で一週間ほど過ごす。新潟は美しい繁華な町と言っている。
「日光と同じ様に、ここもよく掃き清められた街路を泥靴で歩くのは気が引ける。藁や棒切れが一本でも、紙一枚でも散れば、たちまち拾い上げられて、片付けられてしまう。どんな屑物でも、一瞬間でも街路に捨てておく事はできない」
美しい繁華な町である。人口は五万で、富裕な越後地方の首都である。(中略) 病院と県庁、裁判所、諸学校、兵舎、そしてそれらすべてに劣らず大きな銀行とがあり、みなヨーロッパ風の建物で進取的で、ひときわ目立つが、けばけばしくて味気がない」

【新潟を出た後の沼というで】「あるみじめな宿屋に行くと、そこの女は出迎えて言った。”すみませんが、とても汚くて、こんなりっぱなお客さんをお泊めすることはできません”、彼女の言う通りだった」
「伊藤に全世帯の名前と数、性別を調べさせた)二十四軒の家に、307人が住んでいた。ある家には四家族が同居していた。」

「吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿のであった。
しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。
これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。」

日暮れも近いので黒沢での宿泊を考えたが、あいにく黒沢に宿屋はなかった。更に人馬の調達に時間がかかったため、1時間程の休息を止む無くされた。
石に腰を下ろし、この地方の人々の事を考えていた。
「子供たちは、しらくも頭に疥癬で、眼は赤く腫れている。どの女も背に赤ん坊を負い、小さな子どもも、よろめきながら赤ん坊を背負っていた」
そんな様子を観察していると、一人の酔っ払った女性がよろよろと道を歩いてきた。通訳の伊藤は、イザベラに酔った女性を見られた事をひどく気にして、とても恥ずかしい事だと言って、手で顔を覆ってしまう程であった。
「休憩した所で、休息料として普通置くことになっている二銭か三銭をどうしても受け取ろうとしなかった。私が水だけで、お茶を飲まなかったからと言うのであった。無理に金を取らせると、女はそれを伊藤に返した」
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