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 秋 田 奇 々 怪 会

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO等不思議大好きの会です

      「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか


昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。


奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メールアドレス arashigeru@yahoo.co.jp

「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十四話

2018年05月10日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」大きなイチョウ

「戦後、女性と靴下が強くなった…」と言われたが、昭和から平成に移っても女性の強さは変わらない…どころか仕事でも遊びでも更にそのパワーは強くなっている様だ。目立つのは最近のスポーツ界の動きで、女性の応援が人気の鍵を握っている。黒田帰国で一躍大きな盛り上がりを見せ、球場が真っ赤に染まるプロ野球広島の「カープ女子」しかり、大相撲人気を盛り上げる「力女」(最近では「スージョ」と呼ばれているそうだ)しかりだ。今年1月には、こうした女性相撲ファン向けの雑誌でその名もズバリ「相撲ファン」が創刊されているから人気も相当なものだ。今回はそんな女性が熱い視線を送る相撲力士の「象徴部分」に関する話題から…スタート。
*再度お断りいたします。当該記事は鈴木会長が「月刊釣り東北」に寄稿した内容を転載しているものです。今回に限らず、今現在の状況と時差がありますのは、そうした事情ですので、ご了承ください。

① 大相撲人気
筆者の少学生時代(昭和30年代)には「巨人・大鵬・卵焼き」が人気の象徴で、その一角の相撲では大鵬・柏戸の両横綱対決がテレビの普及も手伝って大変なフィーバーぶりだった。そんな頃、夕方からグループで家庭教師の指導を受けていたが、終盤の取り組みになると先生が「はい、休憩です!」と、嬉々として真っ先にテレビにかじり付いていた。どうやらこれがきっかけで相撲に親しむ様になったらしい。今にして思うと一体何を教わったのだろうか?その後は千代の富士時代に再び自らの相撲熱が燃え上がったものの、アジア出身外国力士の増加で少々シラケ気味に。再々度熱が戻ったのは4~5年前、郷土力士の活躍やヨーロッパ勢の台頭に拍手を送った。

ところで最近は、テレビ中継の客席映像に人気の象徴である若い女性の姿が目立つ。大入り満員続きの原動力になっているのだろうか。特に黄色い声が飛ぶのが、平幕で懸賞(手取りで1本3万円との事)が最も多く賭けられる前頭の遠藤の取り組みだ。勝てば期待通りだが、しばしば負けると相手にゴッソリ持って行かれる。そんな遠藤も髪が伸びてようやく大銀杏(オオイチョウ)が結える状態になった。はて、その大銀杏に関わる相撲のルーツとは?

②国技、日本の伝統文化
相撲の起源は?となれば、神話の時代にまで遡ると言うから少々驚きだ。「古事記」「日本書紀」の「力(ちから)くらべ」神話から始まった相撲は、その後農作物の収穫を占う儀式を経て、鎌倉・戦国時代には武士の戦闘訓練として盛んになった。江戸時代に入ると、現在の形に近い職業相撲が登場し全国で興行が行われる様になり、歌舞伎と並び庶民の娯楽として定着する。土俵入り、番付表、髷(マゲ)などが日本の伝統文化として今に伝えられている。その髷は、十両以上の力士…いわゆる関取が結える髪形を「大銀杏」と呼ぶ。髷の先端部分がイチョウの葉に似ている事から名づけられたとみられる。大銀杏に関連して相撲のエピソードが続いたが、次に自然界の巨大イチョウと、大銀杏と繋がりのある珍しいお寺の宝物を紹介しよう。

③日本一の大イチョウと丁髷(ちょんまげ)寺
青森県深浦町の国道101号線を進み北金ガ沢地区に差しかかると「日本一の大イチョウ」の案内板に出会う。国道を左折して並行する道に入るとすぐに巨大な「あっ!」と驚くイチョウの大木が目に飛び込んで来る。これが平成16年に国の天然記念物に指定された「北金ガ沢の大銀杏」だ。樹齢約1000年、樹高31m、幹回り22mの巨大イチョウは垂れ下がった気根が乳房に似ていることから「垂乳根のイチョウ」とも呼ばれていて、母乳が不足した女性の信仰対象として敬われて来た歴史を持つ。まるで鍾乳石の様な気根は密集して垂れ下がっていて、その光景からしてもご利益が感じられる。


さて、同じ深浦町に珍しい宝物を陳列したお寺がある。その名は「春光山 圓覚寺」、征夷大将軍・坂上田村麿に関連した歴史を持つ古刹で、国重文の薬師堂内厨子を始め数多くの重宝が今に伝えられている。このお寺に、今回紹介した相撲の「大銀杏」に少々縁のある宝物が存在する。
それは、28点に上る額入りの丁髷(ちょんまげ)だ。その由来は大しけの時、波に激しくもまれながら船頭たちは観音に無事を願い、自らの髷を切ったと言う。すると寺の境内にある龍燈杉から光明が放たれ、船は無事に港に辿り着いた。これによりお礼参りで多くの丁髷が奉納されたと伝えられている。髪の毛に関した奉納物では他に「毛髪刺繍33観音御影」や「毛髪刺繍八相釈尊涅槃図」等が有り、そのきめ細かな出来栄えには驚嘆する。ただし、こうした宝物類は「撮影禁止」なので、実際にお出かけになってご覧頂きたい。
相撲・大銀杏・丁髷とかなり飛躍して結びつけた感はあるが、最後にもう一度相撲に戻ろう。大相撲は5月の夏場所で、平成生まれでモンゴル出身の照ノ富士が大活躍し、初優勝と大関昇進を決め沸きに沸いた。番付を見てもモンゴル、ブルガリア、ブラジル、中国、ジョージア…と外国勢がズラリと揃い国際色豊かだ。が、日本人の横綱誕生はいつになるのか?発奮に期待しよう!
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イザベラ・バード奥地紀行5

2018年05月08日 | 本・雑誌から
ここでは日本に触れたバードの様々な感想を列挙してみよう。

「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打 ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲 まれても、失礼なことをされることはない」

「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。」

「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で、日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。」

「馬子は私が雨に濡れたり、びっくり驚く事がないように絶えず気を遣い、革帯や結んでいない荷物が旅の終わりまで無事である様に細心の注意を払う。旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事を放り出して酒を呑んだり雑談することもなく、直ちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって家へ帰るのである」

「ほんの昨日のことであったが、革帯一つ、紛失していた。
もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。
彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。」

「しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗 るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。このように礼儀正しく心のやさしい人びとに対し、誰でもきっと好感をもつにちがいな い。」

「どこでも警察は人々に対して非常に親切である。
抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。」

「私の宿料は《伊藤の分も入れて》一日で三シリングもかからない。*ちょっと換算度合いが分からない・・・・安いのは確かのようだ。
どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。
日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末なにしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。
世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。」

「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったり融けあう。
彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけて感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」

高田(新潟近く)にて「外国人がほとんど訪れることのないこの地方では、町のはずれで初めて人に出会うと、その男は必ず町の中に駆け戻り”外人が来た”と大声で叫ぶ。すると間もなく、目明きも目くらも、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も集まってくる。

「宿屋に着くと、群衆がすごい勢いで集まってきた。(宿屋の主人は庭園の中の美しい部屋に移してくれたが)大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子どもたちは柵に登ってその柵を倒し、その結果みながどっと殺到してきた」

旅館出発の朝「二千人をくだらぬ人が集まっていた。私が馬に乗り鞍の脇にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとした時であった。群衆の大脱走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。
伊藤が言うには私がピストルを取り出して彼らをビックリさせようと考えたからだという。そこで私は、その品物が実際にはどんなものであるかを彼に説明させた。優しくて悪意のないこれらの人たちに、少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。」
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イザベラ・バード奥地紀行4

2018年05月06日 | 本・雑誌から
日光入町小学校見学「学校の建物は英国の教育委員会を辱めないほどのものである。
あまりにも洋式化していると思われた。子どもたちはイスに腰掛けているのが居心地がわるそうだ。
学校の器具は大そうよい、壁には立派な地図。教師も熱心だが、生徒たちの学ぶ顔は、痛々しいほどの熱心さがある」

このあと彼女は学習内容に触れ、”いろはにほへと・・・・”が”色は匂えど散りぬるを・・・・”を意味する事や、中国の古典が昔の日本教育の基本であったが、今では主として漢字の伝達手段として教えられていて、その長短を述べている。
更に学校での懲罰のあり方を日英で比較するなどの洞察を述べている。

子どもについての記述が目立つ。
「日本人が早起きするのは不思議ではない、晩は灯火が暗くて楽しみがないからだ。行燈と呼ばれるみじめな”見える暗闇”に家族一同が集まる。子どもたちは遊戯や学校の勉強、女たちは縫い物をする」

「私はこれほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。
抱いたり、背負ったり、歩く時に手をとり、遊戯をじっと見つめる。遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないとつまらなそうである。
他人の子どもにも適度に愛情を持って世話をし、朝六時に男たちが数人集まっていると皆腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いている」

「私は日本の子どもたちがとても好きだ。
私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。
日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。」

「私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。
家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。規則は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。」

「私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。
しかし彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。
子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。」

「(子どもが遊ぶのを何時間も観察して)彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな目つきをしたり、意地悪い事をしたりするのを見た事がない。彼らは子どもというよりもむしろ小さな大人というべきであろう。
私の考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは人に大きな好感を抱かせる」
「(男の子どもたちの髪型にふれ)この大半を剃った頭が清潔ならよいのだが、疥癬、白くも頭、たむし、ただれ目、不健康そうな発疹などが蔓延している。村人の30%は天然痘のひどい跡を残している」

6月24日大いに気に入った日光をあとにして新潟に向かう
「日本はおとぎ話の国ではない。男たちは何も着ていないと言ってもよいだろう。女たちはほとんど短い下スカートを腰のまわりにしっかり結び付けているか、あるいは青い木綿のズボンをはいている。青い木綿の手拭いを頭のまわりに結んでいて、着ているものからは男か女かわからない」

「通訳の伊藤は普通の英語でなく”立派な英語”を話しがっており、新語を覚え正しい発音、綴りを身につけようと切望している。毎日、分からない単語をノートに書きつけ、晩になると私のもとに来て意味と綴りを習い、日本語訳をつけている。彼は今や本職の通訳よりずっとうまく英語を話す」
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イザベラ・バード奥地紀行3

2018年05月05日 | 本・雑誌から
日光の宿泊先”金谷家”をバードは絶賛している。
「畳はあまりにもきめが細かくきれいなので、靴下を履いてもその上を歩くのが心配なくらいである。
床の間の掛物はすばらしい美術品である。
主人の妹は私が今まで会った日本人のうちで二番目に最も優しくて上品。彼女が家の中を歩き回る姿は、妖精のように軽快優雅、声は音楽の様な調べがある」

私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。
これは、美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の目を楽しませてくれぬものは一つもない。宿屋の騒音で苦い目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほ んとうに心をすがすがしくさせる。
家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。
庭園はよ く設計されており、牡丹、あやめ、つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。

古い蒔絵や磁器、古風な錦織などを、私のために出して見せてくれた。
非常に美しい楽器も見たが、二世紀以上も昔のものだという。これらの宝物は、家の中に置いてあるのではなく、すぐ傍らの蔵という防火倉庫にしまっておくのである。
部屋をごたごたと装飾品で飾るということはなく、一枚の掛物、りっぱな漆器や陶磁器が数日出ていたかと思うと、こんどは別の品物がとって代る。だから簡素さはもちろんのこと、変化に富む。他に気を散らすことなく、美術品を代わるがわる楽しむことができるのである。

花(生花)について
「私の部屋が新しい花で飾られない日はないほどである。飾られている花の孤独の美しさが私には分かりかけている。床の間の掛物には桜の花一輪、襖の羽目板にはあやめが一輪、柱に優美にかけられた花瓶には一本の牡丹、一本のあやめ、一本のつつじがそれじれ挿してある。
これにくらべて、英国の花屋の花束ほど奇怪で野蛮なものがあるだろうか。種々の色の花を一束の花輪にまとめたもので、羊歯類でかこみレース紙で包んである。中の花はひどくつぶされ、それぞれの花の優美さも個性も破壊されている」

食は膳にのって来た。膳は高さ六インチ(15センチ)の小食卓で、金の蒔絵がしてある。
御飯は金蒔絵の鉢に入れてある。茶瓶と茶碗はりっぱな加賀の磁器(九谷焼)だった。
御飯とお茶で二部屋借りて一日に二シリソグ払う。
伊藤(通訳・従者)は私の食料を探し、ときには1羽10ペンスで鶏を手に入れる。鱒が六ペンス、卵は一個一ペンスで手に入る。個人の家で、日本の中流家庭生活を見ることは、きわめて興味深い。
結局彼女はここに九泊し、東照宮の観察記録も詳細だがここでは省きます、ここも絶賛している。
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イザベラ・バード奥地紀行2

2018年05月03日 | 本・雑誌から
日光に着くまで粕壁(多分、現春日部)等に二泊したが、その道中の街中観察は「道路は広いがよくはなかった。両側の溝はきれいでもなく、臭いも良くない事が多い。家々はみすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚い物が多かった。悪臭が漂い、人びとは醜く、きたならしく貧しい姿であったが、なにか皆仕事にはげんでいる」と辛口だ。

しかし、悩みはその晩の宿泊だったようだ「大きな宿屋に泊まることにした。大勢の旅人がおり、多くの悪臭があった。部屋は大きな広間を障子で仕切った部屋で、両隣ともに日本人の宿泊客がいる(満員だったらしい)。手紙を書こうとするが蚤や蚊がうるさかった。
その上、しばしば障子が音もなく開けられて、幾人かの黒く細長い目が、隙間から私をじっと覗いた。隣人たちの眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった、一人の少女は廊下と部屋の障子を二度開けた。*この後、外人が珍しい当時にあって実に千人もの見物客が集まるなどを度々経験する事になる*
片方ではかん高い音調でお経を唱える声、片方にサミセン(彼女の表現、三味線)を奏でる音、家中おしゃべりの音、外ではドンドンと太鼓の音、街頭から無数の叫び声、按摩の笛の音、拍子木の音等々に悩まされた記述がある。

ここを出発、日光手前の栃木で田園風景をこう言っている。
「あたりの景色はずっと眼を楽しませてくれるようになった。この地方全体が、手入れのよく行き届いた庭園のように見える。畑は注意深く耕され、豊富に肥料を与えるから一年に二回、あるいは三回も穀物を栽培できる。雑草はすこしも見られない」
二泊目の旅館も最悪で”旅行をすっかりやめてしまおうかと思った”ほどであった。
「宿屋は大きくすでに60人ほどの客がいた。四方が障子の部屋は狭く蚊帳は蚤の巣であった。
障子は穴だらけで、しばしば、どの穴にも人間の眼があるのを見た。プライバシーは思い起こすことさえできない贅沢品であった。召使はなんの弁解もせずに私の部屋を覗きにきた、主人とて同様であった。
手品師、三味線ひき、盲人の按摩、そして芸者たち、全てが障子を押し開けた。
夜が更けるにつれて、家中のうるさい音ははげしく悪魔的で、一時過ぎまで止まなかった。太鼓や鼓やシンバル(?)が打たれ、琴や三味線がキーキー音を出し、芸者たちは唄に合わせて踊った。噺家は高い声で物語をうなり、部屋のすぐ傍を走り回っていた」

「人力車の車夫たちは、私に対し、またお互いに親切で礼儀正しいことは、喜びの源泉だった。笠とマロ(ふんどし)しか身に着けていない男たちが、ばか丁寧な挨拶をするのは実に面白い。お互いに話しかける時はいつも笠をとり、三度深く頭を下げることを、決して欠かさない。

仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいるときは短い下スカートをつけているだけである。何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけで少しも 恥ずかしいとも思わずに、道路を横ぎり他の家を訪問している姿を私は見た。幼い子どもたちは、首から紐でお守り袋をかけたままの裸姿である。彼らの身体や 着物、家屋には害虫がたかっている。
独立勤勉の人たちに対して汚くてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。

日光に近づいてくるにつれて、景色は美しさを増したようだ。
「農家の軒先ではたくさんの女性が家の正面に坐って機織りなどしていた。年寄りも若い人も仕事に精を出し、7歳か8歳の小さな子どもでさえも、赤ちゃんを背中におんぶして遊んでいる。村が無数にあり、人家はたて混んで、赤ん坊が多いことで、たいそう人の多く住んでいる地方と感じられる。私は日本が美しいと思い、今まで通ってきた関東平野が醜い夢にすぎないように感じた」

いよいよ日光に入るが、杉並木を絶賛している。男体山の山姿、森林、奔流等を総合して”スイスに見るような美しさ”と讃えている。「街路はひどく清潔になっていて、この通りを泥靴で歩きたいとは思わぬであろう」
日光では金谷さんと言う宿の主人が迎えに来た(これが現金谷ホテルの前身)、ここで人力車の車夫と別れることになる
「彼らは私に、細々と多くの世話をしてくれた。いつも私の衣服から塵をたたいてとってくれたり、空気枕をふくらませたり、私に花をもってきてくれたり、いつも感謝したものだった。そしてちょうど今、彼らは山に遊びに行ってきて、つつじの枝をもって帰り、私にさよならを言うためにやってきた」
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イザベラ・バード奥地紀行1

2018年05月01日 | 本・雑誌から
先日に「逝きし世の面影」を題材に連載をした。
何故これが不思議を追求する奇々怪会の題材なのか違和感を持った人もおられたかも知れない。一方で外国人から見た日本の姿が目新しかったとの声もいただいた。
私たちは古代の遺跡を訪ねる事によって、それまで知らなかった昔の人の生活に触れ驚愕することがある、そういう意味であの連載を企画したのだ。
その趣旨からもう一つ格好の題材がある、今日からイザベラ・バードの連載をしてみたい。お付き合いください。


イザベラ・バードをご存知だろうか? 先日までの逝きし世の面影にも多少顔を出していた人だ。(例文*また、日本の家の清潔さを「汚れた長靴で立ち入るのがはばかるほど」という人だけでなく、イザベラ・バードに至っては日光の町に立ち寄った時、街路が掃き清められて、あまりに清潔なので、泥靴でその上を歩くのが気が引けたとまで言っている。)
彼女は英国人女性の旅行家で1878年(明治11年)6月から9月まで、明治維新直後の東北~北海道を単身で旅行(日本人通訳は同伴)している。
「日本奥地紀行(原題 Unbeaten Tracks in Japan=直訳は日本未踏の地)」という著書を残している。
この時47歳、その後も数回日本を訪れ関西、九州も訪問している。日本だけでなく世界中を回っているが、朝鮮・中国も訪問それぞれ旅行記がある。1904年、72歳で没している。
 
          
本著作は作者の妹や親しい友人にあてた旅行中の私信で、それらをまとめた手記となっている。作中に明治11年の日本の現実が描かれているが、英国女性を通して客観的に書かれているので、まことに興味深い内容であった。
この旅行記には維新直後と言いながら、特に東北地方では江戸時代の状況が色濃く残っている状況が細かく記されている。
又特に、私の住まいする秋田も訪問、湯沢~横手~神宮寺~久保田(秋田)~大館の観察記録が興味を引くし、なんと土崎みなと祭りも見学しているのである。
なお、この明治11年がどういう年かと言えば、前年明治10年西郷隆盛が西南戦争で戦死していて維新後10年とは言え、まだまだ日本は安定してはいない。

これから数回に分けて彼女の見た日本の姿を紹介してゆきたい。なお、時々に供する画像(スケッチ)は彼女自身の描いたものである(これが上手い)。
北海道に渡ってからアイヌのに宿泊して、そこの観察も多岐に亘っているがここでは本州だけに限定するので予めご了解ください。

彼女は1878年(明治11年)5月に船で横浜に着き次の印象を述べている。
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが野優しそうな顔をした連中がいた」
「桟橋の上に屋台が出ていた。こぎれいで、こじんまりとした簡易食堂で、火鉢があり、料理道具や食器類がそろっていた」
 
     
 

「税関では応対に出た役人はたいへん丁寧な人たちで、トランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。NYで同じ仕事をする。あの横柄で強引な税関吏と、おもしろい対照であった」
こうして知り合いのいるホテルに滞在、奥地旅行の計画を話すと”大丈夫だろうか”の反応が多かったという。この旅行は勿論まだ鉄道も走っていない時代、人力車、徒歩と主に馬に乗っての計画だが、誰に言わせても”日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱な事”といわれたそうだ。

その後、彼女は奥地旅行を実施する事を決め通訳を雇う。何人かを面接するが最終的に18歳の若者、伊藤を雇うが当初のイメージは決して良くない”私はこんな愚鈍に見える日本人を見たことがない。この男が信用できず、嫌いになった”とさえ言っている。しかし、彼の英語力が決め手になったか・・・彼を雇う。
契約の日、彼は一カ月分の給料の前払いを要求、彼女は応じた。知り合いは「あの男は二度と姿をみせないかも」と彼女を慰めたそうだが、約束どおり来て仕事ぶりも段々に評価される事となる。

さて、出発の荷物は彼女が50Kg、伊藤が40Kg(原文はポンド、距離はマイル、長さはフィートだが全て換算して表示する)、合わせて普通の馬一頭が運べる量であったと記録されている。彼女の道具で特徴的な物は組立式寝台、ゴム製の浴槽、折畳みイス、馬に乗るための鞍等の馬具、防虫剤、少量の食品といったところだ。
出発は3台の人力車、これで150キロ先の日光まで行く。旅券も携帯していざ出発だ(出発日6月10日)。
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