秋 田 奇 々 怪 会

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO等不思議大好きの会です

      「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか


昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。


奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メールアドレス arashigeru@yahoo.co.jp

逝きし世の面影で語られる旧き良き日本9

2018年03月31日 | 本・雑誌から
さて、こうした日本賛美の声を挙げた対極に”日本に批判的”な声がない訳では勿論ない。それを紹介しないと公平を欠くであろう。
例えば、日本には泥棒や乞食がいない様な賛美の声があった、しかし、そんな事はないのである。仏頂面した庶民はいなかったのか、それもそうではないだろう。

カッテンドーケ「農民は重税を忍ばされている。だから彼らの生活は誠に惨めである。もしそうでないとすれば、日本の農民のごとく勤勉で節倹な百姓が、しかも豊穣な恵まれた国土で働きながら、なぜ貧乏しているのか、その理由が発見できないであろう」

オールコック「(兵庫近くの海岸に上陸して)我々の目にしたわずかばかりの漁村ほど貧しく哀れな様子をしているものはまずなかろう」

イザベラ・バード「(旅行中の新潟県境の山村で)休息できるほど清潔な家はなかった。白くも頭や疥癬やただれた目の子どもたちが溢れていた。女たちは木綿のズボンしか身につけていなかった。一人の女が酔ってフラフラ歩いていた」
*この時、随行した通訳(日本人)は、あなたにこんなものを見られて恥ずかしいと言った事も記録されている。

ミッドフォード(英国公使館の書記官)「私はどうしても日本人が好きになれません。中国人のほうが付き合うにはずっと気持ちのいい国民です」

ボンペ(長崎で病院を開業)「どこの国でも、日本のように天然痘の痕跡のある人の多い国はない」
「午後9時すぎになると、長崎の街頭で見かけるおよそ半分が酔っ払っている」

スミス主教「日本人の最大の悪徳は性的放縦と飲酒だ」

この他に、外国人が日本人から投石を受けたとの記述もいくつかある。中には怪我をした例もあるようだ。しかし、これも個別にはその以前に外国人が狼藉を働いたとかの理由があるらしい。
スミスは宣教師ウィリアムズの住む寺に寄宿したが、そこでウィリアムズが30ドルに相当する財布を盗まれたのを見た。日本人の協力のお陰で犯人は見つかり、金も戻ったが・・・・・・

等々が記録に残っている。
前回述べたように日本が「妖精が棲む・天国・極楽」と表現されようと、日本に犯罪が無いわけでも、悪人がいないわけでもない。もちろん、貧困も不潔さも皆無ではなかったであろう。
大切なのはその”はびこり具合”であって、それを勘案するとやはり日本はよい国に軍配が上がるのだと思う。
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「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十一話

2018年03月29日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」謎の足跡?
「ゴン」と言う名の付いた名称は結構多い。サッカーの中山雅史はゴンの愛称で知られているし、かつてのTVシリーズ「ウルトラQ」の人気キャラはカネゴンだった。他にはアメリカのペンタゴン、車のワゴン、ジュゴン、面白キャラ・タレントのボビー・オロゴン等々。何故「ゴン」に拘ったかと言えば…今回登場するのが岩手県の謎のUMA=未確認生物の「ガタゴン」故だ。
※UMA=未確認生物
UFO=未確認飛行物体とジャンル分けするために用いられた呼称で、対象は「ケサランパサラン」の様に空中を浮遊する謎の生物(?)から地上までと幅広い。「雪男」「ネッシー」「ツチノコ」「カッパ」はUMAの類だ。

①先輩格はヒバゴン
1970年(昭和45年)、広島県かつての比婆郡西城町油木&比和町そして庄原市(今は全域が庄原市)で、ダム近くを走行中のトラック運転手の男性に発見され、以後目撃情報が相次いだ。さらにその年の暮れには足跡も発見され、謎の生物は大きな注目の的となった。ヒバゴンの名称は比婆山に由来していて、目撃証言によれば体長150~160センチ位で推定体重は約85㎏、逆三角形の顔をしていると言う。目撃情報が相次いだ事も有り、旧比婆郡西城町役場には類人猿係も創設されたそうだ。1975年(昭和50年)類人猿係の廃止と共に役場では終息宣言を発表した。が、謎は謎のままだ。この昭和のUMA騒動が、今度は平成の時代を迎えて東北で沸き起こる。

②その名もガタゴン!
ガタゴンの騒動は1992年(平成4年)6月に始まる。岩手県久慈市の旧山形村(現山形町)繋地区の茅森さんが、いつもの様に畑仕事をしていたら「?こりゃ何だ?」と、今まで見た事の無い不思議な足跡を発見した。近隣で見られる動物の足跡とは全く異なり、20mほどの距離にわたって数十個残されていた。これが切っ掛けとなり、愛知県の日本モンキーセンター等に問い合わせるが、正体は不明だった。
足跡は縦22cm、幅15cmと少々小さめだが、一番注目されたのが奇妙な足跡の形だった。前指4本、後ろ向きに1本と言う摩訶不思議な代物だ。このニュースは「山形村に謎の生物!」「新生物発見か!」と日本中で騒がれる事になった。その後岩手県では山形村にちなんで謎の生物を「ガタゴン」と命名し、捜索を続けるが発見には至らず有力な手掛かりは「足跡」のみだった。

③いざ!現地へ
「是非行ってみたい」そんな思いが即行動に!筆者の住む秋田市からはかなりの距離だ。高速の東北道から八戸道へ分岐して九戸インターで下車。国道281号線を進んで結構な時間を費やしてようやく「道の駅白樺の村やまがた」に到着。「あれっ!意外と小さな道の駅だ」と、勝手に期待が膨らんだギャップに対する素直な気持ちだった。しかし、そんな気持ちを吹き飛ばす見事なモニュメントが道の駅前に!巨大なガタゴンのタマゴだ。恐竜のタマゴを思わせる巨大さだ。しかし「?」の疑問符が湧いた。「ガタゴンって胎生?それとも卵生?」正体が不明で、足跡しか残っていないのだ。目撃証言から推察すれば胎生に近いとは思うけれど、卵生も否定出来ないのか?と謎が深まったが、どうやらこれは後のブームの産物らしい。

④謎の足跡!
道の駅の物産センターに足を踏み入れた。「おっ!これは!」何と行き成りセンターの床に点々と続く足跡に驚いた。足跡の横には「珍獣ガタゴンの足跡です平成4年6月久慈市山形町で発見されました」と有る。まるでセンター内をガタゴンが歩き回った様でもある。足跡はセンター内の階段など至る所に見られ、謎好きファンにはたまらない雰囲気を醸し出す。ガタゴン・グッズを探したが見当たらず「Tシャツはありますか?」と売店の女性に尋ねたところ残念ながら品切れだった。さて足跡の発見から山形町は大騒ぎとなり、「ガタゴン・ブーム」が到来した。町ではガタゴンを町のシンボルにして、毎年夏に「ガタゴン祭り」を開催、流し踊りやご神体の「タマゴ」を神輿に担いで練り歩くなど一大イベントにしている。ところでセンターの出入り口に過去の新聞記事が各種掲示されていて、1930年代や60年代にも同様の目撃情報が有ったと伝えている。謎の生物ガタゴンは町おこし・村おこしのご利益をもたらしたが、その正体が判明する日は果たして…来るのか!



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逝きし世の面影で語られる旧き良き日本8

2018年03月25日 | 本・雑誌から
もう少し”日本賛美”を別な面で網羅してみよう。まず、工芸品・職人の技も絶賛されている。
イザベラ・バード「桶屋と籠屋は職人仕事の完璧な手際を示し・・・・・用材の慎重な選択と細部の仕上げと趣味への配慮によって、一個の芸術品になっている」

アンベール「江戸の職人は真の芸術家である」

アリス・ベーコン「日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、彼らの手から作り出される物はみんな美しい」

モース「一件簡素な日本家屋の部分部分に”指物師の工夫と芸術心”が働いている。大工は仕事が優秀であるばかりでなく”創意工夫にたけた能力”を持っている。アメリカの大工より技術的に上だ」

ムラヴィヨフ艦隊の一員テイリー、宿舎の三田の寺で大工の働きぶりを実際に見て
「20人ほどの大工が半裸で庭で忙しく働いていた。板を引き割り、それをまるで手品のように椅子やテーブルなどヨーロッパの備品に変えてゆく。
彼らは疑いもなく世界で最も熟練した指物師であり大工だ。私はずっと彼らのすることを見つめ、彼らの手際を快く感じていた」

国民観察は色々な角度で・・・・・・・・
メアリー・フレーザー(英国公使の妻)
「この国の下層の人々は、天が創造し給うたさまざまな下層の人間の中で、もっとも生き生きとして愉快な人々」

イライザ・シッドモア(度々来日の米人)「日本は汲めど尽きぬ何かを持った、意外性の国です。その新奇なものたるや、日本人の生活では、ほんの日常的なことなのです」

ディアス・コバルビデス「日本の女性の着こなしは粋だ。普通下に着けているものの方が派手で鮮やかであり、上のものはやや地味な色合いである」

モース「日本の家屋は一件無造作に見えるが、細部は様々な工夫と装飾に富んでいる。
中でも素晴らしいのが”欄間”で、デザインも彫り上げる技術が素晴らしいが、それが名も無き地方の職人の手によってなるものである事は特筆すべきことだ」
「なぜそうした事実があるのか。日本の職人は”単に年季奉公をつとめあげた”のではなく、”仕事を覚えた”のだ。従って”自由な気持ちで働いている”のであり、”日本人は芸術的意匠とその見事な出来栄えを賞賛することができる人々”なのだ」

チェンバレン「この国の魅力は下層階級の市井の生活にある・・・・・日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術にある」

同じくモース「(ヨイトマケの作業を観察して)日本の労働者は働く時は唸ったり歌ったりする。これは、労働の辛さを、気持ちの良い音か拍子で軽める面白い国民性だ」
*私はこれに関して、例えば”酒屋唄”や”船頭唄”があるのも日本独特かなと思っている。

タライトナー中尉(オーストリア)有馬へ向かう途上、陶器・食料を運搬する山間地の住民に行き会って
「荷物を担いでいる人たちは裸に近い恰好だった。肩に竹の支柱をつけ、それに大変重い運搬籠を載せているので、その重みで支柱の竹筒が今にも割れそうだ。
彼らの身のこなしは走っているのか歩いているのか見分けのつかない態のものだ。汗が日焼けした首筋をしたたり落ちた。
しかし、かくも難儀な仕事をしているのにもかかわらず、この人たちは常に上機嫌で気持ちの良い挨拶をしてくれた。彼らは歩きながらも、締め付けられた胸の奥から仕事の唄を口ずさむ。喘ぎながらうたう唄は、左足が地面につく時、右足が大股に踏み出す力を奮い立たせる」

又々モース「モースは小樽で、おそるべき体力を持った老婆に出会った。彼女は天秤棒を担いで帆立貝の行商をしているのだったが、その荷はモースと彼の日本人の連れが持ち上げようとしても、どうしても上がらぬほど重かった。
彼らが断念すると老婆は静かに天秤棒を担ぎ上げ、丁寧にサヨナラを言うとともに”絶対的な速度”で立ち去っていった」
「この小さなしなびた老婆は、すでにこの荷物を数マイル運搬してきたにもかかわらず、続けざまに商品の名を呼ぶ程、息が続くのであった。*勿論この老婆は当時の小樽の行商の中で、特別の力持ちだったわけではなかったろう」

日本の子どもたちに対する記述も多い。
日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。
彼は初めて長崎に上陸したとき、”いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわして”そう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪問者の愛用するところとなった。
事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。

エドウィン・アーノルドは1889(明治二十二)年来日して、娘とともに麻布に家を借り、一年二ヵ月滞在したが、「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。
「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。四頭立ての馬車はたまにしか見られないし、電車は銀座とか日本橋という大通りしか走っていない。馬にまたがり、鞍垂れをつかんで走る別当を連れて兵営を往き帰りする将校にときたま出会うくらいだ。こういったものは例外だ。

従って、俥屋はどんな街角も安心して曲ることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起す心配などこれっぽちもなく、あらゆる街路の真っただ中ではしゃぎまわるのだ。
この日本の子どもたちは、優しく控え目な振舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズ玉のよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ」。

モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。
モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。「彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである」。

彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。
十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。
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大地溝帯で何が起きている? : ケニアでさらに連続して巨大な亀裂が発生

2018年03月23日 | 地球・宇宙・太古
大地が割れてゆく・・・・・大地溝帯という言葉を知ってはいたが!!
不気味だ、地球は生きているんだな!!!!


「ケニアは分断されようとしている」
亀裂が発生したのは、ケニアのナロクという地域を走る道路上だったのですが、今回もほぼ同じエリアなのですけれど、今回の報道で知ったのは、この地域は「ススワ火山」という火山の周辺に位置する地域だったのでした。

ケニアのこのエリアは「大地溝帯(グレート・リフト・ヴァレー)」という巨大な地質構造の上であり、地質学者たちは、将来的に「ここからアフリカ大陸は分断する」という予測を立てています。
もちろん、今すぐにアフリカ大陸が分断するということではないにしても、最近の大地溝帯の上での地質活動はかなり激しいものがあります。
ちなみに、スワワ火山の活動の詳細な記録はないですが、地質学的な推定では 100年ほど前に最新の噴火があったのではないかと考えられています。




火山との関係か、あるいは大地溝帯との関係かはともかくとして、ここまで大きな地質的変化が頻発するというのも、やはり普通のことではなさそうです。

たとえば世界で最も地震が多い地域のひとつである日本でも、かなり大きな地震が発生した時でも、このような亀裂が発生することはほとんど見られないことからも、このような地質活動が通常の地殻活動とは違ったものなのではないかという感じはします。

Suswa Rift: Kenya is splitting
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未確認飛行物体

2018年03月21日 | 不思議
「未確認飛行物体」という表題の雑誌がある。
日本宇宙現象研究会の発行で、発行人は並木伸一郎氏である。並木氏の略歴(ウィキペディア)
小学生時代に父親にUFOの本を買い与えられたことがきっかけで、UFOや超常現象に強い興味を抱き始める。早稲田大学を卒業して日本電信電話公社(電電公社、後の日本電信電話)に就職後、勤務の傍らでUFO中心の研究グループである「日本宇宙現象研究会」と「日本フォーティアン協会」を設立。後に全国に約400人の会員を数えるほどになる。

電電公社の勤務後、UFOや未確認動物(UMA)を含む超常現象・怪奇現象の研究に専念。前述の日本宇宙現象研究会と日本フォーティアン協会の会長、およびアメリカのUFO研究組織であるMUFON(the Mutual UFO Network、相互UFOネットワーク)の日本代表、国際隠棲動物学会の日本通信員を兼任しておりUFO研究やUMA研究など、オカルト分野の第一人者ともいわれる。

著作にUFO関連として『UFO入門』、UMA関連として『未確認動物UMA大全』『未確認生物目撃ファイル』、超常現象・怪奇現象関連として『封印怪談』『大江戸怪奇事件ファイル』『最強の都市伝説』『怪奇報道写真ファイル』、そのほか『プロジェクト・ルシファー』『オーパーツの謎』『NASA秘録』など多数の書籍があり、オカルト雑誌『ムー』のメインライター、『ムー』のモバイルサイトの総監修のほか、雑誌・新聞などでも幅広い活動を行なっている。


並木氏とは当会会長の鈴木陽悦も懇意にお付き合いいただいている。
今般、氏より表題雑誌の寄贈をいただき、その中に「秋田県鹿角市における特異UFO目撃事例」が掲載されているので、以下に転載します。









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逝きし世の面影で語られる旧き良き日本7

2018年03月18日 | 本・雑誌から
清潔さ、貧困に伴う不潔さの記述をもう少し紹介しよう。
たびたび出てくるイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは
「日本は貧民階級の衣類や家屋がどんなに汚くても、料理の仕方とその料理を供するやりかたは極端に清潔なのだ」
英国第九連隊のジェフソン・エルマースト
「夜帰営するのが遅くなった時、横浜の屋台で食事をしたが材料にも容器にも不安を抱く必要はまったくなかった。極端に清潔だというのは彼らの家屋だけの特徴ではなく、彼らの食べ物、料理のしかた、料理の出し方の特徴でもある」
度々出てくるハリス
「世界のいかなる地方においても、労働者の世界で下田におけるより良い生活をおくっているところはあるまい」

エンゲルスは母国イギリスのスラム街を次の様に表現している。
「街路の上では市場が開かれ、もちろんすべて品質が悪く、ほとんど食えない野菜や果物を入れた籠が通路をいっそう狭めている。これらの籠や肉屋からは実に不快な臭気が発散している。・・・・・そこの不潔なことと荒廃した有様は、とうてい考えられないほどだ。完全な窓ガラスなどほとんど見当たらぬし、壁は砕け、入り口の戸柱や窓枠は壊れてがたがたになり・・・・汚物と塵芥の山があたり一面にあり、ドアの前にはぶちまけられた汚い液体は寄り集まって水溜りとなり、鼻持ちならない悪臭を発散している」

なるほど、こういうスラムのおそるべき汚さからすれば、貧民ですら衣服も住居も清潔な日本は、彼らにとって驚愕の事実であったらしい。
現代の私たちは例えば時代劇の田舎農家の室内を映像で見て、汚い・乱雑等のイメージを持つがそれと実態はだいぶ違うようだ。もっとも、この映画の室内だって製作側のイメージであって、時代考証をしたものではないが・・・・・・・

どうであろうか、ここまで数例紹介してきたが意外ではなかったですか? しかし、これが当時の日本を訪れた異邦人の評価です。
念のため申し上げると、短い滞在でほんの一面しか見れなかったのではと言う疑問も湧くかもしれません。ごく一部にそうした例がない訳ではないが、数年に亘る滞在が多いし例のイザベラ・バードの東北~北海道旅行は3ヶ月に亘っています。
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逝きし世の面影で語られる旧き良き日本6

2018年03月16日 | 本・雑誌から
しかし、どう言われようと日本が地上の楽園である筈はない。にも関わらず人々に幸福・満足の感情が現れていて異邦人をビックリさせた。その根拠はどこにあるか・・・・それは民衆の豊かさ、それも衣食住の豊かさであるらしい。
幕藩体制下の民衆生活について、悲惨極まりないイメージを持つ私たちとのギャップは何であろうか。

着任したばかりのハリス(タウンゼント・ハリス 初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使)は、下田近郊の柿崎を訪れこう言っている。
*何故伊豆の下田なのかはご承知の方もおられるでしょうが、浦賀に来たアメリカ使節団は江戸幕府と長い協議の末に日本で二ヶ所の開港場所を得た。ここ下田と函館である。
幕府は従来のオランダ同様に長崎(出島)を開港場所としたかったが、アメリカはそれに強く反対して応じず結局この二カ所になるのだが、それらの経緯は”ペリー提督日本遠征記”に詳しく書かれている。

「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりとしていて、態度は丁寧である。
世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」
「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。
世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」

ハリスはこの村は豊かだと言っているのではない、それは貧しいにもかかわらず不潔ではないと言っているのだ。
ハリスは世界中の各国を見てきている。彼が言うのは、下田周辺の住民は、社会階層としては富裕な層には属しておらず概して貧しい。しかし、この貧民は貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態にある・・・・・と言う事らしい。

オールコックは1859年日本に着任したが神奈川近郊の農村で
「破損している小屋や農家をほとんど見受けない。前任地のシナではあらゆる物が朽ちつつあったのと好対照であった。住民の間には贅沢にふけるとか富を誇示する余裕はないが、飢餓や窮乏の徴候は見受けられない」

オイレンブルク使節団のベルク
「平野は肥沃で耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気がよく、そして温和である。」
「日本の農業は完璧に近い(カッテンディーケ)」
「自分の農地を整然と保つ事にかけては、世界中で日本の農民にかなう者はいない(オールコック)」
「耕地に一本の雑草も見つけられなかった(スエーデンの医師ツュンベリ)」

ハリスは初めて江戸に入り、将軍と謁見する際も事をこう記録している。
「沿線の見物の民衆は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」

「将軍の衣服は絹布であり、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。
だがそれは、想像されるような王者らしいものからはまったく遠い物だった。宝石も、精巧な金の装飾も、ダイヤモンドもなかった。殿中のどこにも鍍金の装飾はなく、木の柱は白木のままであった。どの部屋にも調度の品々は見当たらない」

この一連のハリスの記述は何だろう、彼は日本に悲惨な貧は存在せず、民衆は幸せで満足そうであると言っている。しかしそれとともに彼が言いたいのは、日本人の生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルだと言うことだ。

キリスト教圏の貧民区域には「不潔さと惨めさ」が色濃く出ているそうだが、彼らが日本を見た時に「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言っているのは、前にも述べた不潔さがない事も一因だろう。
そしてそれは、バードがあまりにもきれいに掃き清められた街路に、泥靴でその上を歩くのに気が引けたという習慣
即ち日本人の清潔の背後にあったのは、住民自身が鏡のように街路を掃き清めるという、前工業社会の生活習慣だったのだ。

以下は逝きし世の面影の本文とは関係ありません。
*ハリスの将軍を訪ねた上記の発言、即ち「将軍の衣服は絹布であり、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されるような王者らしいものからはまったく遠い物だった。宝石も、精巧な金の装飾も、ダイヤモンドもなかった。殿中のどこにも鍍金の装飾はなく、木の柱は白木のままであった。どの部屋にも調度の品々は見当たらない」
と同じことが、つい昨年にあった。
皇室(天皇陛下)を訪ねたサウジアラビアのムハンマド副皇太子殿下の謁見の画像がアラブに衝撃を与えたと言う(詳細は以下)。

海外「これが日本との差だ!」 皇居で行われたご会見の光景にアラブ社会が衝撃

天皇陛下は1日午前、公式実務訪問賓客として来日中の、
サウジアラビアのムハンマド副皇太子殿下と御所でご会見されました。
副皇太子殿下が天皇陛下にサウジアラビアご訪問をお求めになるなど、
会見は終始穏やかな雰囲気で行われたそうです。

このご会見についてはアラブ諸国でも報道されているのですが、
現地の人々に衝撃を与えているのは、ご会見の様子を撮影した一枚の写真。
陛下と殿下、そして通訳の方の椅子と、花瓶の置かれたテーブルのみという、
空間の究極的なシンプルさに、多くの方が感銘を受けています。


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逝きし世の面影で語られる旧き良き日本5

2018年03月15日 | 本・雑誌から
そもそも日本人には”外来文化”にまず興味を示す好奇心と、少々変わったものが入ってきても驚かない精神の強靭さ、それを噛みくだいていく対応能力があると言われている(梅干と日本刀ー樋口清之)。

以下に主に日本に来た宣教師が接した日本人に対する見方を掲載してみます。私はここに表現される日本人にワクワクしますが、この資質は脈々と受け継がれていると信じます。

イエズス会の宣教師は日本人が「元来新奇なものを見たがる強い好奇心をもっている」(フロイス)と感じていた。布教の際には直接間接、さまざまにその日本人の好奇心の強さを利用した。

フランシスコ・ザビエル(1506~1522)宣教師
私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。
彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。

大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。
彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です
日本人は、論理的思考を好みます。故に私が地球が丸いことや、雨の原因について説明すると、彼らは夢中になるのでした。
しかし、私が「全能である神が、悪魔を含む全宇宙を創造した」と話しても彼らは納得しないのです。なぜ、善である神が、悪魔を創造したのか?全能である神が、人間をこれほど弱く、罪を犯しやすいように造ったのか?このように質問してくるのです。

アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ (Alejandro Valignano, 1539~1606) はイタリアの宣教師
国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。
一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。

ジョアン・ロドリゲス(1561~1633)宣教師
「彼らは誇り高く面目を重んじるので、名誉に関わることで簡単に生命を捨てことをいとわない。同様に、自分の保護と支援の下に身を置いているもののためには、無造作に我が命を賭ける」

1563年に来日したポルトガル人司祭のルイス・フロイス
彼らは分別があり、理性に基づいて己を処する。また、好奇心に富み、霊魂の救済について話すことを好む。彼らの間には良き礼法があり、まるで宮廷で育ったかのように慇懃な態度を示す。滅多に隣人の悪口を言わず、他人をねたまない

私は日本人の鉄砲との出会いに大変興味を持っている。
難破したポルトガル商船が種子島に漂着した1543年のことである。世界中で西洋人に鉄砲を突きつけられた人々がただホールドアップしてひれ伏した時代に,初めて鉄砲に出会った日本人の反応はやや違っていた。
彼らはその筒先をのぞき込み,そのメカニックに驚嘆し,その虜となった。世界に誇る日本刀の伝統もあって,1年で鉄砲を複製し,10年でこれを工業化,20年後には折りからの戦国の世の要請の下に,世界一の鉄砲生産国となって,スペインとポルトガルの宣教師達を驚嘆させた。

カール・ツンベルク(日本語表記ではツンベリーといわれています)スウェーデンの植物学者で医学者
この人の逸話にオランダ人と同じ格好をしていたらオランダ人と思われ、日本人から冷たい視線を受けたというのがあります。オランダは奴隷貿易をしており、日本人はそれを蔑んでいることに気づいたそうです。有色人種が白人を蔑視するなど想像もしていなかった彼は随分戸惑ったようです。

16世紀に日本に来たキリスト教の宣教師が、『この教えは、普遍的な教えだ。』と言ったら、それを聞いた庶民が、『それはおかしい、普遍的な教えなら、あなたが来る前から我々がその教えを知っているはずだ。』と反論し、日本人の教養の高さを知り、侮れない国だと思ったそうです。
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火山噴火の瞬間!新燃岳「噴出す火山弾」霧島連山 

2018年03月13日 | 地球・宇宙・太古
新燃岳の噴火が続いている、大きな被害がでないように祈るばかりだ。
下記に2011年1月26日新燃岳が噴火した際の動画を二つアップします。「地球は生きている・・・・・」そう実感させる迫力満点の動画です。

火山噴火の瞬間!新燃岳「噴出す火山弾」霧島連山



【生音】霧島連山噴火 新燃岳の映像
 
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逝きし世の面影で語られる旧き良き日本4

2018年03月12日 | 本・雑誌から
まだまだこの種の記述はあるのだがきりがないので、最後にリンダウが長崎近郊農村での体験だ。
「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けた事を決して忘れないであろう。
火(灯)を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、ただちに男の子、女の子があわてて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に座るようにすすめ、母親は丁寧に挨拶してお茶を出してくれる。・・・・・

もっとも大胆な者は私の服の生地を手でさわり、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪にさわって、笑いながら恥ずかしそうに逃げ出してゆくこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると「大変ありがとう」と、皆揃って何度も繰り返して礼を言う。そして躓いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第だ。

私が遠ざかって行くと、道のはずれまで見送ってくれて、殆ど見えなくなっても「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった」

最初にこの本の紹介をした時に、本書はその時に「日本にあった有機的な個性としての文明が滅んだ」と言っていると述べた。
それはこの著者が言っていることでなく、この当時の異邦人観察者が言っていたことである。
たびたび紹介したチェンバレンは1905年に書いた「日本事物誌」の序論で
「筆者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった。そしてその代わりに若い日本の世の中になった」と書いている。
これは単に時代は移ったとか、日本は変わったとかの意味ではない。彼はひとつの文明が死んだと言っているのだ。

日本における近代登山の開拓者ウェストンは1925年発行の「知られざる日本を旅して」の中で
「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように。昔のように素朴で絵のように美しい国になることとは決してあるまい」と言っている。

日本に来てすぐに文明滅亡の予感を記した人たちもいる、有名なハリスは下田で「厳粛な反省ー変化の前兆ー疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」と日記に書いている。

このハリスの有能な通訳であったヒュースケンは1857年の日記で
「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質素な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。
この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、
おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない」とも書いている。

更にこの二年後にヒュースケンは「・・・・・日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後どれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった」とも書いている。

つまりヒュースケンは自分がこの国にもたらそうとしている文明が「日本古来のそれより一層高い」ものであることに確信をもってはいたが、しかしそれが日本に「果たして一層多くの幸福をもたらすかどうか」については、まったく自信をもてなかったのである。

1855年にプロシャ商船の人夫で下田にきたリュードルフなる人さえ
「日本人は歴史的第一歩を踏み出した。しかし、ちょうど、自分の家の礎石を一個抜き取ったと同じで、やがては全部の壁石が崩れ落ちることになるであろう。そして日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう」

異邦人たちが予感し、やがて目撃し証言することになった古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命。
すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。

国民の性格をどう見ていたのであろうか。
チェンバレンは「知的訓練を従順に受け入れる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団行動癖や、更には”外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向”」を記している。

そしてこれらの特性は16世紀から17世紀にかけて日本を見聞したポルトガル人やスペイン人が、まったく同じようなことを言っているのを知れば、ひとつの国民的特性なるものがどんなに変わりにくく長い持続力をもつか、しばし呆然とすると筆者は述べている。
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