熱血通信

日々の出来事を思いのままに…

二宮金次郎④

2008-04-01 22:05:26 | Weblog
二宮金次郎をご紹介する最終章です。
そのすばらしい人となりを改めてご紹介したくてご紹介させて
いただいております。

生地である小田原藩主より、その手腕を見込まれ、分家である
下野国桜町領の復興と藩の財政再建をうけ、小田原を後にした
金次郎は、桜町でも朝早くから領内の見回りや、農民指導をした
り、話し合いや投票など民主的な方法を取り入れ、すさんでいた
領民の心田開発(心構えを改め、やる気を起こさせる)に努力しま
した。

しかし、金次郎のやり方に反対するものも多く、事業がなかなか
進まず、成田山に参籠し、21日間の断食修行の末に『人には絶対
の善人、絶対の悪人というのはいないのだから、真心をつくせば
分かってもらえるはずだ。』と強く信じることができ、桜町から
動くまいと固く心に誓い、以後、事業は円満に進展し、桜町領は
豊かな村へと変貌していきました。

そして、その成功を知った近隣各地から、指導の依頼が相次ぎ、
金次郎のやり方は『報徳仕法』として各地に広まり、後に600
余りの村々の財政立て直しや復興指導をしました。

『天保の大飢饉』の始まりの際も、農作物の味をみて早くに察
知、対策を講じて桜町領では、一人の飢餓者も出ることなく、
逆に、近隣各地に救済米を送り飢民救済にあたるほどでした。

天保の飢饉は、生地である小田原藩にも打撃をあたえ、その頃
重病になっていた藩主大久保忠真により、桜町より小田原に戻
り、領内救済を命じられました。
しかし、小田原藩内各地の救済さなか、金次郎のよき理解者で
ある藩主大久保忠真が亡くなると、農民出である金次郎が、藩
の政治に係わることを快く思っていない人々により、藩の協力
が得られなくなり、仕法は一部の農村のみ進めただけとなって
しまい、金次郎は領民と会うことも先祖のはかま襟裳許可され
ませんでした。(6年後には墓参りが認められました)

金次郎56歳の時、江戸幕府に御普請役格として召抱えられ、利
根川分水路の調査測量をはじめ、直轄各地や日光神領の復興に
力を尽くしましたが、日光仕法を推し進めているさなか、患っ
ていた病気により、今市(現・栃木県日光市今市市)の地で、70
年の生涯を閉じました。
なお、金次郎は幕府の役人になってから名を『尊徳(たかのり)』
と名乗り、『そんとく』という呼び名は、のちに人々が呼ぶよ
うになったものです。

しかし、封建制度社会の中で、領民や武士を実践と理論で指導
した『報徳』は、尊徳の教えとして弟子たちや多くの人々によ
り受け継がれました。


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